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数学カテゴリと迷ったのですが、こちらで質問させていただきます。

とある掲示板で、小学2年生の算数の問題が話題になっていました。

「子供が5人います。お菓子を2個ずつ配ると、お菓子は全部で何個になりますか?」

回答は以下のとおりだそうです。
 2×5=10 ○
 5×2=10 ×

元の掲示板では、その様に教える様に指導されているとのことですが
下の式が×になる理由がわかりません。
どの様な理由によるものなのでしょか?

よろしくお願いします。

A 回答 (33件中11~20件)

>sekibunnteisuu様からの問いがありますので、


>>いつ…(中略)…これからは好きな順番で式を書いてよいのだと教えるのでしょうか。

この質問は私ではないのですが同じ疑問を持っていたので、まあいいです。

新指導要領では簡単な文字式や順列組み合わせを小学校で教えると聞きました。

順序をさんざん言われた児童が、xが3つで3xというのを素直に受け入れるでしょうか?
A,B,C,Dの並べ替えは何通りか?一般的な樹形図の考え方で一般的な(1あたり)×(いくつ分)にすると、1×2×3×4で、ひどく考えずらいと思いますが。

頭に浮かんだ順、文章題に出てきた順というのはそれはそれで合理的な方法だと思います。
ただしそれとて強要すべきじゃないと思います。

足し算の順序に拘る人もいるようです。
http://suugaku.at.webry.info/201102/article_14.h …

足し算の順序に拘る人は「添加には順序があるが合併には順序がない」と言うのが普通ですが、「足し算の順序でバツになった」という事例があって、どう見ても合併的な問題でした。どうも、文章題に出てきた順序にしなかったのが原因のようです。
足し算の場合、添加か合併かを見抜き、添加なら何が何に足されているかを見て、合併なら問題文に出てきた順にして・・

アホらしい話です。


■割合、密度、速さなどに関して

 以前、700円の3割合が分からない中学生がいて、「100円の3割は?」とヒントを与えたら答えることができました。
100円の3割が30円だからその7倍と考えたわけです。

700円の3割合は、1円の3割が0.3円でその700倍と発想しようが、700円の0.3倍と発想しようが、どちらでもいいはずです。

「比べられる量=もとにする量×割合」のみを正しいとすることで、自分なりに一生懸命考えて正しい結論に至った子が「その式は違う」と言われて混乱する可能性があります。

密度や速さも、体積や時間の方を(1あたり)とみなす捉え方は可能です。

私自身は、小学校3年か4年のときに「あれ?割り算に2種類あるな、20を4つに分けるのも、20の中に4がいくつあるのかも、両方20÷4だ、へ~、面白いな。でも、どちらも4に何を掛ければ20になるのかということだから、同じなのは当たり前だな」と思った記憶があります。http://suugaku.at.webry.info/201102/article_17.h …

 もし私がかけ算の順序だの(1あたり)と(いくつ分)の区別を執拗に言われていたら混乱したかも知れません。

 (1あたり)と(いくつ分)の区別など意識しなかったのでその後も柔軟に考えることができたと思います。

体積5の真空容器に期待を充填していく。密度が3のときの質量は?密度が1増える事に質量は5増えるから、と考えることができます。

3時間歩く。時速1kmだと3km、時速2kmだと6km、・・・、という発想が絶対間違っている、とは思えません。

割合、密度、速さであっても、順序に拘る必要はありません。それぞれの意味を理解さえしていればいいわけです。
ところが、順序まで指定されると結局は公式を暗記することになりかねません。

「みはじ」「はじき」「くもわ」などを教え込み、それに当てはめることで「理解した」とされているのが現状ではないでしょうか?

「これ何算?」という子どもの問いにしても、

結局、問題に対して答えを出すことのみに全力を傾ける、答えさえ出せるなら、間違った考えでなければ、どう考えたっていい、自由に考えればいい、

とはなっていないで、

問題に対する答え方の「型」があって、それに当てはめるのが算数・数学となってしまっているからだと思います。

しかもそれが、「答えさえ合えばいいのではない。考え方が大切です。答えに行き着くまでの過程が大切です」という美辞麗句によって正当化されているのです。

3時間で120km進む。6時間では?

速さの概念を理解してしまっている子は見た瞬間に、120×2で求められることが分かりますが、そうやって解いたらバツになったという事例を聞きました。

120÷3=40 と速さを出して 40×6=240 とするのが「正しい方法」だそうです。



■順序の「効用」について

順序に拘る教え方をする人やそれを擁護する人には、「本当に正しい順序がある」と固く信じている人と、「あくまで教え方として順序が有用」という人がいます。

前者はかけ算を理解していないと言えます。後者とは議論が可能です。

しかし、「順序を意識させることでかけ算の意味の理解が促させる」ということであれば、「本当に正しい順序がある」と固く信じている人の存在を説明できません。順序によって理解が促されたなら「順序は関係ない」となるはずです。

また、嘘を教える以上、その正当化のためにはそれなりのデータなり納得できる論拠が必要だと思いますが、

「発展段階を考慮して順序を指導するのが望ましい。」という「定説」を繰り返し聞かされるばかりで、順序を指導しなかった場合と比較してどれだけ効果的であるかのデータは見たことがありません。

教師自身が「なぜかはよく知らないがとにかくそう教えることになっている」となってしまい、「ずつが先」だの「単位のサンドイッチ」だのかけ算の理解とは無縁な教え方をしています。「正しい順序」が手段でなく目的になってしまっている証拠です。

「長方形の面積にまで順序に拘ったり、『ずつ』やサンドイッチは邪道だ。適切な授業であれば、順序は有用だ」

という意見もあるかも知れませんが、

その理屈で言えば「順序はどうでもいい」も優秀な教師が上手に教えれば素晴らしい授業になるでしょう。

ちなみに↓のような実践例もあります

北海道算数数学教育会小学校部会
http://hokkaido-sannsuu.com/s_sidouan.html
http://hokkaido-sannsuu.com/pdf_sidouan/02/2nenk …
>自分が計算しやすいように1あたり量を任意に決めてかけ算を使う経験の積み重ねが、乗法による処理の有効性に気づかせ、生活に生かそうとする態度を養うことになる。
>式から形式的に交換法則をとらえるのではなく、「前から見ると…」「横から見るとと…」などと1当たり量を柔軟にとらえる見方こそが大切である。




■ネットでの議論が可能になったことは素晴らしい

何かの団体や研究会に所属しなくとも、地理的制約もなく、お互いに素性も知らず、利害関係やしがらみもなく、誰もが見れる環境でこういうことが議論できるのは素晴らしい。

私は算数教育については素人だが、素人が意見や疑問を言うことが一般的に否定されてはならないと考える。
電力会社関係者以外も原発について意見を言っていいと思う。


■「順序はどうでもいい」は私だけの意見ではない

「順序はどうでもいい」は私が独善的に持っている理由でない。旧帝大の数学や物理の先生だって言っている。
遠山啓だって言っている。http://blogs.yahoo.co.jp/satsuki_327/33805606.html
都立大・理学部数学科の教授だった荻上紘一(wikiによれば中教審委員らしい)が、数学科教育法の授業の中で、最近(=1980年代)の小学校では、掛け算の順番が逆だと不正解にするが、それは数学的におかしな話しだ!ということを熱弁していたという証言もある。

 しかし、私が「順序はどうでもいい」という根拠は、「大学の数学や物理の専門家が言っているから」ではない。自分なりに根拠がある。だから、「それについてはこの人の意見が参考になるよ」ということはあっても、「順序はどうでもいい」という主張の責任は自分自身にあると思うので、「順序はどうでもいい」に対する疑問や批判に対しては、極力自分の責任で答えたいと思う。

 「順序は有用」という方も、「算数教育業界ではそういう考え方が主流だから」というのはおいておいて、自分自身の根拠を述べて欲しい。

 「ハンセン病での隔離政策」「運動中は水飲むな」などの事例は、主流や常識だからということで、十分な検証をしないことの危険性を示していると思う。
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(承前)


 算数は、「りんごが何個」、次にみかんと混ぜて「果物が何個」、という風に進んで行き、「物が何個」と扱う数を抽象化していきます。その先には「自然数」というモノを離れた概念があります。この方向に導いていくわけです。しかし、そこで学んだ技法はいろいろに使えることも分かってもらいます。たとえば「理科では算数で習ったことが使えるんだな」とかね。でも、相変わらず掛け算に順序がある意味は出てきません。

 このように、後々のことを考えても「掛け算に順序はない」のです。

 掛け算を習い始めた子どもの目線に戻りましょう。ここが一番大事ですから。
 問題を「お皿が3枚あります。一つ一つのお皿にはりんごが2個乗っています。りんごは全部で何個?」にしましょう。書いた掛け算の式の順序はどうあれ、答は6個です。
 九九も習いますね。筆算や暗算で掛け算の便利性、威力を発揮するには九九は大事です。2×3二三が6、三二が6。どちらも6。

 気づく子もいますが、「どうして順番が違うのに同じ6なの?」と聞いてくる子も少なくありません。
 これは説明するより見せたほうが早いです。りんごを6個用意できるとしましょう(なければ、おはじきでも碁石でも、とにかく同じものが6個あればいい)。
 りんごを3×2の長方形っぽく並べます。

  ●●●
  ●●●←
   ↑

 この図で下から見れば、3個ずつ2列で6、90度回って右(つまり今度はこっちが下)から眺めると2個ずつ3列で6ですね。
 こうして、「あー、掛け算の順序って見る向きが違うだけで、同じことを言ってるんだ」と気づいてもらえれば、疑問解消は成功です。

 だからといって、掛け算を習い始めたこどもに、最初から「順序は逆でもいい」と積極的に教える必要もありません。一度にたくさん教えないことも大切です。自分で気づいた子は大いに褒めてやればいいですが。

 また、どの先生も教えるときは同じように教えたほうがいいです。子ども同士で掛け算の話をして、こっちの先生とあっちの先生で教えたことが違うとなると、子どもも戸惑います。何せ、まだ表面的なところで四苦八苦しながら学んでいるのですから。

 さらに、少数かもしれませんけど、「掛け算だと思うけど、どれから式を書いていいか分からない」という子もいるでしょう。そのときは、仮だとしても、その子が分かりやすいルールを決めてあげればいい。ただ、決して悪しき指導書通りをそういう子ども誰にでも押し付けてはいけない。あくまでも、その子が考えやすいように、が大事です。

 そうだとしても、依然として「解答欄の掛け算の式の順序だけを見てペケを付ける」ことが、間違いだし、罪作りであることに変わりはありませんが。
 式は抽象化されたものですから、書いた意図は表せません。式は国語の文章ではないのです。むしろ、国語から算数に必要なものだけを抜き出して書くのが式です。

 式の意図は式を書いた子しか知らないのですから、子どもに意図を聞かずして、式だけから大人が子どもの意図を勝手に決めつけてはいけないのです。子どもに意図を聞かなければいけません。そうせねば、子どもを惑わせ傷つけてしまいます。

 教育は分かってもらい、さらに考えて行けるように導いて行くものであって、逆をやってはいけません。子どもの目線から立場から外れたら、もう教育ではないと言っていいでしょうね。
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 この「掛け算の順序」は繰り返されてきたものですね。



 きっかけは、1960年代の国の指導要領で、掛け算に順序も加えて教えたほうが良い、という記述があったことに由来しているかもしれません。ただ、その後の指導要領では、その記述は削除されています。
 しかし、検定教科書を出版する会社は、教員向けの副読本として教科書に一対一対応する指導書を出しており、算数についてはその多数が「掛け算の順序を教える」という記述があり、多くの教員が疑いもせず、指導書通りに教えているようですね。

 多くの教員がどれほど指導書にべったり沿って授業をしているか、私個人及び友人らが、中学校の時に実体験しました。指導書を手に入れることができたのです。赤本と呼んでいました。
 指導書には、基本的に教科書そっくりです。そして、教員用に赤い字で教え方が書いてありました。
 私が接した中学校の先生の全てが、まるで一言一句を暗唱するように、赤い字通りに喋っていました。そこから結構逸脱するような質問をしたりすると、先生は大抵答えられませんでしたね。
「もう、授業いらないや。教科書は赤本読んだ方が早いし、もっと詳しいことは参考書読めばいいし、それから問題集やればいいし」と思ったものです。

 算数の掛算に順序があるべきという人に、算数の生みの親である数学ではどうか、と問うと、さすがに皆さん「いや、それは順序はない」と仰います。
 ただ、算数は数学にはないルールもあるべきなのだ、と付け加えて、いろいろ言い始めはしますが。算数は数学に含まれる部分と、そうでない独自性があるよ、と言いたいようですね。その大義名分は「子どものために」です。

 そうでしょうか? 掛け算の順序が、授業で教えた通りでなく、逆にして計算式を書いた子に、無条件でペケにするのは、子どものために良いことでしょうか?
 掛け算に順序があると主張する人は、「式には意味がある。掛け算の順序もそうだ。だから、逆の順番で書いた子は問題の意味を分かっていないから、ペケにしてあげるのが、その子のためになる」と言います。さらに、「順序を気にしない子は、とにかく出てきた数字をどう扱うか考えもせず、とにかく掛け算してみただけのダメな子だ」とさえ言います。

 本当にそうでしょうか? 掛け算の順序を授業で教わった通りに式を書かなかった子は分かっていないんでしょうか。どうも私が知っている範囲では、どうして先生の思っている順序と逆に書いたか、その子に聞いてみたということはないようです。逆に私が知っている限りでは、書いた掛け算の式の順序はともあれ、子どもに聞いてみると「(数字を指して)この二つはは足し算じゃなくて、掛け算だよ。足し算とは意味が違うもん」と言います。

 新聞に紹介された事例でこんなのがあります。
 問いは「うさぎさんが3羽います。お耳は全部で何本?」です。
 これを3×2=6と子どもが書くと、先生はしめしめといった嫌な意味で嬉しそうな顔になり、見るからに怖い不気味な3本耳のうさぎが2羽いる絵を子どもに見せて言います。

「その掛け算の式だと、こんなことになっちゃうよ~!」

 さらに、「たこさんが8匹います。足は全部で何本?」と問います。
 子どもが、8×2=16と書くと、また先生はしめしめと陰険に嬉しそうになり、8匹の2本足の薄気味悪いたこのような絵を子どもに見せて言います。

「その掛け算の式だと、こんなことになっちゃうよ~!」

 子どもはびっくりしたり怖がったりして、「そうか、掛け算の順番を間違えると、怖いんだ」と言います。本気でそう思ってしまいます。
 掛け算を習い始めたくらいの年齢の子どもは、大人、特に先生は正しい、いいことを教えてくれると無条件に信じています。大人である先生が教えることに必死で付いてこようとしてくれます。

 まあ、ときには天邪鬼もいるし、間違いを見破ることもありますが、何せ掛け算を習い始めたばかりです。そういう子どもは、どこに嘘があるかなんて分かりません。

 掛け算の順序がどうであろうと、問題を聞いたり読んだりした子どもは、ごく自然にごく当たり前の2本の耳のウサギを思い浮かべています。多くの子どもの思考を追うと(これは実際に聞いてみれば分かりますので、こどもに聞いてみてください)、

「うさぎさんが3羽だ。うん分かった。白いうさぎさんかな、まあ色は関係ないかな。えっとそれで、うさぎさんは長い耳が2本あるな。1羽に2本だ。よーし、数字は3と2か。これって、足し算かなあ。いや、うさぎさんと耳は足せそうにないぞ。引き算でもないみたいだ。あっそうか分かった、掛け算だ。3×2でいいんじゃないかな」

というようなことを言います。まあ、子どもによって表現は違いますし、まだ習い始めたことだし、表現力も未熟なことも多いですから、行きつ戻りつの説明だったりしますが、聞いたこちらが整理してみると、上記のような感じということですね。

 習いたての事とて、まだまだ考え不足だったりもするでしょう。それでも、やっとの思いで、脇道を行きつ戻りつ、なんとかゴールまで来たんですから、書いた式の順序がどうであれ、褒めてやらねば子どもが可哀そうです。

 こういうことを言うと、掛け算順序派は、式には意味がある、と言い始めます。「基本として教える二つの数の掛け算では、最後の答にある単位を考えて、掛け算の最初に書く数はその単位でなければいけない」と言うのです。
 これだけ聞くと意味不明なルールですが、さらに聞いてみると、数に付いている単位というものを分かっていないようです。うさぎさんが3羽、の例で言うなら、

「『2(本)×3=6本』であるからにして、『3(羽)×2=6羽』ではおかしい」

と言うのです。頭が痛くなってくる間違った説明です(サンドイッチ法という、ごリッパな名前の教え方らしいです)。単位を理解して、それを持ち出してくるなら、こう言うべきです。言えなければ、単位を分かっていない。

「『2(本/羽)×3(羽)=6本』も『3(羽)×2(本/羽)=6本』も、羽という単位が消えちゃうから、同じだね」

 もちろん、掛け算を習い始めた子どもに、こういう単位という概念を持ち出してはいけません。割り算を習い、分数を習い、割り算と分数は同じだと理解し、そうして初めて「本/羽」という単位があると理解でき、さらに「単位は数と同じように割り算できて、答では消えてしまう単位もある」という風に進んでいきます。そこまでは、結構遠い。

 こうしたことは、算数では面積で薄々勘づく子もいるでしょう。長方形の面積は、縦と横の長さを掛ける。どっちもセンチで表す。すると「平方センチってセンチとセンチを掛けた、なんか不思議なものだ」とかね。そして、平方センチの面積とセンチの縦の長さが分かれば、割り算で横の長さがセンチで分かることも知る。
 そして、長方形は90度寝かせれば、縦と横は変わります。縦とか横とか、便宜的なものでしかないですし、子どもも気が付きます。三角形だって、高さが分かりやすいように便宜的に対応する底辺を決めますけど、同じ三角形のどこを底辺にしても面積変わらないことは、子どもだって当たり前に分かります。ここに掛け算の順序に意味はありません。

 こういったことは理科の授業や実験で、単位について気づく子もいるでしょう。算数は、基本としては数について具象からだんだんと抽象に進んでいくものですが(特に中学校で数学と名前が変わると、特にそう)、理科ではあくまでも数が表す実体に即しますからね。
 算数と理科は不可分ですけど、数の扱いについては目指す方向が違うとも言えます。計算技術としての算数はモノから離れて自由に数を扱えることを目指し、理科ではあくまでも数に付随するモノの意味(注目している点と言い換えても可)にこだわります。

 理科では、計算するとき「それで単位は合ってるの?」ということが大事ですから。単位も書き出してみた計算式で、答の単位がおかしければ、どこかで計算を間違ったことに気づくことも多いです。これは、後々に高校や大学の、そうですね特に物理などで大事です。ある現象について式の形を考えるとき、単位だけで式の形が分かることも多いのです。次元解析と言ったりします。ここまでずっと進んできても、どこにも掛け算の順序に意味はありません。
(続く)
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もう終わりにしたかったtosa-bashです。

sekibunnteisuu様からの問いがありますので、前言を覆してもう一度登場することにします。明日からしばらく自宅を離れますので、本当に「この件は最後」です。

>いつ…(中略)…これからは好きな順番で式を書いてよいのだと教えるのでしょうか。

文章問題での立式に限ってお答えします。(ドットが矩形に並んでいるような場面は除きます)
基本的に、小学校の間は「この順序での立式」で通します。立式の順番が「どうでもいい」と言うことはありません。
理由を述べます。

上級生になっても立式の根拠に「1あたりの量、いくつ分の量、全体の量」の判別を使うからです。
例えば、5年生では「1Lの重さが1.2kgのハチミツがある。2.4Lの重さは何kgか」というような問題に出会います。この場合、かけ算になる根拠は「1あたりといくつ分が分かっていて、全体の量を求めるのだからかけ算」ということになります。同じ状況で6年生では1.2kg、2.4Lが分数になりますが、「かけ算になる」という根拠は全く同じです。
数の意味を小数・分数にまで拡張しても整数と同じように乗除が成り立つという理解で小学校の乗除計算は完成です。ですから、6年生まで「1あたり×いくつ分=全体」という基本線が続くことになり、教科書には5年生にも6年生にも「1あたり×いくつ分=全体」に類する記載があります。これは「必ず」あります。
もう一つ、小学校で出てくる公式、例えば速度に関する公式や割合に関する公式の第二用法「道のり=速さ×時間」も「比べられる量=もとにする量×割合」も、基本的に「1あたり量(基準量)×いくつ分(割合・倍)=全体の量(比較量)」のように、「等分除で求められる商×包含除で求められる商」の順番になっています。

かけ算の順番にこだわることは「日本語の順番に従ってのこと」と述べました。イメージしやすい普通に使う言葉と関連付けるのが子どもたちの感覚に沿った道筋だと思うからです。問題文に出た順番で立式する子どもに指導を入れるのは、場面を考えずに機械的に式を立てる子どもがいるからです。先の学習を考えれば、問題中の数値が1あたりか、いくつ分か、全体量かを見分けて立式してほしいということです。小数同士分数同士の計算になっても演算決定に活かすことができるからです。

例を示したほうがいいでしょうね。「1Lの重さが1.2kgのハチミツがある。2.4Lの重さは何kgか。」「1Lの重さが1.2kgのハチミツが2.88kgがある。何Lあるか。」「2.4Lの重さが2.88kgのハチミツがある。このハチミツの1Lは何kgか。」、この3問は同じ状態を未知数を変えて作っています。子どもたちが「何算か」を何で判断するか。数値の意味の理解です。それが分かったら、言葉の式や既習の学習で立てた式に当てはめて立式させます。
直感的に「何算か」を判断できる子どもにとっては不要な道筋だろうと思います。でも、「これは割るの?かけるの?」と問う子どもたちには、2年生のかけ算導入からの道筋に沿って判断材料を示していくのが教師の役割です。

「順番は固定ではない」ということの例ですが、3年生以上になればかけ算も九九表の範囲から出ます。問題文を読んで1位数×2位数で立式して筆算しようとした場合、「逆でも答えは同じ」と2位数×1位数にさせることとか、比例の式の学習で「いくつ分が定数」になった時まで「一あたり×いくつ分」の順番にこだわったりしないことを意識して述べました。学習が進めば文字式で×や÷を使わないとか、定数が先だとか、帯分数を使わないだとか、新たな約束事で学習が進むことは当然です。数学の世界では普遍的な形だからと言って円の面積を「円周率×半径×半径」とはしません。これまで作り上げてきた研究・実践、それから常識のように受け継いできたことを文化として伝えていくのが小学校の使命だと思っています。

これまで私が言ってきたことは、私が独善的に持っている理論ではありません。先人の知恵に基づき、小学校教科書6社の記述に沿った内容です。世界的にはローカルルールでしょうが、日本の中では典型であり一類型といえます。算数教育については幾つかの研究団体が毎年全国大会・支部大会を開いています。私も何回か参加してきました。今は校長ですが、校長になってからも全国大会・支部大会に参加(毎年ではありませんが)してきました。研究団体が違っていても、「問題文に出た順番に立式すればよい」という研究発表・実践発表に私は出会ったことはありませんし、どこかにあったとしても非常に少数だと思います。それは「教育現場がおかしい」と思われる方もいるかもしれませんが、実情は「こう」です。

sekibunnteisuu様のような異論があるのは当然です。提案ですが、毎年どこかで何回か開かれる研究大会で議論してはいかがでしょうか。「かけ算の導入はどうあるべきか」「整数から小数・分数の乗除への拡張はどうあるべきか」を見通した意見を提案していけば、「系統性のある意見」として研究協議の対象になります。それをもとに理論を高めていけば、更に良いアイデアにつながると思います。

学期末の開放感から、宴会後の、やや酩酊状態から送信をお許しください。
本当は、議論は嫌いですが、「おかしい」という人に考えを工夫して伝えることは嫌いではありません。その人から思いもかけないようなアイデアをもらえるからです。
ということで、参加しました。乱文をご容赦ください。
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一概に生徒の出した答えを書き方が違うからと不正解にするのは私も反対です。


どうしてそのような回答になったのか理由を聞き、考え方があっていれば正解とするのは理想的だと思います。

ただ、数式がただの数字と記号の羅列なのではなく、説明文なのであると意識づける為には良い題材だと思います。
今はお菓子の総数を知りたくて、2個の固まりが5つあるから2×5なのだと。
説明文は相手に説明できなければ説明にはなりません。そこには共通のルールがなければ、数学と言う言語でやりとりをすることは無理でしょう。
小学校を卒業し数学や物理を学ぶと数式には更により多くの決められた書き方があります。
その決められた書き方の意味がわかれば、学問の本質の理解を助ける事になると思います。
例えば物理学の“説明文”では多くを(原因)=(結果)と表現します。青いから空なのではなく、空だから青いのだと。
物理を専攻した上で、逆に書いても正解じゃん!だって答え一緒だよ!と主張する人は本質のわからない可哀相な人と言う目で見られます。

確かにこれに関しては小学生に教えれば混乱しか生まないと思うので教える必要はないと思いますが、
“数式は説明文である”と小学生から意識する事がその後さらなる学問の理解へと繋がると思います。
“何をどう考えその式にしたのか”を子供達が考え説明できるような教育は必要でしょうね。
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nobody1212さんが17番で「数式は説明文です」といい、tosa-bashさんが算数国の言葉に翻訳するといっていますが、暗に、説明や翻訳の仕方を恣意的に一つだけに統一しようとしていることはとても同意できません。

tosa-bashさんが5が2つとある問題文を簡約されましたが、その問題はてんむす式だと2つの5と表現できます。繰り返しますが、説明や翻訳は一つとは決まっていません。無理に一つと決めれば、採点者・教える側は理解しやすいという利点があるかもしれませんが、児童・回答する側は説明しにくい、説明が受け入れてもらえないという明らかな弊害がでてしまいます。

<引用>5人に1個ずつ配る事を2回繰り返すのは、5×2よりも5+5の方がより正確な式の書き方になりますね。</引用>
nobody1212さんはより正確とおっしゃいますが、どの点で5 x 2は不正確でしょうか。掛け算で表現できることを足し算で表現しなければいけない理由はありません。5は[個/トランプ式配り方の回数]という単位の量で、2の単位は[トランプ式配り方の回数]だという説明を聞いてもその考えは変わりませんか。

「とある掲示板」(siffon9さんの質問ポスト)によればこのような考えこそバツをくらった小学校2年生の考え方だったのです。「単位のサンドイッチ」がちゃんとできています。百歩譲ってこの子が式で表現しようとしていた発想を説明する文なり図なりがないことを咎めることが正当だとしましょう。その場合は、当然2 x 5と書く児童にも同じだけの丁寧な説明を求めなければなりません。そうでなければある特定の考え方だけを不当に優遇していることになるからです。なぜ不当かといえば当然どちらの発想でも正解に至るからです。


<引用>例えば、A=BとB=Aは同じように見えますが、
空=青と青=空を比べると後者は何だかもやもやしませんか?</引用>
この場所でてんむすが読んだ限りの掛け算順序派のポストの背後にある考え方を、例えばnobody1212さんご自身のコメントに当てはめてみましょう。私が問題だと思うのは説明がない場合には、記号やその用い方は読み手が自由に解釈してよいという考えです。つまり恣意的な一対一対応です。上の引用文で無前提に述べられているので当て推量で「=」とは等号のことだとみなします。まったく同様の当て推量で「空」は雲の浮かぶそらのこと、「青」は青い、だろうと考えます。

そこでこの二つを数学の記号である等号で結んだ「空=青」と「青=空」を検討します。まず「そら」と「青い」を前者に代入します。「そら」等号「青い」。また後者に代入すると「青い」等号「そら」。

「同じ」ということはいろいろな検証の仕方があるのですが、ここではまったく恣意的に真理値が同じであれば同じであると認めることにします。また自然言語の単語の関係にどう等号を認めるかですが、また恣意的に最低でも品詞が同じでなければならないとします。いま「青い」は形容詞、「そら」は名詞ですから、「そら」等号「青い」の真理値は偽です。また「青い」等号「そら」も偽になります。結論は前者と後者は真理値が等しいので同じである、です。

あれ、空=青と青=空を比べることはA=BとB=Aは同じであることの反例じゃないじゃないですかーーー。いやー、恣意的な記号操作って本当に恐ろしいですね。このような暴力を小学生に対してふるってよいとは私には思えません。

ちゃんと親切に説明するなら、こういうことです。算数でも使う等号は左右入れ替えても意味が変わらないのです。これは定義です。広く適用される約束事では左辺に計算前の式、右辺に計算後の値を入れたり、左辺に関数の名前、右辺に関数の詳細を書くことになっていますが、これらはただ横書きの文章は左から右へ読むという制約にしたがった慣習で、右辺に式を置く表記の方が都合がよい場合もあります。その場合には慣習を逸脱することになんの制約も儲けるべきではないでしょう。

A=BとB=Aは絶対に同じであり、左右入れ替えても同じでないものを等号で結んではいけないのです。空=青は本当は「そらは青い」という日本語の文を表現したものなのでしょう。これなら「青いはそら」または「青いものはそらである」のような入れ替えはおかしいという判断は正当ですね。ただしこの様な関係をより記号っぽく表現するなら等号ではなく集合の要素を表す記号を使うべきです。すなわち空∈青。これと青∈空は同じではありませんから、やはり、∈記号を使う正当さが確認できます。それでは「は」はいつでも∈に置き換えられるかというとそうでもないのでこの話題はこの辺にします。

集合論への脱線はともかく、乗算記号×や加算記号+は左右を入れ替えても意味は変わりません。変わったように見えるのは見え方、いわば錯覚です。本当は同じなので、都合や脈絡に合わせて自在に見え方をかえることは大いに奨励されてよいのではないでしょうか。一つの見方を強制するより複数の見方ができるように力づけることの方が、教師としてはより意義深い活動だと感じるはずだと、教師でも何でもないわたくし・てんむすは思いますが、この場ではそういう教師には会えないのでしょうか。
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数式は説明文です。


例えば、A=BとB=Aは同じように見えますが、
空=青と青=空を比べると後者は何だかもやもやしませんか?
5人に1個ずつ配る事を2回繰り返すのは、5×2よりも5+5の方がより正確な式の書き方になりますね。
子供達全員が将来理数系に進むとは思いませんが、小学生のうちからこのような感覚を育むのは重要かと思います。
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tosa-bashさん(15番)は少なくとも導入段階では掛け算の順序をローカルルールとして適用する先生のようですね。


<引用>私は「新たに学ぶかけ算は、どんな知恵で成り立っているか、どう子どもたちに伝えていくか」という乗法指導初期の段階、導入段階をもとにして回答してきたつもりで、算数・数学の学習が進み抽象的になったときの乗法の「乗数・被乗数の順番」まで固定的に語ったわけではありません。</引用>

それでは、tosa-bashさんは、いつ「乗数・被乗数の順番」は方便だった、君たちはもう掛け算をマスターしたのだからこれからは好きな順番で式を書いてもよいのだと教えるのでしょうか。それまでは正しいと教え、順番どおりに書かない答案は不正解にしたり再指導で介入するのでしょうから、いつかはそれは正しくない(すくなくとも普遍的に妥当しない)ものだと教える必要があるはずですけれど。

わたくし自身が小学校で掛け算の順序を教え込まされたときは、担任教師独自のやり方かと思ったものですが、この場所で回答を書くにあたり色々調べると、日本全国で掛け算に順序が必要だと唱える先生が多いことにビックリしました。tosa-bashさんは順序を必ずしも固定的とみなしていない旨お書きですから、いつから順序を流動化させておられるのかご教示くだされば幸いです。
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何回か回答したtosa-bashです。



困りましたね。ここは議論する場ではありませんし、私もそんなつもりもありません。ですが、私が回答した内容が私の意図した理解を得ていませんので、もう少しだけ伝える努力をさせてください。
これで力が及ばなくても最後にします。

私は「乗法ではずっと被乗数・乗数の順番は決まっている」と言っているのではないのですが…。これは「逆に書いたら誤答にすべきか否か」が関係しているので、一般的にこの議論は感情的に難しくなっていますが、私は基本的には「Y=aX」のaとXを逆に書いたことを「どう扱うか」と、最終的にはそんなに差はないと思っています。
私は「新たに学ぶかけ算は、どんな知恵で成り立っているか、どう子どもたちに伝えていくか」という乗法指導初期の段階、導入段階をもとにして回答してきたつもりで、算数・数学の学習が進み抽象的になったときの乗法の「乗数・被乗数の順番」まで固定的に語ったわけではありません。
算数の中にある人間の知恵・見方・考え方を、どう子どもたちに伝えていくかが多くの小学校教員の課題で、特に私にとっては、子どもたちの中にある感覚や自然に発している言葉が私の関心事・研究テーマになっています。

言語表現の件ですが、確かにsekibunnteisuu様がご指摘のように、日本語での表現も一つではなく、様々な表現があります。しかし、長年子ども相手に仕事をし、数多くの子どもたちに接していると、その成長段階にある子どもにとって、どのような表現が自然に多く出てくることで、一般的かを感じてきます。それを基本にしているのです。少し極端な例になりますが、例えば50程度まで物の数を数えることのできる幼児の例をみてみましょう。おはじきを数えていて、自分の数えることのできる範囲を超えた時、あきらめる子どももいますが、中には3個とか、自分でパッと把握できる数でまとまりを作っていく子どもがいます。そんな子どもに「おはじきはいくつある?」と問うと、「分からない」という子どもたちの中に「3つが○つある」と答える子どもがいます。それが自然な表現だと思います。「調査」というほど多数ではありませんが、そういう表現との出会いの経験が私の基本です。
もう一つの側面です。例えば8個のおはじきは、大人でも「一目で見て8個と分かる」ことは困難で、数えて確かめることになります。でも、2個ずつのまとまりが4つあったら、2年生の子どもたちでも大多数がパッと見るだけで絵に描いたりして再現でき、九九を知らなくても総数まで数えて分かります。それは「2が4つ」と覚えることができるからです。だから、そんな覚え方をもとに「2が4つ、これは便利な見方だね。それを算数の世界では2×4と書くのですよ。」と位置づけます。そして「2が4つ、2×4と同じように表せるものを探してみよう」と進めるというのが私の中にある「かけ算導入」の流れです。
そんな見方が「かけ算にかかわる人間の知恵」だと思います。そういう知恵・見方・考え方を伝えるために、導入段階では「基本文型として順番にこだわる」のだと、私は思っています。

今回のお菓子の問題で、数字の出た順番通りに立式したことを「○にするか×にするか」は私も問題だと思っていますが、「是か非か、一言問うか放置するか」に関して私の考えていることの根本は以上のようなことです。
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私も算数が専門なわけではないので、途中からよくわからなくなってきましたが…。



2年生という発達段階も関係しているのかなぁと思いました。
つまり、4年生なら理解できることでも、2年生には理解できないのだと。

4年生の算数で出てきたと思うのです、確か。

例えば、
「100円の鉛筆5本と、50円のけしごむ5個を買う場合の値段の合計」
というような問題です。

図で考えると、(○=鉛筆、×=けしごむ)

   ○○○○○
   ×××××

なら、
縦2個をワンセット(鉛筆一本+けしごむ一個)という考え方でもいいし、
横5個(鉛筆5本、または、けしごむ5個)をワンセットという考え方でもいいわけで。

「いろいろな"ワンセット"が作れるね、いろいろな考え方があるね」
というような方向で教科書には書かれていたと思います。

つまり、2年生の段階では、
「2個ワンセットを5人に配る」というワンパターンにとどめ、
「1個ずつ配って、再度配る」という「別の見方」はあえてさせないのだと思います。
混乱させないために。

「5つの2」が理解できるためには、その「2」がバラバラのものではなく、「ワンセットだ」という意識が必要ですが、
そのようなイメージは、2年生にとっては「抽象的」であり、
「2が5つ」の方が、
2年生にとってイメージしやすい、のではないでしょうか?

ではなぜ、
「5つの2」をバツにするかといったら…これは想像ですが、
頭の良い子たちはいいのです。でもそうでない子たちにとっては、
「どういうイメージかなんてどーでもいい、問題文も読まなくていい、問題文に出てくる数字だけ拾って掛け算すりゃーいい」
なんてことにもなりかねないからかな?と思います。
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