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唐代において古くからの門閥貴族(豪族)が衰退し、新興勢力の形勢戸が現われたそうですが、
古代から根強かった貴族がどうして唐代になって衰退してしまったのでしょうか?

A 回答 (3件)

 唐代初期には,皇室の李氏を輩出した「関隴集団」のほか,山東貴族や南朝貴族と呼ばれる家格の高い貴族が権威を持っていましたが,大貴族が力を持てるのは王朝が分裂している場合か力の弱い場合であり,王朝が弱体であった魏晋南北朝時代と異なり,強力な統一王朝である唐王朝の下では,こうした大貴族が権力を保持できるかどうかは,結局は唐の政策次第ということになりました。


 そして,唐では太宗(二代皇帝・李世民)の時代くらいまでは貴族を優遇し,科挙で登用した人材もそれほど高位の官職には就けませんでしたが,続く高宗の皇后となった則天武后(武則天)が権力を握るようになると,家柄の良くなかった彼女は旧来の貴族に代えて,科挙を通過した新興富裕層を厚遇するようになり,従来からの貴族も科挙を受験しなければ高い官位に就けなくなってしまいました。
 こうして,旧来からの門閥貴族は徐々に力を失い,これに代わって科挙で優秀な官僚を多く輩出した新興富裕層が,・形勢戸と呼ばれる中国の新たな支配階層を構成するに至ったのです。
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この回答へのお礼

なるほど則天武后の台頭が、唐王朝と貴族との関係に変化をもたらしたのですね。

お礼日時:2012/06/23 16:01

>唐代において古くからの門閥貴族(豪族)が衰退し、新興勢力の形勢戸が現われたそうですが、


古代から根強かった貴族がどうして唐代になって衰退してしまったのでしょうか?

単純なこと
藩鎮(=節度使)が地方政治を主体的に支配できるようになったから

まぁ、もっと簡単にいえば、
 それまで地方の政治支配力は、経済的余力を持ち暴力装置(戦力)を扶養できた貴族がほぼ独占していた。
 ところが唐代になるとそれまで兵力の主体だった中原の遊牧性の高い部族達も農耕化して、常備軍としての機能性に大きな限界が露呈してくる
 8世紀初頭に唐王朝が 河西節度使の設置を皮切りに地方支配(警備)として節度使を国家の常備軍として重用するようになるにしたがい、地方の暴力装置としての相対価値が低くなった門閥貴族はその勢力が落ちてゆくことになる
 なお、節度使は、お抱えの兵士は平時は農耕しながら訓練に励むことによって、国から給与を得ていた

もっとも、門閥貴族の既得権益は、科挙制度に残滓が見られるものであって、栄枯盛衰の理であるにしても、やはり幅を効かせることになる


以上、甚だ簡単だが
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
門閥貴族が節度使(藩鎮)に地方統治権の争いで負け、今度は藩鎮が形勢戸として門閥貴族のポジションを担ったということでしょうか

お礼日時:2012/06/23 16:07

貴族が下っ端に現場を任せて、遊興に耽っていると、いつの間にか、下っ端が現場で利権や特権をつかんで台頭してくる。

これは古今東西、よくあるパターンなのです。既得権益にあぐらをかいていて、いい気になっていると新興勢力に追い落とされる。日本だって、そうでしょ?平安時代後半の武士の台頭ってそういうことなんですから。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
まさに「歴史は語る」ですね。

お礼日時:2012/06/23 16:09

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