【大喜利】【投稿~9/18】 おとぎ話『桃太郎』の知られざるエピソード

 《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?

 ( a ) おそらく信じる対象は 《非経験の場》だと考えられるが 信じる行為は この現実における経験行為である。

 まづは こう考えますが きちんとした哲学としての定義を問い求めます。

     *
 
 宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのと言うことを聞きますが それはマチガイでしょう。

 ( b ) 《おしえ》は あくまで経験思考の対象です。それは 《考える》です。

 ( c ) 考え思っていることを つよく念じてその内容をつねに心がけるといったこと これも 《信じる》ではありません。それは 信念とか信条とかと言います。

 あたまや感覚ですでに知覚し認識していることを《信じる》気遣いはあり得ません。

 《心がけ》などをめぐる信念は それを《信じる》という言葉で表わすこともあるのは あくまで文学的表現ないし修辞学の問題でしょう。《強く思う》と言いたいところを 《信じる》と表わしてみた。こういうことでしょう。
 ですから 信念や信条とそして《信じる(信仰)》とは 別です。

 考え思うことは 経験合理性にもとづき何らかの根拠のあるものです。もしくは 根拠がそのいま科学的に問われているものごとです。
 根拠が問われていること――因果関係や相互の作用関係などについてその根拠が問われ得るものごと――については たしかに一方で仮説を信じるというふうに表現したりしますが それも言葉のあやであるに過ぎず いっさい《信じる》とは別です。《考える》です。
 言いかえると 

 ( d ) 無根拠――もしくは 根拠について分かるか分からないかが人間には分からないものごと・さらにあるいは 因果関係から自由な《非経験の場》―― これについて人は 《信じる》と言うのだと考えられます。

 ( e ) この《信じる》は 包括概念であり そこに《信じない》をも含みます。この《信じない》と《狭義の信じる》とは 互いに同等でありその選択は 人にとって自由です。

      *


 さらに質問者の考えをたたき台にしてしるします。

 1. 《信じる》は 思考に非ず つまり非思考という行為である。

 2. 思考は 経験合理性にもとづき――その非合理性をも人間の境地において引き受けることさえありつつ――考えをすすめることである。

 3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を 無根拠として 心に受け容れるということになる。

 4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明け これが《非思考の庭》である。思考はいっさい無い。しかも行為は 経験行為としてある。

 5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもこの無根拠を心に受け容れるという時点では じつに人間のそして《わたし》の経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。

 6. 《信じない》という賭けのばあいは 領収証を発行しないという領収証を切ったことになる。それが 人にとって 《信じる》という普遍的な経験行為である。これは おそらく万人にとってその存在にかんする 人間の条件である。

 7. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。したがって《神を信じない》のは 《〈無い神〉を心に受け容れている》ことであり それは 無神論としての《信じる》である。

 8. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。

 9. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばにして言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。

 10. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとして取り上げそのうえ教義や道徳規範として押し戴く場合がある。組織宗教である。

 11. クリスチャンやブディスト――それが有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげる場合がある。これは 信仰ではありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。

 12. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》よりほかのことではない。

 13. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合にも社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。

 14. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。

 15. 現行の憲法では 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰〔の姿勢〕を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自由への殺害行為であり 違法行為である。

 16. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。それしかない。人びとのきづなしかない。

 17. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は そのヒエラルキアにおいて信仰の自由を侵すならば 欺瞞である。

A 回答 (32件中1~10件)

信じるとは 行為以前の領域に浸透して 全人格の変容をもたらす


それは 信じるという能動性の自己認識を超えてしまうものである
非思考の領域が業に及ぶものならば 意業とは信じるという一点から生じる無限の心をさす
信じるという仮定から 信じているという結果がいつの間にか生じてしまう
げに 恐ろしきものですな。
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この回答へのお礼

 あばうと72さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 そうですね。
 《信じる》というコトもしくはその言葉をめぐって起こりうるいくつかの現象を分析されていましょうか。

 ★ ~~~~
 信じるという仮定から 信じているという結果がいつの間にか生じてしまう
 げに 恐ろしきものですな。
 ~~~~~~
 ☆ この現象・この問題は 割り合い分かりやすいことではないでしょうか?
 すなわち よく言えば(よく受け取れば) ことばとしての《信じる》があるから 信仰などという心的現象が 人びとに起きる。ということでしょうし。
 また一般には おそらく
 ★ 信じるという仮定から 
 ☆ というその中身が 〔おそらく〕想像上の何か――たとえば《神の愛》ですとか《愛なる神》ですとかのその観念――を《信じるという仮定》を置くと あんがいこれが《〈われは その何かを信じている〉という結果が生じてしまう》。
 のかも知れませんね。これは じつは 幻想ですね。神は 観念(つまり 思考)ではありませんから。


 ★ 非思考の領域が業に及ぶものならば 意業とは信じるという一点から生じる無限の心をさす
 ☆ これは 直前のわいわいえいとさんとのやり取りで出て来ました。かかげます。

 ☆☆(No.4お礼欄) ヒラメキは 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのツナギとなりましょうか。どうでしょうか。
 ☆ の問題ではないでしょうか?

 すなわち 次のような心の構造とその仕組みにかかわっているように思います。
 ☆☆(No.4お礼欄) ~~~~
 例の《ひらめき》というそのときどきの事件があります。
 ヒラメキが起こると そこからその直感および直観を何とかして言葉で表わそうとする試みが持たれます。
 そうなると むろんのこと その段階では 《思考》の領域に入っています。《思索》も大いにおこなうでしょう。
 
 言いかえると このヒラメキなる直感および直観を大前提としてそのあとでは 《コギト エルゴ スム》と言えるのかも知れません。大いに《考える》の領域にすすみますから。《われ考える ゆえにわれあり》という命題のみによっては にんげんの存在は説明し得ません。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち
 ★ 非思考の領域が業に及ぶものならば
 ☆ とは 《非思考の庭》が あたかも泉となってのようにそこに ヒラメキを湧き出させる。

 このヒラメキから――と言っても それはむしろそのヒラメキなる直感じたいが 身業(身のわざ)であると思われますが その直感および直観なるヒラメキから―― 《考える》をつうじて 意業(精神の認識および判断のわざ)が持たれます。

 ★ 意業とは信じるという一点から生じる無限の心をさす
 ☆ 認識および判断が《無限の心ないし精神》であるのか にわかに断じがたいところではありますが そういった《限りなくひろがり展開する精神の緑野》が 《信じるという一点から生じる》。
 


 ★ ~~~~
 信じるとは 行為以前の領域に浸透して 全人格の変容をもたらす
 それは 信じるという能動性の自己認識を超えてしまうものである
 ~~~~~~~
 ☆ たぶん わたしなら――出しゃばりますが―― 言いかえるでしょうね。
 
 ★ 信じるとは 〔《考える》および《振る舞う》といった〕行為以前の領域に浸透して 全人格の変容をもたらす
 ☆ そうですね。《全人格の変容をもたらす》については

 ○ そうなんだと思いますが・そのとおりなのですが ただし 但し書きをも添え得る。それは じつは もともと生まれつきそなわっていた自然本性としての《わたし》であった。つまり もともとの《わたし》に立ち還ったのであると。

 その信仰として《非思考の庭がわが心に成った》その時点あたりでは おそろしいと感じるほどに《全人格の変容をもたらす》と見られるのですが そもそもその変容したあとの結果というのは 《わたし》だったのだと。
 しかも わたしはこの《わたし》を 知らなかったわけではないと知る。わたしはおのれの《わたし》を じつは 愛して来なかったわけではないと知る。おそろしいほどの変容ぶりをつぶさに見てみると それは わが愛する《わたし》であった。


 そのとき たしかに
 ★ それは 信じるという能動性の自己認識を超えてしまうものである
 ☆ と形容すべき要素が生じていますね。ただしこれも その《非思考の庭を成らしめたナゾのチカラ》が 《わたしの能動性やそのときの自己認識を超えている》と捉え得るものの そうではあるものの 変容したあとの状態は じつは もともとの《わたし》であった。

 《信じる》とは その《わたし》の核エネルギーなのでしょうか? または核反応のようなコトでしょうか?

お礼日時:2012/08/06 22:42

絶対無が自己を敬わせるべく謙譲語の命令形で関わっては来ないのですね。



余談ですが、御住まいの地域では、
爆撃の様なイカヅチ(神の唸り)に曝されずに済んでいますでしょうか?
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この回答へのお礼

 つづきまして。
 《罰当たり》と《自敬表現》とは 《神によるさばき》として 同じひとつの主題のもとにあったのですね。


 ★ 絶対無が自己を敬わせるべく謙譲語の命令形で関わっては来ないのですね。
 ☆ まづ 最初に心得るべきことは 《神》のことは その《さばき》にしても すべて人びとそれぞれの《主観》の問題であり その主観の範囲を出ないということだと考えます。


 ★ 〔神が人びとに対して〕自己を敬わせるべく
 ☆ これも 或るひとりの人が そのように捉えたとき・その捉えた主観の範囲内でのみ 意味が生じます。

 二人以上の人びとが 雷(神鳴り)を聞いて あっ 神によるわれわれへのサバキであると共同で認識するということは――あり得ますが(つまり 思想は自由ですので そういう同じ考えの人たちが集まるということはあり得ますが)―― 意味を成さない。と考えます。証明のしようがないからです。


 考えを同じくすること これは あり得ます。
 もしかすると ヒラメキを同じくすることさえ あるかも知れません。
 ですが――そして《非思考の庭》というその成り立ちそのものも 枠組みのようなものとして 互いに同じくするとまで捉えていますが―― 《わたしの神》と《あなたの神》とが 同じひとつの神であるということは いまの枠組みの核としては同じひとつの神だという想定をしているのですが ですが ですが ですが
 おそらく確かめようがないと思われます。



 このように考えるかぎりでは
 ★ 謙譲語の命令形で
 ☆ サバキをおこなおうとどうであろうと その内容がひとりの人の主観を出て 共有されるということは むつかしい。でしょうね。

 ★ ~~~~
 余談ですが、御住まいの地域では、
 爆撃の様なイカヅチ(神の唸り)に曝されずに済んでいますでしょうか?
 ~~~~~~
 ☆ 稲光と轟音とがしていましたが いまのところ被害の有無は分かりません。確かめていません。
 そして この《神の唸り》をそれとして認識するかどうか?
 これは あくまで一人ひとりの判断による。
 こういう結論になるかと考えます。
 主観を共同化しようとするそのいとなみは 是とも非とも決められないという意味です。
 同好会のみなさんが 見解を同じくすることはありましょうね。その程度だと言ってよいと思います。

お礼日時:2012/08/18 16:18

絶対無は下記のページの質問の様な罰当たりを見逃さないのでしょうか?


http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7637545.html
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 これは むつかしいですね。
 お手上げですと言いたいところです。

 この問題は いわゆる《神義論( theodicy )》として議論されて来ていると思います。

 ▼ (神義論) ~~~~
 http://www.weblio.jp/content/%E7%A5%9E%E7%BE%A9% …

〔theodicy〕世界における諸悪の存在に対し、あくまでも神の全能と義を弁証しようとする論議。弁神論。
 ~~~~~~~~~~

 ☆ 要するに 妥当性に欠ける行為をおこなうことに対して 神は いかなる態度を採るのか? さばきは どうなるのか?

 ひとつだけ 答えを持ってはおります。

 ○ (神は この世の不法行為に対して なにゆえ沈黙を守るのか?) ~~~
 ひとの意志や心をないがしろにして 社会的な位置関係(身分)から来るチカラ関係にものを言わせて おのれの言いようにコトをはこぶ。早く言えば 顔が効くというその社会力学上の――おそらくほとんどは無効の・しかも既成勢力として有力であるところの――おのれの勝手な声を通し 相手に飲ませる。

 このマチガイとアヤマチに対して 神は 罰をあたえないのか? なぜあたえないのか?

 それは このような甘い汁を吸うというおこないに対して ひとりでも(あるいは 一瞬でも) あぁ うらやましいなぁという気持ちをいだくなら それがなくなるまでは 神はだまっている。
 ~~~~~~~~~~~~~~~


 ☆ すなわち 人間どもよ。おまえたちで 何とかしろ。自分たちで とことん話し合いをするなり 互いにその心をきよめるなりして いい解決策を考えなさい。甘えんぢゃない。

 ということでしょうね。

お礼日時:2012/08/18 15:41

自己を目的対象に据える自敬表現が利用される場合にも、


主語を自己にする必要性が御座いません。

従いまして、古語では謙譲語の命令形が…。
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この回答へのお礼

 つづきまして。

 ★ 自己を目的対象に据える
 ☆ これなら まさしく《再帰表現》ですが?

 ★ 自己を目的対象に据える自敬表現
 ☆ つまり《自敬表現》であると 再帰形ではないということでしょうか? つまり

 ★ 主語を自己にする必要性が御座いません。
 ☆ であるとすれば たしかに主語の者は いま《自敬表現》を成す者とは別になるようですから 自敬者がみづからに動作をおよぼすという再帰形にはならないのでしょうが。

 そうしますと
 ★ 従いまして、古語では謙譲語の命令形が…。
 ☆ 現われましょうか? すなわち

 ○ 自敬者が みづからを主語に立てるのではなく 別の者を持って来て立て 《謙譲語》で命令表現をする。この命令形を 《本音で 混沌は 扱うのでしょうか?》(=回答No.28)

 となるのでしょうか。

 たとえば

 ・ 近(ちこ)う 参れ。

 といったかたちでしょうか?

 もしそうであったとしても それが どういう意味を問題として持つのか? これを 分かりかねています。

お礼日時:2012/08/18 15:12

再帰表現では御座いません。

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この回答へのお礼

 では 残念ながら 分かりかねています。

お礼日時:2012/08/18 08:39

本音で混沌は謙譲語の命令形を扱うのでしょうか?

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この回答へのお礼

 つづきまして。

 《混沌》は 原語のカオスの原義としての《原初》や《初期条件》などのことを言っていましょうか?

 《謙譲語》は おのれをへりくだった位置におくかたちで表現するのですよね?
 その《命令形》とは?

 つまり 《わたし》に対して 話し手であるわたしが 命令するというかたちをおっしゃっていましょうか?

 つまり 神が《はじめに》 おのれに対して これから《〈ひかりあれ〉と申しなさい》と語るといったことでしょうか?
 
 この辺までは解釈してみたのですが なにぶん よく飲み込めません。補足要求です。

お礼日時:2012/08/18 07:46

それが『無根拠』で成り立っています故に、


たとえ我々が自覚し得ませんでしても、非経験の庭からの積極的な働き掛けが作用して、
( http://allabout.co.jp/gm/gc/297941/ )
我々の経験の内容が変容させられている、
という可能性の存在は否定され得ないのですね。
http://q.hatena.ne.jp/1294124328
http://creation.mb.softbank.jp/mc/tech/tech_web/ …
http://www.au.kddi.com/ezfactory/tec/spec/ezsava …
http://www.nttdocomo.co.jp/service/developer/mak …
http://blogs.itmedia.co.jp/sakamoto/2011/03/ip-5 …
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 今回の取り上げられている主題は それほど問題の生じる内容ではないように思います。

 ★ 非経験の庭からの積極的な働き掛けが作用して、
 ☆ そのようなハタラキをわれわれは受けると――証明無しにですが―― 思っております。

 ★ 我々の経験の内容が変容させられている
 ☆ 同じくそうだと受け取っています。

 《人間(現実)が変わる》。すなわち わたしたちは 日から日へ必要なかぎりの能力をおのおのがあたえられ その方向へ向き直されたり そのための何かのきっかけに出遭わされたりすると思います。

 むろん よい方向へ変えられるわけですが ときには まづ――まづです まづ――よくない結果が現われる場合もあります。
 それを乗り超えたとき 自分にチカラがあったのだと分かり そこからあらたに出発するようになる。そういう場合もあろうかと思います。

 ★ 我々が自覚し得ませんでしても
 ☆ 《自覚》がコトの起こる前に起きることは ほとんどないと思っております。
 つまり つねに事後的に《わたしは 変わった。変えられた》と確認する程度ではないかと。

 ただし 《予感》があります。そしてこれも 一般に漠然としたものとして感じられるのだと見ます。将来への展望のごとくに。
 具体的な予感であれば それはすでに《変容》のコトが始まっている場合ではないかと。

 ですから 変容の《自覚》は 事後的に起き まれに《事中》においても予感のような自覚が生じる。このように見ています。

お礼日時:2012/08/18 06:56

更に詳しい解説に感謝します。



つまり、「『禿げた現フランス国王』の命題( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E6%8F%90 ) 」でも諭されている通りに、default値の正誤判定規準は個別に違っていても構わないのですね。

http://russell-j.com/FAQ-HAGE.HTM
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 まづ先に 次の文章におぎないをほどこします。
 ★★(No.25お礼欄) ~~~~
 ( a ) そこには《善》だけあればよいと或る人が考えれば その人にとって神は 善なる存在であるでしょうし 

 ( b ) いやいや この経験世界について考慮しそのチカラをはたらかせようとしているのなら 世の中の善に対するだけではなく悪に対して その悪を理解しなければならないし その悪に即して善の対策を打たねばならないとすれば 悪もその場にはあるということになるかも知れません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち 

   ( a )がそれとして成り立つとするのは 《ただ善なる存在
  である》だけのその( a )のかたちにおいても 《悪に対して
  善の対策を打つことが出来る》という場合である。 

 という添え書きをすることになります。 
 《非経験の場》が《ひとり満ち足りている》ことを損ねるような神についての主観 これは 成り立ちません。と。


 さて
 ★ default値の正誤判定規準は個別に違っていても構わないのですね。
 ☆ このように見てきますと 上のおぎないが必要であったと分かりました。

 ですから ここで問題となるのは
 ★ default値の正誤判定規準
 ☆ すなわち

 (1) default値
 (2) 正誤判定規準

 このふたつのことがらが 《非経験の場》の規定にかんして 似つかわしくない。こう考えられます。
 (1)は 《値》が ふさわしくないでしょう。定量性を《非経験の場》について規定するのは なじまない。数量は 《考える》ことだからです。

 (2)は 《正誤》とその《判定》が いけないと見られます。《考える》の問題だからです。

 ですから 《値》も《正誤》も《判定》も みな経験世界における経験行為であり その内容を《非経験の場》に投影することは その思考そのものとしては出来ますが 非経験の場にとっては ふさわしくありません。

 また 事実 それは 経験世界の事象を非経験の場に移し入れようとしているのであって もともと《非経験の場》に そういう問題は生じていない。こうなると考えられます。





 《非経験の場》が・そしてそれを受け容れたわが心なる《非思考の庭》が 人びとの見解を有効とするという理論は その見解があくまで経験世界のものごとについてのことである場合です。

 消費税を上げると消費をおさえる〔から だめだ〕という見解があり 他方では たとえそうだとしても 国債の金利が上がるおそれが出て来たので たとえ部分的にでも国の財政を健全なものにしておくべきだという見解があるようです。

 このように経験世界におけるものごとについての見解は それらが互いに異なっており矛盾さえしていたとしても 基本的に言って その見解のいづれをも有効とするのは その見解が《非思考の庭》につながっていると見なされるときである。

 消費税増税かそれに反対かのふたつの見解が それぞれ有効だとなるのは 人びとの生活が守られるという基準が満たされるときであろうかと考えます。生活が保障されるというのは 《非思考の庭》につながる条件だと考えられますから。

 けれども 初期状態のあたいや その正誤の見解あるいはその判定の基準 こういったことがらは 《非経験の場》を むりやり経験世界に引きずりおろして来るようなものですから 《非思考の庭》を守っていないと考えられます。

 ぎゃくに言えば 経験世界の《考える》ことがらを 無理にでも非経験の場へと投影しつつ引き上げようとしていることになる。
 これは 無効でしょうね。

 ただし 非経験の場を ヤフヱーと呼んでもブラフマンとでもあるいはアッラーフとしてもキリストとしても そのように違った名で呼んだとしても その名づけは 《投影》や《引きずりおろし》の問題ではなく 《非経験の場》についての派生的なことがらであり飾りつけの問題であるに過ぎない。こう考えられる分野もあるようです。

お礼日時:2012/08/18 00:44

非経験の場は絶対無なので、


其処には自己矛盾が含まれているのでしょうか?
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 非経験の場は絶対無なので、
 ☆ 非経験の場は 《人間の能力によって分かるか分からないかが分からないところ》として仮りに想定したものです。(それは 《かみ》という言葉が 《わたし》の生まれる前から用いられているのを知るからです)。

 その想定によれば 絶対とも無根拠とも無限とも不可変性ともあるいは少し色をつけて真理とも言いかえられるはずです。 

 たとえば《絶対》と言えるそのわけは 相対性として成る経験世界を超えているからですが だとすると その場は 経験的に言うところの《有る・無い》 これをも超えています。

 有るとも無いとも人間の認識や判断のチカラでは決められない場合には そしてそれをもし神と呼ぶとすれば 《神が存在する》とも《神は存在しない》とも 人間の言葉では言うことができます。どちらでも同じことです。人によって好きなほうをえらべばよいわけです。

 それと同じように《絶対》についても もしわざわざ言うとすれば 絶対有とも絶対無とも どちらとも言える。こうなります。どう呼んでも 非経験の場であることに変わりはありません。




 ★ 非経験の場は絶対〔無〕なので、其処には自己矛盾が含まれているのでしょうか?
 ☆ その言わんとするところが 飲み込めていないのですが たとえばこう答えることができると考えます。

 つまり 《ひとり満ち足りている存在》と呼んだばあい 《足りないものはない》わけです。

 だとすると そこには《自己完結性》もあれば《自己矛盾》もある。何でもあるし もし必要のないものだとすれば たとえば《死》はないということになるかと考えます。

 そこには《善》だけあればよいと或る人が考えれば その人にとって神は 善なる存在であるでしょうし いやいや この経験世界について考慮しそのチカラをはたらかせようとしているのなら 世の中の善に対するだけではなく悪に対して その悪を理解しなければならないし その悪に即して善の対策を打たねばならないとすれば 悪もその場にはあるということになるかも知れません。

 何でもあるし 必要でないものはない。それでも満ち足りていられるのだから。
 《自己矛盾》がもし必要なら それもありましょう。


 という答えになるかと思いますが 何か特別の自己矛盾を取り上げておられるのか。そこのところは まだ分かりませんでした。

お礼日時:2012/08/17 13:16

非経験の状態は解釈による差異を無効化させるのでしょうか?


http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1291310.html
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★☆ ~~~~
 非経験の〔場をわが心に受け容れた《非思考の庭》なる〕状態は 
 〔そこからヒラメキを経て ふつうの思考としてのコギトに到ったその経験世界では
 人びとの〕解釈による差異を
 無効化〔ではなく 無用化〕させるのでしょうか?
 ~~~~~~~~

 ええ。たぶんそうだと見ます。

 あるいは《無用化させる》というよりも 自由にその差異のあり方をおのおのが採用することができる。というべきでしょうか。

 趣味のちがいはもとより いづれにしてもヒラメキの源泉を同じくしているのならば――という意味は 互いの自由をとうとび互いにこれを実現させ合おうとして考え振る舞うということであるのならば―― 見解の相違であっても それを互いに受け留め まづは一定の時間にわたって互いに受け容れあっているでしょう。

 ときを俟つものと思います。



 この《ときを俟つ》は 《非思考の庭》なるまことにもとづく〔と互いに見なしあっている〕かぎりで 永遠にでも待つのだと見ます。

 ふたたび《領土》問題で捉えてみては どうでしょう?
 互いに対等で自由にもとづきその領有を主張しあっているのであるならば その見解の相違をまづみとめあって どちらが妥当性をじゅうぶんに持ち得ているかが互いに分かるまで 話し合ったり冷却期間を置いたりして ときを待ちます。

 そこでは 見解についての《差異》を無用としていると思います。
 言いかえると 差異はあるのだとまづ認め合うのだと見ます。
 つまり 無効化ではなく むしろ有効化していると思います。《有効》どうしのあいだでは さらにその妥当性を互いに競い合います。
 
 《有効性》は 非思考の庭から来ているというのが 人間のおのおのの主観について共同性を見ることの理屈です。
 さらにそのミナモトは 非経験の場なわけですが これは じつは 物語です。
 言いかえると 非経験の場および非思考の庭なる虚構のもとに人びとは ともに生きて行けるか? こういう課題と展望が持たれます。

 その虚構の中身を ゼロにする場合(つまり 無神論のばあい) それでもその物語は 変わらない。無神論と有神論とが 互いに対等であるというところが この虚構のミソです。

お礼日時:2012/08/17 10:40
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