最近、このカテごリ-の一部で暴風雨を伴って流行している、信仰とは非思考が原点でないか?との問いに対する派生質問です。
範囲が広いので今回の問いは以下の私の見解への御回答に限定しての募集です。
他方で交わしたコメントの引用です。
教会、寺などの集会場で采配を振るうお坊さん、聖職者は、一歩間違うと神様の代わりにされることですから、本人にとってはとんでもない事態になって当然です。
そうすると采配を振るうお坊さんとはどのような心がけなんでしょうか。
職分として成り立っているので、この答えのわかる達者な方もいるでしょうに。
私はごく普通の一般人とおなじ宗教にかかわりの薄い立場で無神論に対して理解を示す傾向があります。
無神は全ての神々に敬意を示す一般的傾向が示す通り、汎神が本来の姿です。
質問のとっかかりには宗教に批判的な見解が根底にありますが神様争奪戦とでも言えばいいでしょうか。
そのような争いに宗教を守る立場からのご見解をおたずねいたします。
今回はお礼のコメントで論争を仕掛けるつもりは有りません。
言いっぱなし同然状態になるのでつまんないかもしれませんが、ご自由にご回答ください。
No.20ベストアンサー
- 回答日時:
『「人は等しくいずれ死を迎える」あったりまえのこと
殺されて死を迎えたからといってなんだというのでしょう。』
なるほど、あなたの死生観、特に死観が少しわかったように思います。
「誰にとっても死は必然だから、その死に方は問わない」というわけですね。どちらかというと来世主義的思考ということですね。
あなたもそれを覚悟した上でおっしゃられているのでしょうが、この発言・・・本気でそう思っているとしても、揚げ足を取られかねない不用意で隙のある発言だと思いますよ。「ならば、今死ね!!」なんて即答で言われそうですね。
まあまあ、これ以上は主旨から離れていくので、この問題は棚にあげることにします。
元へ、采配を振るうお坊さんの心がけは、一番下の平信徒(こういう呼称はあるかどうかわかりませんが)よりも下にあろうとするでしょう。
「高い者は低く、低い者は高く」が最良の信仰姿勢のように思います。
立てられた位置が高ければ、高いほど、自分の存在価値も存在意義も自分概念も所有観念もゼロにするように心がけるのは最低の要件でありましょう。
自分のような者は信仰する資格もない・・・
自分のような罪深い者が、語る資格もない・・・
私の主人は、神ではなく、一番末席の信徒である。
私如きが神を信じ、また神に命を捧げるのは厚かましい。
あの平の信徒様に仕えるしもべとして、私は生涯を終えるのだ!
そこでどんな犠牲を伴う道が待ち受けていたとしても・・・
そんなことぐらいでは・・・私の不足は補えず、また私の罪は許されない。犠牲の山を千回万回辿ったとしても、私には神を信ずることはおろか、神の名を唱えること自体永久にあってはならないのだ。
お坊さんが、こういうこころがけは最低持ってないとね、その宗教組織はおかしくなってしまいますよね。
この回答への補足
a17について追加説明です。
言葉で感情が伝わりますから、後者の意味合いのみをマイクの前で表明できると自信がありました。そんな若気の至りです。
死人が出たらこれからお葬式です。
遺族の務めです。
悪人が浮かばれなければ故人も浮かばれません。
ありがとうございます。
猿山のサルの群れでなく人間の集団ですから、しかも最も神聖であるべき集団ですから、内部に上下関係があり外部には権力がある事はいかがでしょうか。多分そのような意図で無くても自然発生するんでしょうめ。
でも、自覚は有り、自浄努力も自然とできるようですね。
No.30
- 回答日時:
★ (No.26補足欄) リンチを受けた例の御老人
☆ これは (1) 《例の御老人》じしんの言葉ではありません。(2) そういう表現をもって投稿を受けたという記憶はありません。したがって――万が一忘れてしまっているとしても―― そのように表現されたことを はいそうですと言って認めたおぼえはありません。
よって撤回してください。
◆ (No.29) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
相手を殺す、相手の精神を殺すとは何か。それは自分が救い主であるという思い込み、前提の上で相手に対して接することではないですか。本人には自覚はないと思いますが。人は他者にひどいことをしても、自覚がない場合が多いです。特に、精神的なことに関しては。「私は殺人を犯していない」と言ったところで実際にその人は殺してきたかもしれません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ これも表現が精確ではありません。
○ 身体および精神の一体となったこころ もしくは 人格について その意志行為においてへそ曲がりが生じていた場合 そのへそ曲がりの部分を 間接的に結果的に 対話の過程をとおして 《ころしてきた》。
☆ と言ったのです。
むろん そのへそ曲がりの人間が《われに還る》ために あるいは《わたしがわたしである》ためにです。けれども あたかもへそ曲がりによって矢が突き刺さっているかの状態になってしまっている。ゆえにその矢を抜くということになるので 本人はちょうど《ころされる》かに感じるということを言っています。
《ふるいひとがほろび あたらしいひとを着る》ことになる。その取っ掛かりにおいて あたかも《ころす・ころされる》というような治癒の過程を経なければならないこと。これを言うのみです。
もっとしっかりと原文を読むべし。
以上二点 事実無根の発言はつつしむべし。とおつたえします。
この回答への補足
派生質問を表明しているので報告です。
宗教は権力が自然発生する構造を持っている。
内部者は自覚の上改善しようとする取り組みが可能である。
一方で自由な信仰の場としての機能は果たしていない。
私なら過激な挑発をする場合は「宗教をもう見捨ててもいいんじゃないですか?」このようになるでしょう。
既に宗教の部外者の立場では、私自身は「見捨てきっている」ともいえます。
宗教の求心力に感化されていません。
No.29
- 回答日時:
I:復讐と契約の神の世界の中で 「信頼で成り立っているのにそれを裏切った」という言に対しては、非常な怒りを覚える
p:これは「許すこと」に関しておっしゃっているのでしょう。
実際にはユダヤの神との契約と恨みが根底にある社会なのに、信頼関係で成り立っている という記述に対しての瞬間的な感情でした。
p:私のような犯罪被害者に立って場合の「つねに許していますよ」との表明があると、犯罪者は刑務所の中で七転八倒の葛藤を起こします。
自分は許すが、あとは法任せということは、それはつまり根本的な赦しではなく、あくまで個人的な情緒を働かせた自分の感情の選択 といったものだと思います。それは単に感情的に ということであり、自分が裁く立場でも許すというなら、それは真の赦しかもしれません。とはいえ、結局は 許す許さない というのはやはり欺瞞だと思うんですけどね。
それから、ひとつ言っておきますが、私はその「犯罪者」の心情は、推し測ることは出来ても、その人の気持ちを完全に理解することは出来ません。そういう犯罪経験をしたことがありませんので。
p:リンチを受けた例の御老人との間にはさらっと簡単に考察に結論が出ていますが、今頃になって改めて問う必要が出るかもしれませんね。
許しの問題は面倒ですねえ。
リンチを受けたと自分で言っているのですか、それは言いすぎでしょう。せいぜい言葉による誹謗中傷を受けた と言うならまだわかります。しかし、それとて「自分が何をしたかわかっていない」者の言い分かもしれません。相手を殺す、相手の精神を殺すとは何か。それは自分が救い主であるという思い込み、前提の上で相手に対して接することではないですか。本人には自覚はないと思いますが。人は他者にひどいことをしても、自覚がない場合が多いです。特に、精神的なことに関しては。「私は殺人を犯していない」と言ったところで実際にその人は殺してきたかもしれません。
ありがとうございます。
どうも何日か質問を続けてるのでボケたと言うかうすのろみたいな思考能力に落っこちています。
前回の回答はそんなボケた状態のあらわれでした。
ご教授ありがとうございます。
No.28
- 回答日時:
>内部者はその点は十分承知できるようで…
教主の爺さんに自覚がないのはなぜだと思いますか?
ありがとうございます。
自由が絡んでいるのでしょうが、謙虚な姿勢で当人に伺ってみればいかがでしょうか。
飼いならされることに喜びを感じる方もいます。
犬の気持ちは人間に聞いた方がよくわかります。
No.27
- 回答日時:
批判的というのはどこが批判的なのでしょうか?
「カテごリ-の一部で暴風雨を伴って流行」してないとおもいます。
20両編成の電車のなかで、その1両に老人が乗車しており、その老人がリンチ(物理的暴力は振るわれなかったとします)を受けたら、「最近は電車に乗るとリンチを受けるようだ」という主張はできないのと同じです。
考えなければならないのは、
おそらく、「リンチを受けた」と言う主張が、この老人自体の主張であるか、その党派に所属する人の意見である可能性があるということです。
もともと「リンチ」ではなかったのかもしれません。
もしかするとその老人が、公衆の良俗に反することをして、注意されただけなのかもしれませんよ。
それは、暴雨風でもありません。
本題に入ります。
>無神は全ての神々に敬意を示す一般的傾向が示す通り、汎神が本来の姿です。
これは、低レベルのキリスト者の考えです。
まちがっています。
シェリング「一神論」(キリスト者です)
ショーペンハウエル「パレルガ・ウント・パラリーポメナ」をおよみください。
無神=汎神は根拠のない主張です。馬鹿な意見(=学のない自称哲学者の=)我見を出発点とすると間違えてしまいますよという凡例です。
「哲学と宗教を同じものである」という考えと似た思考様式です。
「哲学は生き方である」というのが間違えているのと同じ度合いで間違っています。
注>「宗教は生き方かもしれません」
IQの低い爺さんの書いた「習字の練習」をありがたがるというのが、「流行」であるとしたら、それはそうなのかもしれません。
しかし、そういう流行は、「流感」です。新種の病気です。
中卒「オイラー」哲学
掛軸宗教哲学(無思考の代表)
お稲荷様はすばらしい哲学(性的解釈・坊主が自分のみだらを隠す為)
自分は、お狐様であると自己催眠におちいり「トランス状態」で
油揚げをほしがるという狂った哲学です。
(生物学的には、狐は油揚げをほしがりません。タダの勘違い)
キリスト教的因果関係に
堂々と「因縁」+「縁」を持ち出す破廉恥な「ど素人」のやり方です。
「自分が絶対正しい哲学」と同じ系統です。
私の回答は、
「質問の大前提」が間違っているので正しい回答を得ることは難しいであろうというものです。
ありがとうございます。
今回の主題について今までに取りまとめたところでは、
宗教は特有の求心力により権力が生じるのは必然である。
内部者はその点は十分承知できるようで、健全な信仰を守る工夫をしている。
そんな感じです。
No.26
- 回答日時:
I:復讐と契約の神の世界の中で 「信頼で成り立っているのにそれを裏切った」という言に対しては、非常な怒りを覚える
解説:実際、今の社会、とりわけ西洋文明社会(日本も完全にそうだが)は、契約によって「成り立って」います。信頼関係ではなく、法で物事が実際に動いています。「契約は結んでいても結局は人間関係、信頼関係が根底にあるのだ」と言うのも、分かりますが。しかし、実際は神との契約、会社との契約などが根底の意識に根付き、それによって人は生きているはずです。少なくとも、いざという時、自分が理解できない事を言われたり、不快に感じたりしたときに「法」で相手の首を切ります。
今はキリスト教の時代だと思われているかもしれませんが、実際のところは契約と、それによって生じる復讐(特に目下への)社会のまま変わっておらず、イエスが為そうとした事は、未だ成されていないと考えています。
歴史自体(経験)が何を嫌がるかといえば、それは新しい変化であり、今までにないものでしょう。経験自体の人間が、どこまで物事を考えられるか。今までにあったことをベースとして考えられるのみ であり、成そうとして成されなかったことは、「経験」にないわけだから、自分のアタマの記憶装置にもなく、よって「意味が分からない」となります。
起こる物事にはすべて理由があるはずです。
受け入れる のが美徳であり、それが自分の存在意義であるとしているものが最も嫌がるのは、新しいもの、自分が理解できないもの、自分が容れる事のできない大きさを表す 人、モノ ではないでしょうか。
この回答への補足
悪を成したなら罪びとです。
罪人となれば社会的な信用を失った弱者ですから法により庇護が必要です。
日常では具体的に警察に通報することになります。
悪人の立場で自らを許すことに取り組んだ果敢な哲学者でも募集してみましょうかねえ。許しを受け入れるとも言いますが。
社会の中でつねに悪人は受け入れられてきた現実に対する考察も議題になりますね。
リンチを受けた例の御老人との間にはさらっと簡単に考察に結論が出ていますが、今頃になって改めて問う必要が出るかもしれませんね。
許しの問題は面倒ですねえ。
「救い」はさらに面倒ですが似たり寄ったりです。
断定的に決めつけると「許し」と「救い」は悪の論理です。
これに関しては「悪が悪のままである」要するに絶対悪であるとでも言った今までの風潮にも問題があります。
そこには「許せない」が、あります。
これは現実を受け入れることができないと言うあがきですよ。
「悪」「罪」「嘘」が、マイナス感情を代表する3バカトリオですから、乱暴に現実を受け入れないことは嘘を生む。としてみるのもいいかもしれません。
ダークな話題ですね。
こうして棺桶に片足突っ込んだ世界を放浪することになります。
ありがとうございます。
ただちに自らの言葉、自らの知性に直せるのですね
復讐と契約の神の世界の中で 「信頼で成り立っているのにそれを裏切った」という言に対しては、非常な怒りを覚える
これは「許すこと」に関しておっしゃっているのでしょう。
私のような犯罪被害者に立って場合の「つねに許していますよ」との表明があると、犯罪者は刑務所の中で七転八倒の葛藤を起こします。
そうして悪人のままではいられなくなります。
いい事づくめですよ。
でも許しの哲学は面倒ですね。
No.25
- 回答日時:
誤:復讐と契約の神の世界の中で 「信頼で成り立っているのにそれを裏切った」と言に対しては、非常な怒りを覚える
正:復讐と契約の神の世界の中で 「信頼で成り立っているのにそれを裏切った」という言に対しては、非常な怒りを覚える
p:驚かして楽しむのは別にいいんじゃないですかね。
怯えさせたり、怖がらせるところまでいかなければ、硬直した固定観念を揺さぶることが出来るかもしれないですね。
p:死者の国と言っても実際には死んだふりをしているだけだし、何が何だか不明です。
昔読んだ本を思い出しましたが、「肉体の死は精神の死でもある」と思い込んでいる人が死んだら、死んだふりというか、死んだつもりになっているということでは...
No.24
- 回答日時:
訂正:
誤:復讐と契約の神の世界が 「信頼で成り立っているのにそれを裏切った」など、笑止千万
正:復讐と契約の神の世界の中で 「信頼で成り立っているのにそれを裏切った」と言に対しては、非常な怒りを覚える
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