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生き物を殺しては食らい
盗むが如くしては利益を得る
してはならない浮気を繰り返し
心にもない嘘を平気でつく

どこまで許されるでしょうか?

A 回答 (14件中1~10件)

>死ねば何もなくなる、という不確かで単純な解釈です。



 死というものが ある状態からある状態への変化に過ぎないものであると考えれば、その契機をもってして恵みとなる、と考える人も居るでしょう。

 また、死というもので すべてがなくなると考えても、死は罰としての恵みであると考えることも出来ます。



 ところで、その「悪魔」なるものが存在するとして、その「悪魔」はなぜそのような考えを持つようになったのでしょうね。何かわからないから「悪魔」と言っているのだと思いますが。

 どうも人情屋さんのようですね。

この回答への補足

とうとう「業」の話を持ち出してしまいました。
半ば聞き出されてしまったようにも思いますが・・・
段々と真実に迫ってはくるのだが、会話としては味気無い感じになってきてしまうといった感じもします・・・

質問を締め切る前に、あと少し付け足しておきます。
ご参考になさってください。

過去の業の総決算として、新しい命の誕生があり、この世に生れてくる
そして、生きながら業を積み重ね、いつしか死を迎える
死後も業は無くならず、業により転生する
そしてまた、老死が来世の二果となる

これは釈迦が悟ったといわれる輪廻転生の実相であり、十二因縁といわれているものです。
業より見れば、生死は通過点に過ぎないもののようです。
人は業を背負っては生まれ、業を背負ってはあの世に旅立つのです。
死後の業の存在は霊魂の存在とは違うようです。
霊魂論は業論から見れば、狭い範囲内の事を指し、真実ではないとされています。
(詳しくは唯識論を参考)

救いようのない重罪悪業の人間でも、このような業の考えに基づいて救済できるとされています。
二生、三生を経てでも仏の智慧による方便をもって救うとされています。

業というものは、肉体的、精神的なDNAのようなものかもしれません。
また、業から見れば、人間の全てだとも言えそうです。
自分とは人間という業である・・・という言い方もできそうです。

罪をどこまで許すか? というのは人間の悪業はどこまで許されるのか、という事でもありますね。
それは同時に、人は人の業をどこまで知りうるのか? という問いかけでもあるように思えます。
また、それらの判断の基準とされる人間の知性の深さも問われる事だと思われます。

罪を問うことは、業を問う事になります。
それは法律があるとはいえ、最終的には個人に課せられた事なのでしょう。
仏の智慧によるもの、と言ってしまいますと、また味気ない感じになってしまうと思われますので・・・

それではこのあたりで質問を締め切らせていただきます。
皆様に沢山のお答を寄せていただき誠にありがとうございました。
この場をお借りしてお礼申し上げます。

補足日時:2011/05/08 22:42
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この回答へのお礼

>また、死というもので すべてがなくなると考えても、死は罰としての恵みであると考えることも出来ます。

死をもってすべてがなくなる、という考えには疑問がありますね。
逆に、生まれるという事をもってすべてが生じるのでしょうか?
体験や行為の積み重ねが「業」であり、その「業」がさらなる「業」を生むものであるようです。
死によって「業」のすべてが一度に消滅するとは、私にはどうしても思えないのです。
悪魔は良心の葛藤的存在というような単純な見方もできますが、実際には「業」の発現と見る事もできます。
そう考えると、一番恐ろしいのは悪魔というよりも、自らが背負っている「業」なのでしょう。
罪を生む「業」をどこまで客観視できるかが、その悪魔をどこまで許せるのか、という事にもなるのでしょう。
また、新たな行為を半ば決定づけている「業」の勢力が、死によってすべてが消滅するという事もないように思われます。
唯識では、死後の「業」の無形の勢力を認めていますが、この事が一般的に理解できないからといって、否定する事はできないと思われます。
「業」が「業」を生む狭間においての、「心の業」の一部が悪魔なのでしょう。

以上が人情屋さんの解釈です。
名付けてくださってありがとうございました。

お礼日時:2011/05/06 15:30

何度もすいません。



前回<一個人ではない、共業ともいえる悪には、確かに明るさを見い出す事はできないようです。>の返信に反応しました。

国家の責任か、個人の責任か。
先の大戦は国民による採決で行われたわけではないですよね。
国の方針で行われたわけで、アジアの一部の国は天皇や政府に対して責任を取れと言っている。
が、その国に住む国民にも非難が向いているわけです。

国民は政府の強制で派兵されたわけで、拒否したら逮捕されていた。
ただ、歴史に詳しくないからわかりませんが、満州国に移住した日本人は強制的に連れていかれた捕虜ではなく、自由意志で日本より満州で暮らした方がいいと思って渡ったのだと思います。

その田舎町?で商業をして、日本政府の投資にのっかって家業を営んでいたようです。

ロシアは不凍港を求め南下してきて、中国と朝鮮半島までやってきた。
朝鮮半島も勢力下になると、日本は目と鼻の先、今度は日本がロシアの支配下になりかねない。
そこで国を守るために、大国ロシアに死に物狂いで挑み、どの国も助けてくれなかったが、シフは日本国債を買ってくれたので、戦争費用ができて戦ってあの大国ロシアを破って朝鮮半島と中国からロシアを撤退させたんだったと思います。

そして再びロシアが南下して日本を脅かさないように、もっとしっかり自分たちを守ってと、満州国を作り「こっから先は降りてくるなよ」ってやったんだったと思います。

ヨーロッパの国に鬼畜のアジアが逆らうとは、、、となり、いろいろあって、結局日本を潰さないとアジアをずっと白人社会が奴隷として支配していけないとなり、日本をはめた。

日本を世界でイラクのように経済封鎖などをして兵糧攻めにし、日本は生きるか死ぬかとなり、計画通り日本はこのままではつぶれるとなり、アメリカに牙をむいて真珠湾を攻撃することにしたんだったと思います。



身を壊してまでアジアを守ったのに、東大の「これからの正義の話をしよう」では、「現代の日本人はアジア諸国に謝罪し賠償すべきか」と聞かれた。

東京裁判は茶番で人類の恥とマッカーサーは言った。

東大の講義も茶番で、西洋の無知による恥。



>人の罪をいくら斬ったとて、自分が救われるわけではなく
>罪の苦しみの解決が見いだせなければ、自分も救われないのでしょう。

無知は罪。

だからソクラテスはほうけてないで、もっと自分のやることを吟味しろと提唱したわけですよね。

現代の日本人はよくわからないが、どうやら過去にアジアの人々を苦しめたらしいと思い、ごめんなさい と思っている。
自分たちの祖先を誇りに思っておらず軽蔑している。
祖先を不当に軽蔑している原因は無知。


それぞれの正義という言葉がある。
見方によって片方が正義なことも片方から見ると悪になるというもの。

どっちから見ても正義なのは、アジア諸国はヨーロッパからみると、その当時は野蛮で文化レベルが低い民族で、家畜のようにヨーロッパが飼育して活用してもいいという考えに対して、アジア人は「ヨーロッパ人もアジア人も同じ同等の人間だと示そうとしたこと」

これは正義ではないのでしょうか。

東京裁判で、上司の命令でやった人が軍事裁判にかけられ処刑されていった。
理由を一切裁判では聞こうとしなかった。
だから、マッカーサーはこれは裁判ではなく集団リンチだ と述べた。

暴力ですよね。

時には暴力を阻止することができず、殺されてしまうこともある。
そのとき、上司の命令に従っただけなのに、と言っても浮かばれない。

<自分のやった労苦の満足>して処刑台の露と消えるのが、満足のいく生き方なのかもしれないと思いました。

正義が何かわからないものができる唯一のことは、自分の労苦に満足することではないでしょうか。
ただし、上司の言うことが信じられなかったら、自分のやった労苦の満足することは決してない。
無理強いされやらされた被害者として処刑台にのぼることになる。
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この回答へのお礼

重いですね。
共業という個人ではどうにもならない悪と、それに翻弄されて苦しむ人々・・・
本題を離れて、私も少し話してみましょう。

私の親戚の人で、夫婦で満州に渡った人がいました。
いわゆる開拓の民です。
新天地に夢を求めて一生懸命働いていたようです。
旦那さんは現地で軍に招集され、奥さんは一人で暮らしていました。(子供がいたかどうかは聞けませんでした)
終戦となった直後にロシアの兵隊が南下してきて、命からがら逃げたそうです。
でも、逃げ切れなかった。
逃げ切れずに、現地の中国の人にかくまってもらった。
そして、その中国人と一緒になり夫婦となったのです。
旦那さんは、奥さんの消息も分からず、終戦になったために引上げ船で日本へ帰ってきてしまいました。
そして、新たに家庭を築いて暮らしていたようです。

田中角栄の頃に、日中国交回復となり、やっとその人の消息が分かって、手紙のやり取りができるようになりました。
中国から送られてくる手紙は、粗末な藁半紙に鉛筆だけで書かれたものでした。
しかし、その漢字の書体は素晴らしいものだったそうです。
その人と中国人の間に生まれた子供が書いたもので、日本の親戚からの仕送りへのお礼が多かったそうです。
一般の人には全く読めないので、大学の講師の方に毎回解読してもらっていたようです。
少しずつ中国で暮らしている様子が分かってきたそうです。
その内に、中国残留孤児の日本への訪問が始まり、手紙でやり取りをして日本へ本人が来る事になった。
親戚の人は、さぞかし粗末な人民服の姿だろうと思い、沢山の衣類なんかを用意して出迎えにいったそうです。
場所は広島の呉港でした。
船は客船ではなく、岩塩を運ぶ貨物船でした。
本人が日本を離れて、長い年月が経っていてたので、故郷の様子や都会の様子が変わってしまった事などを、驚かないように話して聞かせたそうです。
ところが、本人にしてみれば、日本に帰ってくる前の約一ヵ月間の間に、北京や上海などの中国の主な都会や観光地をバスで回って旅行してきたというのです.
日本の現在の状況も聞かされたそうです。
それらは、中国の方で取り持ってくれた事でした。
また、その代わりに、中国国内の悪い事は言わないように口止めされてきたようでもありました。
日本へ来てから、親戚の家を回ってきた時に私も会いました。
五十台半ばでしたが、白髪一本なく若く見えました。
大切なお客さんが来るという事で、沢山の美味しい料理を用意したのですが
本人が食べたのは、かつ丼だけでした。
中国では、こんな料理は見た事もない、とても沢山食べる気にもなれないと言うのです。
無理に勧めるのも悪いと思い、好きなように食べていただきました。
中国での暮らしの事をいろいろと聞きました。
その中でも印象に残っているのは
見渡す限りの小麦畑が実って、黄金色になった景色は見事だという話でした。
北京からはかなり内陸の方にいったところだと聞かされました。
朝は夜明けと共に起きて、人民公社の畑で働き、夕方暗くなっては家に帰るという暮らしです。
井戸水が頼りで、それも早く汲まないと濁ってしまうので、旦那さんが汲みにいくのだそうです。
子供は二人いて、上の子が優秀なので高校にできれば行かせたいという事でした。
日本に来る時には、子供達が、もう帰ってこないのだろうかと心配したそうです。
親戚の人達も、中国には行かず、このまま日本で暮らしてもいいのでは、と勧めたそうですが
向こうに子供達がいるから帰ると言いました。
日本からの仕送りのお金は、大きな額ではなかつたのですが、中国では大変な額だったようです。
お陰で生活が大変良くなった、とも言っていました。
そうして、中国へ再び帰って行ったのです。

この女の人が日本に来る事を、前の旦那さんが知っていたかどうかは分かりません。
しかし、何らかの情報はあったかもしれません。
本人も周囲の人達も、いろいろな思いがあったようです。
戦争は人を不幸にします。
いっそ、死んでしまった方がよかったのではないか、と思うぐらいです。
それでも、中国でつつましく幸せに暮らしている事を思えば、これで良かったのかもしれない、などとも思うのです。
大分前に、その人が亡くなった事を知りました。
法要についても、こちらからの援助があったようです。

拙い昔話です。
でもノンフィクションです。
戦争という暗いノンフィクションの一部です。
「過ちは犯しませぬから・・・」という言葉が聞こえてくるようです。

お礼日時:2011/05/02 22:28

人間には死の恵みがあります。

この回答への補足

悪魔のささやきを聞いてみましょう。

(不殺生)
この罪は人や料理人に被っていただいて、毎日おいしくいただきましょう・・・

(不偸盗)
妥当な利益という建前を押し通せば、誰にも分からないではないか・・・

(不邪淫)
胸のときめきを抑えるのはしてはいけない事だ、人生は二度とないのだから・・・

(不妄語)
本当の事は言わないでおこう、その方が幸せだ、方便という事もあるし・・・

良心を脅かす悪魔を、どこまで許しますか?

補足日時:2011/05/02 20:40
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この回答へのお礼

悪魔のささやきです。
死をもって罪の帳消しになるとか、救われるとかは無いのです。
生きている側の方から罪を問えないというだけで、罪そのものが消える事は無いのです。
悪業という因が、他者の苦しみという果を招き、さらにその報いとして自らの苦を生じる、という因果応報の理に変わりはないと思います。

>人間には死の恵みがあります。
無宗教の時代らしき言葉のように思えます。
死ねば何もなくなる、という不確かで単純な解釈です。
罪人もろとも、その罪さえも無くなると仰りたいのでしょう。
死によって罪が帳消しになるでしょうか?
私はそうは思いませんし、そう甘くはないとも思います。
罪の帳消しとは、こんな感じではないですか?

重罪悪業そのままに
念仏衆生摂取不捨
如来大悲にかしずきて
懺悔滅罪の一心
(一見阿字五逆生滅)
転得之利他行
転得之不惜身命

お礼日時:2011/05/02 20:27

この質問の延長は、人間の行う(勿論、様々な哲学も、経済活動も、戦争も含まれる)ことは どこまで許されるか という質問になるのでしょう。

確かなことは 人間は何をやるとしても 何年か先には 絶滅することは間違いないと思います。100年先か 100万年先か分かりませんが。その中で ひょっとして 人間のやっていることに意味があるとしたら 人類の延命に寄与しているかどうか が判断基準ではないか と思うのです。勿論、人類延命は多様な個の延命の上に築かれております。

他の動植物を殺して食物とする場合を考えますと  食物連鎖の循環システムを破壊し 次の段階で延命基準に合わなくなる ことが予想されるなら 判断基準に合う 殺し方、生かし方の工夫は絶対しなければならない ということでしょう。或は エネルギーについては 電力発生に伴う CO2、放射能 の問題は正しく予想しないといけなせん。或は ある一つの哲学により 人類延命ができる と主張されたとしますか これもまた正しいのかどうか見極めないといけないということです。

重要なことは 人類が遭遇する様々なことを想定して立てられる対策のなかから正しいものを見つけることができるか ということです。これが大問題と思います。各専門家の見識が問われるところです。そこで参考になるのが 過去 人類は未来人類に何を予想し正しく指摘出来たかであります。重要なことは かなり 間違った予想をし それに従い人類に損害を与えたことでしよう。

これから先も同様に予想は正しいかどうか 怪しいものです。ではどうするか。予想を一つに絞るのではなく 多様な予想を許し 多様な試行が許され その中から よりベターなものを選択するという方法であります。一つに絞ると 間違ったときには 人類の延命ではなく縮命になります。だから モノカルチャー的な発想は あぶないと思っているわけです。ポストモダン的発想は多様化世相とよく合うと思っています。他生物が種の多様化対応して来たのも 一種では危ないということでしょう。

人間の行為は 人類(個も含め)延命に寄与するなら 出来るだけ多様なモノが許容されるべきだと思います。勿論、なんでもありというわけではなく 人に対する殺傷盗的なレベルは許されないのは当然であります。
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この回答へのお礼

大変に真面目なお答えありがとうございます。
学生さんでしょうか?
個人的な倫理観を問う、といった事が人類の倫理観を問う、というような事になってしまったようです。
この質問の狙いは、半ば人の心の深層に迫ろうとしているものです。
それでも、このようなしっかりとした答えをいただくと嬉しく思える気がします。
意地の悪い質問かもしれませんが、先々きっと役に立つかもしれません。
そんな感じで見ていてください。
ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/01 22:53

>一個人ではない、共業ともいえる悪には、確かに明るさを見い出す事はできないようです。


>そうした暗さから見れば、善も正義もないのでしょう。


去年の夏にハーバード大学の教授の講義が東京大学で行われた。

「これからの正義の話をしよう」と題して。

ハーバード大学でも大人気の講義が日本で開催されたとなり、NHKが取材してテレビで放映したり、本が出版されたりして、「そうだ 正義を守らなければ」という気運が高まった。

私も一瞬、「おもしろい」と思ったが、茶番だと思いなおした。

「病院で受付の札を取るために早朝から並ばなければならないが、お金を出せば代理の人が並んで整理券をとってもらえる。お金を多く持っている人は早朝から並ばずに済むが、これをどう思うか」 とか、「徴兵制度があったとき、自分の代わりの人を見つけたり、罰金を払えば徴兵が免除されており、その代理をお金を払って雇った人や、罰金を払って徴兵を免れた人が、今アメリカの経済の主流となる企業を起こしたが、これをどう思うか」とか。

ズルと考えるか、金を持っている人が貧乏人に平和を維持させているわけだが、ギブアンドテイクとしてありだと納得できるか とか。

「うーん」と毎回お題が出るため考えていたわけですが、「今の日本人は、戦時中に日本が行ったことをアジア諸国の人々の謝罪すべきか」となったとき、「ん?」と思った。

東京大学の講義では、「謝罪すべき、永遠に」という意見が出ていた。 なぜなら つながっているから、自分がやったことではなくても、その前の日本人がやったことの償いを、現代の日本人はするべきだ」という意見 とか。

「じゃあ 親が殺人を犯して自殺したら、子供は親の代わりの裁判を受けて刑務所に入るって法律になっていないのはどうして?」と思った。
法律を改正して、何世代も前までさかのぼり、秀吉の朝鮮出兵の時代に朝鮮半島に住んでいた人を殺した祖先を持つ人は、償いをすべき ですよね。

永遠に消えないとするのなら。

ところで、本はアジア諸国に何をしたのか。
白人社会により奴隷となっていたアジア諸国を白人社会から開放するため、整備し働く場所を作り、自分たちだけでやっていけるように作り上げてやって、奴隷からの開放を支援していたわけですが、「余計なことはするな 俺たちは白人の奴隷のままでいたかったのだ 余計なことを独立を支援した日本は悪だ、責任をとって賠償しろ 永遠に金払え」ってそりゃ ヤクザです・・・・。
恩を仇で返され、助けなければよかったとなるわけですが、日本はアジア諸国をただ白人社会の奴隷から解放したかったわけじゃあない。
日本を守りたかったから。
自衛のためのアジア進出。

自衛してはならない と法律でもなるべきですよね。


とか考えることも無駄。

世界大戦は、金儲けのために人工的に起こされたもの。



「これからの正義の話をしよう」の本の中で筆者は聴講生にこういう問いをした。
9.11の後、アメリカはアフガンにビンラディンが潜伏しているという情報を得て、兵を派遣した。
山道の途中でヤギ飼いと遭遇し、殺すか開放するか筆者の友人は悩んだ。
開放したらビンラディンにアメリカ兵が近くにきていると知らされる可能性があるからだ。
しかし、ビンラディンとつながりが無い本当に普通の牧童かもしれない。

多数決をした結果、ヤギ飼いを開放したが、そのあとこの舞台は奇襲にあい、ほとんど死んでしまった。
筆者の友人は解放するに一票入れたことをものすごく後悔したと言っていたと筆者は語っていた。

さて、あなたなら解放したか殺したか という風な問いだったと思う。
みんな真剣にどっちが正義か考えていたが、、、

http://www.youtube.com/watch?v=EeWqlJHzcSo&featu …
http://www.youtube.com/watch?v=f0PDhMZf6Yc&featu …

「敵なんかいない 人々は幻の敵をみせられ、実在すると思わされて不必要な恐怖を抱かせられている」と。
何故、政府は幻の敵をたくさんの人を殺すことで実在するかのようにみせかけたのか。

新世界秩序。

新世界秩序とは何か。 通貨の統一=一部の人による全世界の支配。

陰謀説で、そんな悪人は存在せず、ものの見方によって善にも悪にもどっちにでも見えてしまうものなのか。



「これからの正義の話をしよう」とあるが、そもそも正義とはなんなのか。

プラトンもキリスト教も、一部のイデア(まったくの善 正義)を知覚できるものが、できない人を支配すべきだという考え。
正義が何かわかる人の言うことに従っていれば、なにが正義かわからない人たちも、知らずに悪を行わなくて善ばっかりやれるようになるから と。

では、イデアを本当に知覚できる人はいるのか?
いない。
いないというか、「これからの正義の話をしよう」という教授は、「古代から正義について何度も問われてきたが、人類はいまだに正義がどういうものかけっていできていないが、だからといって将来も決定できないとは言えず、いつかできると信じて正義について語り合い続けよう」ってことで、講義をしているらしいです。

ただ、アフガニスタンとか日本とか事実とは違うことを事実として仮定して、議論していこう というやり方は、机上の理論で、タイムトラベルは理論上は可能になるが、現実は不可能なもので、それと同じで理論でいくらタイムトラベルが可能だとしたところで、実在することは無い。
空想しなければ実在できない。

空想しつづけほうけて、現実を生きずに人生が終わってしまうわけですが、、、、
生まれてこなくてもどーでもいい空しい生だと思ってしまうのは私だけでしょうか。
実存的に生きるとは どういうことか、考えてしまう。
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この回答へのお礼

求めては斬る、斬る事によって求める、という救われなさが、私にも感じられます。
人の罪をいくら斬ったとて、自分が救われるわけではなく
罪の苦しみの解決が見いだせなければ、自分も救われないのでしょう。
そうした点については、質問の主旨についてもっと拝聴した上で、考えてみたいと思います。
ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/01 22:39

どこまで許されるでしょうか?



○ 社会的な立場で言えば法律を犯さない範囲でなら許されるのでしょうね。でもこれは人間を社会に属する動物として見た場合ですね。
人として永遠の生命を続けたいと望むなら、心で犯した罪、それを実践した罪は許されませんね。
肉体生命は平均80年ほどですが、肉体の死後何にもなくなってしまうのなら宗教も道徳もいらなでしょう。何をしても判らなければ、あるいは逃げ仰せば許されますね。ところがどっこいでね。肉体が死んでもあなた自身、いやみんなですがね、死んでいないのですね。意識が不死だと困ることになりますね。
実際は、意識は不死でね。困ることになっている人(意識)が五万といるのですね。昔からの地獄・極楽がたとえ話や嘘話でないことは死後を知る者にとっては当たり前のことですからね。
社会的に許されていても決して許されないことはたくさんあるのですね。私は決して見たくない世界、いきたくない世界ですね。どちらの世界に分類されるかは厳正で、厳しいものがありますね。まあ、許されない世界なのですね。許す世界は行きたくない世界ということですね。
嘘つきや不倫、泥棒、高慢など、こんな人と一緒にいたくないでしょ。同じような意識は同じようなところに集まっているという風に考えればわかりますね。そういうことです。
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この回答へのお礼

大変含蓄に富んだお答ありがとうございました。
意識のレベルに応じた世界があって、罪の程度も相応なのだと、仰っているように感じました。
許す許さないは、人の意識のレベルに応じた判断なのだ、という事でしょうか。
この意識のレベル、というものを意識できなければ、レベルそのものが存在しない、とも言えそうです。
一つの壁のようなもので、その壁の中において、罪の意識も変わってくるのかもしれませんね。
しかし、壁の中にいては、その壁を知る事もないのでしょう・・・

そういえば私にも壁がありそうです
馬鹿の壁というやつでして・・・

またお会いしましょう。
ありがとうございました。

お礼日時:2011/04/30 22:42

 判定するのが一般人?



 行司役を一般人とするなら、

 その行司の価値基準がどこにあるかが問題だ。
 どこに置くかが問題だ。

 どんなところに置いたら質問者の満足のいく、納得のいく答えが得られるのだろうか。

 答えは、・・・・・答えを求める人の価値基準を知りたい。

 価値基準が判ればおのずと答えが出てくるのかも・・・・・、よくわからない。

 と、考えを進めてきましたが、本当は、一人一人の心に「害」がないレベルに基準を置きたいと思っています。
 という事は、基準は人それぞれ、という事になってしまうのですが。

 社会的な基準という事になるとこれもまた、意見もあまた(数多)となってしまい、答えは人の数ほどあるという事になってしまいそうで、・・・・・困った。

 やっぱり、一人一人が罪悪感を感じるか感じないか、を基準に置くしかないような・・・・・こんな感じです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
>その行司の価値基準がどこにあるかが問題だ。

下手な行司でありまして、その価値基準も曖昧であります。
忘れさられようとしている戒律を道徳的観念にもじって
さて、どこまで皆様のお心に響くものなのかな、という思いもありました。

私個人としての所感を申し上げれば
いかなる罪があろうとも、人間である事に変わりはない
という前提の基に
人が人の罪をどこまで許せるものなのか
という問いでもあります。

以上が、行司の曖昧な価値基準と判断基準であります。

また、古臭くなって埃をかぶってしまったとはいえ、大切に思えるこれらの戒めを
少し磨き直してみたいようにも思いました。

>やっぱり、一人一人が罪悪感を感じるか感じないか、を基準に置くしかないような・・・・こんな感じです。

どこまで・・・と問うと、やはりそうなってしまうのでしょうね。
限って見れば個人各々の主観に頼らざるを得ない状況では、普遍的という推測は成立しない、という事になるのでしょう。
さて、困りました。
法律という金科玉条を引っ張り出しても、万人が納得する答えにはならないようにも思えますし・・・
名案はないものでしょうか。
行司の軍配は少し休ませておきます。
それでは。

お礼日時:2011/04/30 22:26

 誰が許すか。



 悪魔ならすべてを許す。

 神ならばすべてを許さない。

 人間としてなら、百人十色。
 それは答えがないという事と同じ。

 「視点」を明らかにしないと、答えは得られない。

 ・・・・・と、ここまで考えたら、
 それではここで言っている「許す」とはどんなことなんだろうと悩んじゃいました。
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この回答へのお礼

不殺生
不偸盗
不邪淫
不妄語

坊さんだったら完全にアウトです。
一般人はどうなんでしょうね。
一般人の立場でお願いします。

お礼日時:2011/04/29 22:21

んー 動物は生きるために他の動物を殺して食う。

無駄な殺生はしないといわれますよね。

でも シャチはアシカをもてあそぶため襲う。
食べるためじゃなくて 空中にボールのように放り投げて遊ぶため。
アシカの骨 ぐしゃぐしゃ。

いるか、知能が高いといわれる。
フリースペースのように集団でメスいるかをレイプするレイプ魔。
集団でメスいるかをおいかけまわし、窒息しそうになるまで追い詰め、酸素を吸うため海面にメスいるかが上がるところを囲んでレイプする残虐な動物。
狙われたメスいるかはなすすべも無い。
他のメスいるかがオスいるかたちの暴力を非難したり、邪魔したり制裁を与えるってことは無い。

このように動物界も無駄な殺生をするわけです。


で、人間も動物です。
共同体で暮らすにあたり、ルールを設けるが、そのルールはその共同体内でのみ通用するもので、共同体外の人間には通用しない。


例えばアメリカ兵が日本の地元の少女をレイプした場合、あるいは殺した場合、日本の法律はその犯人に適用されない。
アメリカの法律も適用されない。
アメリカ軍の軍法裁判にかけられる。
アメリカの軍法裁判はアメリカの法律とはかけ離れている。
普通の司法弁護士では歯が立たない。

アメリカの法律では有罪となるものも、軍事裁判では無罪となる。

このように共同体内の共通了解が無いと効力を発揮しない。

日本とアメリカは被疑者の身柄を引き渡す協定を結んでいる。
アメリカで犯罪とされることをやった人が、日本に帰国した場合、疑いがあるというだけで、日本政府はその日本人をアメリカ政府に引き渡さなければならない。
アメリカの政府が犯罪を隠蔽するために、口を閉ざしてもらうためにその日本人を日本政府からひきわたしてもらい、もう口外できないようにするため、刑務所に入れて、永久に証拠隠滅を図ったと思える事件があった。

そのまま刑務所で病死するようにしたわけですが、病死する前に日本の大使館かどこかに連絡して、日本政府とアメリカ政府が結託して証拠隠滅をしようとした結果 日本人を殺そうとしているは知らない外交官が、その人を刑務所から出してしまった。

政府の恐ろしさを知ったその日本人ですが、やめときゃいいのに「私ははめられた」と訴えている。
だけど、もに消されましたね。
命が大事だから、もう忘れたほうがいいかも。

政府って恐ろしいですよね。
無実の日本人すらアメリカのいけにえとしてささげた事件。

どこまで許されるのか?
位の高い人が同じくらいの高い犯罪者を庇う。
正義なんて日本には存在しない。
この世のどこにも正義など存在しない。

正義とか勝者が決めるもの。
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この回答へのお礼

暗闇をご存じのようですね。
暗闇から入ってゆく倫理観というものを示されたように思います。
逆また真なり・・・という訳ですか。
普段、私達が知らない悪の世界がある、それも巨大な悪が・・・
個人的な悪など比べものにならないほど、深くて暗い大きな悪ですか・・・
そこには、きれいさなど微塵もないと・・・

質問文の背景には、憎めない罪人といったイメージがあります。
そこにおいての罪の程度の客観性を少し明るく問いてみたのですが
少々暗い方に行ってしまったようです。
一個人ではない、共業ともいえる悪には、確かに明るさを見い出す事はできないようです。
そうした暗さから見れば、善も正義もないのでしょう。
でも、そうした立場を一つのものとして認めた上での倫理観もあると思われます。
でないと暗さにこもった、半ばアウトローの倫理観になってしまうのではないでしょうか。
発展を期待しております。
ありがとうございました。

お礼日時:2011/04/29 22:16

善悪なんて人間が秩序を維持する


為に、勝手に造り上げた概念です。

従って、何でも許されます。
その証拠に、権力者は何をしても
咎められません。
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