最近、このカテごリ-の一部で暴風雨を伴って流行している、信仰とは非思考が原点でないか?との問いに対する派生質問です。
範囲が広いので今回の問いは以下の私の見解への御回答に限定しての募集です。
他方で交わしたコメントの引用です。
教会、寺などの集会場で采配を振るうお坊さん、聖職者は、一歩間違うと神様の代わりにされることですから、本人にとってはとんでもない事態になって当然です。
そうすると采配を振るうお坊さんとはどのような心がけなんでしょうか。
職分として成り立っているので、この答えのわかる達者な方もいるでしょうに。
私はごく普通の一般人とおなじ宗教にかかわりの薄い立場で無神論に対して理解を示す傾向があります。
無神は全ての神々に敬意を示す一般的傾向が示す通り、汎神が本来の姿です。
質問のとっかかりには宗教に批判的な見解が根底にありますが神様争奪戦とでも言えばいいでしょうか。
そのような争いに宗教を守る立場からのご見解をおたずねいたします。
今回はお礼のコメントで論争を仕掛けるつもりは有りません。
言いっぱなし同然状態になるのでつまんないかもしれませんが、ご自由にご回答ください。
No.22
- 回答日時:
No.12です。
>「許し」とは悪の論理である。
>許すなら悪の表明である。
>その答えは、
>私は、私ではない。
>です。
>許すなら我ありでは、クルクルパーです。
>その意味で、回答者様は正しい。
>うーん。
>私にとっては、「あなたって神様?」
>と、改めて問われた気持ちです。
>このような場合、噂の権現様と同じく、あなたの狂気が問われるでしょう。
上記の返信をいただき、間違えかなぁ と感じました。
「私の狂気が問われるでしょう」と打つべきところを間違えたんじゃないか と思えました。
混乱していますね。
えっとですね。
許しに関して、前回説明したつもりですが、不十分だったんでしょうね。
旧約聖書に「許し」について明確に説明がされています。
「なんでも許せ」とはかかれていません。
「過失により他人に害を追わせた人は、神の祈りに時間であっても、まず隣人に謝罪しにいけ」と書かれています。
誠心誠意、「害を与えるつもりは無かったが、過失であなたに迷惑をかける結果になってしまった。故意にやったんじゃないです」ってちゃんと説明をし、「謝罪を受けた人はそれを理解し、許しなさい。」って言っているんです。
どうして、許しなさいと 教えているのかというと、自分だって意図せず、他人に害を与える可能性を持っているから。
他人の不注意で自分が害を受け、相手が「故意にやったわけじゃないんです。ごめんなさい」と言ったとしても、許せないと裁判にもっていけば、裁判所では「原因はどうであれ相手に害を与えたから」と加害者に罰が与えられてしまう。
今度は、自分が過失で害を与えた場合、自分はかつて謝罪を受け入れなかったことから、相手も謝罪を受け入れず、裁判にもっていかれ、裁判所で罪が確定し罰を受けることになる。
だから、故意に相手に害を与えたわけじゃないときは、神よりまず相手に謝罪しにいき、説明を聞いた相手は許さなければならない って教えなんです。
どんなに注意をしていても、まさかのことで、相手に災いをもたらすことはありえる。
完璧に防げない。
じゃあ 完璧に防げない世界でも平和を維持するためには、故意に他人に害を与えたわけではない人は、すっとんで誠心誠意謝罪をし、その謝罪を受けた人は、必ず許しなさい そうすれば平和は保たれる って教えなわけです。
悪意や自暴自棄や、害を与える意志を持って害を与えた人まで許せ とか 言っていないんです。
もし そういう人まで許したら、とんでもない世の中になっちゃいます。
で、<時計じかけのオレンジ>って映画がある。
社会風刺。
ある少年が快楽殺人をした。
反省の色が全く無い。 殺人が楽しくってやったわけです。
で、ある議員は、人々に「慈悲をかけるべき」って言い出したんです。
「あなたがたはいい人たちですよね。 じゃあ この少年に哀れみをもって 許してあげましょうよ。もう一度チャンスを与えてあげましょうよ」って。
で、彼は本来死刑になるところを助かって、矯正プログラムを受けることになった。
暴力シーンの映像をみせられ、暴力に嫌悪感を持つまで改造されたわけです。
で、外に出て、彼から害を受けていた人々から報復されて、反撃しようとしたら、嘔吐して反撃できなかった。
改造成功?
いえ、彼は改造されてなどいない。
本質はどんなことがあっても変らない。
で、誰が一番徳をしたのか?
人々に哀れみを訴えて、「いい人だ」って思われた議員。
選挙で当選するため、この少年を利用した議員が徳をした。
で、「神は死んだ 殺したのは我々です」って言ったのはニーチェ。
ニーチェの言い分は、「虐げられた者のルサンチマンであり、
弱者の傷の舐め合い」と言っている。
聖貧がいいことだとするのは、金持ちに対する妬みの深層心理があるから。
>私にとっては、「あなたって神様?」
>と、改めて問われた気持ちです。
いえ そんなこと毛頭も思いませんでした。
ニーチェが指摘した対象の人々。あるいは時計じかけのオレンジで議員に利用された市民たちと同じレベルで、ずる賢い人に利用され、利用価値がなくなればゴミとして捨てられる運命のグループに属する騙されやすい人々かも と思いました。
騙されているうちは、おだてられていますので、自分はいい人のつもりでいる。
でね、 プラトンは「全くの正義の人であるという証明」について考えたんですよ。
いい人だと評判になれば、肩書きもらったりなど徳しますよね。
連続殺人鬼をつかまえると、模範市民ってケースが結構ある。
「まさかあの人が。他人ために尽力を尽くしてくれる人で、何かも間違いです」と言われる人が、犯人ってのは結構ある。
本質は悪だが、表面上は利益のために善い人を演じていただけで、人々は騙されていたわけです。
で、プラトンは騙している悪人なのか、生粋の善人なのか、どうやったらわかるのか って考えて、善人とされる人から紫の衣をはぎとって、十字架にかけて鞭打って、槍で突いてもそれでも善い人でありつづけたら、その人は根っからの善人だったってことになる って論を出したんです。
どっかで聞いたことがある? ええ イエスの磔刑のシーンの元ネタはプラトンの国家ですから。
紫の衣ってのは、階級を表しており、善い人だと評判がよければ、それなりに地位や名誉を他人から与えれますよね。
で、その人から地位も名誉も奪う、何も罪を犯していないのに、罪人だとして、精神的にも肉体的にも追い詰めるわけです。
そうされて、悪人だったら「どうにかしろよ おまえのせいで」って本性が出るが、「運命を受け入れます」って受け入れた場合は、全くの嘘いつわりなき最初から善人だったってことになる。
磔刑の時にイエスの両脇にいた人も実はプラトンの善人の証明の論なんですね。
強者が許すってのは傲慢からくるもの。
「自分が許されるために許す」ってのが旧約聖書の許しの薦め。上下が無い。
自分の中の傲慢さに気づかれたでしょうか?
で、人は全くの正義を知りえない。
だってそんなもんないから。
でも殺人は悪いこと?
ええ 共同体にとっては悪いこと。
だって、信頼関係で一緒に暮らす人々に対する裏切りだから。
で、その少年は信頼という恩恵を受けて暮らさせてもらっているにも関わらず、その恩を仇で返して、集団の信頼を裏切ったわけです。
むしゃくしゃしていたからついってのが、信頼を裏切っていいという正統な理由にはなりえません。
で、罪と罰って本がある。
主人公は自分は超越した存在になるってしたんです。
誰も踏み越えない一線を越えることで超越した存在になろうとした。
彼はその超越した存在になるために、みんなが嫌っていて いなきゃいいのに という金貸しの老婆を殺した。
いなかったら お金も借りれないので、もっと苦しい思いをしたのに、返済するのはもったいないとして返そうとせず、借金を返済したくないから 死んでくれればいいのに、という身勝手な人々の意見を、返済に困った主人公も同意して、殺したわけです。
老婆を殺しただけなら罪悪感はなかったのですが、その妹まで殺してしまって罪の意識を持った。
最後まで老婆に対する罪は意識することがありませんでした。
彼は神になろうとして、あんな犯行をした。
信頼でなりたつ取引を破壊し、信頼でなりたつ集団に対し裏切り行為をした。
トーニャだったかな? 彼女も自分と同じ踏み越えた者だって言ってたけど、トーニャは集団を裏切ってはいない。
で、宗教ってのは元は一つだと思うけど、人間ってそのままを記憶して出力できないという特徴を持つことから、どうしてもズレが起るんです。
だから元は一つの宗教でも、分裂していくわけです。
で、違いってものが許せなくなり、争いが起るわけです。
で、、、私は違いの存在を消すのではなく、違うってことは認めていいし、相手と自分の考えは違うって言ってもいいと思うんです。
違う意見を言われて、許せない自分だけが正しい って思うから、相手を消したいという衝動が起るが、これは自信の喪失が引き金だと思うんですね。
自信があれば、相手が違う意見を言っても動じない。
馬鹿にする言葉を発して、相手を自分より下に位置づけることで、安心感を得ようとは しない。
ですので宗教戦争とか派閥による諍いとかは、<自信の無さ><弱さ>が源にあると思うんです。
相手を許してさしあげる っていうのは傲慢で、自分が上に立とうとする浅ましさがあると思う。
自分が許されるために相手を許すってのは、謙虚さがあると思う。
これらの意見はいかがでしょうか。
この回答への補足
日常生活に当てはめてみました。
もし犯罪被害に会ったら、そして犯罪者に許してくださいと乞われたら。
許していますよ。
つねに許しています。
そう答えて、保護してもらうために警察に通報します。
警察官が専門家ですから当然です。
ありがとうございます。
困ってしましました。
意見を聞かれても「なるほどね」としか思いません。
私の考える取り組みは観念世界や心の中なので、量刑や社会生活での不都合は想定していません。
No.21
- 回答日時:
P:大霊界の住人は化けて出てきてビックリさせては、驚いた人の恐怖を呑み込んで七変化するんです。
I:モンスターズ・インクというCGアニメ映画がありましたが、ああいうことは実際にあるということでしょうか、人間世界の在り様がそういった世界にも反映されている。その逆もまた然り...
私は子供のころいたずらもしましたが、相手がびっくるするのを視て笑うのはいぢわるであり、それは「良くない」ことでしょうか、今でも時々生真面目(頑な)なヒトを見ると、あえて からかいたくなります。
それ以外の内容は把握できませんでした。私の領分ではないようにも感じます。
ありがとうございます。
驚かして楽しむのは別にいいんじゃないですかね。
大霊界とは世の中で言われる霊界を指しているのですが、死者の国と言っても実際には死んだふりをしているだけだし、何が何だか不明です。
No.19
- 回答日時:
私は異星人も幽霊もいわゆる超能力もあると思いますが、時間を自由に行き来することができるというのは、半信半疑です。
もちろんできるのならそれは凄いことだと思います。ときわたり とは一体なんでしょうか、過去の風景や人の表情や身なり、行動振る舞いを視覚情報として見ることができるということでしょうか、それとも 人(あるいは情緒のある生物)の意識、想念を感じ取ることができるということでしょうか。
そして、今現在においても違う場所にいる人の状態を視覚情報として視るもしくは意識や想念を感じ取ることができるということでしょうか?
いずれにせよ、過去に渡ることが出来るのであれば、未来にもいけるような気もします。まあ、しかし数日位の近未来はともかく、未来は確定していないだろうから渡ることは出来ない とも思いますが...
p:時間の交錯
これは理解、イメージできませんでした。時間というものが複数あるのでしょうか?
この回答への補足
一応言っときます。
幽霊ってのは、おりゃー死んじまった人間の霊だよと、それっぽくふるまう大霊界の住人です。
UFOに乗ってくる宇宙人も、それっぽくふるまうだけの大霊界の住人です。
前世来世も大霊界に広がるパノラマです。
大霊界の住人は化けて出てきてビックリさせては、驚いた人の恐怖を呑み込んで七変化するんです。
わけの判らん奇行をする騒々しい連中です。
ときわたりとは時間の感覚や観念が安定して、何よりも現在が安定していると言う事です。
いわゆる霊視としておっしゃるようなこともできます。
過去にとらわれづ未来に向けて安定しています。
神性の介在することで時間旅行そのものは聖霊が行います。
聖霊は私の場合はポケモンです。
私は任天堂と交流がかつてあったのですが、ポケモンが流行し始めた時に観念世界との橋渡しをする伝承にある妖精や精霊の捕まえ方のコツを披露しました。
現在のポケモンは観念世界の物語を実際に伝える精霊たちです。
劇場版などはその時代の観念世界の在り方が解って興味深いですよ。
自慢話ですが、ときわたりをするポケモンはセレビィと言いまして、私がデザインしました。デザインしましたはちょっとおかしい。むしろ「私の事です」。
時間の交錯とは、各個人が持つ世界観のずれの事です。
No.18
- 回答日時:
補足お礼を受けないまま、連続投稿となります
追記:今日街を歩いていて想った観想です。
実社会を見渡してみれば、大人と子供がいる(貴賎、上下、レベルは関係なく)ように、精神世界にもそれがあると考えられます。みな同じように導こうとするのが欺瞞であるのかもしれません。
「教え、導かれた人」は、「無理に教え導いた人」を、あとで必ず深いレベルでうらむときが来るでしょう。ですので、私が語ったことは参考程度として適当に忘れてください。(「言われるまでもない」と言われそうですが。)
それから、導くなどということは、一般の死への不安と恐怖を克服していない人であれば、やはり考える必要はないでしょう。
世界そのものが、あらゆる現象で以ってその人の問題を映し出しているでしょう。だれか他者が写してくれたり、導いてくれたりしているわけではないはずです。
生きている、誰か他者の「導き」は嘘であるというのが今の段階での結論です。実際には音楽や書物やあらゆる自然風景により助けられてきたのは確かですが、生きている人から学んだこと、少なくとも教えようとしている人から学んだことはありません。
人は皆自分のことだけ考え、振舞えば良いのだろうと思います。
そうでない場合は別として。
※ステータスはすべて無効とします
この回答への補足
哲学バトルで信仰を扱った場合に結論が間近になると
自らの道を歩むのはあくまでも自らである。
見たいな事をいいます。
手伝いも本来はその前提の範囲でしょう。
私はポケモンマニアなので「ときわたり」という特殊なESPを扱えますが、時間の交錯を修正してまっすぐな道を指し示すことはある意味で導くこと受止められているのかもしれません。
No.17
- 回答日時:
時間ができましたので、続けます。
ごく近しい身内を殺害した殺人者についても理解を示そうとするかに見えるあなたの行為(言動)に対してのリアクションの中には、確かに神的なものとしての驚きを覚える人もいるかもしれません。(だとしても、飛躍的ともいえる判断と言えますが)
しかし、現実的にはこう思う人も多いと思います。つまり、「自分の母親が、心ない若者の手によって殺害されたというのに、あの人はその若者を許すという発言をしたそうな!! ありえないことだ・・・そう簡単にそんなことが言えるということは、所詮は母親との関係がよっぽど希薄であったに違いない」と。こういう風な極めて現実的見方や感想を抱く人も多かろうと思うのです。
もし、実際の日常生活の中でその人が言葉というよりも実体をもって、神的な尊敬を受けているのならばまだしも、ある断片的シチェーションの中での断片的発言をもって、「あの人は驚くべき人だ!その愛はまさに神からきているに違いない!!」などと本気で思ったとしたら、その発言を受けた側の認識の問題が逆に問われてしまわないだろうかということである。
驚きとは言っても、驚きには、二種類あるのではなかろうか?
一つは、呆れ驚く、あるいは興味本位的驚き「へえ~いろんな人がいるもんやなあ!!」。
もうひとつは、常識や因習的観念を打ち破るような人格的敬意を覚える驚きである。
後者は、閉じていた心を開かせるほどの驚きでありましょう。
言葉を知的に捉えるというよりも、その言葉が直接心に訴えかけるのである。
あなたの例が真に意味をもつのは、後者の驚きの場合でありましょう。
夜また続けますが、本筋からずれたことお許し下さい。
私自身、外堀を埋めていきながら、徐々に本丸に近づこうとしています。勝手をお許し下さい。
No.16
- 回答日時:
p:これは主観意識を保ちなさい。
と、言った意味でして必ずしも正解ではないようです。もちろんその意味でしたら、正解ではないでしょう。
自分の行為振る舞いが、自らの世界観や思考に影響を与え、一方で今持っている世界観とそれから生じる思考判断が、自分の振る舞い行動を決めるという意味です。
p:それでは悪は去りません。
悪というものが不正であるとすれば、正しい認識を持つことで 悪が去ります。
p:その上で油断するととんでもない悪者にされかねない危機感を持っています。
弘法も筆の誤り あるいは 太陽光過多による旱魃ってことで。
この回答への補足
自分の行為振る舞いが、自らの世界観や思考に影響を与え、一方で今持っている世界観とそれから生じる思考判断が、自分の振る舞い行動を決めるという意味です。
自らは世界の中にある。
簡単なことなんですが、修行熱心な方は心眼を開かないと世界は見えないといいますね。
噂話でお茶を濁してしまいました。
言い回しは新鮮です。
私は棺おけに片足突っ込んだような世界観をかいくぐったので美しい描写を見せていただきました。
No.15
- 回答日時:
あなたの許す(認めるという意味)という例にはいくつか問題があります。
あなたの発言とそれを受けた側が、それをもってあなたを「神」と思うとした点についてですが・・・
(1)認めるとは言ってもおそらくそうなるであろうという仮定の言動に過ぎず、実際どうなるかは本当にその場に居合わせないとわからないということ。
(2)受けた側も、あくまで言葉としての受け止めたが故に言葉として答えたに過ぎず、したがって本当の意味で「神」的行為と認定したとは言い難い。
(3)その見も知らぬ行きずりの少年を認めるのはいいとして、かんじんなことが抜けている。あなたと母親との間の心情関係である。
わかりやすい例えで言えば、母が他人に殺されなくても普段から自分が母を憎むような位置に立っていたとか(あえて極端な例です)
長い間の親子関係にあるその母が殺されたという時、殺した人を憎んだり認めたりする以前に、母の死に対してどういう態度を取るかが先決問題だと思うのです。泣くのか泣かないのか・・・むしろ言葉よりもその態度にこそ神であるかないのかが鮮明に現れることでしょう。
取りあえず、ここまでとします。続きは夜にて失礼します。
この回答への補足
補足です。
霊とは実態や本質ではない、予感である。
との前提で説明します。
殺人によって故人が浮かばれないとすれば、殺人者がその罪を認めることが出来ないで悪人のままでいる、その思念による幻想です。
犯人が自らの行為を受止めて人生を前向きに生きるということは、供養に参加させるということであり、遺族だからこそ犯人を許すと表明するのが必要です。お坊さん任せにするのではなく自らで天国にまっすぐ届けようとすることです。
このように霊にたとえるなら必然もあります。
有難う御座います。
今回のコメントのみにお答えするなら、「人は等しくいずれ死を迎える」あったりまえのことですね。
殺されて死を迎えたからといってなんだというのでしょう。
No.14
- 回答日時:
回答No.11さんの補足欄をみました。
本題のことではありませんが感想を述べたくなりました。kigurumiさんは社会性という観点からの意見を述べていると受け止めます。primeapeさんを批判するような文面になっているようですが。
だから私は、その時のprimeapeさんの心の中に入ってみることにしました。
primeapeさんはたぶん、乱暴した少年の気持ちがよく分かったのでしょう。自分のことのように思えたというような。
そのときの心の働きは、怒りの気持ちでなく、哀れみの気持ちだったと思います。
理性より感情の働きが、良い方面で出たのです。
当時、理性的自分との心の葛藤があったのではと推測します。
でも若いころのそうした気持ち、を後悔したことはないと思います。なぜなら自身の「良心」にしたがっているからです。
人は自身の「良心」に背くと自身への言い訳が必要になります。
でも「良心」に従った行動をしているときは、胸を張っていられます。
若いころは心も定まっていないので、ふらつきますが。
それではなぜ「良心」に背かぬような生き方をしていると、自身を持っていられるのでしょう。
それは人に宿った「良心(やさしさとかの感情)」は神や仏の心と同質、神や仏の心の反映したもの、だからだと思います。
しかし、社会と言うことに眼を向ければ、kigurumiさんの話に出てくる神父は迷っています。理性で決断しようとしています。自らの「信仰心」が揺らいでいます。たぶん相当悩み続けたことでしょう。
社会の一員として生きていかなければならない我々は、時には神に懺悔しなければならないような事柄でも、決断せざるを得ないと言うような事があるのでしょうか。
この回答への補足
自我についてです。
そもそも「我はある」とする時の「我」とは、絶対を起草するときの基盤であり、我自らを疑うと言う事は、まさに「絶対に」ありえない。
そのくらいに確固としているのが「我」です。
そうすると自我の研究学説全般がいびつな考えとなります。
その通りでして全て、煩悩、妄想、迷いです。
そのくらいに取り合う必要のない無駄な考えが自我説です。
それらは(特に心理学では)「我」の外形の考察なのですが、
あくまでも我そのものは、疑念には答えないで確固としています。
有難う御座います。
心に入ってみる。
と、言う言葉を使いましたね。
いいことです。
許すは、口先から出る「許す」ではないんです。
ただありのままに受けとめる。
いわば許すではなく認めるです。
その認知行動を許すと解釈するのが悪の論理です。
ちなみに「救い」の論理も同様でしょう。
No.13
- 回答日時:
これについて、誰か他者の信仰を代筆することはできないと言う見解を私は持っています。
これは特定の人が、誰か他者の信仰する神を自称する、もしくは現人神として振舞う(自分でもそう思う)ことはできない と言う見解を持っている と認識しました。
よって神を想定する。
この場合の「神を想定する」というのは、自分が神様だと祭り上げられないために、「私ではなく、他に神はいます。」ということを想定し、信仰の対象を自分に向けさせないように仕向けるという事でしょうか。
しかし、それは極論を言ってしまえば「嘘」です。嘘による導きは良い結果をもたらさないでしょう。「嘘も方便」は、嘘でしょう。
もちろん、自分が確かに神(もしくはそう思えるもの)を見たのであれば、それを仮に神と想定することもできるかもしれませんが、それが誰にとっても神であると想定するのは、やはり嘘でしょう。
導く方法としては、「自分が主であることに気付きなさい、私は自分がそうであると知っているだけです。あなたもそれを知って、自らの運命の主となりなさい。」ということで良いのではないですか。人間と神の、明確な境界はないでしょう。認識の、完全度合いがどれだけあるか。それはつまり神度合いがどれだけあるかという事でもあるでしょう。
人間の進化(完全)度合いが1から10あるとして、役割で自分を規定する人は、5~6の段階です。
また、許す許さないの問題は個人の感情や信仰の問題、つまり都合によるものであり、神であるか神でないかとは全く関係ないと思います。あらゆる物事には理由があるでしょう。理解した、理解できない(もしくはその中間、つまりなんとなく理解した)しかないのだと思います。
許す許さないという表明も、欺瞞でしかないでしょう。
この回答への補足
追加説明です。
自分が主であることに気付きなさい、私は自分がそうであると知っているだけです。あなたもそれを知って、自らの運命の主となりなさい。
これは主観意識を保ちなさい。
と、言った意味でして必ずしも正解ではないようです。
それでは悪は去りません。
これに関しては模索中です。
No.12
- 回答日時:
No.10です。
No.11さんへの返信を読んで思ったことがあります。
あなたの宗教観は日本のではなく西洋の宗教感。
それも現代の西洋の宗教感。あるいは現代の理想(理想なのであくまで夢 現実なしえなくても言える願望みたいなもの)
何年か前に40人以上の女性を拷問した殺した男の裁判がテレビで流れた。
神父らしき人が証言台に立って、「今日こそ自分の信仰を試されたことは無い。 わたしは・・・・・ あなたを・・・・・・・・・ 許します!」と言ったんですね。
すると裁判中 そっぽを向いていた殺人鬼の顎がワナワナと震えた。
結局司法取引かなにかやって、死刑ではなく無期懲役になったんだったと思います。
殺人鬼にとっては、これこそ地獄でしょうね。
いっそ死刑にしてもらっていたらどんなによかったか と今頃思っているんじゃないか と。
さて、神父らしき人は信者に他人を許しなさいと言っているので、今回限りは許せん! というわけにはいかない。
でも 嘘はつけないから、許さなければならない。
じゃないと 信者の手本となりませんから。
そういうわけで、今の地位を維持するために、40人以上拷問して殺したこの犯人を心から許す気持ちにならなければならなかったわけです、裁判所で。
で、旧約聖書には「許しなさい」という教えが確かにあります。
だけど、それは殺人鬼まで許せとはかかれていない。
敵とは異国人のことではなく同胞の中で、自分が日ごろよく思っていないご近所さんのことを指す。
中の悪いご近所さんにビジネス上金を貸したが、日没までにご近所さんが返済できなければ、質にいれた衣服を返せと旧約聖書では述べられています。
モーセの律法に「殺してはならない」とあります。
ニュアンス的には、「私の民であるなら人を殺そうか 殺すはずが無い」
この人とは同胞のことです。
イスラエル人であるあなたが、他のイスラエル人を殺すだろうか、私の民であるなら殺すはずがない です。
で、同胞を殺した場合は、「私の民ではない」ということになるので、この律法を破り同胞を殺したこの人は、同胞を殺した途端、異邦人になってしまうので、異邦人に関しては律法は適用外ですので、殺人をした人を殺してもいいんです。
律法に抵触しません。
日本は昔 精神障害者をと呼んだ。
神に近い存在というニュアンス。
つかみどころがなく、説得が通じず、把握できず、何をやらかすかわからないからじゃないかと。
言葉が通じない 心が通じない ゆえに人間を超越した存在として、彼らを神に限りなく近いものだとした。
子供は7歳までは神の子 というのもそう。
7歳すぎるとちゃんと分別がつき、説得もできるようになるが、それまでは、何をしでかすかわからないし、本能のままに活動をするので、自然と同じ、だから 神のようなふるまいをする人と言う意味。
で、連続殺人鬼は、本能が暴走して欲望のボタンが連打されて、どうしてもその欲望に逆らえず、殺人を繰り返すしかないわけです。
拷問したいレイプしたいってボタンが連打され、その欲望を止めることができない。
ごくごく自然体で、本能のまま行動するしかないわけです。
どうして殺した?と聞かれても説明できない。
体が求めたから。
本能が求めたから。
理性などぶっとぶぐらいの自然体なので、40人も殺しながらケロっとできたわけです。
自分が何をやったのかわかっておらず、他人ごと。
罪悪感がまるっきりない。
だって理性を自分だとしているので、理性以外 つまり本能がやったことなので、他人がやったのと同じという認識しかないわけです。
こうなるともう神です 神。
この神を人間が許す?
人間が神のやったことを許す?
おかしなこと言いますよね この神父らしき人。
これじゃ まるで人間は神以上の存在であると言っていることになる。
その少年がただむしゃくしゃしてというのが暴行の動機ですが、彼は神だからそうなるしかなかったわけです。。
理性などなく本能の従順な神だから、自然のままのふるまった。
つまり理性で衝動を抑えるということが無いので自然体なので神。
何度でもやりますよ。
だって彼は神で自然のままのふるまいをするしかないのだから。
被害者が許しますって言ったところで、そんなのへーでもないんです。
刑務所の半数は知的に問題がある恐れがある と元国会議員の人が、何かで刑を受けて刑務所暮らしをした後 そう発言したそうです。
自然体のまま行動するしかない受刑者たちなので、だから 何度でも刑務所とシャバの往復を繰り返すわけです。
懲りるとか改心するとか そんなものない。
自然体のふるまいをやっているので、どんな罰を受けようと、何度でも自然体の振る舞いをやり続ける。
そうするしかないんです。
もし 神に理性があったら こういうことは起りません。
神には理性が無い。
で、国はもうわかっているが、刑務所の維持費が莫大で、収容施設をこれ以上増やせないので、どんどん出していくか 死刑にするしかないんです。
出せばまた殺人を犯す危険があるとわかっていても、その人にかかる費用を考えると、殺さない 犯さない 襲わない可能性があった場合、外に出してしまうんです。
そして人をまた殺して、刑務所に戻ってきてもらう。
シャバに出ている間 経費かかりませんから。
危険人物をシャバに出して欲しくなかったら、国民は自分の身の安全料として、もっともっと税金を納め、その人を血税で刑務所内で養っていくしかないんです。
人間ではなくなった人たちを、人間が養っていくしかないんです。
それをしたくなければ、中国みたいに軽い罪の人もじゃんじゃん処刑していくしかない。
人間ではなくなった元人間を、身の安全ために殺すか、それとも罪だとしないで、殺されるのか。
殺されなくてもまた盗まれたり、刺されたり、されてもかまわないとするのか。
平和的解決策は これら神から人間が自由を奪い、限られた空間で衣食住をまかなってあげることだと思います。
無神論者の中にも神の存在を信じているという人がいます。
アインシュタインもその1人。
だけど、彼が神というとき、それは人間が信仰している対象ではなく、万物の法則のこと。
それを神と呼んでいた。
人間が知る万物の法則は微々たるもの。
それをアインシュタインは少しでも解き明かそうとしたわけです。
集会所で演説ぶる聖職者は人間です。
刑務所に入っている人たちは、神です。
人間が許そうが許すまいが、そんなの全く関係なくふるまいたいようにふるまう。
これが神の概念です。
この神には善も悪もありません。
善や悪は人間が決めたこと。
人間が決めたことに対し、神はそれに従う筋合いはないんです。
従い犯罪をした人を許す ということ自体 全く意味をなしません。
この回答への補足
とっかかりとして、他方でも表明した論理の使い回しです。
失礼を「お許し」ください。
「許し」とは悪の論理である。
許すなら悪の表明である。
その答えは、
私は、私ではない。
です。
許すなら我ありでは、クルクルパーです。
その意味で、回答者様は正しい。
ありがとうございます。
うーん。
私にとっては、「あなたって神様?」
と、改めて問われた気持ちです。
このような場合、噂の権現様と同じく、あなたの狂気が問われるでしょう。
お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!
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