最近、このカテごリ-の一部で暴風雨を伴って流行している、信仰とは非思考が原点でないか?との問いに対する派生質問です。
範囲が広いので今回の問いは以下の私の見解への御回答に限定しての募集です。
他方で交わしたコメントの引用です。
教会、寺などの集会場で采配を振るうお坊さん、聖職者は、一歩間違うと神様の代わりにされることですから、本人にとってはとんでもない事態になって当然です。
そうすると采配を振るうお坊さんとはどのような心がけなんでしょうか。
職分として成り立っているので、この答えのわかる達者な方もいるでしょうに。
私はごく普通の一般人とおなじ宗教にかかわりの薄い立場で無神論に対して理解を示す傾向があります。
無神は全ての神々に敬意を示す一般的傾向が示す通り、汎神が本来の姿です。
質問のとっかかりには宗教に批判的な見解が根底にありますが神様争奪戦とでも言えばいいでしょうか。
そのような争いに宗教を守る立場からのご見解をおたずねいたします。
今回はお礼のコメントで論争を仕掛けるつもりは有りません。
言いっぱなし同然状態になるのでつまんないかもしれませんが、ご自由にご回答ください。
No.30
- 回答日時:
★ (No.26補足欄) リンチを受けた例の御老人
☆ これは (1) 《例の御老人》じしんの言葉ではありません。(2) そういう表現をもって投稿を受けたという記憶はありません。したがって――万が一忘れてしまっているとしても―― そのように表現されたことを はいそうですと言って認めたおぼえはありません。
よって撤回してください。
◆ (No.29) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
相手を殺す、相手の精神を殺すとは何か。それは自分が救い主であるという思い込み、前提の上で相手に対して接することではないですか。本人には自覚はないと思いますが。人は他者にひどいことをしても、自覚がない場合が多いです。特に、精神的なことに関しては。「私は殺人を犯していない」と言ったところで実際にその人は殺してきたかもしれません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ これも表現が精確ではありません。
○ 身体および精神の一体となったこころ もしくは 人格について その意志行為においてへそ曲がりが生じていた場合 そのへそ曲がりの部分を 間接的に結果的に 対話の過程をとおして 《ころしてきた》。
☆ と言ったのです。
むろん そのへそ曲がりの人間が《われに還る》ために あるいは《わたしがわたしである》ためにです。けれども あたかもへそ曲がりによって矢が突き刺さっているかの状態になってしまっている。ゆえにその矢を抜くということになるので 本人はちょうど《ころされる》かに感じるということを言っています。
《ふるいひとがほろび あたらしいひとを着る》ことになる。その取っ掛かりにおいて あたかも《ころす・ころされる》というような治癒の過程を経なければならないこと。これを言うのみです。
もっとしっかりと原文を読むべし。
以上二点 事実無根の発言はつつしむべし。とおつたえします。
この回答への補足
派生質問を表明しているので報告です。
宗教は権力が自然発生する構造を持っている。
内部者は自覚の上改善しようとする取り組みが可能である。
一方で自由な信仰の場としての機能は果たしていない。
私なら過激な挑発をする場合は「宗教をもう見捨ててもいいんじゃないですか?」このようになるでしょう。
既に宗教の部外者の立場では、私自身は「見捨てきっている」ともいえます。
宗教の求心力に感化されていません。
No.29
- 回答日時:
I:復讐と契約の神の世界の中で 「信頼で成り立っているのにそれを裏切った」という言に対しては、非常な怒りを覚える
p:これは「許すこと」に関しておっしゃっているのでしょう。
実際にはユダヤの神との契約と恨みが根底にある社会なのに、信頼関係で成り立っている という記述に対しての瞬間的な感情でした。
p:私のような犯罪被害者に立って場合の「つねに許していますよ」との表明があると、犯罪者は刑務所の中で七転八倒の葛藤を起こします。
自分は許すが、あとは法任せということは、それはつまり根本的な赦しではなく、あくまで個人的な情緒を働かせた自分の感情の選択 といったものだと思います。それは単に感情的に ということであり、自分が裁く立場でも許すというなら、それは真の赦しかもしれません。とはいえ、結局は 許す許さない というのはやはり欺瞞だと思うんですけどね。
それから、ひとつ言っておきますが、私はその「犯罪者」の心情は、推し測ることは出来ても、その人の気持ちを完全に理解することは出来ません。そういう犯罪経験をしたことがありませんので。
p:リンチを受けた例の御老人との間にはさらっと簡単に考察に結論が出ていますが、今頃になって改めて問う必要が出るかもしれませんね。
許しの問題は面倒ですねえ。
リンチを受けたと自分で言っているのですか、それは言いすぎでしょう。せいぜい言葉による誹謗中傷を受けた と言うならまだわかります。しかし、それとて「自分が何をしたかわかっていない」者の言い分かもしれません。相手を殺す、相手の精神を殺すとは何か。それは自分が救い主であるという思い込み、前提の上で相手に対して接することではないですか。本人には自覚はないと思いますが。人は他者にひどいことをしても、自覚がない場合が多いです。特に、精神的なことに関しては。「私は殺人を犯していない」と言ったところで実際にその人は殺してきたかもしれません。
ありがとうございます。
どうも何日か質問を続けてるのでボケたと言うかうすのろみたいな思考能力に落っこちています。
前回の回答はそんなボケた状態のあらわれでした。
ご教授ありがとうございます。
No.27
- 回答日時:
批判的というのはどこが批判的なのでしょうか?
「カテごリ-の一部で暴風雨を伴って流行」してないとおもいます。
20両編成の電車のなかで、その1両に老人が乗車しており、その老人がリンチ(物理的暴力は振るわれなかったとします)を受けたら、「最近は電車に乗るとリンチを受けるようだ」という主張はできないのと同じです。
考えなければならないのは、
おそらく、「リンチを受けた」と言う主張が、この老人自体の主張であるか、その党派に所属する人の意見である可能性があるということです。
もともと「リンチ」ではなかったのかもしれません。
もしかするとその老人が、公衆の良俗に反することをして、注意されただけなのかもしれませんよ。
それは、暴雨風でもありません。
本題に入ります。
>無神は全ての神々に敬意を示す一般的傾向が示す通り、汎神が本来の姿です。
これは、低レベルのキリスト者の考えです。
まちがっています。
シェリング「一神論」(キリスト者です)
ショーペンハウエル「パレルガ・ウント・パラリーポメナ」をおよみください。
無神=汎神は根拠のない主張です。馬鹿な意見(=学のない自称哲学者の=)我見を出発点とすると間違えてしまいますよという凡例です。
「哲学と宗教を同じものである」という考えと似た思考様式です。
「哲学は生き方である」というのが間違えているのと同じ度合いで間違っています。
注>「宗教は生き方かもしれません」
IQの低い爺さんの書いた「習字の練習」をありがたがるというのが、「流行」であるとしたら、それはそうなのかもしれません。
しかし、そういう流行は、「流感」です。新種の病気です。
中卒「オイラー」哲学
掛軸宗教哲学(無思考の代表)
お稲荷様はすばらしい哲学(性的解釈・坊主が自分のみだらを隠す為)
自分は、お狐様であると自己催眠におちいり「トランス状態」で
油揚げをほしがるという狂った哲学です。
(生物学的には、狐は油揚げをほしがりません。タダの勘違い)
キリスト教的因果関係に
堂々と「因縁」+「縁」を持ち出す破廉恥な「ど素人」のやり方です。
「自分が絶対正しい哲学」と同じ系統です。
私の回答は、
「質問の大前提」が間違っているので正しい回答を得ることは難しいであろうというものです。
ありがとうございます。
今回の主題について今までに取りまとめたところでは、
宗教は特有の求心力により権力が生じるのは必然である。
内部者はその点は十分承知できるようで、健全な信仰を守る工夫をしている。
そんな感じです。
No.26
- 回答日時:
I:復讐と契約の神の世界の中で 「信頼で成り立っているのにそれを裏切った」という言に対しては、非常な怒りを覚える
解説:実際、今の社会、とりわけ西洋文明社会(日本も完全にそうだが)は、契約によって「成り立って」います。信頼関係ではなく、法で物事が実際に動いています。「契約は結んでいても結局は人間関係、信頼関係が根底にあるのだ」と言うのも、分かりますが。しかし、実際は神との契約、会社との契約などが根底の意識に根付き、それによって人は生きているはずです。少なくとも、いざという時、自分が理解できない事を言われたり、不快に感じたりしたときに「法」で相手の首を切ります。
今はキリスト教の時代だと思われているかもしれませんが、実際のところは契約と、それによって生じる復讐(特に目下への)社会のまま変わっておらず、イエスが為そうとした事は、未だ成されていないと考えています。
歴史自体(経験)が何を嫌がるかといえば、それは新しい変化であり、今までにないものでしょう。経験自体の人間が、どこまで物事を考えられるか。今までにあったことをベースとして考えられるのみ であり、成そうとして成されなかったことは、「経験」にないわけだから、自分のアタマの記憶装置にもなく、よって「意味が分からない」となります。
起こる物事にはすべて理由があるはずです。
受け入れる のが美徳であり、それが自分の存在意義であるとしているものが最も嫌がるのは、新しいもの、自分が理解できないもの、自分が容れる事のできない大きさを表す 人、モノ ではないでしょうか。
この回答への補足
悪を成したなら罪びとです。
罪人となれば社会的な信用を失った弱者ですから法により庇護が必要です。
日常では具体的に警察に通報することになります。
悪人の立場で自らを許すことに取り組んだ果敢な哲学者でも募集してみましょうかねえ。許しを受け入れるとも言いますが。
社会の中でつねに悪人は受け入れられてきた現実に対する考察も議題になりますね。
リンチを受けた例の御老人との間にはさらっと簡単に考察に結論が出ていますが、今頃になって改めて問う必要が出るかもしれませんね。
許しの問題は面倒ですねえ。
「救い」はさらに面倒ですが似たり寄ったりです。
断定的に決めつけると「許し」と「救い」は悪の論理です。
これに関しては「悪が悪のままである」要するに絶対悪であるとでも言った今までの風潮にも問題があります。
そこには「許せない」が、あります。
これは現実を受け入れることができないと言うあがきですよ。
「悪」「罪」「嘘」が、マイナス感情を代表する3バカトリオですから、乱暴に現実を受け入れないことは嘘を生む。としてみるのもいいかもしれません。
ダークな話題ですね。
こうして棺桶に片足突っ込んだ世界を放浪することになります。
ありがとうございます。
ただちに自らの言葉、自らの知性に直せるのですね
復讐と契約の神の世界の中で 「信頼で成り立っているのにそれを裏切った」という言に対しては、非常な怒りを覚える
これは「許すこと」に関しておっしゃっているのでしょう。
私のような犯罪被害者に立って場合の「つねに許していますよ」との表明があると、犯罪者は刑務所の中で七転八倒の葛藤を起こします。
そうして悪人のままではいられなくなります。
いい事づくめですよ。
でも許しの哲学は面倒ですね。
No.25
- 回答日時:
誤:復讐と契約の神の世界の中で 「信頼で成り立っているのにそれを裏切った」と言に対しては、非常な怒りを覚える
正:復讐と契約の神の世界の中で 「信頼で成り立っているのにそれを裏切った」という言に対しては、非常な怒りを覚える
p:驚かして楽しむのは別にいいんじゃないですかね。
怯えさせたり、怖がらせるところまでいかなければ、硬直した固定観念を揺さぶることが出来るかもしれないですね。
p:死者の国と言っても実際には死んだふりをしているだけだし、何が何だか不明です。
昔読んだ本を思い出しましたが、「肉体の死は精神の死でもある」と思い込んでいる人が死んだら、死んだふりというか、死んだつもりになっているということでは...
No.24
- 回答日時:
訂正:
誤:復讐と契約の神の世界が 「信頼で成り立っているのにそれを裏切った」など、笑止千万
正:復讐と契約の神の世界の中で 「信頼で成り立っているのにそれを裏切った」と言に対しては、非常な怒りを覚える
No.22
- 回答日時:
No.12です。
>「許し」とは悪の論理である。
>許すなら悪の表明である。
>その答えは、
>私は、私ではない。
>です。
>許すなら我ありでは、クルクルパーです。
>その意味で、回答者様は正しい。
>うーん。
>私にとっては、「あなたって神様?」
>と、改めて問われた気持ちです。
>このような場合、噂の権現様と同じく、あなたの狂気が問われるでしょう。
上記の返信をいただき、間違えかなぁ と感じました。
「私の狂気が問われるでしょう」と打つべきところを間違えたんじゃないか と思えました。
混乱していますね。
えっとですね。
許しに関して、前回説明したつもりですが、不十分だったんでしょうね。
旧約聖書に「許し」について明確に説明がされています。
「なんでも許せ」とはかかれていません。
「過失により他人に害を追わせた人は、神の祈りに時間であっても、まず隣人に謝罪しにいけ」と書かれています。
誠心誠意、「害を与えるつもりは無かったが、過失であなたに迷惑をかける結果になってしまった。故意にやったんじゃないです」ってちゃんと説明をし、「謝罪を受けた人はそれを理解し、許しなさい。」って言っているんです。
どうして、許しなさいと 教えているのかというと、自分だって意図せず、他人に害を与える可能性を持っているから。
他人の不注意で自分が害を受け、相手が「故意にやったわけじゃないんです。ごめんなさい」と言ったとしても、許せないと裁判にもっていけば、裁判所では「原因はどうであれ相手に害を与えたから」と加害者に罰が与えられてしまう。
今度は、自分が過失で害を与えた場合、自分はかつて謝罪を受け入れなかったことから、相手も謝罪を受け入れず、裁判にもっていかれ、裁判所で罪が確定し罰を受けることになる。
だから、故意に相手に害を与えたわけじゃないときは、神よりまず相手に謝罪しにいき、説明を聞いた相手は許さなければならない って教えなんです。
どんなに注意をしていても、まさかのことで、相手に災いをもたらすことはありえる。
完璧に防げない。
じゃあ 完璧に防げない世界でも平和を維持するためには、故意に他人に害を与えたわけではない人は、すっとんで誠心誠意謝罪をし、その謝罪を受けた人は、必ず許しなさい そうすれば平和は保たれる って教えなわけです。
悪意や自暴自棄や、害を与える意志を持って害を与えた人まで許せ とか 言っていないんです。
もし そういう人まで許したら、とんでもない世の中になっちゃいます。
で、<時計じかけのオレンジ>って映画がある。
社会風刺。
ある少年が快楽殺人をした。
反省の色が全く無い。 殺人が楽しくってやったわけです。
で、ある議員は、人々に「慈悲をかけるべき」って言い出したんです。
「あなたがたはいい人たちですよね。 じゃあ この少年に哀れみをもって 許してあげましょうよ。もう一度チャンスを与えてあげましょうよ」って。
で、彼は本来死刑になるところを助かって、矯正プログラムを受けることになった。
暴力シーンの映像をみせられ、暴力に嫌悪感を持つまで改造されたわけです。
で、外に出て、彼から害を受けていた人々から報復されて、反撃しようとしたら、嘔吐して反撃できなかった。
改造成功?
いえ、彼は改造されてなどいない。
本質はどんなことがあっても変らない。
で、誰が一番徳をしたのか?
人々に哀れみを訴えて、「いい人だ」って思われた議員。
選挙で当選するため、この少年を利用した議員が徳をした。
で、「神は死んだ 殺したのは我々です」って言ったのはニーチェ。
ニーチェの言い分は、「虐げられた者のルサンチマンであり、
弱者の傷の舐め合い」と言っている。
聖貧がいいことだとするのは、金持ちに対する妬みの深層心理があるから。
>私にとっては、「あなたって神様?」
>と、改めて問われた気持ちです。
いえ そんなこと毛頭も思いませんでした。
ニーチェが指摘した対象の人々。あるいは時計じかけのオレンジで議員に利用された市民たちと同じレベルで、ずる賢い人に利用され、利用価値がなくなればゴミとして捨てられる運命のグループに属する騙されやすい人々かも と思いました。
騙されているうちは、おだてられていますので、自分はいい人のつもりでいる。
でね、 プラトンは「全くの正義の人であるという証明」について考えたんですよ。
いい人だと評判になれば、肩書きもらったりなど徳しますよね。
連続殺人鬼をつかまえると、模範市民ってケースが結構ある。
「まさかあの人が。他人ために尽力を尽くしてくれる人で、何かも間違いです」と言われる人が、犯人ってのは結構ある。
本質は悪だが、表面上は利益のために善い人を演じていただけで、人々は騙されていたわけです。
で、プラトンは騙している悪人なのか、生粋の善人なのか、どうやったらわかるのか って考えて、善人とされる人から紫の衣をはぎとって、十字架にかけて鞭打って、槍で突いてもそれでも善い人でありつづけたら、その人は根っからの善人だったってことになる って論を出したんです。
どっかで聞いたことがある? ええ イエスの磔刑のシーンの元ネタはプラトンの国家ですから。
紫の衣ってのは、階級を表しており、善い人だと評判がよければ、それなりに地位や名誉を他人から与えれますよね。
で、その人から地位も名誉も奪う、何も罪を犯していないのに、罪人だとして、精神的にも肉体的にも追い詰めるわけです。
そうされて、悪人だったら「どうにかしろよ おまえのせいで」って本性が出るが、「運命を受け入れます」って受け入れた場合は、全くの嘘いつわりなき最初から善人だったってことになる。
磔刑の時にイエスの両脇にいた人も実はプラトンの善人の証明の論なんですね。
強者が許すってのは傲慢からくるもの。
「自分が許されるために許す」ってのが旧約聖書の許しの薦め。上下が無い。
自分の中の傲慢さに気づかれたでしょうか?
で、人は全くの正義を知りえない。
だってそんなもんないから。
でも殺人は悪いこと?
ええ 共同体にとっては悪いこと。
だって、信頼関係で一緒に暮らす人々に対する裏切りだから。
で、その少年は信頼という恩恵を受けて暮らさせてもらっているにも関わらず、その恩を仇で返して、集団の信頼を裏切ったわけです。
むしゃくしゃしていたからついってのが、信頼を裏切っていいという正統な理由にはなりえません。
で、罪と罰って本がある。
主人公は自分は超越した存在になるってしたんです。
誰も踏み越えない一線を越えることで超越した存在になろうとした。
彼はその超越した存在になるために、みんなが嫌っていて いなきゃいいのに という金貸しの老婆を殺した。
いなかったら お金も借りれないので、もっと苦しい思いをしたのに、返済するのはもったいないとして返そうとせず、借金を返済したくないから 死んでくれればいいのに、という身勝手な人々の意見を、返済に困った主人公も同意して、殺したわけです。
老婆を殺しただけなら罪悪感はなかったのですが、その妹まで殺してしまって罪の意識を持った。
最後まで老婆に対する罪は意識することがありませんでした。
彼は神になろうとして、あんな犯行をした。
信頼でなりたつ取引を破壊し、信頼でなりたつ集団に対し裏切り行為をした。
トーニャだったかな? 彼女も自分と同じ踏み越えた者だって言ってたけど、トーニャは集団を裏切ってはいない。
で、宗教ってのは元は一つだと思うけど、人間ってそのままを記憶して出力できないという特徴を持つことから、どうしてもズレが起るんです。
だから元は一つの宗教でも、分裂していくわけです。
で、違いってものが許せなくなり、争いが起るわけです。
で、、、私は違いの存在を消すのではなく、違うってことは認めていいし、相手と自分の考えは違うって言ってもいいと思うんです。
違う意見を言われて、許せない自分だけが正しい って思うから、相手を消したいという衝動が起るが、これは自信の喪失が引き金だと思うんですね。
自信があれば、相手が違う意見を言っても動じない。
馬鹿にする言葉を発して、相手を自分より下に位置づけることで、安心感を得ようとは しない。
ですので宗教戦争とか派閥による諍いとかは、<自信の無さ><弱さ>が源にあると思うんです。
相手を許してさしあげる っていうのは傲慢で、自分が上に立とうとする浅ましさがあると思う。
自分が許されるために相手を許すってのは、謙虚さがあると思う。
これらの意見はいかがでしょうか。
この回答への補足
日常生活に当てはめてみました。
もし犯罪被害に会ったら、そして犯罪者に許してくださいと乞われたら。
許していますよ。
つねに許しています。
そう答えて、保護してもらうために警察に通報します。
警察官が専門家ですから当然です。
ありがとうございます。
困ってしましました。
意見を聞かれても「なるほどね」としか思いません。
私の考える取り組みは観念世界や心の中なので、量刑や社会生活での不都合は想定していません。
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