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現在「個性を重視する」教育が重要と言われています。個性を重視するってものすごく抽象的だと思うのです。しかも変化が激しい社会に対応するために、個性重視の教育が大切と言われています。なぜ、個性を重視した教育を受ければ、変化の激しい社会に対応できるのでしょうか?また、個性重視の教育って具体的にどんな教育なのでしょうか?この点、考えても、考えつかないので質問してみました。

A 回答 (4件)

個性的であることは良いことであると言われているけれども、本当のところは、良い個性、他人や社会にとって好ましい性質が良いとされるという当然のことが言われているに過ぎないのであって、個性的であるということは、平均的でないという意味の無色の価値しか有しない。

個性的であること=平均的でないことが褒めそやされていると誤解して、小滝橋のバス停で「東西線が参りまーす」と言うやつはいないだろうしめしめ、と思ってそれを実行したり、東西線のホームで駅員でもないのにそれをいうやつはいないだろうしめしめ、と思って「東西線中野行きが参りまーす。とか言ったりしてみたけど、ここはバス停じゃないからそれはいいいんだけど、実はぼくちんは駅員さんではないんだよーん」とか言ったり、「しめしめと思ったけど言わないよーん」とか言うやつはいないだろうしめしめ、と思ってそれを言ったりすると、わけがわからないから(わけがわかっても)、たちまち阿呆呼ばわりをされる。阿呆であると人からいわれるとき、それは人並みに阿呆であるという意味ではなく、平均的でなく阿呆であるという意味であるから、個性的なことではあるが、良いことではない。平均的でなく阿呆だということになると、もう、個性的であるとか没個性的であるとかの話にもならない。あいつは阿呆である、で終りである。
 個性的であることを良しとする風潮は、したがって、それ自体誤りである。学校教育においては、平均的にせよと教えるのが正しい。給食は、平均的な量を(給食費を余計に支払うのであれば別である)、定められた時間(正午ころと定められるのが通例である)から、平均的な時間をかけて(1時間程度が望ましい)、平均的な姿勢で(起立するか着席するのが望ましい)、平均的な方法で(箸は偶数本を片手で用いるのが望ましいし、箸でつまんだ給食は、級友の口でなく自分の口に入れるのが望ましい)摂らせるのを原則とするべきである。鼻から牛乳を出すといった平均的な悪戯は、平均的ではあるがたしなめてよい。「平均的な悪戯じゃんか」と口ごたえする児童・生徒があるときには、「鼻から牛乳を出すことは平均的な悪戯であるけれども、それを先生にたしなめられた子供が平均的がどうのこうのと口ごたえするというのは平均的でないでしょう」と諭すと良い。食事は平均的な会話をしながら摂られるのが望ましいから、給食時間には教員は児童らが平均的な会話を行うことができるよう、平均身長や平均生涯所得や株価加重平均などを平均的な声量で発するなどの配意をするべきである。その発声のタイミングは、まあ、適宜で良かろう。
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 今までの日本は、個性より協調性だったんです。



 日本独特のサラリーマン社会ができて
いましたから、教育を受けた国民の殆どは
工場労働者、事務職など集団で働き、
年をとるとその集団を管理する側にまわる。
いわゆる年功序列、終身雇用だったわけです。

 日本が貧しく、国民の給料、つまり人件費が
低いうちはこのやり方で安い製品を今の
中国のように世界に輸出し、経済がなり
立っていました。
 しかし、日本人の人件費が高くなり、
アジアの国々にそのお株を奪われた
今、さらなる経済成長をするには
工場労働者のような単純作業を
する人間より、生産性の高い
高度な技術を開発してくれるような
知的労働者が多く必要になったのです。

>なぜ、個性を重視した教育を受ければ、変化の激しい社会に対応できるのでしょうか?

 人間が一生のうち覚えられる知識が10個
だったとしましょう。みんなで同じような
もの作って、同じように生活して行くなら、
皆が同じ1から10の知識を持っていればいい。

 でもそれでは11番目の知識が必要に
なったとき、対応できない。

 だから、ある人は1から10の
知識。ある人は1から5と7から11番目の
知識・・・と言った具合に、ばらばらの範囲で
10個の知識を身に付けていれば、突然
新しい知識や経験が必要になったとき、
誰かが対応できるのです。

 人により、皆違った知識と経験を身に付けて
行くことを強力に押しし進める、これが
個性の教育です。

>個性重視の教育って具体的にどんな教育なのでしょうか?

 これを完全に覚えないと、卒業させない、
つまり上の学校への試験に合格させないと
いう締め付けを強くし、その量が多い
教育システムでを通った人たちの知識は
特定の内容に偏ります。上で言った
1から10までだけの知識しか持たない
人を大量に生み出すことになります。

 各個人が自分で自由にできる余裕を
増やすのです。選択の巾を広げるのです。
その1つの試みがゆとりの教育です。

 今ゆとりの教育は有名無実のものに
されようとしていますが、その
理由は、1から10番目の知識を
詰め込まれた上に、頭が固くなって
いる人たちが、人生には10個の知識が
必要なのに、ナゼ学校では1から5まで
しか教えないのか?というところに
文句を言っているからで、残りは
それぞれの親が子供に11から15でも、
21から25でも、別な5個の知識を
選択して教えるようにすべきなのに、
その努力を怠っているからです。
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これは個々のこども達の持つ、未来への可能性を伸張するためのヒントを与えるために、またその土台を作るために最近叫ばれていることだと思います。


そもそもいままでの教育は過去に生きてきた人間たちが長い時間をかけて体験・経験したきたことや、学習した成果や結果において、多くの人間に「良いもの」と認識された生き方や考え方を、現代に生を受けた子ども達に伝授することを基準として展開されてきたわけですが、この個性重視教育はその型にはめこますぎずに、こども達の別個の才能や能力を発見し、また個性を殺すことなく、その才能を伸ばしてあげることで、教育の本来あるべき姿勢をとらえていこうという考え方だと思います。
「個性の重視教育」は、例えばどこにでもいそうな普通のこどもでも、自分が社会にとって必要な人間であり、自分にしかできない仕事や役割が与えられ、その任務を果たすことに価値や生き甲斐を得ることができる、というように、自分自身が持って生まれた個性という能力を駆使することで、世に価値あるひとりの人間であることを自覚させるとともに、勇気と自信を持たせながら、子供達が生きる力を保持することができるように大人がサポートし、教育の実践をすることを意味していると思います。
私たち大人がこども達に対して、自分に自信を持つことができず、目標や夢を失ってしまいがちなこどもに育ててしまうことが、世の中におけるさまざまな犯罪などにおいての低年齢化が進む原因のひとつになってしまっているのかもしれませんね。
集団のひとつかみのナンバーワンの優秀な人間の存在を作り出すことよりも、すべてのこどもに可能性があると考えられる、いわばオンリーワンの人間作りが個性重視の教育と言えると思います。
ですが、すべてのこどもが個性を重視した教育を受けさえすれば、変化の激しい未来の社会に対応できる人間に育つということはないと思います。
あくまで子どもの持つ可能性の伸張が、この教育の定義であると思われるからです。
また本来、人が生きる力は、最終的には自分自身の努力で手に入れなければならないものだとも思いますね。
以上が私の考えです。
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変化の激しい社会への対応に関して



簡単に言うと、社会としてのリスクヘッジです。

30年後の社会が、現在と同じ価値基準の社会であれば、現在の社会基準に適合する子供に育てればOKです。しかし、どう転ぶか分からないなら、いろんな価値基準を持っていてもOKにしておけば、誰かが、30年後の価値基準に適合するんでないかい?って事です。

私の経験で言えば、25年前コンピュータ好きは単なる物好きで、学校の勉強では何ら評価されませんでした。他の教科で評価されるので、大学受験では何の足しにもなりませんでした。コンピュータがこんなに価値ある物になるなんて、考えていなかったためでしょうね。
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