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1868年に判然令によって、いわゆる廃仏毀釈がおこなわれ、建築物としての神社仏閣が分離されたと言います。
明治以前の神社はどんな姿をしていたのか知りたいのですが、どうなんでしょう。たとえば、近江の日吉神社とか、豊前の宇佐八幡とか、神社の形としてしては(建築物の配置としては)、現在のままだったのでしょうか?

A 回答 (3件)

明治政府が発令したのは廃仏毀釈ではなく、神仏分離令で、仏教排斥を意図したものではなかったのです。


コレに過敏に反応して起きた現象を廃仏毀釈と言います。
つまり地方役人や民衆が過剰反応をして寺を打ち壊した事を言います。
この際に神宮寺の中でも神社を選択した場合などは残る機会を得たと言われています。

神社の建造物の大まかな構造や配置は、仏教が広まり、神宮寺の建立から神仏習合に至った時代に寺の構造に倣って作られたものが多いので、基本的には明治以前も以後も同じです。
(どこかに対比した図を載せたサイトがあったのですが、見失ってしまいました)
なので、平安時代より古いとされる神社の一部に神社の古い様式が残っていると考えられています。

この回答への補足

明治政府が廃仏毀釈を意図していなかった、って何か分かる資料があるのでしょうか。
本居宣長の末流である平田神道の狂気を宥めるために政府は神祇官を作ってそこに彼らを収めたそうですが、この狂人達が廃仏毀釈を指導しなかった、って私には考えられれません。

補足日時:2011/05/09 13:19
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神仏分離令と廃仏毀釈を混同するのは間違いです。

明治政府は徳川幕府の旧弊を廃止しました。江戸時代、神社の敷地に寺が建立され、神社に仏像を置いたりしてしていたのです。徳川幕府の寺社奉行の統制下において寺が行政機構の一翼を担っていました。元々神社があったところに後から僧侶が侵略してきて勝手に寺を建てたり、仏像を置いたりしただけですから元の神社の形はそのままです。仏教流の様式で神社を建て直したなんてことは全然ありません。

この回答への補足

なぜ間違いなのか教えて下さい。

補足日時:2011/05/09 13:19
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日本史にはまったく素人ですが、廃仏毀釈については本で読んだことがあります。


神社の建物の配置については古地図と対照すればすぐわかると思います。基本的に、神社本体が破壊されることはなく、破壊の対象となったのは仏堂の部分のはずです。古地図で神宮寺と書かれた部分はたいていなくなっています。次のサイトは鎌倉鶴岡八幡宮の場合です。
http://www.photo-make.jp/hm_2/ma_20_1.html
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