性格悪い人が優勝

ドイツの哲学者ニーチェ(フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ)
Friedrich Wilhelm Nietzsche 1844/10/15-1900/8/25

は、お父さんが牧師であり、
田舎の保守的なクリスチャン家庭に生まれましたが、

彼が大学生時代、ダーヴィト・シュトラウスの著書
『イエスの生涯』を読んで、
信仰を放棄し、神学の勉強も辞めたそうです。

それは何故ですか?

その本の内容や、
またニーチェがその本からどのような感銘を受けたのかを、

あなたの意見や見解、知っている範囲などで、
正確でなくて構わないので教えていただけたら嬉しいです^^

A 回答 (2件)

wikiを読みますと



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%BC% …

『シュトラウスはこの著でキリスト教的な歴史主義を批判し、ヘーゲルの歴史哲学を発展させ、福音書の中における奇跡を否定し、これを「神話」として捉えてその史実性を否定し、また神人キリストをイエスという個人よってではなく、人類全体によって実現することによって、真のキリスト教のあり方を理解できると説いた。』

true。
私もそうとしか思えません。

キリスト教を起こした人は、ギリシャ市民権を持つヘブライ語を知らないディアスポラしたヘブライ人だったと思います。
そのヘブライ語がわからないユダヤ人たちのために、ギリシャ語で新約聖書は書かれた。

しかし、聖なる言葉(ヘブライ人が作り出した普遍の哲学)の内容を一字一句たりとも足しても引いても修正してもならないとなっていたため、ヘブライ語をギリシャ語に直訳することになった。

日本の慣用句に「へそが茶を沸かす」というものがあります。
これを英語に直訳した場合、意味が伝わらず、日本人は奇蹟が起こせる人間離れした者になってしまう。

このような現象が新約聖書にも起こったため、イエスが水の上を歩いた とか視覚障害者をチチンプイプイと魔法を唱えて見えるようにしてやった とか、歩けない身体障害者をあっというまに歩けるようにした とか そういう話に摩り替わってしまったわけです。
ヘブライ語の慣用句を知っていれば、奇蹟でもなんでもないとわかるが、知らない人達の手に渡り、ユダヤ人の哲学の内容が、摩訶不思議な奇蹟物語になってしまったわけです。



「それヘブライ語の慣用句でっせ、 目が見えないと表現されているが、ヘブライ人の社会ではそういう表現はケチって意味でっせ。視覚障害って意味じゃあない」と両方を話せる人がいて、指摘したかもしれませんが、人間って真実を言ったところで、「そうなんだ」となることはなく、聞いてくれないんです。

レムリア大陸などがいい例。
誤訳だと証明されたのに、まだ 「幻の大陸レムリアはどこにあったのか」という人達が多くいて、「それは誤訳です」って言ってもぜんぜん理解していないみたいで、「そうですかぁ で? レムリア大陸はどこにあったとあなたは思うんですか?」って聞き返してくる。

「だーーーかーーーらーーーー 私の話聞いてます? 理解できてます? 日本語読めます?」って大声で言いたくなる。

新約聖書は最初の土台から歪んでいたので、その土台の上に建築された西洋社会は歪みまくって ひどい状態になってしまったわけです。

その土台からして間違えているということにダーフィト・シュトラウスは気づいた。
ハーメルのホラ吹き男によってみんな崖に連れて行かれていると危惧して、「そのままついていけば一生を現実に無い幻の世界で過ごすことになる」って勇気を持って長年の誤りを告発したのだと思えます。

キリスト教はプラトンの思想ですので、一部の権威者が大多数の奴隷(信者)を支配し酷使し、奴隷たちがひーひー言って働いている間 権威者はのんびりサロンで談笑し、「我々に神のご加護があったからこそ こうして穏やかな午後を過ごせるんですよねぇ 信者たちにも早く神のご加護があればいいでうねぇ」とか言う社会ができたわけです。

信者は権威者の言うことを信じて、清貧であれば天国にいけると思っている。
完璧騙されて魔物たちに搾取され、たった一度だけの人生を奪われているということに気づけない。
無知は罪。自業自得。
しかし、それでも放っておかなかったんでしょうね。ダーフィト・シュトラウスもニーチェも。
蜘蛛の糸をたれたわけです。



ニーチェはアリストテレスっぽい思想。
そのような宗教を利用して、サロンでお茶をすすっている恐怖政治下の中でも、にっこり微笑みながら搾取しまくる魔物に魂まで奪われないですむ方法があると説いたわけです。

つまりダーフィト・シュトラウスがヨハネでニーチェが救世主。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!
私にとっては、かゆいところに手が届くようなご解答感謝です。
願わくは直接じっくりお話聴きたいところです。(笑)
さり気ない表現の中にも共感する点がいっぱいありましたので^^

お礼日時:2010/04/10 02:19

『ニーチェ事典』を見てみました。


【シュトラウス】の項目に、以下の記述がありました。

(p.264からの引用)
 「ニーチェは20歳の頃、精緻な文献学者として『イエスの生涯』を丹念に読み、イエス伝承の矛盾を暴くその聡明さ、比類なさに感動して、のちの言葉によれば「われわれ初のドイツの自由精神」を見た。ところが後年、1870-71年の普仏戦争の勝利に沸き、文化の面でもフランスに勝利したと歓呼するドイツ世論の現状に業を煮やした彼は、1873年に『反時代的考察』第1篇『ダーフィト・シュトラウス――信仰告白者と著作家」を出版して、『古い信仰と新しい信仰』がベスト・セラーになりシュトラウスを一級のドイツ精神として迎えるドイツ的教養を手厳しく叩いた。」

ニーチェは二十歳でボン大学に入学し、第一学期、神学部に籍を登録しますが、その学期が終わらないうちに神学を放棄し、専攻を古典文献学にしぼっています。『ニーチェ事典』その他、本を何冊か見てみたのですが、最終的に神学と袂を分かつ後押しをしたのが『イエスの生涯』だったかどうかはわかりません。わたしが見た限りではその記述はありませんでした。のちにショーペンハウアーの『意思と表象としての世界』との邂逅がかならず言及されていることを考えれば、質問者さんが参照された本の筆者の見方なのかもしれません。

ただ、早熟だったニーチェは十代の頃からいくつもの論文を書いていますが、その中にはすでに反キリスト者の萌芽が見られます。したがって、彼が古典文献学に進み、さらにキリスト教が生まれる以前の「神」に憧憬していくのは、ある意味で必然的であったといえるでしょう。

さて、シュトラウスの思想のポイントは#1 の方がリンクしてくださっているwikipedia にもあるように、「神学における超自然主義と合理主義の双方に反対し、新約聖書を神話として説明した」(『ニーチェ事典』)という箇所でしょう。

のちのニーチェは『反時代的考察』という戦闘的論文で、このシュトラウスをやり玉に挙げることになりますが、それは二十歳のとき、ニーチェが感動した実証的考察に関してでした。彼は歴史主義的学問の考証万能主義が、研究すればするほど過去を過去に封じ込めることになる、と批判したのです。彼の舌鋒の鋭さは、二十代の彼が、どれほど心酔し、強い影響を受けてきたかを、逆にうかがわせるものではないでしょうか。

以上、参考まで。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!
確かに見方は様々で、事実を一般的に書こうとすると、
なんだか誤解を生みかねない表現になっちゃったり、
知識がないまま読解力を駆使しても本質が読み取りづらい表現だったりしますが、
こういったご意見(見識)を求めていました。

貴重な学識をご提供いただき本当に感謝ですm(_ _)m
(自分ももっとこのような本を勉強しようと思います。)

お礼日時:2010/04/12 00:56

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