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同級生の立身出世から目を背けたいと思っている僕に、慰め・励ましの言葉をください。

先日、図書館で週刊誌をめくっていると、グラビアページである人物が紹介されていました。
その人物の氏名と顔にわずかに見覚えがあったのでよく思い出してみると、彼は中学一年生の時の同級生でした。
といってもおなじクラスであった、という以上の想い出はありません。中学校卒業後、私は公立の進学校、彼は(当時の偏差値では)最もランクの低い、中退者の多い私立高校へと進学しました。彼と学力を競っていた覚えはありませんが、卒業当時に彼を含めて同級生の進学先を眺めて、多少の優越感を感じたことは否定しません。

 その彼が週刊誌で紹介されていました。フランスのかの高名なグルメ本で高い評価を得たそうです。多くの人から評価され、マスコミにも登場し、東京にも進出し、有名人の顧客も多く、弟子、従業員も何人も使っているようです。まさに「一国一城の主」としてゆるぎない社会的地位と信頼を得ているようです。

 一方、私は名もない一市民として、地元でひっそりと生きております。

週刊誌を借りて帰って、家族や知人に
「この人、私の中学校時代の同級生なんだよ」
と紹介しようかと思いましたが
「へえー、この人は立派だね。同窓生の中でも出世頭だね。で、あなたはどうなの? この人以上に立身出世できるの?」
といわれたら返す言葉もないと思い、借りるのはやめました。もし、私が紹介しなくても誰かがこの雑誌を持ってきて
「この人、あなたの中学の同級生なんだってね。立派な人だね。中学生時代はどんな人だったの? 一度紹介してよ」
といわれたらどうしようかと思うと、「この記事をどうか見ないで欲しい、知らないで欲しい」とすら思います。


ある分野の頂点を極めた人のかつての同級生・同僚というのは私と同じような気持ちになるものでしょうか?
たとえばイチロー、松井の田舎の同級生と言うのは、イチロー、松井の活躍をどのような気持ちで見ているのでしょうか?
誇りと思うのでしょうか? 嫉妬でしょうか? イジケでしょうか? それとも無関心を装うのでしょうか?

同級生の立身出世から目を背けたいと思っている僕に、慰め・励ましの言葉をください。
それとも僕は嫉妬の塊で変人でしょうか?

A 回答 (3件)

殆ど記憶にも無かった人の事を、今さら元同級生だったと言うだけで、あれこれ思うものなのでしょうか?



何より、あなたにはあなたにしかできないことがあるはずです・・それは何でしょう。
彼は、それがたまたま世間的に認められただけの話です。

個性の違いと言っても良いでしょう。
その個性の違いをあれこれ言っても仕方ありません。

あなたはあなた、彼は彼・・それだけです。

私・・同級生に凄い人がいました。
頭・・私の方が少々・・
しかし、商売で成功しました、20才の時には自分の店を持って大々的に・・
いろんな人に比較されました。

しかし、それは無意味なのです、私はサラリーマンの道を選び、かれは商売の道を選んだのですから。
唯他人(私の家族も含めて)は面白おかしく話はしますが、まあ暇つぶし以上の何ものでも無かった様に思います。

また、長い年月の内には、成功が何時までも続くとも限りません。
ひっそりとが・・長い年月の間には、彼にも勝る事もあるのです。
人間は短期であれこれは言えないのです。
うん十年後はどうなっているのか分からない。
私の同級生のその後を見ていてそう思います。


彼を祝福してあげなさい。
それが、回り回って、あなたの為です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
地元から東京の彼に向けて、心の中で祝福の言葉を贈ることとします。

お礼日時:2010/05/05 19:52

私には有名人になった中学のクラスメートは居ませんが、地元では最難関の


進学校に行けたので、優越感などのお気持ちは分かります。

あなたが週刊誌を他人に見せたいと思うのは、「栄光浴(ハロー効果)」を
無意識的に願ってのことと思います。
要は「そんな凄い人がクラスメイトだった」ことで、自分も少し高く見られたい、
という感情ですね。

私の場合、高校時代に周囲のプレッシャーに潰されてしまい、精神的に加療が
必要な状態になって大学受験を見送った経緯があります。
高校時代の友人・知人の大半が旧帝大に合格し、一流企業で勤務する一方で
自分は名もない私大の心理学科を出たものの、病が悪化して就労不能な状態です。
(生活のため、障害者とならざるを得ませんでした)
嫉妬はしませんが、少なくとも人生は滅茶苦茶になってしまいました。

少なくともあなたは立派に社会生活を送っていますし、何より健康です。
私と違い、国民年金や健康保険・税金に負担をかける存在ではありません。
それではいけないのでしょうか?
それだからいけないのでしょうか?

彼は彼、あなたはあなたです。もし彼に近づきたいと思うのなら、転職なり
事業を興すなりする必要がありますが、それは同時に極めてリスキーなことは
お分かりと思います。

彼が(社会的に)成功できたのは、(努力出来る意味合いもある)才能と運が
あったからでしょう。
多くの彼と同じ学校に行った人は、そうはならなかった筈です。
「運が良かったんだなぁ」「そんな才能があるとは当時は考えられなかった」で
一笑にに伏せば良いと私は思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>一笑にに伏せば良いと私は思います。

そのぐらいの度量を持ちたいとおもいました。

お礼日時:2010/05/05 19:57

>誇りと思うのでしょうか? 嫉妬でしょうか? イジケでしょうか? それとも無関心を装うのでしょうか?


:その全てでしょう。
また、それが自然ですし健康的です。
そういったこと全ても含め、環境からの影響というものを、自らの可能性を否定しない方向に意志していくことが人としての醍醐味でもあるわけです。
どれか一点だけしか感じなかったり、あるいは、一点だけに拘るのは、それなりの生育環境に何らかの原因があるはずですが、しかし、そういった過去に現在の自己存在の理由を求めようとすることもまた、過去に囚われているという意味で、非常に勿体ない話である。
ということになるでしょう。
自らの可能性の芽を自ら潰してしまうほどの嫉妬であれば、それは意志の力で乗り越えるのが得策だ、ということですが、それ(嫉妬感)の存在自体は恥ずかしいことでもなんでもありません。
動物から(一応にせよ)進化した人というものの起源を想起すれば、たとえ如何なる負のエネルギーであっても、人は、それを昇華するだけの力を秘めているものと考えるのが科学的であるような気がします。
    
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
嫉妬は恥ずかしいことではないとわかりました。

お礼日時:2010/05/05 19:51

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