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人はなぜ幸福を願い追い求めるのでしょうか。

それへの「執着の強さ」と「量で測られる価値の多寡」が指標になっている世界では「囚われたこころ」は満たされる時の訪れがないように思われます。

なるほど「足るを知れ」と先哲は教えてくれます。しかし「知足」は欲望には限りがないから「そこらへんにしておけ」との妥協とも受け取れます。

おそらく宗教というものがそういった欲望処理専門システムとして登場するのでしょうが、一神教は殺しあいに忙しく仏教は形骸化もはなはだしく、その分無駄な難解さと相俟って「信じない者は救われない」という宣伝(脅迫?)しか伝わってこないようです。

どうも「幸福を願う心」こそが結果として「不幸への道案内」をしているように思えます。

こういう考えは間違っているのでしょうかね?

A 回答 (21件中1~10件)

>>どうも「幸福を願う心」こそが結果として「不幸への道案内」をしているように思えます。



そうですね。そのようにもみえますね。
「幸福を願う心」をもう少し分析的に捉えると、個人でいえば、幸福になりたいという意味は、欲しいものが手に入る。ということでしょうか。そういう意味での幸福であれば欲望は際限ないですから「不幸への道案内」になりますね。別の質問に愛が欲しいというのがありましたが、これも幸福と同義でしょうね。言葉の意味が正確に使われていないので渇愛のことを愛と勘違いしているのでしょう。奪う行為を愛といってみたり、欲望の渇えをしのぐことを幸福といってみたりしているのでしょうね。
個人に限らず国家も同じですね。小さな岩島の領有権を奪うことが国家の幸福と考えているふしが見えますね。
確かに人間は幸福を追求する生物ですが、人間が追い求める幸福が財であったり、地位であったり、名誉であったり、土地や支配などであれば、求めれば求めるほど互いの争いが増え、「不幸への道案内」になりますね。そういう意味でご指摘の通りですね。
では「人間が求める幸福とは何ぞや」ですね。これが哲学者・宗教家・教育者が提示できなければあなたのご指摘が真理になってしまいますが、事実はそうではないのですね。多くの者がどのように幸福や愛を誤解しようが、人間が求める真の幸福や愛は、やはりさらなる幸福への道案内なのですね。
真の幸福というのは目に見えないので捉えずらいし表現しずらいのですが、多くの回答者も漠然とは感じているのでしょうね。それ故、問いかけの言葉に対する反発もあるのではと思います。あえて真の幸福を言葉にすれば、真の幸福とは何にもない子供時代と全てがむなしくなった死ぬ直前の自分を比較して人生で何か得るものがあっただろうかということだけなんですね。進歩したと感じればそれが真の幸福でしょうね。
人生のとじで得た物、ゴミ知識などを全て捨てた時の個人個人の感覚ですから表現が難しいですよね。宗教家は魂の向上、哲学者は精神の向上、教育者は立派な人という言い方でしょうか。
仮の幸福は人生のとじでいろいろあるでしょう。有名校に入れたとか、財をなしたとや、美人と結婚できたとか子供が立派になったとか、きりがないけど、どれも死んでもっていけるものは生まれた時と同じで自身の身一つですからね。
世の中一般では仮の幸福が幸福という意味でしょうから「不幸への道案内」とはいえますね。でもそれは世の中一般が悩乱しているからだけなんでしょう。といいたいのですね。
哲学カテなのでちょっと御託が長くなってしまいましたね。
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この回答へのお礼

回答をありがとうございます。

逆説的な問いは反発心を誘発する、というのが世の常なのでしょう。
しかし、ここは哲学カテですから、反発しようが批判しようが愚劣だと言おうがその内容を説明すべきでしょう。無内容な反発は動物を同じこと。また言葉に囚われているうちはまだまだ修行が足りないのでしょう。

ご回答いただいた内容はその通りだと思います。恐らく自身の(質問者のことではない)人生の一回性への態度、不可逆性への覚悟が個人レベルで貫徹されなくてはいけないということでしょうね。

個人として生まれ群棲者として生き社会を形成しその主人であるはずなのにその社会の持つ様々な軛に縛られて生きるという逆説が恐らく人間の運命なのでしょうね。数万年の人類の歴史では今のようなほんの短い時間に人は己の幸せを問うているのでしょうね。思えばそのことそのものが「幸せ」であるとも言えましょう。

この質問もそろそろ閉じる時が近づいたようです。

お礼日時:2009/11/24 20:13

貴方の書いている事は人生の表面を、或いは人間の心の上っ面だけを見ているように感じます。

人間は欲しがっている間は手に入らないものが在ると云う事です。

人間の計らいで望む事が在ります。それは論理的に、分析して科学的に事を図ろうとした場合です。つまり何か目的を持って期待をして生きてゆく処につまずきが在る場合があると言う事です。

その躓きの原因の事を貴方は、どうも「幸福を願う心」こそが結果として「不幸への道案内」をしているように思えます。と云う言葉になっています。

是は人生に対する洞察力が足りない事、或いは人間心理に対する理解の足りなさから生じている疑問に見えます。人間の意識に障害が生まれる場合が在ります。それは手に入らないものを強く望んだ場合の事です。

此処までは貴方の言うとおりですが、本当はその先に見えなくてはいけないものが在ります。例えば誰だってお金や地位や名誉を望んでいます。処がそれらを望むように手に出来る人はあまり多くはいません。

この事がどうして起きてしまうのかを説明してみます。それは人生は期待をしたり、当てにした場合には、当てが外れると言う事が在るからです。期待をしないでする事が出来たなら、期待通りに生きる事が出来ます。つまり人生には「無功徳」=しても何にもならない、と云う原理が働いています。

その最たるものが「何のために生きるのか?」或いは「我々は何処から来て何処へ行くのか?」と云う疑問です。その疑問のために人間は苦しんできました。この疑問と、どうも「幸福を願う心」こそが結果として「不幸への道案内」をしているように思えます。

この事が密接に関係しています。簡単に言うならば、これらの二つには「分別する心」言い方を替えたなら「分別脳」=「自我意識」がその人を支配したためです。

人間の心は自我意識だけで出来ている訳では無いと言う事を言いたいと思います。人間の感情は自我意識だけで自由になるわけでは無いと言う事です。そうして人間の体も自我意識だけでは自由に動く事さえもおぼつかなくなります。

その例を挙げるとしたら、優勝が掛った一打を打つ場合等です。或いは体操やスケートなど、失敗が付きまとう競技などです。自我意識のははからいが出た場合には大抵が失敗します。「自我意識が」出ないようにした場合にはうまくゆく確率は上がります。

自我意識が出ない時は誰が演技や競技をしているのでしょうか?是が答えです。人間には自我意識の他にもう一つ意識が在ります。それは人間の命そのものを働かせている「意識」です、或いは人格と云っても良いと思いますが。

人間は自我意識が出ない状態が「無病息災」の時です。子供の心の時です。「私は誰でしょうか?」なんて誰も思っていません。何をするにも目的意識は持っていません。処が「心は」何時も健康的で、はつらつとしています。是はまだ分別脳が発達をしていなくて、分別しない心で生きているためです。

そこで結論を言いたいと思います。

どうも「幸福を願う心」こそが結果として「不幸への道案内」をしているように思えます。と思える貴方は、「分別する方の脳で」考えています。

その脳では無くてもう一つの脳(意識)で考えて下さい。それは期待しない方の心です。人間の行いは期待しない方が、期待通りになる。と云う事を知っている脳の事です。

説明をうまく出来ません。金や地位や名誉は「期待しない心」が強く出た時にかなうものかも知れません。例えば貴方がそれらを望む事よりも人の幸福を強く望む時の事です。そういう事を望んでそういう行為を「期待しないで」できるようになった場合の事です。

貴方は金や地位や名誉や幸福を望まなくなった時にこそ、そういうものが手に出来るかも知れません。何も期待しない(無功徳=自分を捨てると言う事)と云う事の効用が身に付く様に学ぶ事が人間には大事な事と思います。
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この回答へのお礼

回答をありがとうございます。

>貴方の書いている事は人生の表面を、或いは人間の心の上っ面だけを見ているように感じます。

その通りです。そう受け取られるように書きました。

>その脳では無くてもう一つの脳(意識)で考えて下さい。それは期待しない方の心です。

それはそうでしょうね。「無功徳=自分を捨てると言う事」これは至言ですね。恐らく、「それはどこにある?」「どうすれば得られる?」と考えるこころ=執着こそが不幸を生む。

>金や地位や名誉や幸福を望まなくなった時にこそ、そういうものが手に出来るかも知れません。

これも至言。言うは易くするは難し。ここにぶち当たったと感じるか、広い草原に出たと感じるかが人間を分けるのでしょう。
しかし、現代人にとって全てを捨てるのは無理でしょう。画餅のまま。

やはり行きつくところはここか、という感想です(だいぶ不埒ですね)。

お礼日時:2009/11/24 20:23

この世には絶対的な幸福があるわけでは無いと一切を知る人(=覚者)は語る。

 しかしながら、この世には「しあわせなひと」と称すべき人は確かに存在しているし、人は願うならば自らそのようなひとになることができるのは間違いないことである。

しあわせなひとは、過去のことを後悔して思い煩うことが無く、現在において一切の悲苦憂悩を滅し、未来についても不吉なことが無い。 それゆえに、かれはしあわせなひとであると知られ、<しあわせなひと>と称されるのである。

人がしあわせを求めるのであるならば、このしあわせを求めるべきである。 このしあわせは争いを超克したところに存在しているからである。

***
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この回答へのお礼

回答をありがとうございます。

なにやら有難いIDでらっしゃいますね!
短い文章のなかに尽くされていますね。

ここに終わりここに始まる。
シャカ族の王子の説く一等初めの理念は確かに人を魅了しましたね。

お礼日時:2009/11/24 20:00

「曲解」というのが、な。

曲解というのは、ない。と、オレは思う。あるのは「人それぞれの解釈」だけだ。少なくとも、ここではな。なぜなら、ここは単に「質問し、回答する」というだけの、「お互いが片道切符のやり取り」で成り立っている場所だからだ。

曲解というからには、少なくとも「一般的な解釈であればあきらかにこうとるはずである」といった暗黙の認識があり、それをあえて捻じ曲げる、ということでないといけないよな? だが、このような「お互いに、一回こっきり答えるだけ」では、そもそも「一般的な共通認識」のようなものが形成し得ない。そこまで、大勢が共有できる解釈を持ちうるほどに会話・議論することができない。ある種の「場」のようなものを形成できないところでは、曲解しようにもやりようがない、とオレは思うんだがな。

結局、こういう非常に舌足らずなやり取りしかできない場所においては、自分の思ったように相手が解釈してくれれば僥倖、されないのが当たり前、と思ってやりとりするしかないとオレは思う。そして、そういった「言葉の解釈によって回答が大きく変わってしまう」類いの質疑は、こうしたサイトには向かないと思う。オレは技術系のカテゴリで主に回答しているが、こうしたところでは、技術的な固有名詞を正しく記述することで、たいていは正しく意図が伝えられる。とりあえず「ソースコードを貼れば、何が悪いかわかる」という世界だからな。だから、オレにとってはここはそこそこ役に立っている。技術系の分野では、技術者どうしの間で統一された解釈の専門用語が多数あり、それらを使い組み立てることで、短い一方通行のやり取りでもお互いにほぼ同じ解釈を共有することができる。

だが、そうしたベースとなる共有の概念を持たない分野では、「質問し、回答して終わり」というこのサイトのスタイルでは、解釈の共有はほぼ不可能と考えるべきだろうさ。

だから、利用の仕方としては、おそらく「さまざまな解釈による回答の中から、自分が意図した解釈をしている回答を抜き出す」ということだろう。10ある回答から1か2、こちらの意図した通りに理解している回答があればオッケー、じゃないかね。「無用のトラブルは避けたい」というが、これは「無用のトラブル」じゃない。この種のサイトを利用する上で「不可欠のトラブル」だとオレは思う。そのトラブルを疎む者は利用に向いていない、と思う。

この回答への補足

 

補足日時:2009/11/24 18:49
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この回答へのお礼

 

お礼日時:2010/03/09 15:07

こんにちは。


>「ほとんどの人」という根拠はなんでしょうか。そういうデータがあるのでしょうか。それとも回答者さんの印象でしょうか。
「人はなぜ幸福を願い追い求めるのでしょうか。」の根拠を示されていないのと同じことではないですか?
そういうデータがあるのでしょうか?

この回答への補足

助詞の誤り訂正

誤:意向を解釈します
正:意向と解釈します

補足日時:2009/11/24 18:50
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この回答へのお礼

回答をありがとうございます。

他の方の回答の内容に踏み込む「補足要求」は個人的には記憶がありませんが、問題意識を共有されようという意向を解釈します。

>「…」の根拠を示されていないのと同じことではないですか?

小学生同士の言い合いみたいですね。とりあえず
http://www5.ocn.ne.jp/~oribuen/kouhuku.htm
あたりを読めばいいのでは。もっとも
「人は幸福を追い求める」と「人は不幸になりたがる」の二者択一では前者を選ぶでしょう。「幸福」という言葉のイメージが「肯定的」だからです。
>そういうデータがあるのでしょうか?
あるんじゃないでしょうか。質問の前提を疑う場合は反証が先では?
もっとも「前提」を云々するほどの「前提」ではないように思いますよ。

お礼日時:2009/11/24 18:48

 言葉にしてしまえば 多少にかかわらず 誤謬が生じることを 覚悟して あえて言いますが、



 そういう考えであっている

この回答への補足

IdeaMasterさんってldeaMasterさんと同一人物?

>言葉にしてしまえば 多少にかかわらず 誤謬が生じることを 覚悟して あえて言います

よくお分かりです。

補足日時:2009/11/24 18:07
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この回答へのお礼

回答をありがとうございます。

お礼日時:2009/11/24 18:07

>どうせやるならもう少し芸があればね。

似てないよ全然。
コピペだから似てないというのは可笑しい。全く同じ。

この回答への補足

そうなんだ! コピペだったんだ。でも「~節」が出てないね。体調不良だったのかな。10ptさん、元ネタ知ってるの?

補足日時:2009/11/24 18:05
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この回答へのお礼

参考情報をありがとうです。

お礼日時:2009/11/24 18:52

>それが「復讐するは、われにあり」という言葉。

それを信じておれる者だけが、「忘れずに忘れて」いられます。自分の命を縮めずにおれます。
哀しいかな、そこにたどり着くだけでも、凡人は大いに大いに苦労をするのです。

>心底から、まことに僅かも些かも許すわけにいかない者であるならば、御自身の命を無用に縮めさせることなく、忘れず忘れていてください。それが最大最高の復讐となるでしょう。
>そこには、世の全ての崩壊・壊滅という報いすらもあり得ますよ。



凡人です。
君もそうみたいですね。
凡人はいらぬ苦労しますな。
腸は煮えくりかえっていても
それでもやっと自分で納得できるようになりましたわ。


同カテ内の質問
復讐に意味はあるのでしょうか。
中の他者文無断引用失礼

この回答への補足

  

補足日時:2009/11/24 17:45
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この回答へのお礼

すみません。よく分かりませんでした。

お礼日時:2009/11/24 17:53

以前は質問者は「回答をありがとうございます。

」とお礼をしていたはず

最近は本物の無礼者になったのですかね?

この回答への補足

言葉って呪術性を持つんだよね。「人を呪わば穴二つ」とか。コンテクストってあるでしょ。表意性とコノテーション(connotation)。どうも映像文化の圧倒している現代では表意性のみが取り沙汰されるけど、言語表現の持つ豊饒さはこのコノテーションによって本来担保されるものなんだよね。

補足日時:2009/11/24 17:27
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この回答へのお礼

再びニムロッドの矢。悲しからずや道を説く君。ネバダ、乙です!

お礼日時:2009/11/24 20:39

物質に「目的」はありません。


しかし、その「無目的=エントロピー増大」は淘汰となり、二次的に進化を導きます。
「いや違う!」と主張する事は可能ですが、厳しい生存競争の中で、生き残るために努力しない個体の遺伝子が次世代に伝わり、種の形質となる事はなく、進化は常に、「生きる事」を目的とするよう導くのです。

一方、どのような行動も、本質的には任意=意志の充足であり、「意志の充足じゃない」というのも一つの意志として、精神的充足の追及という方向性から逃れることはできません。
生きる事の本質的目的は、人生を通算した充足量の最大化(生理的拡大×欲求の強さ×それを「人生通算での最大」にコントロールする認識力×その達成度×それを把握する認識力)に収束します。

「精神的充足感のため」というのは、刹那的な快楽主義に帰結するのではなく、最大限の大きな目的、最大限の愛と、最大限の認識を兼ね備えたものになるのです(短絡的な快感の帰結は麻薬だが、それが最大充足でないのはご存知の通り)。
この点において、「幸福を願う心」が、短絡的充足の追及による持続性の欠如となるか、社会生命としての自覚化(自己の生の延長としての社会性)による他我化(愛)になるかの違いが生じます。

であるならば、人が生きるのは、物質的豊かさのためではなく、精神的充足感のためであり、人が働くのは、お金をもらうためではなく、助け合い=愛のためです。
生物として、「生きること」が唯一の目的であるが、社会生命=助け合うために集まっているものとしては、働くことが生きること。

しかし今、そうした「他人を助ける」=愛のために働いている人が、どれほどいるでしょう?
人がとらわれているのは、“お金(や、その源泉としての出世)”という虚構の価値であって。
原始共産制の助け合いから、組織が分業化&拡大する上で、人の意識の社会性を発達させずに、お金や権力といった“馬車馬の目の前のニンジン”で、他律的に社会行動をとらせる道をとったのです。

お金は、本来助け合うために集まったはずの社会において、自己チュー的な意識のまま社会行動をとらせるための“矯正具”として発達したものなので(社会生命として生きる事である労働(助け合い)を、お金をもらうために嫌々働く)、当然、自由意志を束縛する機能があります。
本来、社会的生命として助け合うために集まっている人々をして、弱肉強食のジャングルに変える「不幸への道案内」。

要するに今の人は、自ら喜び(自己存在の本質に根ざした生)に目をそむけ、他律的生=「苦痛から逃げる事による生」に堕しているのです。
(「助け合う喜び」から「奪い合って勝つ喜び(幻想)」への変質)
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この回答へのお礼

回答をありがとうございます。

>人が生きるのは、物質的豊かさのためではなく、精神的充足感のためであり、人が働くのは、お金をもらうためではなく、助け合い=愛のためです。

自利利他ですね。利他の方へ舵を切ったとき変わるのでしょうね。しかし、社会はほんの少ししか動かない。愛を説くものはそれと分からぬよう偽装した商魂だけになったような気もしますね。

お礼日時:2009/11/24 20:31

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