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この国から美しいものがどんどんと消えてゆくように思います。
とくに日本語・・・みなさまの美しい日本語観についてお聞かせくださいませ。

A 回答 (10件)

美しい日本語は兼高かおるさんの日本語だね。

彼女の『兼高かおる世界の旅』は良かったね。

今の若いもんにはわっかるかな~、わっかんね~だろ~な~。
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この回答へのお礼

わっかないんでしょうねぇ。
>『兼高かおる世界の旅』
なつかしくなって、当時の番組表をインターネットで引いて見ました。
すると「兼高かほる世界の旅」になっていました。
「かおる」が「かほる」になっていました。
まさか兼高さんが「かほる」と改名なさらないと思います。
「かをる」ならば、あり得ないことではありませんが。
美しい日本語にはまるで縁のない今の若いもんの仕業でしょうねぇ。

http://www.geocities.jp/sabajanee10/h_tbs_mon19. …
右の方の水色22:30のところです。

お礼日時:2011/04/30 13:12

次のような問答をネットで見ました。



Aさん:「「結晶」という比喩表現の最初の使用例をしているかな。まぁいいや、知識をひけらかしても趣味が悪い。」

Bさん:「最初の使用例が誰だか知りません。・・・以下省略」

Aさん:「「努力の結晶」などと、人の行為に対して結晶という言葉が使われるようになった元は、スタンダールの『恋愛論』だよ。ここで「愛の結晶」cristallisation de l'amourという言葉があった。これがとても有名になったんだ。で、翻訳を通じて、日本に入って来た。しかし僕はこれはもともと小説家の言葉だし、比喩だと思う。だから使わない。僕が使わないのは、好みの問題なんだ。」・・・以下略

//////////////////////////////////////////////////////////////////

Aさんは知識をひけらかすのは悪いと言いながら、結局ひけらかしたい欲望に耐えかねて(^○^)、スタンダールの「愛の結晶」cristallisation de l'amour・・・と言ってしまいました。
このような、「スタンダールのcristallisation de l'amour」のようなことは、美しい日本文を作るのに必要な知識ではないと思います。
このような高級そうな知識で飾り立てている文章はえてして中身が薄いですね。
中身の薄さをカバーするためにスタンダール云々を持ち出したんだろうと思います。
いくら立派な宝石で身を飾り立てても、本人に似合っていなければかえって笑い者になります。
美しい文章は書いている人の心が反映するものです。
いい人生を送っている人の文章は美しいんだと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
Aさんは勉強中のお若い方なのでしょう。
20歳台も後半に入るとそのようなことは恥ずかしくなってくるはずです。
回答評価が5月4日13:30現在3票。ありがとうございます。

お礼日時:2011/05/04 13:28

他の方々の様に上手い表現を纏められないのに、


参加をさせて頂くのは、大変に申し訳が無いのかも知れませんが、
厳しい評価を賜りたい、と願いまして、
参加させて頂く判断を致しました。

そこで、拙いながらも、私見を申し上げます。

私には、「連歌」が美しく思われます。

と申しますのも、確かに外来語でも省略は可能になっていますが、
連歌では、隣の句との連結を可能にすべく、
他者達の句(意見)を受け入れる為に、
利己的な主張を慎んでいるのではないか、と思われるからです。

つまり、謙譲の姿勢が隠れているのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

常に後の人のことを考えている・・・何でも自己主張のやりっぱなしになった現代の日本人が反省すべきところですね。
>謙譲の姿勢・・・美徳だと思います。それがにじみ出ている言葉は美しいのでしょう。

お礼日時:2011/05/04 08:36

美しい日本語ですか。

最近、日本語の問いが増えて、面白いなと思います。気楽に自分の経験を書いてみます。

僕が高校の時にいいなと思ったのは、志賀直哉の文章でした。素朴で、複雑な言葉や構文は無いが、過不足なく自己表現を出来ている。僕がこれをいいと思ったのは、志賀直哉のように、俺はエゴイストであると開き直り、簡潔に生きる必要があると感じていたからです。
逆に三島由紀夫の文章には、多くを感じることはできませんでした。辞書を引いて書いているのが透けて見えたから、言葉の重みを感じなかったのです。単純に言えるところは、単純に言えばいいじゃないの、と思ったものです。実際、三島の生き方に僕は共感できませんでした。
簡素を好んだ一方、二十歳に差し掛かると、今度は大江健三郎の複雑怪奇な文章が好きになりました。大江の文章は、コテコテと理屈でモノを考える人間ならではのもので、普通は構文を把握するだけで疲れるのですが、よくよく読めばユーモアがあって笑えます。理屈に凝り固まって動かなくなった井伏の「山椒魚」的なイメージです。それが美しいと感じたのは、自分も理屈屋の仲間になり果てていたからにほかなりません。

僕は自分の経験から、美しい日本語とは、美しいと人が感じる生き方の数だけある、と思います。そして最近の日本語の変化も、根底には、美しいと考える生き方の変化があるように思います。村上春樹は翻訳を通じてチャンドラーなどのハードボイルド小説の影響を受けたわけですが、そこには、欧米の生き方に憧れをもつ者に支持されうる美があると考えます。美は人それぞれ、世代によってそれぞれでいいと思います。反対があるとすれば、美を定義しようという試みに対してです。

ところで日本語の変幻自在な特性についてコメントなさっている方がいらっしゃいますね。僕も同意するところです。膠着語という特性だけではなく、多様な言語を吸収できるというのは摩訶不思議です。僕は吉増剛三など、まさに変幻自在な特質を存分に生かしていると思います。方言が混じれば、ドイツ語、フランス語、スペイン語など、もう何語なのかわかりません。そして朗読会で常人には読めない原稿のコピーを渡された時、僕は半分バカにしていたのです。わざわざアクセント記号をふっているが、コケオドシだろうと。しかし彼がスラスラと多言語の発音で朗読した時、呆気にとられました。そしてこれだけ多言語を交えて成立する日本語の底力を感じ、鳥肌が立ったものです。柔軟にものを受け止めていく吉増の生き方は、真似しようがありませんが、あれもまた美しいと思います。
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この回答へのお礼

いろいろな御本を読んでいらっしゃるのですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/04 08:32

『ありがとう』は美しいと思います。

日本語は響きが優しく、美しい言葉ばかりです。個人的には片仮名がを除けば美しい言葉ばかりだと考えます。

『優しい』『温かい』『美しい』『こんにちは』『さようなら』『頂きます』『ごちそうさま』

今まで気付かないだけで、日本語というのは美しい言葉のオンパレードでした。今頃気付きました。私まで勉強になりました。早速ありがとうございました。

日本語というのは何もかも『曖昧』にして誤魔化すといわれます。日本人は昔、謎の微笑を持つ民族といわれました。このあたりは集英社国語辞典の付録に書いてあります。私が説明するよりも集英社国語辞典を立ち読みして日本語の性格についてのコラムを読めば一目瞭然かと思います。大きな書店に行けば集英社国語辞典は在庫があるはずです。日本語とは何ぞや? そう思ったら集英社国語辞典のコラムが手っ取り早くてわかりやすいです。それ以上分かりやすいものは今の時点では私は知りません。下の文章を読めば集英社国語辞典を読む必要も無いとは思いますが……。

私自身は日本語は世界で一番優れた言語だと思っています。どこの国民も自分の言語が一番優れていると思うでしょうが、私は日本語は一番と胸を晴れます。英語はローマ字だけです。アラビア語もアラビア文字だけです。他のヨーロッパ系の言語も大体は文字の数は少ないです。大体40未満です。ハングルもハングルだけです。中国語は漢字だけです。日本語は平仮名、カタカナ、漢字の3種類もの文字を使いこなします。器用です。中国語の漢字は一種類しか読み方がありません。ピンインというもので国が読み方を一種類に限定しています。漢字の種類は多いですが……。しかし日本の漢字は何種類もの読み方があります。普通の言語の3倍の表現方法を持つ日本語。その時点で日本語は『多様性』でNO.1です。

先程日本語は『曖昧』で『多様』と書きました。しかし自然も同様に『曖昧』で『多様』です。この世に起こることはみな多面性があります。ビンラディンが殺された、という事件だけでもアメリカ側の主張、ビンラディン側の主張という2パターンあります。この世では何か1つに断定できる事柄などありません。そういう面でも『曖昧』な日本語はこの世に最も適合した言語です。白黒つく事件はありません。だからこそ曖昧な日本語が素晴らしいと思います。曖昧な自然には曖昧な日本語が一番よいのです。同様に自然という多様な物事に対しては多様性に優れる日本語が最善です。英文学は原著で読むと大して素晴らしくなく、日本の小説が懐かしくなります。大体の小説は繊細な心理描写を描くものです。恋愛など、イエスノーでは割り切れません。恋心は『曖昧』で『多様』です。そうなると『曖昧』で『多様』な日本語は恋愛小説には世界で一番向いている言語です。逆に学術書では日本語は英語に負けます。英語の学術書は分かりやすくて素晴らしいです。ただ、英語は効率優先で深みに欠ける言語です。

日本語は句読点の存在も深いですね。昔ある作家が読点の有無で半日悩んだそうです。日本語は句読点でいくらでも含みを持たせることの出来る言語です。句読点をどの様に使うか。句読点という存在は他の言語にはありません。中国語に句読点はありません。英語にはピリオドはありますが、読点はありません。読点の存在。書いていて日本語の素晴らしさに震えが来ました。

日本語は語順も深いですね。

『本日は晴天なり』
『晴天なり、本日は』

どちらも成り立ってしまいます。逆に英語では

『It is sunny.』

は出来ても

『Sunny,it is.』

になると意味が変わってしまいます。語順を変えたらサニーさんという人が出てきてしまいました。語順を変えるだけで意味が変わってしまいます。意味が変わらないという点で日本語は語順を自由に変えられる貴重な言語なのです。また、語順が変わるだけで印象も変わります。英語は語順が非常に厳密に決まっています。しかし日本語は語順はいくらでも変えられます。省略系も日本語は他の言語に比べて圧倒的に多様です。

『ぼくはうなぎだ。』

とまで省略するのは日本語くらいです。

日本語は実は非常に優れた言語ということを気づかないのは勿体無いです。日本語って、本当に素晴らしい言語ですね。日本語の素晴らしさを改めて確認しました。

ちなみに日本人は総じて根暗でした。ここ10年くらいですかね。人々が根明を極端に勧めるようになったのは。小室さんの極は根暗でしたが、AKBは根明になりました。根暗というのは優しいのです。この世は苦しみに溢れています。その苦しみに真摯に向き合えば根暗になります。根暗というのは真面目で優しいのです。また、根暗は何かを否定しません。根明は根暗を否定しますが、根暗は根明を徹底して否定することはありません。根暗は優しいのです。この優しい根暗というのを失ったのが現代日本人と思います。また、根明は排他的と感じます。その場がつまらなくなると嫌な感情を出します。しかし根暗はそもそも暗いのでつまらなくても問題にしません。現世という苦しみに溢れた世界と向き合うなら、きっと誰もが根暗になります。逆に根明は浅い気もします。

と、話がだいぶそれてすみません。物質的に豊かになった日本は無意味なほどの浅薄な根明国民へと変わってしまった気がします。伊達男、金と力は無かりけり。といいます。金と力を手に入れた日本はもはや伊達男にはなれないのでしょうか。清貧という言葉があるように、豊かになったら素晴らしい心を持つことは難しいのかもしれません。

また、個人的には美しいというのは非常に相対的なものだと思います。つまり人によって違うのです。上品な言葉は普通からすれば美しいといえます。しかし貧乏人からすれば鼻につくことも多いものです。日本語は曖昧で平和な言語ですが、英語圏からすれば覇気の無い甘ったれた言語ともいえます。私は貧困層の言葉も好きです。貧困の中で必死に生きる人々の言葉も美しいと思います。職人さんの言葉も好きです。

ですので美はありません。美とは名づけられるものです。名づければ何でも美になります。少しでも多くの美を見つけたければ、少しでも多くの物事に美という名前をつけましょう。芸術家は芸術を作るのではなく、芸術を見出す人のことを言います。美術家は美を作るものではなく美を見出すもののことです。

『みんな違ってみんないい』

金子みすずさんのこの言葉にすべてが集約されています。

<この国から美しいものがどんどんと消えてゆくように>これは日本が欧米化している、という印象がありますね。欧米はイエス・ノーの二者択一を迫ります。自己主張を迫ります。しかし日本は元々根倉で優しい民族です。桜が散って感動し、風に揺られる草に見とれる……。全ての物事に神様を見出し、(国家神道は別として、よろずの神という考え方は個人的には大好きです。)祖先をしっかりと供養する。物が無くても優しく上品に振舞う。日本人という国民性は本来は人間として理想的だったと思います。外国人も日本に来て驚いていたそうです。日本はなんて親切な国民なんだと。日本の女は世界一というのは50年位前は世界での共通認識です。昔の日本の女は地味です。間違いなく外人の方が外見では上回っています。男の落とし方。場の盛り上げ方。服装。スタイル。しかしなぜ日本の女は世界一だったのでしょうか。それは『優しさ』『謙虚さ』です。今の日本女性は欧米の女性と見劣りしませんが、中身が足りない気もします。今の日本女性は世界一でしょうか? 外見は中身があってのものです。人間、中身が一番です。外見だけ誤魔化してもいけません。そういう意味で現代は美しい『物』はいくらでも見出せます。スカイツリー、デジタルテレビ、インターネット、Wikipediaという宝物殿。他にも豪華絢爛な品物の数々……。しかし翻って心はどこにあるでしょうか? 素晴らしい心、誰かの為に自己犠牲になれる心、思いやりの心。悪の気持ちと善の気持ち。最近の日本人はどちらが多いでしょうか? 妬み・恨み・憎しみに踊らされていないでしょうか? もう一度、この機会に自分の胸に聞いてみたい物です。仏作って魂入れずという状態になっていないでしょうか。そのことを私達は改めて問い直す時期に来ているといえるでしょう。それは文明に対しても同じことがいえます。文明という仏は十分完成しました。現代は物質文明は文句無く最高潮に達しています。音楽聴き放題。勉強し放題。溢れる情報。しかし一方で物質を使う私達はしっかりとした心を持っているでしょうか? 理想的な物質文明を享受するだけの理想的な精神。物質文明が完成した今だからこそ、精神文明、自らの心を完成させる素晴らしい時期に来ているとはいえないでしょうか?

上の文章、格好をつけすぎて恥ずかしくなってきました。しかし消すのが勿体無いので残しておきます。何となく宗教っぽくて嫌な気もしますが、良かったら噛み締めてみてください。さて、文面を元に戻します。

<美しい日本語観>これは古代の日本人の在り方を基にした日本語が美しいと感じます。優しさ、繊細さ、思いやり、曖昧という優しさ。これこそが美しい日本語です。曖昧な日本語は平和を維持するには最高の言語なのです。現代の日本語はややトゲが出てきたと思います。それは欧米化の結果です。小説でも最近のものよりも、少し前のものが良いです。夏目漱石は良い文章を書きます。

結局、美しい日本語は美しい心に宿ります。優しく繊細で思いやりにあふれる日本語。それが美しい日本語。

長文を読んでくださって有難うございました。
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この回答へのお礼

大変興味深く読ませていただきまひた。
ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/04 08:37

>敬語がないと言われる大阪の泉州、河内、和歌山の方言は乱暴で下品に聞こえますが、、、



そのように聞こえるかもしれませんが、方言って結構敬語なんかがきちっとしているようですよ。

関東のべーべー言葉は実は大変に丁寧な言葉なのですがご存知ですか。大抵の場合、方言とは元々京都界隈で使われていたものが地方で生き残った言葉だそうです。何処の世界でも都会のチャラチャラした若者は流行に弱いんで、今まで使っていた言葉より一寸毛色の違った新しい言葉に直ぐ飛びついて、自分たちの話し言葉をどんどん変えてしまう。ところが流行語が地方に伝わって行くのは昔はずっと遅かった。そこで、関東当たりでその流行語が流行り出した頃にはもう京都当たりじゃ疾っくに使われていなくなっているので、京都の人がそれを聞いたときには、そりゃ方言だと言ってたそうです。

「行くベー」とか「いぐだんべー」っていうのは、実は「行くべし」と言う立派な言葉の変化したものです。江戸時代の足軽言葉では、「行くべい」などの、ベイベイ言葉が頻りに使われていたようです。余談ですが、昔美智子妃殿下が戦争中に群馬の方に疎開していたときに「行きましょベー」と言っていたことがあると何処かで読んだことがあります。

東北の方では今でも「いぐべす」なんて、ベーよりももっと古い形が残っていますね。京都より遠い程古い形の京言葉が残っている一例なんじゃないでしょうか。

私は本で読んだだけですが、中国地方の言い回しで、普段言葉と丁寧語をきちっと良い分けて、親しい人には、

 いくだなまえ

丁寧に言うときには、

 いくだなんた

と言う表現があるそうです。前者は「お前行こう」、後者は「貴方行きましょう」と言う意味だそうです。この、主語を語尾に付ける日本語独特な文法は、つい最近まで東京辺りで女性に使われていた「行くわ」の語尾の、「わたし」の省略形の「わ」として残っていたと柳田國男が言っていました。こんなのも美しい日本語の一つだと私には思えます。

標準語に洗脳されてしまい、また京言葉や中央言葉は何でも綺麗だと感じる我々人間の性が、地方の表現を美しくないと感じさせる原因かと思われます。しかし、そんな言葉の変遷を知って見ると、ベーベー言葉もダンベ言葉も美しい日本語に聞こえて来るから不思議ですね。
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この回答へのお礼

地方には昔の標準語(京言葉)のヌケガラのようなものが多く残っておりますね。
そのような言葉を旧家の大奥様がおしゃべりになれば大変上品に聞こえます。
下品な人が使えば下品に聞こえます。

ベーベー言葉もダンベ言葉も美しい日本語に聞こえて来るから不思議ですね。
べーべー言う人が上品であれば美しく聞こえるでしょう。
大変興味深いお話しありがとうございました。

お礼日時:2011/05/04 08:45

美しい=洗練された、という事でもないと思って申し上げますが、江戸の職人言葉も美しいよ。


無駄が無くて、押しつけがましくなくて、しかも聞いた側の解釈の余地も十分に残している。

なぜが、職人もNHKのアナウンサーみたいな話し方をするようになっちまった。
江戸の職人だけじゃなくてな、トウボグがら応援に来てもらった職人までも渋谷の放送局みたいな話し方するぜ。

なぜじゃ。
これは、日本人の多くが美に関心があるというよりも、権威に関心があるからじゃあねえのか?
それとも、教育の結果、日本の美を滅ぼしているのか?

日本語の、地域に密着した話し言葉の、ルネサンスってのが必要なんじゃねえかな。
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この回答へのお礼

>これは、日本人の多くが美に関心があるというよりも、権威に関心があるからじゃあねえのか?
>それとも、教育の結果、日本の美を滅ぼしているのか?

やっぱり、中央の言葉が洗練されているとおもっているんでしょうね。
自動車でも品川や横浜ナンバーが好まれたのと同じでしょう。
私は教育というよりテレビのせいだと思っています。

敬語がないと言われる大阪の泉州、河内、和歌山の方言は乱暴で下品に聞こえますが、それでもところどころに残っている御大家の奥様の話し方は、方言といってもとても上品なものでした。
ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/01 12:30

在日の外国人と話をしたときですが、


月を指して、ぶっきらぼうに「ツキ」
と言うんですね。
だから私は、あれは「お月様」と呼べと
指導しました。相手は女性でした。

文語文は美しいと思います。
司馬遼太郎に言わせると、あれは
「千年間磨かれたからだ」と言います。
現代でも、短歌を詠むと、心が洗われる
想いがします。

漢字はごついと想います。
日本のひらがなは、漢字に較べると美しい
と感じます。
「ひらがなという川の流れが、漢字という岩に
 あたって美しく砕けるのが日本語」です。

江戸時代は、武士には武士の言葉がありました。
武士は武士の言葉を使うことによって人格を形成し
武士の人格を身に纏うことができるようになったのです。
ちゃんとした武士は、食事する姿すら美しかったそうです。

家庭でも学校でも、礼儀作法をきちんとさせ
短歌を大学入試で重要視するようになれば
美しい日本語が復活していくのではないでしょうか。

何事も形からです。

それ、欧米は理に生き、インドは聖に
中国は実に、日本は美に生きる。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
一つ一つうなづけるものばかりです。

お礼日時:2011/05/01 12:19

尊敬出来ずとも、日本語による謙譲は可能になっていますね。

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この回答へのお礼

日本語にはそういうところがございますね。
ありがとうございました。

お礼日時:2011/04/30 13:14

「なさっている」という表現はよく使いますが、美しいと思うから。



敬語なのかな? 相手を大事にしているって心が含まれているので、きれいな日本語だと思います。

英語はネイティブじゃないですが、クイーンズイングリッシュは綺麗だと思う。
上品な感じがする。

イギリスは地中海が中心だった時代からすれば、ド田舎。
後からできた言語ですが、なぜか女王陛下が話す英語は気品があると思ってしまう。
なんでなんだろう?
彼女がかもし出す雰囲気がそういう印象を与えるのか。


「こちらでよろしいですか」とかも綺麗な日本語で、相手の心を考慮して話をしているって印象がある。
ってことで、テレビやラジオみたいに一方通行の音じゃなくて、相手の心を配慮しようとする姿勢がうかがえる日本語が、綺麗 ってなるのかも って思いました。

まあ ゆったりした場じゃないと、心にゆとりが生まれないので、相手を配慮した言葉を使えてませんが。。。。


質のいい会社だと、上司は部下に「これをやっていただいていいですか」とかそういう言葉を使う。
スマートな印象があり、落ち着いたオフィスで、儲かっている会社なのでゆとりがあるのかもしれないが。

いつも怒鳴り声がしたり荒々しい言葉が飛び交っているところは、働いている人の質も低いと思える。
そんなところに、どういうわけか上流階級の子女?と思える人が入社したらおもしろい。

今まで生きてきた環境の人々が使う言葉とは違う言葉を会社の人は使うので、びっくりしていた。
「これやっといて」とか言われて、「え? いつまでに仕上げればよろしいんですか?」と答え、「てきとーに」って言われ、「適当といいますと、、、本日中ですか?」となり、「てきとーでいいよ 急がないから」と言われ、「はぁ・・・」となり、私に「適当ってどれくらいを言うのですか?」と聞かれ、「書類見せて。ああ これ 別の書類が既に出ているから、処理済みなのでやる必要が無いって返せばいいよ」って答えて、「はあ。。。 どのように説明して返せばよろしいですか?」と聞かれて、「あーーめんどくさい」って思って、「課長 さっき○○さんに依頼した書類、もう別の人が提出しているので大丈夫ですよ」と大声で叫んで 相手がOKと指でサインを送って、「はい 終わり」っとその人に伝える。

「あんた いったいどこの上流階級の生まれ? こんながさつなところじゃ 生きていけないよ 大丈夫?」とはらはらした。
臨機応変にいろんな種族の言葉使えないと、生きるのに不自由するんじゃないかって。

上流階級出身らしいその人は、回りから堅苦しい言葉を使うこっけいな女とみられて、時々言葉を真似され失笑されている。

自分の住むべき世界に返りな って思いました。
「ここじゃ あんたの言葉が変で まるでなまっている人みたいになっちゃっているよ」って。

ガサツな言葉と上品な言葉を使いわけるマルチな私は、その場に合う言葉を使ってます。
その社会で使われていない発音や語彙を使うと、「なまっている」みたいに変だと思われる。
汚いとは思われないが、変な日本語って思われちゃう。

庶民の使う日本語 方言も大事。
ただ、「ちゅーかさー」というのは、、、、美しい日本語だとは思わない。方言でもなく乱れた音だと思う。
「ちゅーかさー」は(相手)を否定する心が含まれているから。

「結構」と言う言葉は すごいと思う。
良いものだというときも「結構な品で」と言うし、断るときも「結構です」と言う。
「結構な品物で私にはもったいないのでいらないです」と遠まわしな断り表現だと思う。
直接否定せず相手を上げて自分を下げることで断る表現が 綺麗だなって思う。
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この回答へのお礼

大変興味深いご意見です。
ありがとうございました。

お礼日時:2011/04/30 13:15

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