No.3ベストアンサー
- 回答日時:
> 唐宋変革についてです。
以前も似たような質問をしていませんでしたか。 「唐宋変革」という用語にこだわらずに、高校の世界史の教科書を読んではいかがでしょうか。
教科書会社によって多少の違いはあるでしょうが、
律令制は唐の中期頃から怪しくなり、末期には事実上なくなります。
科挙は唐の時代にも行われていたものの、官僚を殿試合格者で占有するようになったのは宋です。
教科書にも載っていると思うのですが、清明上河図は宋のもので、唐の頃の街とは全く景観が違っています。
ある教科書には次のような文章があります。
黄河と大運河の接点にある開封に都をおいたのは朱全忠のたてた後梁が最初であるが、宋(北宋)も開封を都に定めた。唐の長安が王朝の威光を内外に示すため整然たる計画に基づいてつくられた壮大な都城であったのに対し、開封は古くからの城壁都市を基に市場・繁華街が広がってできた都市であった。開封の利点は、水路をつうじて中国の東西南北を結びつける商業網の中枢としての位置にあったといえる。
唐末以降、商業に対する規制がゆるみ、都市のなかで商業活動が活発におこなわれただけでなく、城壁の外や交通の要地に草市.鎮などと呼ばれる商業の中心地が発生した。全国から税を集めて巨額の軍事支出をおこなう宋の中央集権的な財政運営も、全国的な物資の流通を盛んにした。商品流通はますます大規模になり、行(商人)・作(手工業者)などの同業組合もうまれ、専売の塩・茶のほか、米、絹などを扱う大商人が活躍した。
貨幣経済も発展し、大量に発行された銅銭のほか金、銀も地金のままもちいられ、手形として発生した交子・会子が紙幣として使われるようになった。貨幣経済の進展のなかで富裕になった人々は土地を買い集めて地主となり、収穫物の半分程度にあたる小作料をとって佃戸に耕作させることが一般的であった。地主と佃戸との関係は、対等な土地の貸借関係から主人と奴隷の関係のような隷属的関係まで、さまざまであった。
宋の南渡以来,江南の開発がすすみ、中国経済の中心は長安を中心とする西北地域から、東南の江蘇・浙江・福建などの地域へと移動した。
水はけの悪い低湿地が多かった長江下流地域でも囲田などが造成されて,稲田の面積が急速に増大し、「蘇湖(江浙)熟すれば天下足る」の諺がうまれた。また陶磁器や茶・絹など特産品の集中生産が各地でおこり、それらを結びつける海運・河運がめざましく発達した。
どこで時代が大きく変わったとみるのかは、見る人の個人差、観点の差もあるでしょうが、社会経済の状況、支配層の主要役職の占有層に大きな違いが現れれば、そこを、時代の変わり目とみるのは、歴史としては普通の見方でしょう。
王安石は失脚するのですが、彼が新法の改革を実行することができたと言うのも、もう唐の時代とは社会が大きく変わっていたからです。
http://www.y-history.net/appendix/wh0303-041.html
> 「唐から宋の時代にかけて大きな変革が起きた」という考えが成り立たない出来事
新法改革は、まあ、失敗しています。 でも、もう、唐の時代のやり方にも戻らないし、律令制の復活もできない、貴族や王族だけが権力と富を持つ時代にはならないのです。
http://www.y-history.net/appendix/wh0303-042.html
内藤湖南は、「近世」という時代を考えました。 たぶん、高校生は日本史で近世を習っているハズです。
時代の変わり具合ですから、○年○月から○年△月にかけて近世になったというものではないでしょう。 社会がじわじわ変化した実感のようなものです。
私は、王権や将軍や彼らの統治機構が社会を動かす最重要な、そして唯一のものである時代ではなくて、産業と経済が生産力を増し物流が増加し、それを有力商人達の活動が支える世の中に時代に変わったので、中世とは言えないとなっていると思っています。
No.2
- 回答日時:
http://www.y-history.net/appendix/wh0303-032.html
(1)貴族の時代から庶民の時代へ:魏晋南北朝から唐の時代に形成された貴族(門閥貴族)は唐末にその基盤であった荘園制と共に没落し、庶民社会へと移行した。庶民は律令制下の均田農民層であったが、均田制の崩壊に伴い、上層の新興地主層(形勢戸)と中・下層の都市民、農民(小作人=佃戸)とに分解し、上層庶民は地主であると共に士大夫や読書人と言われる知識人、科挙に合格した官僚として支配階級を形成した。しかしその身分と地位はかつての貴族と異なり、原則として世襲されることはなかった。
(2)皇帝独裁政治の時代:唐末から五代の節度使による武断政治は宋の成立と共に解体され、皇帝独裁体制のもとで文治主義に転換し、国家運営は皇帝のもとで、もっぱら財政を主として文人官僚によって行われた。その機構は、尚書省・中書省・門下省の三省を改めて中書省と門下省を合体させ中書門下省(政事堂)が設けられ、皇帝権力を支える官僚を得るために科挙を整備して殿試を設けるなどの改革を行った。皇帝独裁政治を支える軍事行政機関としては枢密院が重要な機関となり、皇帝直属の近衛兵として禁軍が設けられた。
(3)貨幣経済の時代:資源の開発と技術の革新が進み、各地の特産品と生まれて地域分業が行われ、流通経済が発展した。銅銭である宋銭が大量に鋳造されて国内に流通したばかりか、海外にまで流出した。高額取引には銀も用いられるようになり、さらに貨幣の不足を補う紙幣として交子が流通するようになった。首都の開封は商業流通の中心として繁栄し、地方には商業都市である多くの草市・鎮が生まれ、商工業者はそれぞれ行・作という同業者組合を結成した。
(4)海外交易の時代:このような経済発展を背景に中国商人による盛んな海外との交易が行われ、彼らのジャンク船は遠くインド洋まで活動をしていた。この海外との交易は江南の開発が進んだ南宋、中国の統一が回復された元の時代にも引き継がれ、ムスリム商人が広州、泉州、明州、温州、杭州などの港市に往来した。これらの海港には貿易管理、徴税を行う役所として市舶司が置かれた。ムスリム商人は唐代以降、大食(タージー)といわれ、主要な港市に居住地として蕃坊を設けてた。また、三仏斉(現在のスマトラ島を中心とした国家。シュリヴィジャヤ王国の後身ともいわれるが異説もある)などは盛んに宋に朝貢した。一方、内陸では、周辺の遊牧民との間で、平時においては盛んに絹馬貿易(茶馬貿易)が行われていた。
(5)新たな民族の時代:華北に進出した契丹や女真の国家はかつての五胡と異なり、漢文化に同化せずに独自の民族的性格をそのまま中国に持ち込んできた。そのような周辺民族の活動を見て、宋には漢民族として自覚が生まれたと言える。宋は遼や金を対等な交渉相手とせざるを得ず、その交渉は宋の政治に直結した。1004年には遼との澶淵の盟を結び、和平を実現したが、遼への贈与の負担は財政を圧迫し、西方に起こった西夏との1044年の慶暦の和約も宋の財政を圧迫し、王安石の改革などの要因となった。
(6)新しい文化の展開:宋代の社会変動はそれまでの貴族文化に代わり、新しい庶民文化を生み出した。その担い手は、学問や文学、絵画においては上層庶民階級の士大夫であるが、庶民もまた手工芸品(陶磁器)や芸能などで新しい文化を生み出した。特に儒学においては、唐までの訓詁学を手とした形式的な理解にとどまっていた段階から、宋学という世界観や精密な論理をきわめていく学風が起こった。
(1)貴族の時代から庶民の時代へ:魏晋南北朝から唐の時代に形成された貴族(門閥貴族)は唐末にその基盤であった荘園制と共に没落し、庶民社会へと移行した。庶民は律令制下の均田農民層であったが、均田制の崩壊に伴い、上層の新興地主層(形勢戸)と中・下層の都市民、農民(小作人=佃戸)とに分解し、上層庶民は地主であると共に士大夫や読書人と言われる知識人、科挙に合格した官僚として支配階級を形成した。しかしその身分と地位はかつての貴族と異なり、原則として世襲されることはなかった。
(2)皇帝独裁政治の時代:唐末から五代の節度使による武断政治は宋の成立と共に解体され、皇帝独裁体制のもとで文治主義に転換し、国家運営は皇帝のもとで、もっぱら財政を主として文人官僚によって行われた。その機構は、尚書省・中書省・門下省の三省を改めて中書省と門下省を合体させ中書門下省(政事堂)が設けられ、皇帝権力を支える官僚を得るために科挙を整備して殿試を設けるなどの改革を行った。皇帝独裁政治を支える軍事行政機関としては枢密院が重要な機関となり、皇帝直属の近衛兵として禁軍が設けられた。
(3)貨幣経済の時代:資源の開発と技術の革新が進み、各地の特産品と生まれて地域分業が行われ、流通経済が発展した。銅銭である宋銭が大量に鋳造されて国内に流通したばかりか、海外にまで流出した。高額取引には銀も用いられるようになり、さらに貨幣の不足を補う紙幣として交子が流通するようになった。首都の開封は商業流通の中心として繁栄し、地方には商業都市である多くの草市・鎮が生まれ、商工業者はそれぞれ行・作という同業者組合を結成した。
(4)海外交易の時代:このような経済発展を背景に中国商人による盛んな海外との交易が行われ、彼らのジャンク船は遠くインド洋まで活動をしていた。この海外との交易は江南の開発が進んだ南宋、中国の統一が回復された元の時代にも引き継がれ、ムスリム商人が広州、泉州、明州、温州、杭州などの港市に往来した。これらの海港には貿易管理、徴税を行う役所として市舶司が置かれた。ムスリム商人は唐代以降、大食(タージー)といわれ、主要な港市に居住地として蕃坊を設けてた。また、三仏斉(現在のスマトラ島を中心とした国家。シュリヴィジャヤ王国の後身ともいわれるが異説もある)などは盛んに宋に朝貢した。一方、内陸では、周辺の遊牧民との間で、平時においては盛んに絹馬貿易(茶馬貿易)が行われていた。
(5)新たな民族の時代:華北に進出した契丹や女真の国家はかつての五胡と異なり、漢文化に同化せずに独自の民族的性格をそのまま中国に持ち込んできた。そのような周辺民族の活動を見て、宋には漢民族として自覚が生まれたと言える。宋は遼や金を対等な交渉相手とせざるを得ず、その交渉は宋の政治に直結した。1004年には遼との澶淵の盟を結び、和平を実現したが、遼への贈与の負担は財政を圧迫し、西方に起こった西夏との1044年の慶暦の和約も宋の財政を圧迫し、王安石の改革などの要因となった。
(6)新しい文化の展開:宋代の社会変動はそれまでの貴族文化に代わり、新しい庶民文化を生み出した。その担い手は、学問や文学、絵画においては上層庶民階級の士大夫であるが、庶民もまた手工芸品(陶磁器)や芸能などで新しい文化を生み出した。特に儒学においては、唐までの訓詁学を手とした形式的な理解にとどまっていた段階から、宋学という世界観や精密な論理をきわめていく学風が起こった。
No.1
- 回答日時:
王朝が変わる事、自体が大変革でしょう。
日本の歴史学者が大正時代に唱えた説であって、後出しの事柄ですから、
好きに書けば良いので、早い者勝ちなのです。
この様な著作本が売れるのですから、日本の歴史学会とは、摩訶不思議
な、処なのです。
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