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子供の学校や塾の資料で、「わかる」だけではダメで、「できる」ようにならないといけない…といったような内容を目にすることがあります。
今まで「わかる」ということの方が深くて重要だと思っていたので、違和感を感じます。「知っている」「わかる」「できる」の間にはどのような心理状態の違いがあるのでしょうか?

A 回答 (7件)

こんにちは。


これは思考過程の問題でありますから、内的な心理状態としての違いは特にないです。我々人間の知的行動は以下のように分類されます。
「学習行動:学習結果を基に、既知の結果を再現する」
「知能行動:学習結果を基に、未知の結果を発見する」
我々は考えたり、何かに対処するとき、この何れかのプロセスを用いています。従いまして、「分る」と「できる」は、心理学的にはそれぞれこれに対応することになると思います。
学習行動といいますのはAという情報からBという結果を学習したことにより、「A∴B」という答えを知っているということです。これに対しまして、そこに「A∴B´」といった未知の答えを見付け出すのが知能行動なのですが、このためには「A∴B」という体験を応用すると共に「B=B´」という新たな可能性を導き出さなければなりません。
このようなことはコンピューターにはできません。では、何故人間の脳にはそれができるのかというのはまだ解明されていませんので、ここでは「できる」と「分かる」に就いてその思考過程の違いを説明することはちょっとできないです。

次に、教育現場で用いられている「分る」と「できる」の違いはこちらに書いてあります。ざっと目を通してから続きをお読頂ければありがたいです。

http://www.genki-gakuen.gr.jp/science/4.html

では、果たして実際の教育現場には、できる子供にするためにはどのような指導をすれば良いのかというのをちゃんと知っている先生がどれだけいるでしょうか。
ここでは「分数の割り算」が例に挙げられています。分母と分子をひっくり返して掛け合わせれば答えは出せます。ですが、今は分かりませんが、私は学校のとき何故そうするのかは教えてもらっていません。では、中学へ進んで因数分解を習いますが、このとき教わるのは「タスキ掛け」です。これでは分母と分子をひっくり返すテクニックと全く同じです。因みにこれは良く耳にする話ですが、果たして先生に言われた通りに憶えてしまえばそれで済んだものを、何故ひっくり返すのか? どうしてタスキ掛けなのか? などと逆に考え込む生徒がそこで躓いてしまうのです。
原理が分れば更に高度な計算の習得が容易になるかも知れません。ですが、実際の教育現場ではそこまでやっていませんでした。では何故、分母と分子をひっくり返すのか、その理由をちゃんと説明したとしましても、それではまだ「分った」でしかない、つまり、それが応用できなければ次のステップに役立てることはできないわけです。そして、果たして現実にはその「応用とはどういうことか」、これを教えてくれる先生がいません。

これはたいへん難しいことだと思います。
新しい問題の解き方を習いますと、次はやや複雑な「応用問題」を解かせます。これは子供たちに応用力を身に付けさせるための指導要項です。もちろん先生方はそれを承知しているはずなのですが、これでは生徒はただより難しい問題の解き方を教えてもらったとしか思いません。
近年、入学試験でも応用力を試す問題が増えています。恐らく、一連の教育現場の動向もこの傾向に目を向けたものではないかと思います。ですが、仮にそれに対処するにしましても、応用の仕方を教えるだけでは応用力を養うことはできません。そのためには果たして「基礎と応用」、必ずやこの基本に立ち帰り、先生方が常にこれを意識し、生徒が自覚しながら積み重ねてゆかなければどうにもならないわけです。ところが、残念ながら現在の教育現場にそんな余裕は全くないです。

応用力の要求される課題を多く与えるという手段はあります。ですが、知能行動といいますのは学習行動を前提とするものですから、基礎が分らずに応用を試みても正しい結果は得られません。ならば、そこでわざわざ「分る」と「できる」のどちらが重要であるのかなど論ずる必要は全然ないと思います。
先生方が考える「できる」と「分かる」の違いはURLに書いてある通りです。ですが、果たしてそれが分ったところで何の役にも立ちません。まして、生徒や父兄にさえもきちんと説明をせずにそんな抽象的な浪花節を乱用してもらっては困ります。元より適切な指導指針も定まらないまま単にこれを「できる」「分かる」などと言葉のすり替えで済ましているようでは、これまでこのような問題を蔑ろにしてきたことに慌てふためいた、私には教育現場の理想論にしか聞こえないです。
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この回答へのお礼

詳しいご回答をありがとうございます。
リンク先の説明は、私がイメージしていた「わかる」「できる」と近かったのですんなり読めました。
でも、言葉にこだわっても意味が無いということですね。
分数の割り算の例で言えば、先生に教わった手順だけですぐ納得する子もいるでしょうし、自分で計算して正しい答えを繰り返し算出することで時間をかけて納得に至る子がいたり、逆数と割り算の関係から納得したり、自分の理屈を構築できるまで考え込む子もいるかもしれません。「わかる」の質は子供の個性によって、それぞれ違うのだろうと思いました。親としては子供が自分の理解のレベルを深く掘り下げるようになってほしいと思うのですが、だからといって一方的に理屈を教えてもダメなのでしょう。

お礼日時:2011/04/23 17:58

ご丁寧なお礼をいただきました。


またドアの水圧の件、偶然かもしれませんが痛く恥じ入ったしだいです。
見事なご回答で目が覚めました。これは私の完全ミスです。
パスカルの原理などで論理的には分かっているはずが、結局仰るように私自身”わかっては居なかった”という反面教師的な見本です。きっかけは私の計算ミスからきているのです(桁違い)が、いいわけにはなりません。とりさげておきます。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。
ドアの水圧の件(質問番号:6686888)では失礼いたしました。komaas88さんも回答されているとは全く気づきませんでした。私は仕事で水圧の計算をするので本来わかって当然なのですが、それでも自分で納得の行くように答えるには随分と時間がかかってしまいました。私の答えで質問者さんに納得いただけるのかどうかはまだわかりませんが、質問者さんの、自分で納得が行くまで疑問を持ち続ける姿勢には大変好感を持ちました。疑問を持たなければ始まりませんし、疑問に答えると答えた方の理解が深まります。これからも納得行くまで疑問を持ち続けたいし、そういう疑問を持つ方を大切にしたいと思います。

お礼日時:2011/04/27 22:42

NO。

4です。

仰ること、ご質問の趣旨がある程度分かったような気がいたしました。

>、「こいつめ、計算の手順は覚えているが、ぜんぜんわかっていない」と思ったことにあります。間違った場所を問いただすと、とんちんかんな理由が返ってきます。それでもテストではそれなりの点数を取りますが、ちょっと難しい問題になると応用が利きません。

これは普通に考えて”まだ分かっていない”部類でしょうね。これではちょっとしたひねりをくわえた応用は出来ないわけで、そういう意味では「分かる」が重要です。しかしこれも程度問題で、基礎教育での「わかる」は当然ながら限定的であり、フツウの人間は以後の人生で機会に応じて応用問題を数限りなくこなしていくことによって実生活で更に「分かる」を充実させていく、この往復によって更に「出来る」ようになっていくということでしょう。基礎教育での「わかる」がどの程度でよしとするかは微妙なところですが、質問者様はそのあたりで悩まれているのか、それとも傾向的により欲張ったことを夢想されておられるのかとも思ってみました。

>本人がわかっていてもできなければ外から見たときには何の意味も無いのかもしれません。それでもやっぱりわかっていることが重要で、わかっていれば「できる」は自然についてくる。自分自身はそういう考え方で今まで生きてきましたし

いずれにせよ質問者様の思いは正論だと思います。

>変な例えで飛躍があるかもしれませんが、「できる」を売り上げに例えれば、「わかる」は、顧客満足に当たるのではないかと思います。売り上げは計ることができますが、顧客満足は計れません。でも、企業理念が「顧客満足」だったりすろことは良くある話で、そうだとすれば目指すべきものは顧客満足で、その結果として売り上げは自然について来る。

それはそのとおりです。でも企業の本音はやはり売り上げにあるのであって、「顧客満足」を本気で第一義に挙げれば、事業がなりたたないことを彼らは知っているはずです。

私見ですが、公的な義務教育では生徒全員に「分かる」を満足できる程度に徹底させようとするのは不可能でしょう。限定された原資での事業ではコスト対効果は常に留意すべきだと私は思います。私立学校が利益無視でする分にはこの限りではないでしょうけれど。

今の公教育の現状と傾向でいいといっているわけではありません。貴方の満足できる状況でないことは私も想像できます。貴方の信念は正しいと思います。
言わずもがなのことを言ってしまいました。
ご健闘をお祈りいたします。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
学校教育のあり方や、一生懸命に働いている先生方を批判しようとか、そういった意図は無くて、ただ自分の子供や自分と関わる会社の若い人たちには納得行くまでわかることを大切にしてほしい、そのために自分にできることをしたい、そう思います。
もちろん社会生活の為には結果を出すことが重要でしょうが、少なくともわかるようになれば結果にはプラスに働くはずです。少しくらい成果が減ったとしても、わかることを重視したいという人間がいても良いのではないかと思います。
私もそうなのですが、ここの教えて!…には、すぐに役立つ答えを欲している人たち以外に、「わかる」ことを目指して来ている人も結構多いのではないでしょうか。
ごく最近私の関わった質問にこんな例がありました。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6686888.html
(教えて!goo >学問&教育 >物理学 >水圧と奥行きの関係)
自分の子供にも、この質問者の方のような姿勢で勉強に望んで欲しい、そう願っています。

お礼日時:2011/04/27 00:36

「知っている」「わかる」「できる」の違い



結構難しいですね。知情意というじゃないですか。知識、感情、意志と言う区分とかなり似通っているように感じます。

自分の理解というか感覚は、最も基礎にあるのは感情で、その上に知識があり、その上に意志があるというものです。

理解するための基礎としては対象との一体感のようなものが必要で、その上で、理解ができ、理解できているから、それに対して操作というか働きかけができるのだと言うことです。

現実の学びの現場、つまり学校現場では、最初の情の部分を抜かしてしまい、知識と意志を交互に並べているようにも思えます。

つまり、学校現場では、基本的なことを教えるために、その基本については感情という側面を無視して、「できる」ことによって「分かっている」ということを確認するという手順を取っているのでしょう。

学校はあくまで集団としての教育現場ですから、基本的生活習慣の習得が最も重視されるのです。つまり、他人との関係でどううまく折り合いをつけるかが最も重要なことなのです。基本的生活習慣とは、物を片付ける、清潔にする、他人と調子を合わせると言うようなことであり、その基礎にあるのは哲学的なことではなくて、生活技術的なことです。

その意味で、「できる」ということの重視が学校では行われるのでしょう。

学校現場は常に評価をすることが必要とされ、「できる」という要素を入れないと評価できないのです。

ともかく、自分としては、感覚が基礎にあり、その上に外界に対する働きかけとか外界に対する理解というものが成立すると構造があると感じています。もっとも、心理学でいう行動療法というものが仮定しているように、行動をすることによって感覚そのものを作っていくこともできるのでしょう。

結局、人間というか生き物は既に意識を持って存在しているものですから、知情意という三者はすでに一体となって既にあるわけです。外部から人間に働きかけるとき、そのどれに対して働き掛けるのが最も簡単かという議論が教育というものになっているのだと理解してもいいかもしれません。

個人としての成長という側面から見たら、人生の目的は金儲けなのか、それとも、人に尽くすことなのか、と言うことでしょうね。

know と believe の違い、ということでも同様の議論ができるかもしれません。

I know it. と言ったほうが、I believe it. よりも、説得力が強いと言うことです。日本語では逆のような気もしますが、どうでしょうか?

この回答への補足

ありがとうございます。
「対象との一体感」という言葉、とても気に入りました。「わかる」を説明するのはとても難しいのですが、「一体感」は「わかる」の神髄に近いと思いました。I know it. とI believe it. は責任の所在が違いますよね。仮に「教えてもらった通りにできる」状態が破綻してしまうと、自分だけで解決することがきませんが、「わかる」状態になっていれば自分の責任で解決にあたることができます。「わかる」という言葉には自分が責任を持てるという意味もあるのかもしれません。

補足日時:2011/04/27 00:02
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
すみません。先ほどお礼のつもりで誤って補足の方に書き込んでしまいました。ご容赦ください。

お礼日時:2011/04/27 00:04

まったく見当違いかもしれませんが、質問者様の内容を読んで、私なりに感じたことを書かせていただきます。


私には特に義務教育から実社会へのラインに乗っている殆どの人間の知育においては「知っている」<「わかる」<「できる」の順で重要度が増すように思います。つまり、ある知見を
知識として知る→その重要度と最小限の意味を理解する→実際に応用できる

これだけで社会人はその知見を自身の生活や社会活動に完璧に生かすことが出来ます。たとえば、地理で

東京という町の存在を知る→東京がどんな都会で、自分に取ってどんな意味がある場所かが分かる→東京へ行くことができるようになる。 あるいは数学で

円という幾何形を知る→円の意味を知る→円の外径から円周や面積を計算できる、などでしょう

そういった意味なら
>子供の学校や塾の資料で、「わかる」だけではダメで、「できる」ようにならないといけない

は、至極当然のことだといえると思います。

質問者様がなぜ「できる」<「わかる」と考えておられたのか、そのあたりの理由をお聞きしたいと思っていたのですが、私なりに考えてみますと、ひとつのことを学問的により深くつきつめていくと、たしかに「出来る」よりも「わかる」の方へ向かっていくだろうということがはっきりしてきます。大学での研究者たちはみな「分かろう、」ということに懸命になっていることが多いです。そちらの方がより面白いし、深い場合が多いからです。より深く「わかる」ことができれば、もちろんその知見を応用して”よりよくできる”ことになるのでしょうが、それは現在の基礎教育とはまた違った問題になりそうです。

いらぬことをるる述べたかもしれません。
失礼い足しました。



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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
この質問のきっかけの一つは、自分の子供の勉強の様子を見ていて、「こいつめ、計算の手順は覚えているが、ぜんぜんわかっていない」と思ったことにあります。間違った場所を問いただすと、とんちんかんな理由が返ってきます。それでもテストではそれなりの点数を取りますが、ちょっと難しい問題になると応用が利きません。このままではまずい、なんとかしなければ、と思いました。
ご指摘の通り、アウトプットに直結するのは「できる」でしょう。本人がわかっていてもできなければ外から見たときには何の意味も無いのかもしれません。それでもやっぱりわかっていることが重要で、わかっていれば「できる」は自然についてくる。自分自身はそういう考え方で今まで生きてきましたし、実は他のみんなもそう思っているのだろうと、今まで勝手に思っていました。ここで質問させていただいて、そういうわけでも無さそうだということがわかりました。でも、だからと言って、自分の考え方を改めよう、という訳でもないわけですが。変な例えで飛躍があるかもしれませんが、「できる」を売り上げに例えれば、「わかる」は、顧客満足に当たるのではないかと思います。売り上げは計ることができますが、顧客満足は計れません。でも、企業理念が「顧客満足」だったりすろことは良くある話で、そうだとすれば目指すべきものは顧客満足で、その結果として売り上げは自然について来る。そんな風に思っています。

お礼日時:2011/04/26 01:14

「わかる」と「できる」の違いは説明しやすいと思います。


例えば答えが「解って」いても、それを解くことが「できる」かどうかの違いではないでしょうか。
例えば:円の面積は(πr2)と頭の中では「解っていても」、問題を前にしたときに実際に解くことが「できる」とは限りません。また、ではなぜ円の面積が(πr2)なのか説明「できる」とも限りません。

全く別の例ですが、5km全力で走ったら疲れるということは、誰しも頭では「解っている」ことかも知れません。しかし実際に5km走ることが「できる」かどうかは別問題です。

「わかっている」ということは、何かを受動的に理解しているということのように思えます。一方「できる」ということは、能動的にその問題を解き明かすことのできる能力を指しているように思います。

さて、では「知っている」という言葉にはどのようなニュアンスがあるのでしょう。個人的には「わかっている」とほぼ同様の意味を持っていると思います。ただ「わかっている」よりも一線越えて、解き方も知っているという解釈もあろうかと思います。そう考えると「知っている」は、「わかる」と「できる」との間に位置づけられるのかも知れませんね。
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この回答へのお礼

No.1、No.2のお二人からいただいた回答を何度か読み返して考えてみました。
「できる」というのは行動して何か目に見える成果を出すことを意味するようです。
その為、「できる」かどうかを他人が評価するのは簡単です。
これに対して「わかる」「知っている」はその人の内部状態なので、他人が評価しようとすると、「わかりましたか?」「はい」という形で聞くか、「できる」かどうかをテストして代用するかの何れかになりそうです。結局自分だけわかっているつもりでも「できる」という形で成果に結びつけないと役に立たない…ということなのかもしれないと思いました。

ありがとうございました。考えが少し進みました。

お礼日時:2011/04/22 16:52

■知っている


意味合いが広い言葉です。知識として知っている、経験として知っている、というように、時には知識があることを表し、時には経験があることを表す、と言う感じです。
この言葉だけで、その人がどの程度のところまで習熟しているのかを計る事は出来ません。

■わかる
聞けば分かる、見れば分かる、行けば分かる、という感じで、説明できるほど詳しくは知らないけれど、何かの切っ掛けなり端緒なりを得る事が出来ればそれを元に『理解できる』、或いは『行動出来る』、ということを表している言葉だと思います。

■出来る
そのことを説明する知識があるとともに、それに基づいて行動出来る、ということを表す言葉だと思います。出来る、というからには何某かの行動が伴うことに付いての表現なります。行為が伴わないものであれば、最初の『知っている』という言葉が適切になると思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
頂いた回答を見て、自分がどう思っていたのか振り返ってみました。
私は手順に従って行動できるレベルを「できる」、その手順の意味を納得しているレベルを「わかる」と考えてたのだと思います。私の考えが普通の解釈と違っていたのかもしれません。

お礼日時:2011/04/22 12:54

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