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 朝鮮は北のロシアの脅威から逃れる為に時の皇帝の未亡人が助けを日本に頼んだというような記述をみた記憶があります。

 それで調べてみたのですが、その時の皇帝・ 高宗には二人の王妃がいたようですね。最初が閔妃(ミンピ)、次が巌妃で、閔妃はどうやらロシア派だったらしく、そうなると李垠の母でもある巌妃の事を指しているのでしょうか。自分なりに調べましたが、巌妃の行動は書かれておらずよく分かりません。知っている方がいたら教えて下さい。

A 回答 (3件)

こんにちは


高宗 1852-1919
閔妃 1851-1895
巌妃 1854-1911
ですから閔妃も巌妃も高宗より先に歿しています。ですから2人とも高宗の未亡人ということはありません。
朝鮮国は本来中国(清)の一部でしたが高宗が即位(1863)した頃から朝鮮国内には外国勢力が入り、これに呼応して親ロシア派や親日本派などが生れ、勢力争いからクーデターが頻発します。
日清戦争の頃は中国は西大后の時代で混乱していてアテにならず、大院君(高宗の実父)は日本に接近、大院君と不仲だった閔妃はロシアを頼って互いに足を引張るという有様。ヨメとシュウトのケンカというわけですが、互いに軍団がいるのでハンパじゃない・・・。とどのつまりが閔妃暗殺事件になります。
だいたいこんなようすだったと理解しているのですが、間違っていたらごめんなさい。鞍替えや裏切りも続発、短期間で勢力地図も変わるのでなかなか理解しにくいのです。
「閔妃暗殺」(角田房子著)という本があります。からり古い本ですが、まだ新潮文庫の文庫本は売られているようですから読んでみてはいかがでしょう?
小生も日韓併合程度しか知らなかったのですが、この本は目からウロコでしたね。
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 閔妃が皇帝の妃(皇后)であったことはありません。


 閔妃が皇帝の未亡人であったこともありません。

 閔妃は高宗という王の王妃でした。死んだ時も、王妃でした。
 閔妃が死んだ後に、高宗は厳妃を側室にしました。
 その後に、高宗は皇帝を名乗りました。
 厳妃は王妃になったことも、皇后になったこともありません。側室のまま死にました。

 高宗の側室は、もっと他に、閔妃が生きている時にも死んだ後にもいました。

 閔妃は王妃の身分でありながら政治に口を出し、王を差し置くほどに権力をふるいました。
 閔妃は、中国(清国)を頼って助けを求めたり、日本を頼って助けを求めたり、ロシアを頼って助けを求めたり・・・・・、 アッチに付き、コッチに付き、目まぐるしく路線を変えて、が、いずれも外国勢力に頼って政治を行ないました。
 贅沢三昧な豪華な暮らしをし、高宗の他の側室たちを殺したとされ、また政敵であった高宗の父(王父)を爆死させようとした事件も一般的には閔妃がやったとされていて、「朝鮮版西太后」と言われて来ました。

 厳妃は政治的行動をしませんでした。
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日韓併合は1910年。

高宗が逝去されたのは1919年です。
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