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最近、このカテごリ-の一部で暴風雨を伴って流行している、信仰とは非思考が原点でないか?との問いに対する派生質問です。
範囲が広いので今回の問いは以下の私の見解への御回答に限定しての募集です。
他方で交わしたコメントの引用です。

教会、寺などの集会場で采配を振るうお坊さん、聖職者は、一歩間違うと神様の代わりにされることですから、本人にとってはとんでもない事態になって当然です。
そうすると采配を振るうお坊さんとはどのような心がけなんでしょうか。
職分として成り立っているので、この答えのわかる達者な方もいるでしょうに。

私はごく普通の一般人とおなじ宗教にかかわりの薄い立場で無神論に対して理解を示す傾向があります。
無神は全ての神々に敬意を示す一般的傾向が示す通り、汎神が本来の姿です。
質問のとっかかりには宗教に批判的な見解が根底にありますが神様争奪戦とでも言えばいいでしょうか。
そのような争いに宗教を守る立場からのご見解をおたずねいたします。
今回はお礼のコメントで論争を仕掛けるつもりは有りません。
言いっぱなし同然状態になるのでつまんないかもしれませんが、ご自由にご回答ください。

A 回答 (31件中1~10件)

他者を否定する宗教(アルカイダとかタリバン)にとっては争いの元になるでしょう。

現在の宗教は仏教とかキリスト教とかイスラム教は他者を否定しないので争いの元にはならないでしょう。原始宗教、神道も渡来の神も受け入れてきたので神の理解として争いにはならないと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
今回は思索のとっかかりを誰に対しても増やしてもらうサービスセールのつもりの質問です。
あえて私心を挟むようなお礼は致しません。

お礼日時:2009/11/01 22:41

いろいろな視点があると思いますが、「宗教だからこそ争いになる」のは真理であることでしょう。


端的に言えば、宗教は善観を規定します。そこが争いの元となるのです。
善そのものを追求するのはおそらく全宗教の共通のテーマの一つといえましょう。しかし、何が善かというところで違いが生ずるはずです。
人が善を求める心それ自体は同じでも、その善観は違うのです。
その人(その宗教)が善だと思うことが中心となって何かを思い、その思いに従って行動する時、自分が善だと思う行動と他人が善だと思う行動が違うことによって、善と善が衝突してしまうのです。
まして、宗教の場合は、具体的教義があります。教義があるということは、それを信ずる人からすれば、捉え方にもよりますが、得てして捉え方や解釈が狭くなりがちです。
そういったことから、ますます各宗教、各宗派の善観が狭いものとして規定されてしまうのです。
ですから、宗教同士ほどぶつかりやすいものはないと言えるのです。
「群盲、像を撫でる」というたとえがありますが、まさに宗教者の姿の真実を表わしている最適な言葉でありましょう。
言い方を換えれば、宗教とは、部分部分の断片的真理は知っているのです。しかし、全体がわからないがために無用な戦争をしてしまうのです。中東はその最たる宗教戦場だと言えるのです。
宗教の三つ巴・・・情けない気持ちです。(涙・涙・涙)
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、その三者の教義を比べたらなぜ戦争になるのか・・・かえって、素人の我々の方がよくわかるのです。「ああ、バカやってるな」って客観的にわかるのです。そういう意味では宗教も知らない我々の方がかえって神に近い存在だといえましょう。
宗教を持ったがゆえに戦争し、神に遠くなっていくのでは、本末転倒の最たるものでありましょう。
宗教を信じる篤実な信者ほど重度の盲目になるのは皮肉なことです。
目の光を失って心眼が開く人がいると聞きます。
宗教者にも爪の垢を煎じて飲ませてあげたいものです。情けない!!

この回答への補足

流れに不安がよぎったので一応言っときます。

教会、寺などの集会場で采配を振るうお坊さん、聖職者は、一歩間違うと神様の代わりにされることですから、本人にとってはとんでもない事態になって当然です。
そうすると采配を振るうお坊さんとはどのような心がけなんでしょうか。
職分として成り立っているので、この答えのわかる達者な方もいるでしょうに。

あくまでも主題はこれです。
非思考どーのこーの。
日本的無神論どーのこーの。
に、関しては議題としていません。
宗教の内情についても部外者っぽくお答えすることになります。
間口の広い回答も歓迎しますが返答するの能力を逸脱していますのでご了承ください。

補足日時:2009/11/02 03:15
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
善性を与えることは飼いならすためのアメです。
教義に高らかにうたう例はまれでしょうが、入信により得られる恩恵とされています。

と、調子を合せてみました。
あくまでも憶測なのでご了承ください。
宗教の内部で当事者になった経験は有りません。

お礼日時:2009/11/02 03:13

 宗教もイデオロギーも争いのもとになっていることは、認めないわけにはいきません。



 でも、宗教もイデオロギーも、以前よりは良い方向に歩んでいるようにも思います。

 でもこれからはどうでしょうか。

 自然破壊が原因で、食糧難が地球の生物を脅かすようになったら?

 ちょっと不安です。


                 独り言(愛は与え心、恋は求め心)

この回答への補足

この場を借りて愚痴の表明です。
今回の質問の発端となった、言わば宗教有害論に関しては、私は実質的に宗教を擁護する立場に図らずも立っています。
部外者なのにです。
宗教の内部からの擁護論は、なにせどしゃ降りがひどくて見落としています。
それで今回の質問が必要になったわけです。

補足日時:2009/11/02 03:48
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
争いの口実にされていても元凶ではなかったとしたらいかがでしょう。
ふと、思いついたことです。

お礼日時:2009/11/02 03:22

>>神様争奪戦とでも言えばいいでしょうか。



神様争奪戦なら形を変えてご神体争奪戦の祭りもありますから悪いともいえないですね。
宗教団体というのは一般の会社と違って目に見えない者の存在があることは事実ですが、その者が一体どのような神なのかあるいは悪魔なのかは下手な教祖ではわからないのですね。
ご神体争奪戦があるぐらいですし、悪魔となれば混乱・戦争・破壊が大好きだからね。
ほとんどの宗教団体が悪魔にのっとられていても本物の神が主催する団体もあるから宗教も連綿と続いているのでしょうね。また、宗教は人間の本質、神を信じるという本能を失わせないためのものですから結果はどうあれ、その本能だけは保持できるということでしょうね。
まあ、あの世に足位置を置くか、この世に足位置を置くかで考え方は違うということでしょうね。
>>宗教はむしろ争いのもとになるのか
悪魔の主宰団体が多数を占めていますからより争いのもとになりますね。その元は一人一人の欲から来てますけどね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
なんともお答えのしにくいご回答ですが、今回は思索の材料集めなんで、誰かの参考にはなってくれるでしょう。

お礼日時:2009/11/02 12:49

 現代の日本の社会に在っては、大きな流れに於いて争いは起きていないように見えます(少なくとも表面的にはマスコミに表れていないようで)。



 宗教は信仰だ。(信仰とはいえない場合も有るのでは、と云う疑問はは置いといて)信仰、つまり「信」ですから他の考えは受け入れにくいという性質があるように思います。
 
 その違うもの同士がぶつかると、そこに争いが発生するのでしょう。
 「信」を曲げては信仰になりませんし。

 こんな過去の話をすると歳がバレますが以前、念仏論争での末の殺人事件がありました。「南無阿弥陀仏」と「南無妙法蓮華経」とどっちが勝(すぐ)れているか、と云ったことだったかと思います。

 個人間でさえこんなことが起きます。
 ましては組織団体ともなれば、水面下で火花を散らしていてもおかしくはありません。
 でも平穏を保っていられるのは、争いはよくないと分かっているから。
 種はあるんでしょうね。その種が「信」とは??
 くわばら、くわばら。いや、ご用心ご用心。

 仏教とキリスト教などの組織が、国際的な話し合いの場を設けて活動しているので、将来に明るい希望を持っています。


                  独り言(アムロを聞けば元気になるさ)

 
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
そうですか宗教同士の衝突は仕方ないんですね。

お礼日時:2009/11/02 12:52

 哲学っぽく。



 「個」「自我」⇔「全体」「真我」←とりあえず適当な言葉が無いので。

 イメージとして、神や仏に象徴される好ましい心は「全体」「生産」へと指向し、煩悩とか悪魔で象徴される好ましくない心は「個」あるいは「破壊」へ指向しているように思います。

 その「個」として命を与えられた生命は、自身を生かすために、「自我」を必要とします。

 でも人の精神は自我100%と受け止めては、理屈を発展させにくくなるので、
 宇宙の精神とともに(あるいは与えられて)我(われ)が誕生し、成長するに随って自我が芽生え育つと受け止めて考えを進めます。

 悪魔は争いの世界の主ですが、神は争いの無い世界の主であるとして、
 神の世界を憧れる気持ちを信仰というならば、なぜその信仰心が争いを作ってしまうのでしょう。

 それは「自我」に依る「自我の信仰」だからではないでしょうか。

 人の心を、地球を包む大気とその大気に包まれた地球に例えてイメージしてみると、神や仏とつながっている精神と、煩悩と呼ばれる我(われ)とで成していると思えてくるのです。

 そう思えば、自我の信仰と自我を離れた信仰があるような気がします。
 もちろんはっきりとした境界線があるとは思っていませんが。

 ダブりますが宗教により争いがあるとすればそれは「自我による信仰」だからではないでしょうか。(組織としての自我、という捉え方も可能ではないかと思いました)

 こんなふうに考えてみたのですが。

 また、カエサル・・・の質問への私の回答に、オコリザルさんが取り上げているのを今日知りました。
 私にとっては「微妙な指摘」なのでよく吟味し、考えて見ます。

 ありがとうございました。

                 独り言(思考はいつも柔軟に)

              
 

 

 

 

 

この回答への補足

自我ってのは宗教、心理学、哲学、人生論、などいろんな分野で取り上げられていますよねWIKIなどで概要を読んでも、様々な角度から記述されています。
そのように、自らを検証する上で、ただ単に便利なモデルに過ぎないのは確かな現状です。仏教的に有る無しで語る話題でも有りません。
自らの意思が、他者の働きかけなどで、その他者の意思と、もつれたり衝突したりした場合に、何らかの悪感情がよぎったりしますが、そのような場合に自我を想定すると心の均衡が可能になるので、自我が想定されます。
自我が我である。自我はある。と解釈すると先ほど出た悪感情のことが自我ということになります。そうでなく学問上必要な検証用のモデルです。

補足日時:2009/11/02 18:26
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
自我は2000年前の唯識の編纂時にも同様の原型が登場する古い概念ですが、様々に検証の課題として取り扱われても自我という言葉自体は実態がありません。想定上のモデルです。意思の有り方を検証すると自我が存在する前提では説明が付かないほど(私の)意思は柔軟で自由です。

お礼日時:2009/11/02 18:11

すみません、タイトルの方だけを見て、頭に浮かんだことだけを書いてしまったもので・・・


主題は違っていたのですね。
とすれば、不明な点があります。それは文中「一歩間違うと神様仏様の代わりにされる」のところですが、普通それでいいのではないかと思うのですが・・・というのは自分が神様とイコールだというのであれば、問題ですが、神様仏様の代身者だというなら、傲慢とかではなく、むしろ聖職者としての自覚を持った態度と言えるのではないかと思うからです。
おそらく、「神様と信者とを繋ぐ忠保者」ぐらいの意識があることは、私でも想像できるのですが。
それと、そのあとに続く「本人にとってはとんでもない自体になって当然です」・・・ここの言わんとすることはどういうことなのでしょう。本人がどういう風にとんでもない状態になるのかのイメージが湧かないもので・・・
蛇足ながら、神を信じている者(聖職者)が、いくら多くの信者を取り仕切る立場に立つからとはいえ、まさか、自分が神だなどとはおこがましくて思いはしますまい。
かえって、神を信じない無神論者なら自分が神だと思いやすいでしょう。神がいないわけですから、鬼のいぬまのなんとやらではありませんが、簡単に人間が神になってしまいます。神がいない代わりに人間が神になるのです。当然というならこちらがより必然に近い当然でありましょう。無神論を根本とする主たる共産主義諸国家では銅像を作って民衆を崇めさせていましたね。
神がいないと人間が最高位になってしまうというなんとも間も抜けるほど人間が単純であることを示す例ですね。
もし、私が独裁者になろうとしたら、自分への崇拝を邪魔するものは排除することでしょう。
神を信ずる信仰と神を信じない信仰の二つがあるなら、より独裁に役立つのは、神を信じない信仰の方です。良心の呵責もなく、自分を神と崇めさせられるからです。神がいないんですから・・・
残っているのは人間・・・人間の中で一番偉いやつになれば、イコール神ってわけです!!
余談が長すぎましたが、私の不明点の根拠を示したつもりです。
さきほどの二点について補足願います。
私の誤解ならばいいのですが・・・

この回答への補足

コメントの追加です。
自由な信仰の場。
神について語らう場。
そこでの聖職者の立場は、当番みたいなもので他者と平等であるはずです。
そのような見解から、このところの流行に宗教を擁護する立場なのですが、「それでいいんですよね」とする回答が宗教の内側から出てきていません。

補足日時:2009/11/02 22:16
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
A2については自由な意見表明の場ですので歓迎しております。
補足要求なのでいくつかお答えします。
宗教の本来の役目が信仰心を宿す事のみにあり、信仰を共有することはおまけみたいなもんだとすると、誰かの語った神とはこのようであるという言葉を引用するのは、引用された当人にとって信仰の侵害に当たりますし、引用した当人にとっても自己の信仰心の不在を露呈した形になります。
要するに私は、誰か他者の信仰心を代筆することはできない。と、言う立場をとります。
誰か他者に信仰心を宿す手伝いをすることに終始すれば、それは自らの信仰心を移植することではないと考えます。
そんなことできるのかな?と考えたので今回の質問は聖職者さんたちの一般的な心がけについての問いです。

日本的無神論は、全ての神々に敬意を表すことができる一般的な感覚で解る通り、内訳は汎神論です。
神は居ないとする無神論では本来ありません。

それから
>>
「一歩間違うと神様仏様の代わりにされる」のところですが、普通それでいいのではないかと思うのですが・・・というのは自分が神様とイコールだというのであれば、問題ですが、神様仏様の代身者だというなら、傲慢とかではなく、むしろ聖職者としての自覚を持った態度と言えるのではないかと思うからです。
おそらく、「神様と信者とを繋ぐ忠保者」ぐらいの意識があることは、私でも想像できるのですが。

宗教などで神についておたがいに平等な立場で語らう場では、そのような当番としての聖職者もあるのかもしれませんが、個人の信仰では「いいんじゃないか」とするのは、実際には暴力的なほど信仰を阻害します。

お礼日時:2009/11/02 22:13

宗教はむしろ争いのもとになるのか



 という質問タイトルだけに答えるなら、歴史が証明していると言えるのではないでしょうか。

本人にとってはとんでもない事態になって当然です。

 とんでもない事態にならなかった指導者がいたとすれば(特に仏教系の指導者か)、それは「教える」立場に立てば「教わる」人の自力を削ぐことになるということをいつも念頭に置き、留意していたからでしょう。

>そうすると采配を振るうお坊さんとはどのような心がけなんでしょうか。

 神様として担ぎ上げられることが自他共に とんでもないことになる という事を念頭におかずに「采配」を振るった人がいるとすれば、それは そもそも 心がけ自体がなかった からではないでしょうか。

>職分として成り立っているので、この答えのわかる達者な方もいるでしょうに。

 「職分」で自分を規定することが既に「弾劾される役割を引き受けることに納得している」と捉えても言い過ぎではないでしょう。

 つまり そういう演じ方 もあるわけです。

この回答への補足

追記です。

よって神を想定する。
又は神に会うのだと考えます。

よって神を想定する。
さらには神に会うのだと考えます。

と、しておきましょうか」

補足日時:2009/11/03 00:35
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
なるほどですね。

>「教わる」人の自力を削ぐことになるということをいつも念頭に置き

これについて、誰か他者の信仰を代筆することはできないと言う見解を私は持っています。
それはだれにもできないのではないかと考えます。
よって神を想定する。
又は神に会うのだと考えます。

お礼日時:2009/11/02 22:26

※ステータスについてはすべて無視してください。

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この回答へのお礼

了解しました。

お礼日時:2009/11/02 22:26

三権分離では無かった時代、聖職者は政治家でもあったわけです。



従い支配者は自分の支持する宗教を被支配者が信仰している限りは、自分の思い通りに被支配者を束ねることができるが、異端が発生すると、自分に地位も危うくなるので、異端を弾圧していったわけです。


日本に刀狩ってありましたよね。
昔は僧侶は兵士だったので武装していたそうです。
そして派閥で血で血を洗う争いをしていたので、武将が人の心の平和を説く宗教が、人殺しをしまくるとは となり、僧侶から武器を取り上げるために、刀狩が行われることになったのだそうです。


で、古代 ある豪族がいて、自分の支配地を政治的権力者に提供し、都を作る財も提供した。
京都は昔首都でしたが、どうしてあの土地なのかというと、豪族が土地と都を作る資金を提供したから。

そしてその豪族が進める宗教が、神道になったようなんです。


カモがネギしょって。
賀茂氏が禰宜(宮司)を日本各地の宗教団体に派遣して吸収して宗教をもって日本の精神を統一したという歴史がある。

日本には各地にいろんなグループがいて、一つが日本国土を統一していたわけじゃなく、各地で豪族がいたが、宗教を通して吸収していったわけです。


もののけ姫に描かれているが、大和朝廷をまつろわない(服従しない)人々は、蝦夷とかとか呼んで、言葉で差別することで、大和朝廷とは違う集団として迫害していったのだそうです。



というわけで、宗教を利用することで、集団を統率するというやり方は、古代よりあったわけで、宗教が違えば従う政治家が違うということで、政治家は他の集団を排除するため、宗教を使っていたというのも事実。


西洋だとコンスタンティヌス1世が宗教を利用して、トーナメントを勝ち抜いた。
彼自身、キリスト教はど信じてはいなかったが、それを利用して、巨大な帝国を築いたわけです。

というわけで、日本でも宗教団体が盛んに立候補して、日本の主権を取ろうとしていますよね。

宗教家は政治家でもあるべきだ という考えだから。
それをやると不幸になるってことで分離したわけですが、支配欲がものすごい宗教家はみんなの幸福の為だとか言いながら、立候補をやめない。

自分の支配欲により、どうしても政治家になってもっと多くの人を奴隷にしたいというわけです。
しかし実際当選したら、ふんぞりかえっていられるかというと、日本だと、集団に利益を与えない政治家は下ろされる。

自分にたてつかない人たちである信者を増やして、当選しようとしているわけです。
宗教家や政治家というより独裁者になりたがる。
そのために、他の宗教を弾圧したり批判したりして、信者離れを防いだり、大金を出して元支配者だった人たちと談話をしてもらい、それを信者に出す機関紙に載せているわけです。

信者から集めた金で買収し、元権力者と対等に話をした人として信者にアピール。

信者は自分達の寄付金がワイロに使われいるとも知らず、せっせと教祖が出す本を買ったり、選挙の時になると政治活動をしたりするわけです。

結局宗教と政治を分離するってのは、難しい問題なんでしょうね。
宗教が権力を持つという特徴がある限り、何度でも利用されるしかないと思います。
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この回答へのお礼

有難うございます。
何らかの権力があるということですね。
それが宗教の性質ならば体面上は政治とはなれた現在も何らかの権力があるのかもしれません。

お礼日時:2009/11/03 15:53
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