プロが教えるわが家の防犯対策術!

仏教について疑問に思うことがあるのですが、いいでしょうか。

知識が曖昧なので間違っている所も多々あると思いますが、その辺は大目に見てください。

仏教というのは「人間は救われない」というところから始まっており、その救われない理由として、阿頼耶識というものが人間にあるからである。

しかし、実はその阿頼耶識から人間の救いがある。

ということをNHK教育の「心の時代」かなんかで聞きました。

「阿頼耶識」自体、自分はよく分かりませんが、何故人間が救われない理由が救われるものとしてなるのかがよくわかりません。

それから、本当に仏教は「人間は救われない」ということから始まっているのでしょうか。質問内容の間違いを教えてください。
あと、質問内容の事を詳しく述べている書籍か何かを知っていましたら是非教えてください。

A 回答 (8件)

初めまして、私は、原始仏教を依りどころとして居ります。


阿頼耶識云々については、余り詳しくありませんが、観念的であり、突き詰めて考えたとしても、悩むだけだと思いますので、こだわらない事をお勧めします。

仏教とは、思うに、自分で自分を救えと言う教えです。
仏典に次のようにあります。

自分を苦しめる物は怒りや欲望等である。だから、それらを無くせば、苦しむ事は無い。
しかしそれらは、自分でしか抑えられない。

また、これらは努力すれば、必ず報われる物だと思います。
    • good
    • 0

素人です、間違っていたらすみません。


人生に救いを求めるのは、自我意識です。自我意識は何処にあるかと言えば左脳に在る意識です。左脳の機能はものを分析したり、割り算をしたりして計算式を積み上げてゆく機能の事です。はっきり言うならば「分別」する脳の事です。分別する脳は「有限」のよき理解者です。何故ならば分別できる事を有限と云う名を付けています。

分別できない事は「無限」或いは「永遠」と呼んでいます。つまるところ左脳に在る自我意識には「永遠」と云う概念を理解する能力が無いと言う事になります。

人間の脳が大人に近くなる頃、すなわち思春期頃、今でいう中二病と云うのが始まる頃、人間の脳が完成に近くなります。脳の機能が完成に近ずく事によって、心が分裂を始めると言っても良いと思います。

天国に一番近い存在は「幼子」と聖書にも書いてあります。幼子には「心の分裂が無いからです。」思春期頃から人間は悩みが始まります。この事を聖書では天国から追放された。つまり「失楽園」と言う風に書いてあります。悩みが深くなって精神疾患や、神経症や、自律神経失調症などが始まると言う事になります。

是は二つの脳の機能が違う事と、一つは分かり易く、もう一つが分かり難いために起きている現象の事です。仏教では「自分がこの二つの意識の事が分からない事を『無明』と云う言葉で説明しています。」

無明と云う言葉を説明するならば、自分自身を悩ませて、苦しめている者は自分自身の中にいるが、その者が掴めない。はっきり言うならば「自分自身が分からない。」と云う意味になります。

自分の自我意識がもう一つの意識と出会う事を「悟りが開く」と云う言い方をします。見性して仏になる。見性成仏と云う言葉が有ります。

この事を分かり易く説明してみます。人間は悩むものだと言います。是は脳の構造上避けられない事と言えます。何故ならば一人の人間には二つの意識が有るからです。その二つの意識の片方は自我意識ですから分かっています。ですがもう片方は「無意識の中に封印された形で」存在しています。右脳の存在自体或いはもっと深い脳自体にも関係してきます。深い脳と云う言い方をしましたが、言い方を替えたなら、原始的な脳と云う言い方でも良いと思います。

もっと別な言い方をするならば、命そのものを支えている脳と云う言い方も出来ます。或いはクモが学校に行かなくて、誰にも教わらなくとも完全なクモの巣を張る能力と云う言い方も出来ます。ツバメでも野生の動物、昆虫などにも備わっているものです。

人間の脳は他の生き物に比べた場合には格段と大きくて、その能力も大きくなっていると思います。自我意識の他にもう一つの隠された能力が秘められています。この隠された脳の事全体を阿頼耶識と云う風に理解した方が良いと思います。

人間の悩みは「心の矛盾です」つまり割り切れない問題の事です。割り切れない問題を「自我意識」が抱え込んで「マイナス思考」になっている状態が「人間の苦しみ」と云うものです。「一切皆苦」と云う世界と言えます。

このマイナス思考から抜け出す方法があるのか?と云うのが「お釈迦様の悩みです。」この悩みが宗教文化の発展を促しています。有限の自我意識が「永遠の命を求めて苦しんでいます」この解決方法が仏教の根本を支えています。

有限の命、明日をも知れない自分の命にしがみつきたくて人間は救いを求めています。命のはかなさを嘆いても、悲しんでも厳然たる事実が有ります。自分の命は「有限」のものであると言う事実です。この心の矛盾が古今東西人間を苦しめてきました。

心には秘密が有ります。もう一人の自分が分かる時に全ての秘密が解けます。心の矛盾。矛盾をした問題を左脳の分別脳で考えている間はこの矛盾は解消しません。何故ならばこの問題は割り切れない部分があるからです。分別脳には解く機能が備わっていないからです。

人生に救いを求めている間は、救いは訪れません。自我意識の分別する能力には限界が有った、と分かる時に、自我意識は全てを諦めて「自分には出来ない」と悟ります。この時に全てを諦めた事を受けて「もう一つの意識」が出て来る事になります。是が悟りです。二つの意識が出会うと言う事になります。

自我意識は全てを放下して(諦めて)自分の運命を受け入れる事を納得します。この時に、もう一つの意識が全貌を現します。もう一つの意識とは「永遠そのもの」で出来ているからです。その永遠性を自分自身が持っていた事を自我意識は知る事になります。この事で自我意識の考えていた「命」と「本当の命」と云うものを知る事になります。

今まで自分が考えていた「命」と、永遠そのものが教えてくれた「命」の違いに気が付きます。命が尽きても、自分は死なない事に気付ずかされます。今まで死を恐れていたのは「自我意識の有限性を」永遠の命が救いの手を差し伸べていたと言う事に気が付くと言う事になります。

心の矛盾とは自分自身の心の矛盾と分かります。この分かる事で「心の矛盾は解消する事になります。」此処を持って有限の壁が打ち破られた事になります。自我意識には出来ない事が分かったからです。この時点で救われると言う事になります。

人生に救いが無かったことが「分った」と云う時点で救われていた事が分かります。人生に救いを求めなくなった時点が救われた時点です。是は「自我意識」が全てを肯定出来た事によります。「絶対肯定」と言えます。今までの苦しみは、今を、今の自分を肯定できなかった事によります。

「絶対肯定とは」神の思し召しのままにと言う事になります。自我意識が出しゃばらなくて、もう一人の自分に任せると言う事になります。

人間に元々備わっている働きに自我意識が合わせて生きてゆくと言う事になります。自我意識が二度と出しゃばらないと言う事になります。「我を去れ」とは自我意識が右脳の意識に対しての言葉です。

是が「分別心」を捨てろと言う事になります。分別を捨てた心(境涯)が涅槃と言う事になります。今の言葉で言うならば「絶対の安心」と云う事になります。此処を持って精神疾患、神経症、自律神経失調症、等の完治となります。何故ならば心の病とは「無明」の又の名だからです。仏教は宗教ではありません。究極の心の癒しの心理学と云えるものです。或いは治療法と言っても良いと思います。

お寺が沢山在って、お釈迦様の弟子が沢山存在しているのに、誰もこの事を言い出しません。大変に不思議な現象と思っています。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答有難うございます。
仏教というのは確かに神のことについては言っていないので、他の宗教とは違うように思います。
ただ、自分が知りたかったのは人生というより人間という存在が救われるのか救われないのかということです。
(ですが、tumaritou1さんのおっしゃる人生と人間の存在も同じものかもしれません)
自分は環境破壊で生命を包む世界そのものが終わりを迎えているように思うので、中々永遠の命を実感することは難しいです。

お礼日時:2009/11/11 13:34

NHK自体が仏教の意義、釈尊の本意になんら理解しておらずNHK制作スタッフ達が私観、我見、固定観念、概念によってさも難しく有難そうな神秘的なものにしているのであって、誰でも理解できないと思います。

難しい言葉で余計にややこしくし迷路にでも入ったようになります。本来釈尊(仏陀ブッダ)は優しく慈悲深い仏であり難しくありませんよ。仏教の創始者は釈尊であり釈尊の本意は民衆の幸福であり我々の生命の内なる無限の力、生命力により各人のあらゆる困難を乗り越えられる方法を示されております。現在の葬式仏教、諦め、癒し的なものではなく自分の無限の生命力によりどんな苦難をも勇気と希望をもって乗り越え他人にも慈悲の心で祈り励まし希望を送り共々に幸せになっていく。それこそ釈尊の本意であり悟りであり、仏教でいう成仏ではないのでしょうか?成仏とは仏になると書きます。死んで仏になるのではなく生きている間に悟り仏になるのです。仏とは何者にも壊されない幸福境涯、生命力があふれどんな難題にも負けず乗り越え友達をも救い共に幸せになって行く。こういう方が増えれば争いや戦争もなくなり世界平和になりますね。そいう方がひょっとしたらあなたの身近にも居られるかも知れませんね。長くなってすみませんでした。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答有難うございます。
長い回答をして頂き大変ありがたいのですが、自分の記憶が正しければ仏教学者のような方が出演していたので、kikuti357さんがおっしゃるような酷いものではなかったように思います。
それに、自分が見たときは番組も終わりのほうに近かったので質問内容のとおりのことを言っていたとは必ずしも確信できないのです。
ただ、そのようなことを言っていたような気がするので本当にそうなのか確認のために質問させて頂きました。
それにこの質問の難しさも実感しました。

お礼日時:2009/11/11 13:41

 こんにちは。



 ★ 「阿頼耶識」自体、自分はよく分かりませんが、何故人間が救われない理由が救われるものとしてなるのかがよくわかりません。
 ☆ 悪循環が好循環に変わることを言います。

 むろんそのことを《さとり》と言うのでしょうが この《どんでん返し》のあと おのれの内面にしても外の世界にしても けっきょくそこに見えているものごとは 同じ縁起の世界過程です。
 しかもまづは それが《空観》として見えるのだそうです。空観において見るのだそうです。
 たぶん 同じ世界のいとなみであっても そこにおけるしがらみが見えてきちんと捉えられるし いよいよそこから自由になっていくわたしがいる。といったようなことを言っているのだと思います。これが空であるようです。何のことはない。しがらみがゼロだと言っているというわけです。
 (世界は あるいはおのれの内面に起こる数々の煩悩は まだまだほとんど以前と同じように動いているのにであるようです。なぜなら いまは彼岸の話をしているのではないからです)。

 その《しがらみ》が アーラヤ識のことですね。
 それでも《さとり》の境地がたしかなものになってくると おそらく感化ということが起こるのでしょう。自分やその周りではじっさいにこのしがらみから距離をおけるようになってでしょうか 癒えるという情況がやがて現われてくるということでしょう。
 でもとげが抜かれても しがらみと言うくらいですから 長い間の刺さった状態によってその部分は膿んで来ているかも知れない。ですから とげは抜けても その患部は 癒えるのにさらにときを経て行かねばならないのでしょうね。 

 この《どんでん返し》の原動力は何か?
 という問いが残っています。言わずと知れた《仏性》なんですが ブッダ自身はこれを明言していないという問題がひとつあります。でもこれは 潜在的にブッダも言ったと採れば 歴史をつうじて普遍的な説明理論だということになります。

 ではどのように普遍であるか?
 これが じつは難問のようです。
 すべてを端折って述べるなら。仏性は いまのアーラヤ識に種のごとくして宿るという見解がある一方で いやいやもしそうであるなら その仏性ないしアーラヤ識は 不可変性をもつところの・自体だけで存立する実体ということになるが それでは《諸法無我》の説にたがうことになる。という別の見解があるからです。
 すべてのもの(諸法)は 生まれては消えていくものであり仮りにそのようなものごととして現われているに過ぎない・つまり実体がない(無我)という説に反するという問題です。
 アーラヤ識ないし仏性は 神なのでしょうか? それとも ただのまやかしなのでしょうか?
    • good
    • 0

私も素人なんですが、私見をひとつ。


原始仏典?でしたかね、ゴータマは庶民の暮らしがひどいのを見て、城を捨てて瞑想し、悟った、と書いてありましたね。
仏門の方に怒られそうですが、仏教とは、根底に、人間の無力、悪さといった、ある意味、諦念ともいえるものが流れてると思います。
それゆえ、悪さ、弱さを捨てることを是として、現世の利益でなく来世の幸福を求めているように思います。
ゴータマの生き方は、所謂人間らしく生きるのとかけ離れたところにあります。
アラヤシキとは、この人間らしさみたいなもの、と思ってます。
    • good
    • 0

>しかし、実はその阿頼耶識から人間の救いがある。



はい、確かに阿頼耶識ゆえに「人間は救われない」と言えると同時に、「人間の救い」の機縁もほかならぬ阿頼耶識に内在すると言えるとも思います。
これは、ちょうど煩悩即菩提というのと同じで、煩悩それ自体の内部にこそ菩提(悟り)の種子が潜んでいるという意味です。
これは、しばしば、悟り(菩提)、浄土を象徴する蓮にしても、実は清浄な池沼にではなく、汚らしい泥田(煩悩)の中にあって、はじめて美しい華を咲かせられるというのと同じだということです。

唯識論は、この煩悩が、より具体的にどのようなメカニズムやプロセスを経て、われわれに思量(思惟)させたり、五感(識)を機能させたりしながら、あたかも現実世界が実在であるかのような錯覚を起こさせるのかについて、詳細かつ明解に、しかも驚くほど論理的に説いています。

たとえば、われわれが五感にもとづいて、種々の事物がその実質をもって在るかのごとく信じて疑わないのも、実はこういう認識活動そのものが虚妄の分別(識別)に囚われた結果にすぎないということになります。
本当は、無限の連鎖をもった因縁、原因・結果の関係として捉えるべきではないかというわけです。

で、阿頼耶識というのは、こういう人間の認識活動の原因・理由に関する根本的な一規定と考えられているわけで、その意味では、いわゆる人間の無意識層の奥底に潜んでいる潜在意識という言い方もできるかもしれません。
ただ、唯識論では、この潜在意識の構造をより体系的、具体的に説明しようとしている点にその特徴があり、その点では、ユングの唱えた「集合的無意識」とも一部通じ合うところもありそうな気がします。

ただ、唯識は、この最終的に阿頼耶識に帰する識の活動が単なる因果の関係以外の何物でもないこと、つまりその《空性》を明らかにし、われわれが阿頼耶識の支配から脱しうる可能性を呈示している点で、「阿頼耶識から人間の救いがある」と言えるわけです。

>あと、質問内容の事を詳しく述べている書籍か何かを知っていましたら是非教えてください。

私にとっての入門書は、『認識と超越「唯識」―仏教の思想〈4〉』 (角川文庫ソフィア 服部 正明 、上山 春平)でした。
他には、『唯識のすすめ―仏教の深層心理学入門』 (NHKライブラリー 岡野 守也)や『やさしい唯識―心の秘密を解く』 (NHKライブラリー 横山 紘一)も初心者向けですので、こういう入門書で物足りなくなったら、『唯識三十頌』の注釈書がいくつか出ておりますので、それらへと読み進まれるとよいのではないでしょうか。
    • good
    • 1

「仏教というのは「人間は救われない」というところから始まっており、その救われない理由として、阿頼耶識というものが人間にあるからである。


しかし、実はその阿頼耶識から人間の救いがある。」
わけがわからない説明ですね。おそらく説明者がわかっていないのでしょうね。
阿頼耶識は蔵識といって記録意識ですね。記録がカルマですから記憶を消せば新たな記録が生まれるだけですから救いとはつながらないですね。
記録意識の更に奥に第9識として仏性と呼ばれる意識(阿梨耶識ともいいますね:8識と9識がよく混同されてますね)があり、このなにおもにも犯されないダイヤモンドのような意識があるゆえに全ての人間が救われる可能性を有しているということですね。仏教はこの生きるに厳しい苦の世界で自身の仏性を各人が見出しなさいという教えなのですね。NHKもみてましたがあれじゃ仏教も形無しですね。少なくとも質問者さんがわからないような教えを仏陀は説きませんからね。
    • good
    • 0

「阿頼耶識」は唯識思想の考えなので、それを理解する必要があります。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98

「阿頼耶識」は深層意識のなかの無意識みたいなものです。救われないというのは、食欲や性欲といった欲求が、無意識の本能「阿頼耶識」に基づいており、その欲求が時に果てしないことを指したものかもしれません。

唯識や「阿頼耶識」をよく理解した場合、仏教が理解でき、悟ったということになり、すなわち、救われることになるということかも知れません。

仏教は「人間は救われない」ということから始まっています。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%AB%A6
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!