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思想としてのゴロツキやチンピラがのさばるのは ふつうにまともな人たちが 一般に 亜流の思想を追い求めているからではないか?

 ゴロツキ等は 経験合理性にもとづいてものごとの認識や判断をみちびくことをしないその状態を言います。
 亜流の思想というのは そのままでもありますが 特には クリスチアニズムという宗教となった思潮 あるいは そもそもブディズムは無神論としての信仰であるはずなのにこれをああたらこうたらいじくりまわしたその結果としての思潮を言います。
 前者は 非思考の場としての個人の信仰が 教義を信じるという矛盾をかかえた組織宗教となった場合であり あるいは単に道徳規範としてしまいこれを抱き続けるということに変身した場合を言います。教義は 思考するものであり 信じるものではありません。倫理規範も考えるものであり 信じるものではなく その実践ということもそれだけでは 信仰そのものとは関係ありません。(ほかの宗教でも 道徳を説きその実践を奨励します)。
 後者のブディズムについては ひとつだけその亜流の特徴を挙げれば。さとりが いま・ここなるわたしを離れたところにあると思っていることです。このへだたり・この時間差が 亜流であり チンピラの振る舞いと何ら変わらないと見なされることになります。少しづつだんだんさとりに近づくというのなら ゴロツキの成仏と変わらないということになるからです。

 ご見解ご批判をお寄せください。

A 回答 (26件中21~26件)

 必ずしも実利的ではない哲学の他に、ののしるともなりそうな表現をしなければならない哲学もありうることは、破落戸とチンピラの偉大さを垣間みせるものです。

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この回答へのお礼

 放っておけずにあふれ出る愛のことを 《ののしるともなりそうな表現をしなければならない哲学》と言うんですね?

 どうでしょう。
 ★ 必ずしも実利的ではない哲学の他に
 ☆ そのような哲学があるとかたくなに思っている――しかもそのことで死んでも無駄死ににはならないという意味でしかたがないとさえ思っている――バカ人間もいるんですねぇ。
 バカをバカと呼んでも仕方がないが その心は見誤らないように ね。

お礼日時:2010/08/08 10:58

 bragelonneさんへ



 確かに、仰せの言語でのクリスチアニズムも、将又、ブディズムも敢えて言わせてもらえば世の善男善女(私も実はそうですが)の信仰宗教となり終えたかのように見えます。でも私達大衆はたくさんの精華を生み育んできた肥沃な土壌です。前者も本来、理論と原理の道であり、後者も無論そういう自己自身が歩んでゆく道です。単なる拝みの神や信仰ではなり。その祭儀には一定の理論と原理があり、そのことを認識できなくなっている事は否めない。
ではbragelonne 大兄夫子はそのことをご認識か。多分そういう秘密教の次元のことを未だ読み解いてはおられないと、判断しますがいかがですか?

“経験合理性”はbragelonne 大兄夫子と夫子が選ばれた方々のみが具有するか。
私はどの意識もその“経験合理性”という存在性において存在し志向していると存じます。この“経験合理性”は無論共有的なものにはちがいなかろうが、外見的には多様な様相を呈しているので、大兄夫子にはあいつには“経験合理性”がないというご判断を誘っていると存じます。なおいえば、虎には虎の、百合には百合の“経験合理性”が来ていることをそのうち、ご経験されると存じます。仰せの“亜流の思想”が仮にあるとすれば、或いはその中の何かが大兄夫子の思想を“亜流の思想”だとおもっていないだろうか、その一つの現われが、大兄夫子のこの質問の“亜流思想”論でしょう。

 消化と吸収のプロセス、そして自己化とそのお返しのためにはどうしても、“ああたらこうたらいじくりまわ”すという見え方があり、その多様の中のどれもが、示唆的でインスパイヤしてくれます。人という存在は大兄夫子のようにはいっぺんに極地には行き着けないものです。
私達、しがない善男善女は所詮は“ああたらこうたらいじくりまわ”しているのですが、この肥沃な創造界がこれまで偉大な精華を輩出させてきている事はご存じのとおりではありませんか。市井に隠れる大聖がどんなにこの肥沃な土地から養分を受取っているか。どうかこの母なる大地母神を亜流とかチンピラとか、ごろつきとかという表現ではお考えなさらないように、心痛の中から切に訴えます。
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この回答へのお礼

 ★★ 神以外に存在がない。
 ☆ かくのごとく
 ★☆ 人という存在は大兄夫子のように〔は:削除〕いっぺんに極地に〔は:削除〕行き着け〔ない:→る に変える〕ものです。

お礼日時:2010/08/08 10:48

 bragelonneさん


 私はbragelonneさんの今回のことば遣いや見かたに批判をもちます。
 でも従来、私も同じような(多分貴方からみるとそんなのではないというでしょうが、)思考をもつことがありましたが、他人の言葉で自分の思考した結果をみることで、何かそれを出られそうに思います。

 特に例えば、“思想としてのゴロツキやチンピラがのさばる”というフレーズは余りに一方的ではないでしょうか?或いは不遜ともいえないでしょうか?或いはまた、自己の視点の狭隘性を示さないでしょうか?
 貴方から“亜流の思想”とみても、どの人のどの思いもその世界の中で決してそういうものではないのではないでしょうか?
 話は少しずれますが、私は進化論に欧米の人間存在に対する思いあがりなどを観ます。
 兎は兎として最高で、そこに最高存在が居なくてどうして兎でありうるでしょう。
 虎にしても虫たちにしても。
 それらがそれらとして追い求める。そういうものではないでしょうか。
 そうして外見的相対性で、この世界は続いてきているのではないでしょうか。

 bragelonneさんへの嫌がらせに類した回答を何度もみます。
 貴方の偉いところはそれを受けている事です。
 でもその嫌がらせとそれへの対応もそれぞれそこにあるものが存在していますね。
 仰せの亜流とかいう思想の存在性は、追い求めなくてもそれ自身で存在し、それ自身で変化し居なくなる。
 貴方も私も嫌がらせの人もやがていなくなる。

 信仰(いろんなレベルと位相がありますが、仰せの信仰)も、考える事も、意味はない。
 何の効果もない。無論信仰や思考はなければならないし、あるべきなのですが、それは主たるものでは全くない。
 貴方の、あなたのことばでの(解釈理解する限りでの)、その限りでのこの質問も、亜流であり、他の最高の思想とまったく変わらない。
 兎と亀、虎と牛、人間と神どこが違いますか?
 全部が神ですよね。神以外に存在がない。
 そういうふうにいっている私は、bragelonneさんを陰ながら時々見に参ります。
 
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この回答へのお礼

 ★ 神以外に存在がない。
 ☆ こう言っているのが かなしいかな 誰もがそうであるところのただの人間でしかないのに 大きい顔をし始めると ゴロツキになります。

お礼日時:2010/08/08 09:48

末法の世として、チンピラ・ゴロツキがあふれかえっているならば約束通りではないでしょうか。

釈迦が言わんとしたことは亜流があふれるということで間違いないと思います。

ところで、マザー・テレサは、人道的というありかたを厳しく否定されたように記憶しています。神の道を神の望みに従って神の言いつけどおりに歩く方でしたね。真摯なクリスチャンというのはいずれも大体そのようなものだろうとわたしは思っています。しかし、掟に支配されるのが人なのではなく霊に支配されるのが人なのだといわんとするあのパウロの文脈を思うと、現実問題としてクリスチャンて何を重視してんのかなあと甚だ怪しみます。一人の幸福や安息よりも聖書のことばが重要なのか? 一人の人間が和を尊しと身辺を見回すよりも聖書にある文字を追うことが重要なのか? そういう怪しみですね。

先日、難しい鬱を患っているクリスチャンの方の質問がありましてご一緒しましたね。それはそれとして、一般的に考えてああした場合にクリスチャンの言うべきことは、悪魔を通して試練する話や、主に助けを求めるかどうかを見る話や、悪魔の試練も霊の導きだという話に決まっております。耐えられない試練は課されないとも言います。
これらは、犯罪被害者や病人の根性を鼓舞するなかなか良い方便だとわたしは常々思っております。が、いかんせん基本がそこにあるとは思っていないものですから、試練だ導きなんだ、という聖書のことばが果たして大事か?という怪しみがあるのですね。
鬱のクリスチャンの方の場合に、家族にベランダの蕾が開いたねと言われても応じることができない、そういうところを家族にありがとうね、花にありがとうね、主に感謝します、と口にしていきましょうよと言うわけです。それで充分神の言いつけどおりでしょうと思い、マタイもルカもコリントにも囚われることのないように、と思います。
そんなわたしからすると、試練て書いてあるから試練と思えとか、助けを求めよと書いてあるから助けを求めよとか、試練も導きだと書いてあるから耐えよとかいう、こういう思考および実践はクリスチャニズムの本流なんですか亜流なんですかというのを伺っておかなくちゃな、という気持ちです。

(Q&Aで見解を述べまた見解を返礼として頂くのは、わたしにとっては「少ない数」であるほど好ましく、また、考察を要する重厚な議題は軽い話と違って対話式では負担にもなりますので、一回でてきとうにまとめて下さると嬉しい。。。)

この回答への補足

 余計な主題ですが わたし自身が絡んでいると思われるので ひとことです。

 あまがっぱさん ましゅさんには ひとこと〔あらためて〕わびたほうがいいと思いますよ。
 言い方が過ぎたものでした。

 なぜ蚊帳の外にいるはずのわたしが口をはさむのか。
 ちょとつくんと仲間だと言ったのはわたしだからです。
 その関係で あまがっぱさんは心にあることとしてよりも その外に現われたかたちにおいて拒絶し その仲間関係からは隔絶されているのだと明らかにしたかった。がために ヘンな言い過ぎになったんだと取ります。

 ちょとくんは いまのまま好きにさせるか それとも心を入れ替えて 互いに手をたずさえて協力する場合も出てくるかでしょうね。
 ましゅさんは 分かりません。わたしがとやかく言う立ち場ではありません。
 わたしが言えることは 主題を問い求めるときに互いに超党派で考えるということは大事だと気づいてからは もともとの・大道は無門を履行しようとは思っております。ただ いかんせん歳に似合わず血の気が多いもので 思ったとおりにことが運ぶとは限りません。ひとごとのようにこう弁明するほかありません。

 不一にて。

 * ましゅさんは よくもわるくも哲学としてはまだ原石です。(へへっ)。

補足日時:2010/08/10 09:55
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この回答へのお礼

 あまがっぱさん ときどきはおとづれてください。この質疑応答の場のためであり ひいては日本のためです。
 お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 いっぺんにまとめてみましょう。

 ゴータマ・ブッダがもしほんとうに末法を唱えたのだとしたら それは けっきょくただの言い訳だと考えます。無神論の徹底が足りなかったという意味です。ともかく時空間を自由自在に飛びまわっている自身の姿を語った時点で 無神論もへちまも亡くなってしまいます。
 さらに弥勒菩薩を持ち出してくるのは 人びとへの気休めです。
 ★ 悪魔を通して試練する話や、主に助けを求めるかどうかを見る話や、悪魔の試練も霊の導きだという話に決まっております。耐えられない試練は課されないとも言います。
 ☆ このたぐいの話を 末法を持ち出し歴史の過程としては中抜きで 同じように取り上げておいたというのみではないでしょうか。
 ですから 諸法無我なる無神論を徹底させるか それとも浄土系のように有神論に――これも 親鸞のように徹底して――切り替えるか どちらかではないでしょうか 亜流でない場合というのは。

 さて 是非とも
 ○ 文字は殺し 霊は生かす。
 ☆ を追究してみてください。人間が表象しうるあらゆるものごとが 《文字》です。比喩としてです。むろんおっしゃるように
 ★ 掟に支配されるのが人なのではなく霊に支配されるのが人なのだといわんとするあのパウロの文脈
 ☆ であるのですが ここには案外見落とされていることがあります。イエスの出現は――パウロの解説をとおして―― 戒律のモーセから信仰のアブラハムに戻ったという側面があることです。石の板に書かれた戒めによってではなく 胸の板に刻まれた聖霊 これがひとを生かす。ですね。

 では アブラハムの信仰に戻ったのなら その《聖霊に支配されるのが人なのだ》でおしまいか? それでは イエスの現われた意味はなくなります。
 ひとことで――この文脈で――言えば なるほど人はその自由意志が与えられているとは言うものの この自由意志もけっきょくすべて聖霊のはたらきを凌ぐことはできない。この認識〔にしか過ぎませんが〕には異論がないようです。
 この趣旨をめぐっては 人間の自由を擁護しようとしたが 聖霊の力には勝てなかったという意味のことをアウグスティヌスは書いていたと思います。そうなんですが それでもかれはさらに一歩すすみます。
 この聖霊は なるほどひとを隅々まで支配している。しかも人がこの聖霊に就くことによって かえって聖霊はひとを立てるのだと。人の自由意志を そこでこそ立てるのだと。
 ▼ 《愛するものは現在するであろう。欲するがままに生きることが真実となるであろう》
 ☆ という意味あいのことを言っています。

 たぶん 四の五のと付け足す必要はないと思います。
 出典が分かったら 補足欄にでも書きこみます。
 どうでしょう?

 * マザーテレサについてわたしは詳しく知ろうとしたことがありません。ひとこと それでも強引に言うとすれば かのじょは その生涯によって 神に栄光を帰したのか それとも・・・という問いがまだ残っています。つまり
 ★ 神の道を神の望みに従って神の言いつけどおりに歩く方でしたね。
 ☆ もまだ――なんといぢわるかとお思いになるでしょうが―― 《文字》の域を出ませんから。
 じんるいはこれから そういう聖霊の時代に入ると考えます。キリストのキの文字も出さない表現の時代です。それでこそ いろんな国のいろんな民主主義がそれぞれに栄えていくことと考えます。

お礼日時:2010/08/08 09:44

オコリザルです。


神秘主義的思考を果敢に論理に直す事もしている私ですが趣味的神秘主義には困ってます。
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 具体的にどういうものか分からずに言ってしまえば
 ★ 趣味的神秘主義
 ☆ は ただお遊びで刺身のつまにでも出して来ているのではないかとも思うのですが どうでしょう?
 刺身そのものとして出して来ているのでしょうか?

 一般に神秘主義は 分かるところをこちらからも解釈して 意味を確かめ合いながら 話をすすめるしかないように思いますよ。どうですか?

お礼日時:2010/08/08 00:38

 bragelonne さん、スルーしなければいけなかったのでしょうが、投稿させてくださいな。


 仰せのように信ずるというのでは、どうも二重的で嘘的ですね。
 でも考え、論理演繹するというのもそれだけではあまり何らかの結果をきたいしにくいのではないでしょうか?
 仰せのように、離れたところにあると思うことについては、むかしのシャンカラも笑止なことよとコメントしたということを聞いております。

 それにしても、投稿させていただいたことの本旨は、はbragelonne さんが「亜流の思想」、「思想としてのゴロツキやチンピラ」称してご批判されておられる事柄の一端でもうかがわせていただくとありがたいと存じましたので。
 私にはそういう表現での対象事例が思いつかないものでして。
 それっておまえのことだよ、といわれるかもしれないので恐る恐お訊ねします。
 応えてくれますか?それとも皆さんのご回答をお待ちしましょうか?
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