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哲学は人生の役に立てるもの?ただ考えるだけ考えて、終わり?


締切日:2010/10/02

A 回答 (11件中1~10件)

貴方の問いは、



理学は役に立てるもの?ただ考えるだけ考えて、終わり?

という問いと同列の問いだと思われます。理学に対するものとして工学と言う学問があります。工学の至上命令は、人間を取り巻く環境を良きに付け悪しきに付け改変して人間の役に立つようにすることです。それに対して、理学はただ単に我々を取り巻く自然界を理解すると言うのが至上命令で、それが何の役に立つかは全く問題にしていません。理学を科学に置き換え、工学を技術に置き換えても良いかも知れません。

ところが、世の中には理学や科学を勘違いして、それらが人の役に立つものを研究する学問であると思っている方も多いようです。しかし、その役割を峻別しているからこそ、わざわざ一方を理学と呼び、他方を工学と呼んでいるのです。

この区別を強調するために、人によっては「純粋科学」と「応用科学」と呼ぶこともあります。それに対応して、貴方の質問は

科学は役に立てるもの?ただ考えるだけ考えて、終わり?

と言う問いと同列と見て良いかも知れません。

また、数学や物理学では、それぞれ「純粋数学」と「応用数学」、あるいは「純粋物理学」と「応用物理学」と呼ぶこともあります。ただし、「純粋物理学」は誤解のない限り、単に「物理学」と呼ばれています。だから、貴方の問いは

数学は役に立てるもの?ただ考えるだけ考えて、終わり?

と同列と見て良いかも知れません。


このことからも判るように、哲学にも「純粋哲学」と、「応用哲学」あるいは「実践哲学」と呼ばれる二種類があることがお判りになると思います。

以上のように、「哲学」「科学」「数学」「物理学」等の言葉は、二つ以上の意味が一つの言葉で表現されているのです。このことを物理学の専門用語では「縮退している」と表現します。更に、言葉の持っている曖昧な多重性を認識して、「純粋」や「応用」などの形容詞を付けてその意味を峻別する行為を、物理学では「縮退を解く」と表現しています。
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 「お説教」は着色されていてイカサマ臭い、もっと正しいものが欲しい。

善くなくてもいいから真正面から物事を捉えたい。と、そういう願望をかなえてくれるのが哲学。
 いろんなお説教を聞いて、『なるほど、そうだ』と思っても、それぞれが個別であって、『じゃぁ、全体としてはどうなの?』『そんなに全部に注意を払うのは無理!』『ひとことでまとめて言ってよ!』ってなるじゃない。それが哲学。
 一言でまとめたからと言って、すべてが解決されるわけでもない。でも、まとめなければ行き当たりばったり。ある程度、法則性をおさえておいた方が物事に対処するには効果的。そこに、哲学の存在意義がある。
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「立つ」か「立てる」かが重要だな。



「立つ」か聞かれれば「そうとも限らない」と答えよう。
「立てる」かと聞かれているのであれば、換言すると「立つことが可能か」と聞かれれば、そこには意味上の主語である人間の努力の多寡に依存するものであるから、「立つことが可能だ」と答えよう。

人間も、豚もシラミも「ただ生きるだけ生きて、終わり」じゃよ。
違いは人間は考える、豚とかシラミはあまり考えてないのじゃないか?
そこが大きな違いだな。

したがって、君が豚やシラミよりも人間らしく「ただ生きるだけ生きて、終わろう」と願うならば、そこには考えるという営みが必要になるはずだよな。

必ず「終わり」は来る。
考えて生きた後に終わりがくることもあり、考える間も無く終わりがくることもある様じゃな、人生は。

まあ、哲学なんて名称に拘ることなく、なんでも考えてみなされ。
そうした先人達が沢山いることが分かる。
分かるためには自分でも豚やシラミと違った生き方をしてみる必要があるのじゃ。
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「役立てる」という場合の生きる目的が、“物質的な豊かさ”であるならば、認識を深める事は、間接的にしか寄与しないが、目的が“精神的な充足”ならば、認識の深まりはその量の直接の関数です。

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 こんにちは。



 哲学は 生きることであり 生活を人びとと共にいとなむことです。

 で むろん《人生の役に立てる》ことを志向します。とうぜんです。
 
 ただし哲学も 経験科学としては(経験合理性で判断しうる推論を基礎とする限りで) 《考えるだけ考えて その認識をもっておしまい》とするところがあります。

 言いかえると その思索によって得られた認識の体系としての世界観は けっきょくは人生の指針にするのですが それは 個々のひとに任せられている。というこれも 当然といえば当然の話になります。

 認識としての哲学を実践するそのあり方は 思想――つまり基礎としては生活態度――になります。
 逆に言えば 哲学を思想として人生の方法論に役立てるために 哲学は個々の思想のあらゆる可能性を――たとえ机上の理論にすぎないと言われても その思弁的なかたちにおいても――黙々と延々とその思索を積み重ねるという仕事をします。人間が考え得る思索という思索を永遠にこころみます。
 縁の下の力持ちです。

 でも こんなふうにああだこうだと言っていても つまらないという向きには 哲学にしても いろんな答えを用意してもいるようです。
 つまらないということについては:少々語弊がある言い方ですが 哲学がひとりの女さえ孕ませられないのは 初めっから分かっていることだと。
 つまらないと言っても とどのつまりに詰まると言えるのは:そこの石ころにさえわが思索の光を浴びせれば 熱を帯びて燃え始めるであろうと言いたい という答えを用意しているのだと。
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 哲学の範囲やことば内容にもよりますでしょうね。


 東洋の哲学は概して、人間の生きることなどが内容ともなりますでしょうから、一面宗教性や信仰性も伴いますね。
 西洋のもそういう面があるのでしょうし、そのことが根幹に流れているのかも知れませんね。

 でも、知の探求ということに、言葉通り限界させると、前のご回答にありますように一つの方法という事に為りますね。
 それはそのご回答が仰せのように、方法も結果も、使い方次第という事ですよね。
 
 知の探求を人間の本性とか、最高価値とすると知の探求たる哲学は諸学の女王ですから、何かに奉仕したり役立てるものではないということになりますね。
 人間の人間たることを果たすことだ、ということに為りますね。

 西洋の哲学が行ってきた、知の探求は今は殆どが所謂る科学の対象事項になり、所謂る西洋哲学は哲学学ってなってしまっているようですね。

 東洋の哲学は思想であり、知であり、生活であり、宇宙論の面があります。
 こういうことは宗教とオーヴァーラップしますね。
 じゃぁ西洋の宗教思想はどうか、これは殆どが東洋に根っこを持っていないでしょうか?

 西洋の哲学はおわった。そういう意味では結論は、役に立たない、ただ考えるだけだと思います。
 人間って一生懸命考えたり、勉強するとですね、ご経験があると思いますが、考えや観念がしっかりしてきて、信念みたいになるでしょう。
 そして自信と確信がでてきます。そういうのがない人、そんな人を見ると偉い人、と思うでしょう。
 しっかりしている人って思うでしょう。

 そういう考えや信念、確信ってどこまで正しいのでしょうね。
 私は人が考えるということにあまり頼り過ぎない方がいいと思うのですが?
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それを理念や信念として経営や開発に取り組んでいる人には根幹を成すものになりますが、論破するだけの人はそこまでの知識で終わり。

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哲学に限らず、学問それ単体はプラスの価値もマイナスの価値も有していません。


役立てられるかどうかは、人間側の手腕によります。所詮、道具です。「火」を例に
挙げましょう。巧く使えば料理の助けにもなるし、暖を取る事もできます。失敗すれば、
火事にもなります。

考えるだけで終わりならば、受験勉強なんてその最たる物です。
知識と知恵の区別を身につけましょう。
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 私は工学を学ぶ者ですが、哲学は考えて終わりというような陳腐な学問ではありません。


 xcioさんが人間関係など日々の暮らしで悩んだとき、それを解決する手助けになるのが哲学ではないでしょうか。
 思考する対象がないと、思考は生まれはせん。そもそも哲学はそこにあった対象(実在する物質なのかそれともある事柄、物事なのかは問いません)への好奇心から始まったものです。自分はどのように考え、そしてどう行動すべきか、それを明確にし、人生を豊かにするものが哲学だと思います。

 例えば、私が道路を歩いているとき、石か何かにつまずいて転んだとします。そして、なぜこんな結果になったのでしょうか。
 まず、それは神様が私に授けた試練(つまり神が道端に石をおいた)で、私はこの試練を乗り越えるために生まれてきたのだという一つの回答を考察します。
 けれど、私は神というものは科学的な論理でもって解明できる(実際に神はいないということは歴史的に明らかですが…)と考えているので、この回答は没になります。
 それならなぜつまずいてしまったのか。私は特に足腰が悪いだとかということはありません。なので、それはただ単に私の不注意だったということになるでしょう。
 そして、私は次からどうすればいいのかということに移りますが、それは私が歩いていた道が舗装されていないでこぼこ道なのか、舗装されていて平らな道なのか、地震によって隆起した直後の道路なのかなどによって出てくる答えは違うでしょう。

 ここで道路を人生と変えて、私が恋人にフラれて落ち込んでいるとします。なぜフラれたのかを考えるとき、それでも私は神の試練だとは考えないでしょう。私が恋人に対してどういうことをしたのか、フラれたときどういう社会的環境下に二人があったのかなどを総合的に考察して、私なら、次からはこういうことは言わないようにしよう、社会的困難があれば詳しい人に相談してみよう、などといった結論を出すと思います。

 実際の哲学書を手に取ってみると、非科学的でいかがわしいものもあるので、専門的に学ぶのでないなら本を読むことはあまりすすめません。けれど、思考を行動に結びつける(哲学する)たえまない努力で人生が豊かになることは明らかだと思います。
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木田元が『哲学は人生の役に立つか』という新書を書いていますよ。


この人は『現象学』をすばらしくわかりやすく普通の日本語で解説した、という紹介を丸谷才一『日本語ゴシップ論』でされているハイデガー研究でも著名な学者です。

『反哲学論』とあわせて読んでみると、得られるところがありそうに思います。
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