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自我や心というのは脳が司るわけですよね?

違ったとしてもそうだと仮定します。


そこで自我をきちんと持った人の脳のどこに自我が存在すると思います?

また脳の中心で左脳右脳のように真っ二つにしたら自我はどうなりますか?
(仮に人物は死なないとします)


片方に自我があり片方は脱け殻ですか
両方とも脱け殻ですか
それとも両方に自我がありますか?


※質問内容がわかりづらかったらすいません

A 回答 (8件)

 こんばんは。


 「脳全てで自我が存在しうる」と私は解釈します。脳科学的に説明します。脳では例えば「視覚野」「聴覚野」などが別々の場所にあります。脳では様々な感覚を様々な部分で感知しています。よって、脳が全て揃ってやっと自我が存在するのではないでしょうか。
 脳が真っ二つになった場合には「自我の崩壊」もしくは「両方に自我」となるのではないでしょうか。
 前者は私の文章より自明の理です。後者の理由を述べます。脳は左右対称的に動いている気がします。左脳や右脳で……という説もあります。しかし実際は左脳と右脳はそれぞれを補完的に動かしているのではないでしょうか。
 面白い質問です。私も勉強になりました。
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個性のある質問ですね。


楽しそうだったので、のってみました。

人によっては、健常者の脳の30%ほどが存在しない人もいます。
だからといって、自我が他と比べて異質だということはありません。


自我だと判断するのは脳ですから、自我を左右するのは脳だといえます。
とすると、自我とは何かを理解することができ、自我なのかそうでないのかを判別する脳があれば、そこに自我を存在させる力があると言えるのではないでしょうか。
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意識とは、現実世界を模擬した仮想現実内で、自分自身の役割を演じている主人公の行動をシミュレーションすることで生じるものと考えています。

シミュレーションを行うCPUと記憶装置によって意識が生じるということです。普通は、右脳と左脳が協調してシミュレーションしますが、左右の脳が切り離されるようなことが起これば、それぞれのCPUが独立して働き、2つの意識が生まれてくるのではないかと考えます。なお、記憶装置が分断された場合は、多重人格となって現れると考えます。
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自我意識は左脳に存在する人格です。

この事を語る前に、或る人の研究成果を載せて見ます。
ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究


ロジャー・ウォルコット・スペリー(Roger Wolcott Sperry、1913年8月20日 - 1994年4月17日)はアメリカ合衆国の神経心理学者。デイヴィッド・ヒューベル、トルステン・ウィーセルとともに、1981年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。1989年にはアメリカ国家科学賞(行動・社会科学部門)を受賞している。

コネチカット州ハートフォードにて生まれ、西ハートフォードにて育つ。11歳のとき、父親が死去。オベリン大学に通い、1935年に英語の学士号を取得、1937年に心理学の修士号を取得した。1941年にポール・ワイスの指導の下シカゴ大学より動物学のPh.D.を取得。その後ハーバード大学の心理学者カール・ラシュレーのもとで研究を行った。

スペリーの実験以前には、いくつかの研究結果から大脳の大部分は分化しておらず、代替可能と考えられていた(例:ラシュレーの等能説、量作用説)。彼は初期の実験でこれが誤りであること、すなわち発達期を過ぎると脳の神経回路がほぼ固定化することを示した。

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球がそれぞれ独立した意識を持っていることを実証した。

この中で一つの重要な成果があります。それは「二つの脳半球がそれぞれ独立した意識を持っていることを実証した。」という事です。という事は一人の人間には二人の人格が存在しているという事になります。この事が精神疾患の原因と思います。

人間の精神、心、体における全体としての把握が今まで出来ていません。はっきりと云うならば、『精神疾患の原因を解明できていない事は、精神医療の恥』とさえ云っている精神科医も存在しています。

神経症にしても、精神疾患というものも、自律神経失調症と云うものも、難事性の疾患心身症、等にもいえます。原因は未だ特定できていませんが、この事にも右脳の人格が係わっています。

右脳の人格とは言語が無い存在です。その言語が無いところの人格が左脳に書かせたものが『禅問答」』というものです。それは左脳に在る自我意識と右脳に在る『仏性』とが出会うためのテキストと言えます。左脳の意識と右脳の意識の出会いが『見性』するといいう事になります。つまり『悟りを開く』という事です。

キリスト教的に云うならば『神に会う』という事になります。右脳の意識は『無意識や潜在意識」に係わっています。その他には体の仕組み全てを司っています。脈拍の調節から、呼吸の調節から、ホルモンの調節までです。正に命の働きそのものといえます。

自我意識には大変分かり難い存在ですが、確かに存在しています。自我意識と無意識の意識は交代制を取っています。自我意識と交代する時には『自我意識』に戻っています。そうして又替わる時には自我意識はなくなっています。この事が東洋における『無』という事になります。

例えばその切り替わりのうまく行っている例ですが、眠る時です、自我意識が眠ろうとします、何時しか意識が無くなって体を無意識の意識に預けています。そうして心地よい眠りに入る事が出来ています。

その反対の例です、無意識の意識と仲たがいしている例です。自我意識は眠ろうとして『意識』し続けます。無意識とは『心の矛盾と対立』によって連絡が付かなくなっています。そのために眠りに入る事が出来ません。

人間としての障害とは左右の脳の人格が、互いにうまく連絡が出来なくなった現象です。あべこべに人生がうまく行っている状態とは、左脳の機能と右脳の機能がうまく連携プレーが取れている状態です。

うまくゆかなくなった例としては、精神疾患や、神経症や、自律神経失調症や、心身症や、難事性の疾患です。悩みなどもこの中には、入ります。今言ったことは全てが『心の矛盾と対立に』由来しています。つまり生きてゆく事自体の不安と、死に対する不安や、人生そのものに対する不安や疑問といえるからです。

子供の時代には不安は余り無かったと思います。この事がキリスト教における『天国』です。幼子には左右の脳の機能が分化していないからです。それが『幼子が一番天国に近い存在』という意味になります。

それに対して大人の脳に近くなる頃、思春期頃、人生に無常を感じ始める年頃の事です。悩みが始まり、精神疾患が増え始める頃に『脳の機能は分化が完成に近くなります』つまり心の矛盾や、分裂が始まります。

それは機能の違う、言い方をもっと詳細に云うならば、問題の性質の違いが分からなくて、機能の無い方の脳に出来ない問題を割り振った事によります。左脳の自我意識は『分別脳』です。分別とは論理です。論理的に割り切れる事を機能として持っている脳です。割り切れる事しか計算できない脳という事になります。割り切れるという事は有限に属した問題という事になります。つまり有限の世界しか理解できないという事になります。

右脳には言葉がありません、論理的なことは出来ません。感情や、仕事のコツなどは言葉では表現でき難くなっています。言葉に出来ない事がその機能ということになります。分別できない事が機能として備わっています。分別できない事は『割り切れない』という意味です。割り切れない事を『無限』と言っています。言い方を替えたなら『永遠』と言うものが機能的に備わっていると言う事になります。

従って人間最大の危機『死』を迎えた時に、自我意識は精神的に最大のピンチを迎えた事になります。そのときに自我意識は全てを諦めざるをえなくなります。自我意識が折れてしまう、或いは絶望で自我意識は死にます。是が『大死一番』です。これから右脳の意識が自我意識を包み込みます。是は最大の癒しになります。有限の自我意識が永遠の存在に抱きかかえられます。是が悟りの正体と言えます。

生死の問題が解決した瞬間と言う事です。有限であるこの肉体は、一番大事なものではなかった。という事を知るからです。もっと大事なものに抱かれて安心出来るようになります。この心境が仏教では『涅槃』と言う事になります。キリスト教では『神と和解した」 と言う事になります。西田哲学では『絶対矛盾の自己同一』と言う事です。

障害の元であった『心の矛盾が』解消された事になります。全ての障害が無くなったという事になります。今までは受け入れられなかったものを『恐怖』として感じていましたが、今度は受け入れる事が出来るようになると言う事です。全てを受け入れる事。『絶対肯定』出来た時に全ての苦しみから解放されます。人間の苦しみとは『受け入れられない事から、自我意識に湧き上がる妄想であった事』が分かるからです。

右脳の意識は『宗教』で出来ています。神も仏も存在しています。意識できない存在として、無意識の意識として『封印』された形で存在しています。意識の根底に降りて行き、意識かはたまた無意識か、或いは無か、という意識の根底に降りて、意識の無くなったところから、意識が芽生えるその一刹那、自我意識と無意識の意識が分かれようとする、正にその一刹那だけ、二つの意識が同居している瞬間が在ります。

それが『見性』です。自分自身を知ったと言う事になります。
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末梢神経の理性陽動作用(Diversion)も考慮に入れるべきです。



Wolf Singerによれば、脳内に物理的に意思の中心となる連衡野は、存在しないとされます。

しかし、
小脳・末梢神経・脳が、協働して意識を形成していると考えられます。

血流の中心を考えると、やはり感性中心も、存在しないことになりますが、

1心臓の発する熱(現象として情緒面で意識概念構成時の「どきどきする」ことと「思考の抑制」とのコンビネーション)経験的構成及び発達
2通常細胞比で脳のカロリー消費が細胞単位あたり5-10倍の熱消費を示すこと
=情報処理装置としての脳
3感情面で多くの非合理的反応(感覚受容・判断の体系)が形成されていること
4及び脊髄の抹消神経中枢が、意識さらには、条件反射に影響を与えること
5構成された慣習的反射連関(いわゆるとっさの判断)が、脳の作用を少なからず規定していると考えられるからです。

理性について、感受性をつかさどる部位・理性的論理的統合をつかさどる部位・記憶を再構成する部位というものは存在し、それらが、モジュールとして動的に結びついて仮想的に「意識の中心」と感じられる「能力としての潜在性」を統合しているということが出来ると思います。

いずれにしても波長および化学分泌物の動的観測が、なされています。全てがつながっており、各部位がそれぞれの役割を全うしながら綿密に結びついているとはいえます。不可分といってもよいでしょう。

光学感受表面は、(センサーとしての目を例外として)、生理学的に存在しない概念です。

心理学・脳医学・神経医学は、
物理学とまったく関係のない独立した学問であり、無知な物理学者が、口を挟める分野ではありません。口を挟みたがる方は、素人であるということもできます。

ファントム痛覚(たとえば、右手が切断されていて、存在しないのに、右の指が痛いという感覚があるという症状)という概念から考えると、

脳を含む肉体神経の部分的破損は、意思の統合性に強い影響を与えないと考えられますが、脳幹中央部を経由して、左右に物理的に伝達される情報の形跡を計測することが出来、特に「意識統合」という点からいうと、左右に分かれると意識が二つになるということは考えられません。(連衡という概念から、二分されると左脳右脳の協働が保証されない。)

実際、確かに脳に穴が開いていても生きて生けるのであって、脳に障害がある方は、唯一の自己意識を持っています。中央に穴があいていても、一人の人間の意識です。しかし、脳の機能が保持されるかどうか

という観点から考えると、脳の細胞が物理的に半分以上存在するというのが、常識的な想定だと思います。
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自我はその瞬間だけ存在して、次の瞬間には別の自我が生成されているのではないでしょうか。



つまり、脳が自我をつかさどっているのではなく、
脳が自我を生成していると考えると
脳が真っ二つになっても、両方に自我が存在していると言っても
矛盾はないと考えています。

本当はもう少し長い回答内容だったのですが、簡単にまとめさせていただきました。
最初に書いていた内容は参考URLに書きましたので、楽しんでいただければ幸いです。

参考URL:http://jikohatsu.seesaa.net/article/143704184.html
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そもそも、その物質としての「脳」も、心の中に形成された「宇宙」の部分に過ぎないと考えればどうでしょう?



あるいは、その「宇宙=空間的広がり」も、感受表面での量子相互作用に還元され、その作用パターンに対する予測として仮想されているに過ぎない、更にその「感受表面」そのものが仮想的空間に有限な広がりがあり、本質的な先験性を否定していると言えます。
(ここから先の説明は物理的になるので、私の過去回答をご参照下さい)
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現在も、脳科学者等が必死に研究していますが、心の在りかは、
分かっていません。
質問者の生きているうちに、解明されるかどうかも分かりません。
ただ、科学者の動向に注目することしかできないと思います。
(脳にないとの、答えが出るかもしれません・・・・)
 
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