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旧国名(讚岐、信濃、安房、下総などなど)と都道府県名とは違います。
都道府県名で、旧国名に由来するものはないと思います(もしあってもごく少数でしょう。※1)。

もし私が道府県名を付けるとしたら、讃岐県(今で言う香川県)や信濃県(長野県)のように、今まであった国名をそのまま付けると思います。
確かに、旧国境と道府県の境とは一致しないかもしれませんが、大体あっていれば「境が変わった」と言えばいいだけのことです。千葉県のように、上総・下総・安房が組み合わさるところは、「房総県」のように名付けるでしょう。

旧国名と都道府県名が異なるのは、何か意味があるのでしょうか。
意図があって、変えたのでしょうか。



※1 「北海道」の「海」という字は「蝦夷」と関係あるという話を讀んだことがありますが、そうだとしても質問の趣旨には影響しないと思います。

A 回答 (4件)

憶測の域ですが・・・旧国名は江戸時代までの体制下での地方行政区分でしたが、明治維新当時の新政府にとって、旧政治体制の象徴的なものの一つと感じていたのではないでしょうか。



藩を廃止し県を置く事で幕藩体制の終わりを国民にまで認識させました。
新しい県を旧国単位に近い区分で併合させましたが、この時点で讃岐県知事・信濃県知事を任命すると、讃岐守・信濃守を連想させ江戸時代の行政区分や職権と変わりのないものと受け取られては困ると考えていたのでは?

現在の形に近い県体制になった時に付けられた県名は県庁所在地(旧藩県名・郡名)に由来するものが大半かと。
この時、旧藩県名と郡名のどちらかを選ぶ選択をする際に、維新当時の倒幕派の藩の藩県名を新県名に当て幕府寄りの藩の藩県名は新県名に用いられなかった・・・つまり薩長中心の明治新政府の意向が地方行政区分にまで影響したという話を「宮武外骨」が残しているそうです。
残念ながら私は当該本を読んだことがありませんので、宮武外骨がそう記した根拠(なんらかの文書など)は解りません。
ですが、少なくとも県名制定時点ではマダマダ維新前の対立関係が中央地方行政にも影響を及ぼしていたであろうことは十分考えられます。
旧国名を新県名に当てなかったとういう理由には、その様な意味合い(国名=旧体制区分という概念)もあったのかもしれません。

この回答への補足

「国」とは改新の詔とか律令制のころからあったわけですから、
明治維新を天皇中心の政権の復興と考えると、私なら、むしろ「旧国名」を復活させようとしたでしょう。


>藩を廃止し県を置く事で幕藩体制の終わりを国民にまで認識させました。
>新しい県を旧国単位に近い区分で併合させましたが、この時点で讃岐県知事・信濃県知事を任命すると、讃岐守・信濃守を連想させ江戸時代の行政区分や職権と変わりのないものと受け取られては困ると考えていたのでは?

やっぱり人心一新ということでしょうか。

>この時、旧藩県名と郡名のどちらかを選ぶ選択をする際に、維新当時の倒幕派の藩の藩県名を新県名に当て幕府寄りの藩の藩県名は新県名に用いられなかった・・・つまり薩長中心の明治新政府の意向が地方行政区分にまで影響したという話を「宮武外骨」が残しているそうです。

下のページに書いてある「倒幕派のいたところは県名と県庁所在地名が一致するが、幕府側がいたところは県名と県庁所在地名が一致しない」(←例外はあるようですが、大体において。)という話のことをおっしゃっているんだと思います。

http://homepage1.nifty.com/keimurata/mm/b/09/mm3 …
http://oy2003.hp.infoseek.co.jp/zatugaku(2).htm

福島県は(県名と県庁所在地が一致するが)「本来の中心都市は郡山であったのに寒村の福島に県庁を置かされた最も厳しい処分を受けた県である。」だそうです。



これまでの皆さんのご回答や私の調べたことを元に、とりあえずまとめさせてください。

・廃藩置県で、藩を廃して代わりに県を置いた(3府302県)。(藩はたくさんあったわけだから、県が今よりもたくさんあったのはむしろ当然のことだった。) 廃藩置県だから、藩の名前を付けるわけにはいかなかった。
倒幕派の藩の場合、各地の中心都市に県庁を置いて、県とした。そのとき、県名に、県庁所在地(中心都市)の名前を付けた。(これは自然の成り行きだなあ。)
幕府寄りの藩の場合、県名には郡名や山川の名を使わせた。(藩の時代から中心都市は中心都市なのだから、中心都市の名前を付けると、その中心都市(つまり藩)が支配する県のような印象を与えてしまう、ということだろう。)

・県は「国」を参考に統合されていった(http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=747974の回答No.4)。しかし、県名に国名を復活させようとはしなかった。
(県は廃藩置県の流れを汲んでいるのだから、わざわざ旧国名を付けようとしなければ、旧国名は付かなかったということだろうか。また、せっかく付いた新しい名前をやめて旧国名を付ければ、古い時代に戻ってしまう印象になってしまうということだろうか。=「人心一新」)

補足日時:2004/01/11 23:23
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単純に旧分国目をそのまま県名にすることはできなかったのではないでしょうか。


現在の県域と旧分国は一致するとは限りません。
たとえば、武蔵国は現在の東京都、埼玉県、千葉県、神奈川県に分かれています。

この回答への補足

どうも、調べていくと、
次のページによると、

http://ku0811.hp.infoseek.co.jp/newpage-kokudo.h …

「1-9 愛知県はなぜ名古屋県じゃないの? 大阪府はなぜ大阪県じゃないの?県名の決め方,府と県の違いとは」
の中に
この質問に関することが書かれていました。
「なお,旧国名を県名に採用しなかったのは,これから新しく中央集権国家日本を築くための人心の一新という意味がもちろん大きい。」だそうです。
私だったら「人心一新のために旧国名を県名に採用しない」ということはないと思いますが、そうだと言われれば納得せざるをえません。

補足日時:2004/01/11 14:18
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その通りなのですが、実は廃藩置県の最初の時はそのような形になっていました。


それが合併により大きくなりました。そのときに、当時の官僚が勝手に名を付け直した、ということらしいです。

長野県の場合は長野(市)に県庁があったから長野県と名付けたようです。信濃県と付ければ後々揉めなかったのに・・・。(現在も)
下記URL表の1871年11月の長野県と筑摩県が現在の長野県です。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%83%E8%97%A9% …

この回答への補足

私は、国がそのまま県になったように思っていたから、違っていたのかもしれません。

つまり、質問の答えとしては、
「国よりも県は細かくなったで、旧国名を付けるわけにいかなかった」
ということでしょうか。

確かに、URLのページの1871年7月の一覧では非常にたくさんの県があります。
今の感覚で言うと、細かすぎるような感じがします。
それではなぜこのように細かく分けられたのでしょうか。
(質問を超えるので、改めて別の質問として立てたほうがよいかもしれません。)

補足日時:2004/01/11 11:01
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その地で強かった豪族の名前や,昔そう呼ばれていた地名があった,人名と同じく安易にその地の特徴や雰囲気からつけた・・・などいろいろあり,また説も多くあります.その1部が下のHPにあります.もっと詳しくあいらべたいなら,各県ごとのHPを調べて見るといいでしょう.





http://www.kyo-sin.net/kenmei.htm
http://www.furusato-navi.net/ichiran/html/iware. …

この回答への補足

ざっとですが、上記のページを見てみました。書いてあることは都道府県名の由来でした。
「なぜ旧国名を付けなかったのか」という理由はよくわかりませんでした。

ただ、1つめのページの三重県に、
「県名も県庁所在地の名をとるのを原則としていました」
とあるのは讀みました。
県名に県庁所在地の名を付けるようにしたのはなぜでしょうか。それは、布告だとか政令や通達などの根拠があるのでしょうか。

県には広さがあるわけですから、その一部にすぎない県庁所在地名を付けるのは自然とは言いがたいです。
(假に、もともと国などなくばらばらの状態で、明治に入って、道府県の区分けを决めたと言うなら、理解できます。)

補足日時:2004/01/11 10:09
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