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社会科学は自然科学のように画期的な成果を出せないのでしょうか。
私は現在大学で社会科学を学んでいるのですが、どうも社会科学は自然科学に比べて画期的な発見が少ないように感じます。もちろん大学での日々の勉強は楽しいですし、いろいろ研究してみたいことも出てきてはいるのですが、どの研究も自然科学と比べてスケールが小さいと思うのです。教授の方々の研究分野を見てもこまごまとしたものですし、何か行き詰まりのようなものを感じてしまいます。
それに対して自然科学は壮大だなぁと感じずにはいれません。特に宇宙とか生命に関することは魅力的にさえ感じます。新たな発見などがあるとマスコミとかで盛んに取り上げられることも影響しているかもしれませんが。もちろん自然科学にもそのような多くの関心が持たれている分野ばかりでなく、基礎研究が存在していることも理解しています。
しかし社会科学がちっぽけなものに感じてしまうのも事実です。社会科学とは、こういった学問なのでしょうか?そもそも社会科学と自然科学を比べるのがいけないんでしょうか?
私は決して社会科学に批判的なわけではないということをご考慮いただき、回答していただきたいです。
よろしくお願いします。

A 回答 (5件)

勘というか思いつきなんですが



社会科学は結局のところ人間の行為に基づいた学問だから、じゃないでしょうか。

人間の歴史、当てになる記録が残っているのなんてせいぜい5000年くらいですよね。
このわずかな期間の人間の営為についての研究ですから宇宙の誕生以来137億年に渡る自然科学の研究範囲に比べてスケールが小さく感じられるのは仕方がないような気がします。

しかも、経済、法律、教育、習慣、宗教、道徳なんかもその時代や場所によって変化してしまいますから普遍的な研究結果というのは出にくいでしょうね。

という感じでいかがでしょうか。
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この回答へのお礼

なるほど!確かにそうですね。
人間の行為に基づく学問。納得です。
ありがとうございました。

お礼日時:2010/08/04 18:39

単純に、社会科学は実体がわかりにくいからってのが理由ではないでしょうか?



私の個人的な考えですが、(自然科学の勉強はしましたが、社会科学については素人なので間違っているかもしれませんが・・・)例えば経済のあり方とかは、理論を述べることはできますが、それを検証することが困難であるため、理屈の学問という性質が強いのではないではないかと思います。
自然科学は、理屈に従い、製品などを作ることができるというのが大きな違いだと思いますけど・・・。
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この回答へのお礼

確かに実態が分かりにくいですね。
そこが自然科学との大きな違いですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2010/08/04 18:42

自然科学だと、原子力爆弾で十数万レベルです、殺した数は。


社会科学ですと、カンボジアはこうあるべきだということで、100万人以上殺しています。
大躍進政策で2000万から5000万くらい殺しています。

共産主義革命という画期的な発明でどのくらい死んでいるかはちょっと計算しませんが。

殺した数で言えば、社会科学の方が壮大です。

マスコミの見栄えで言えば「ブツ」を出せる自然科学の方が出し易い。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2010/08/04 18:41

NHK大河ドラマ「竜馬伝」見ていますか?明治維新を実現する過程で、ほとんどの若者が死んでしまいます。

実際の明治時代を生きていくのは、生き残った人々です。
20世紀に、二つの世界大戦がありました。この戦争を通して、社会主義政権が誕生したり、アジア、アフリカ、ラテンアメリカに独立国が誕生します。1949年、社会主義中国が誕生しました。
社会科学を研究していたら、戦争になる情勢とか、戦争のゆくえ、戦後の情勢が、ほかの人より、よくわかると思います。
日本が、戦争に進んでいくとき、敗戦を予測できるのは、アメリカに留学したり、アメリカで、情報を収集していた軍人です。
社会科学を学んで、先がよめるようになっても、新しい時代になると、みんなが、その恩恵に浴するのです。
論語に、「君子は、先んじて憂え、後れて楽しむ」とあります。社会科学を学んだり、研究したり、実践する人々は、世の中の苦労を、人の何倍も背負うことになります。
昭和11年8月1日の「土曜日」巻頭言
星を越えて、人間の秩序は、その深さを加える
星が数字を知っている限り、人の世が誤差のみを辿ることはできない。
分秒を違えずに日食の時間が予めわかる事は、何でもない事の様だが、不思議なことではないか。別に人間の理論に天体が従ったわけではない。悠久の古えより、物質が辿る秩序を、人間がさぐりあてたのである。
誰にも命令を受けない物質が、自らの本源の力と力の組合いの中に、ゆれながら、ふるえながら、自らの位置を辿っているのである。そして、その地上に生きる者にまで判るほどの秩序が、そこに沈んでいるのである。
数千万年を土の中にうずもれている物質が、自ら自らの結晶の秩序を忘れないのはどうだ。顕微鏡の下に一分の謬りのすきをも見せないこの細かな感覚はどうだ。人間がダイヤモンドに驚異を感じたのは、今人々が見ている様な憎むべき感情のもとに於いてではない。強靭なこの秩序に対する畏れよりしてである。恥ずかしいのは人間である。
互いに組み合うべき秩序より、ひそかに脱落し辿るべきさながらの位置より、みじめにも遁走し、更に敢えて人々の友愛と智慧をかきみだし、人々の明日への希望を打ち砕いているのは誰であるか。外でもない、自分達自らである。
星を見れば恥じ、水を見れば恥じ、花を見れば恥じ、石を見れば恥じなければならない物が人間である。
しかし、重大なことが残っている。
星がいかに怜悧でも、結晶がどんなに巧緻でも、人間のこの激しい秩序への動揺は、知らないのではないかということである。
人間にとって、人間の中に棲む自然と秩序は老いている。若い人間がそのふるえている手を取らなくてはならない。手を貸さなくてはならない。
人間の尊厳とは星のそれではなく、花のそれでもなく凡ての謬りを機みとして、新しい真実の中に、自らを押し上げ、試み、切開いて行く行動の中にある。この重い動きと強靭な秩序への見透しの中に人間の厳かさがあるのである。
星を越えて、秩序はその深さを加える。
星が大きいとて、この闘いに比すれば愚直である。星が数字を知っているとて、この闘いに比すれば静謐である。人間の滅びることは、この闘い故に、悠久の徴しとなるのである。
憩いと想いはこの尊厳と悠久の帰り棲む場所である。              中井正一
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2010/08/04 18:40

社会科学がなくなったら、どうなるか考えてみればいい。


その疑問自体も社会科学の一つ。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2010/08/04 18:37

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