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農地改革を、もししなかったらどうなっていましたか?

農地改革のプラス面は、小作人が自作農になり、経済基盤が改善されたこと、それによって自作農になった人にインセンティブが生まれたこと、地主の不労所得がなくなったこと、小作人⇒共産化、を防ぐための施策として、意味があったかもしれないこと。

マイナス面としては、農業の大規模化が遅れたこと、やたらと零細な農家の保護をしてきてしまったこと、それによって国際的な競争力が全くなくなってしまっていること。

農地改革をせず、小作人が農村に残っていたとしても、結果的には高度成長期に、都市部での大きな労働力需要があって、そちらへ流れることができたわけですし、結果からみれば、しなかった方がよかったんじゃないかと思うのですが、どうなんでしょうか?

A 回答 (12件中1~10件)

質問者さんは日本共産党の山村工作隊を知っているかな。

二・一ゼネストを指導したのも日本共産党だ。もし日本共産党の武装革命が成功していたら高度成長どころでは無かった。農地改革によって共産革命を防ぐことができたのだ。戦前の農民運動は小作争議一色で、本業の農業にはエネルギーが向かわなかった。生産性を向上させるよりも、地主の不当な搾取を止めさせることが最優先の課題だったからだ。小作争議とは小作料減免を目的とした小作人主体の集団交渉であった。農民は日本農民組合を作って団結し、地主も地主組合を作って対抗した。こういう状態を放置しておけば、小作人が共産革命に呼応する可能性はあった。戦前は地主を支持基盤とする政友会の反対で、農地改革はできなかった。マイナス面?何を馬鹿なことを。誰が農業の大規模化を推進できたというのか。地主は不動産業であって、農業を経営していたわけではない。地主はあっちこっちの村々にばらばらの土地を保有していただけで、そもそも大規模な農地だったわけじゃないのだ。

江戸時代は村請制といって庄屋さんが村全体の年貢を取りまとめて領主に納めていた。村は運命共同体で強いものも弱いものも皆で助け合って生きてきたのだ。

それが明治維新後の地租改正によって村落共同体が解体に向かう。もはや村請制も庄屋さんもない。農民が一人づつ自分の責任で税金を納めなければならなくなったのだ。誰も助けてはくれない。冷害で不作、凶作になるとたちまち納税にいきづまって高利貸しから田畑を担保として納税資金を借りる他なかった。戦前の銀行は、重工業・軽工業・商社に金を貸すだけで農民になど融資しなかったからだ。誰が農民に金を貸したか。それは高級官僚、戦争成金、にわか資本家といった小金持ち階級であった。それが不在地主、寄生地主なのだ。金を借りたが結局農民は返済できず土地を取り上げられてしまった。しかし不在地主は農業などできない。結局、元の土地所有者を小作人として雇って、そのまま営農させるしかなかった。土地の所有権は地主に移ることになるから納税義務は地主が負って、地主だけが選挙権を持つことができたのだ。小作人は結局、納税分に地主の取り分を加算した小作料を納めさせられたので、以前よりも貧窮することになってしまった。こうして自営農は次々と小作人に転落していったのだ。一握りの地主だけにどんどん土地が集中していったが、この土地は虫食い状態で全然大規模化したわけではない。全体として地主の所有地が増えても全く連続していないのだ。それでも小作人から小作料をふんだくるだけだから、何の不都合も無かった。「農業の大規模化が遅れた」というのは全く実態を知らない者の妄言に過ぎない。高度成長期に都市の工場労働者になったのは、土地の相続が無かった農家の次男、三男だ。それは農地改革があろうとなかろうと同じこと。

中国が共産化したのは、地主と都市の商工業者を支持基盤とする国民党が農村の小作人を支持基盤とする中国共産党に敗れたからだ。台湾でどうして中国共産党が勢力を拡大できなかったか。それは台湾が日本に統治されていて、小作人がいなかったからなのだ。中国共産党がどうして農村で勢力を拡大できたか。それは中国共産党が農地改革を勝手に推進したからだ。暴力的に地主を縛り上げて、地主の所有地を強引に小作人に分配してしまった。土地政策を巡る妥協を許さない対立が国民党と共産党が暴力的に対立した理由なのだ。

そういう中国の歴史をみれば、日本が実施した農地改革が世界史に記録されるほどの大成功であったことが理解できるはずなのだ。実は日本共産党が農村に山村工作隊を組織したのは中国共産党にならって農村を日本共産党の支持基盤にする為であった。しかし時既に遅し。農地改革によって自営農となった農民はもはや小作争議に明け暮れることもなく、農業経営に専念していた。日本共産党のオルグは全く成功しなかった。日本と中国の農村の実情の違いに全く気づかずに、中国共産党の成功に習おうとした当時の日本共産党幹部はあまりにも馬鹿すぎた。

まあ余談に過ぎたかも知れないが、戦後60年経ってなお、農地改革の歴史的意義が正当に評価されていない日本とはいったいどういう国なのであらうか。
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この回答へのお礼

なるほど。ありがとうございます。大変勉強になりました。

お礼日時:2012/08/30 11:06

> 地主社会において、たくさんの子供たち



近代化とそれ以前の区別がついていないんじゃないかな。
地主社会に置いて必要なのは、子どもではなく、労働集約的な農業を維持するための人口になります。
人口の増加は、生産力に応じて起きる現象で、生産力が一定の状況で、多くの子どもが生まれても、人口は増えません。この点に気づいていないのかも。

中国の三国志、日本では南北朝 以前の時代では、人口が増えれば、開墾をして土地を広げればそのまま生産力は増えました。そのため、自然を修め、農地に出来る人が支配者になるわけです。地主もそれと同じで、稲作では、治水、水利権の分配を通じて支配をします。
ただ、開墾が一通り終わり、限られた土地で人口を維持するシーンになると、支配者の役割は変わります。農業の成長が終わったわけですから、あとは、どのように維持するかが役割になります。

先にも書いたけど、次世代を残さない労働力としてのみの人口を制度として作り、人口を増やさずに労働力を維持することが役割になりました。

この機能が無くなったため、小作農は労働力として多くの子どもを産みました。多くの子どもは労働力になる前に亡くなる可能性があるわけですから、過剰に子どもを作ります。一定率で亡くなる子はいても、保険として生まれ不要になった子ども達は小さな小作農の土地では吸収できずに、都市に流れることになります。
統治者がいるときといないときで、社会の維持は変わるわけです。
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この回答へのお礼

なるほど、
>小作人の次男坊、三男坊も、地主の下で働き先があったわけです。
この意味をわたしが誤解していたようです。

人口の総体として一定に保たれるということなんですね。

お礼日時:2012/09/02 00:36

>最終的に、もともと大地主がいて、そこで小作人が働いていたのを、大地主が牧羊や集約農業をやりたかったために、小作人を追い出した、と理解していますが、だいぶ違いますか? 



産業革命
http://homepage2.nifty.com/murasaki-miyako/25.html

このサイトが比較的分かりやすいかな。農業革命というのは農業の企業化なんです。
土地を生産手段として、資本家-経営者-労働者という分担が成立しました。これって現代の企業と全く同じ仕組みなのです。資本家=領主貴族、経営者=農業経営者、労働者=農業労働者と理解してもらいたい。
つまり領主貴族が土地生産性を向上させて自分の取り分を増やす為に、有能な農業経営者と契約して土地を集約させたといったことなんです。1709年に議会で囲い込み法が成立したというは領主貴族の支持があったからであって、合法的に中小自営農の土地を強制収用して、有能な農業経営者に経営を任せたということなのです。土地を強制収用された中小自営農は、農業経営者から雇われる労働者になった。それが囲い込みなのです。囲い込み法の本質は農業の企業化であり、大規模農業化であったわけです。

質問者さんがどうして理解に苦しんでいるかというと日本の構図をそのままヨーロッパにあてはめようとしているからです。

日本の構図とは江戸時代は、大名=資本家-庄屋=経営者=百姓=労働者といった構図でした。大名は名目的に土地の所有権を持っていて、年貢徴収権を正当化できた。ただし必ずしも資本主義的だったわけではない。庄屋は村落共同体の経営者だったが、それは年貢の取りまとめ役という意味です。百姓は庄屋の指揮監督を受けたが必ずしも労働者とは違う。百姓は耕作権を持っていて、年貢を分担するという責任を負っていたので労働者と違って、農業経営者でもあるのです。
江戸時代というのは封建制度が確立された時代だが、資本主義は確立されていないのが大きな違いです。
封建制度とは土地を媒介とした主従関係です。家が階層的に結合する制度というのかな。

それが明治維新によって日本の構図が変わります。版籍奉還によって大名は年貢徴収権を失う。そして地租改正によって庄屋も百姓も横並びに自営農(地主兼耕作者)として納税義務を負い、土地の所有権を得たわけです。もはや庄屋には年貢を取りまとめるなんて義務はない。あとは各自勝手に納税してくださいという話。歴史の教科書ではさらっとしか書いてないけど地租改正はものすごい大改革だったのです。

連帯責任が個人責任に変わりました。江戸時代は村の共同責任ですから、出来の悪い百姓を有能な百姓がカバーして村全体の年貢のつじつまを合わせる必要があったのです。だから助け合いです。農具も貸したり借りたりして都合をつけあったわけです。ところが地租改正後は個人責任ですから、有能な百姓と無能な百姓でどんどん格差が拡大していくのです。もはや助け合いなどない。

物納が金納に変わりました。江戸時代は米の価格変動リスクを大名が負っていた。豊作になれば米の値段は下がり、不作になれば米の値段は上がる。年貢は一定だが、換金すると金額が激しく変動したということです。大凶作になると米価は暴騰しましたが、大凶作なだけに年貢も集らない。大名は価格変動リスクを負っていたから商人に対して借金ばかりがかさむことになった。

地租改正によって、農民自らが米の価格変動リスクを負うことになった。するとどうなるか。有能な農民は全国的に不作でも相対的により多くの収穫を挙げることができて大きな収益を手にした。逆に無能な農民は、全国的に豊作でも相対的により少ない収穫しか挙げられずに小さな収益しか得られなかった。

そういった弱肉強食の格差拡大社会は、資本主義的であったとはいえるのですが、ヨーロッパのような資本家-経営者-労働者という農業の企業化は成立しなかったので、はなはだ無理な制度設計だったといえるのです。日本では一人の農民が資本家と経営者と労働者を兼任した。現代日本人はこれを当たり前と考えていて無理ともなんとも受け止めていないようだが、明治時代の農民にとっては余りにも過酷だったのです。その無理が寄生地主制になって現れた。

地租改正の目的は、税制の近代化で明治政府の税収を安定させることでした。近代化政策を強力に推進する為には税収を安定させることが史上命題であったからです。その為に政府は海外視察を実施して海外の法制度、文化を取り入れようとしたわけです。しかしさすがの明治政府もヨーロッパの農業が企業化・大規模化していたという歴史に気づきませんでした。行政的にも立法的にも企業化・大規模化という発想が生まれた無かった。

ところが例外もあります。小岩井農場です。小岩井農場は明治時代に農業を企業化することで不毛の原野を大農場に変えることができたのです。従業員250名だからお世辞にも大企業とはいえないけど、日本では類例のない大農場であることは間違いありません。小岩井農場は、日本農業史において特筆すべき成功例であるにもかかわらず、それがあくまで例外と位置づけられてしまっていて、普遍的な農業のビジネスモデルと受け止められていないことは問題だといえます。

農地改革に話を戻すと、それは決して大規模農業の解体、小規模化ではなかったし、また農業の企業化・大規模化でもなかったということに尽きます。また農地改革が農業の企業化・大規模化を妨げたわけではないのです。

より本質的な問題は日本では今に至るも、小野義眞・岩崎彌之助・井上勝を越える社会的リーダーが現れないということです。

小沢一郎は、小岩井農場のある岩手県の政治家であるにもかかわらず、農業所得補償のバラマキ政策で人気を取ろうとしか考えてない。こんなに政治家が馬鹿では話にならない。(了)
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この回答へのお礼

大変よく、日本と欧州の違いがよくわかりました。ありがとうございました。

お礼日時:2012/09/02 01:36

 No.4です。

お礼ありがとうございます。合わせて、補足をいただきましたので答えさせていただきます。

 といっても、じつはお尋ねの点にズバリと答えるデータを持ち合わせておりません。おそらくご想像のとおり手練手管を尽くして節税(脱税?)にいそしんでいたはずだとは思うのですが、いっぽうで富裕層・資産家に対する課税が今よりも厳しかったのも事実です。戦後の混乱期に税収を確保するための窮余の策ではあったのでしょうが、銀行預金に対して課税することも行なわれていました。

 当初のご質問からは外れますが、参考までに現在はどうなっているかというと、所得が増えるごとに所得税も増えていき一億円で26.5%になりますが、そのあとは下がって100億円の人は14.2%しか負担していません。これは金持ち天国のように言われるアメリカ(17%強)さえ下まわる水準であり、先進国では例外的な国となっています。
 なぜか現在では財務省のリンクが切れているのですが、同じ表を見つけたので参考になさって下さい。
 https://file-hatena.com/diary/files/kojitaken/fi …

 これは所得税の話ですが、住民税と社会保険料を合わせるともっとひどい数字になります。
 一例として、年収3億4千万円の豊田章男氏の場合、所得税が15.1%、住民税4.7%、社会保険料0.9%で合計20.7%になるのに対し、年収430万円の平均的な世帯では所得税が4.3%、住民税が5.1%、社会保険料25.2%の合計34.6%です。理屈はさまざまに立つのですが、これで「税収が足りない」と言われてもへそで茶がわくというものです。

 かつてと同等とはいかなくても、富裕層への課税をもっと強化すべきだという主張はかねてよりあるのですが、それに対するよくなされる反論のひとつが質問者様が言われる「海外へ逃げる」です。しかし、海外の事例ではよほどの資産家でないかぎり、国外への移転はほとんど起こっていないそうです。結局は負担を逃れたい人たちの言い訳にすぎないのでしょう。
 この国ではこの人たちの声ばかりがやたらと通る現実があります。金持ちがもっと金持ちになるのは本人の努力と天分と運に恵まれた成果なのですからそのこと自体は「どうぞご自由に」と言うだけなのですが、これが結果的に日本の経済に対する足かせとなり、財政をゆがめているのですから、いい加減捨ておくわけにはいきません。

 GHQの改革には日本の実情を踏まえない無茶なものもありましたが、基本的には日本を再建するために至極まともな改革だったと評価してます。農地改革を含めてです。
 この良識が日本から失われてしまったことは、返す返すも残念です。高度成長期まではあったはずなのですが、高度成長の実現が夜郎自大な自信を植えつけてしまったことと、福祉国家に乗り出した矢先に石油ショックをむかえたせいで改革が中途半端に終わったこと、そのせいで国民意識の改革も不充分なままであること(社会保障の充実は負担の増加につながることへの納得)、高度成長期の税収構造から抜け出せなかったこと、周回遅れの新自由主義的改革に取りつかれたこと、などから、すっかり失われています。
 ひと言でいえば、現実を直視して合理的に対策を練ることができなかったのです。

 しかし、もう限界でしょう。今度はGHQも助けてくれないのですから、日本人が日本の「改革」をしなければならない時節が来たのだと思います。
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この回答へのお礼

そんな累進減税が行われているとは、知りませんでした。信じられません。
たいへん良識あるご回答感謝いたします。

横一線のスタートラインから駈け出した社会というのは、いろんなメリットがあるんだなと思います。
その社会全体を調整して主導してきた官僚は、現在、社会に大きな影響力を持つようになった財界の人たちほどには給料をもらってなかっただろうから、良心的な人たちだったと言えるのかなと思います。

お礼日時:2012/09/02 00:57

>どうして日本と西ヨーロッパとで、そこまで大きな差ができているのでしょうか?


>あちらでは、どうやって農地の集中が進んだのでしょうか?

18世紀の農業革命で農地の集中が進みました。輪作を実現する為に「囲い込み」と呼ばれる農地の再編成みたいなことが推進されたのです。それは農業の生産性を上げる為の政治主導の変革でありました。
つまりヨーロッパでは18世紀から大規模農業経営者が育てられたということなのです。

それに対して日本では大規模農業経営という発想が皆無だった。

このヨーロッパと日本の違いを理解する為には、ヨーロッパでは水田も灌漑も無く、小麦という生産性の低い穀物が主要作物であり、連作障害の為休耕地が必要で、総合的に土地生産性が低かったというヨーロッパの事情を理解する必要がある。

図録▽ヨーロッパの超長期人口推移
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/9010.html

ヨーロッパの人口は、17世紀中ごろに1億人を越えたと推定されています。北欧、西欧、東欧、南欧、中欧、イギリス、ウラル山脈以西のロシアを全部ひっくるめて1億人だというのです。現在はヨーロッパ全体で7億人となりますから、農業革命以前の土地生産性の低さが分かろうというものです。

日本では生産性の高い稲作が中心だったので、輪作の必要もなく囲い込みの動機が生まれなかった。江戸時代の農民の課題は、領主に対して村全体として年貢を納めることだけだったので囲い込む意味が全く無いのです。広い耕作地を持てば、年貢の分担の割合が増えるだけだからです。

日本の農業の歴史は、冷害・風害・水害・病虫害との戦いの歴史であって、大規模化というのは何の解決策にもならなかったのです。これがヨーロッパとの決定的な違いです。稲作は順調なら、極めて生産性が高い。しかし自然環境の要求水準が高く、ひ弱で自然災害に弱い。収穫が不安定なのが稲作の弱点なのです。

ヨーロッパの「囲い込み」は何程もない作業でした。水田と違って、畦畔(あぜ道)・用排水路や道路の整備がほとんどない。水田の大規模化は、開墾と同じぐらい大規模な土木作業になります。場合によっては河川の流路の付け替え工事も必要になります。江戸時代には土木工事の技術力も動力も無かったともいえるのです。

まとまりの無い文章になってしまったが、ヨーロッパと日本の農業は何から何まで違っています。こういう違いを無視して、農地改革にあらぬ妄想を繰り広げるのはナンセンスの極みといわざるを得ません。
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この回答へのお礼

いつもありがとうございます。大変勉強させていただいています。
水稲と小麦という違いは、大きいんですね。

囲い込みなんですが、昔からいろんな説明を何度読んでもしっくりきません。最終的に、もともと大地主がいて、そこで小作人が働いていたのを、大地主が牧羊や集約農業をやりたかったために、小作人を追い出した、と理解していますが、だいぶ違いますか? そもそも土地所有者を追い出せるはずがないと思いますので、追い出されるのは小作人なんだろうと思います。この考えで行くと、もともと大地主がいた、という話になってしまいます。

お礼日時:2012/09/01 01:29

> しかしどんな労働需要を、どうやって地主が作り出したのかが疑問なんですが。



下男下女というのもありますが、その多くは、地主自身の土地の耕作の労働力です。財産が無いため、婚姻はできず、一代限りですが、住居を与えられ、苦しいながらも生活ができました。

この回答への補足

なるほど。しかし、ある地主が管理する社会での利益は、米などの作物の、外部への売り上げから作られると考えると、そして、売り上げの合計と、人口が同じだとすると、
戦前、その利益は、地主自身+地主の下男下女への賃金+小作人 に分配され、
農地改革後は、自作農へすべて入ってきたと考えられ、地主自身が不労所得を得ていた分が自作農へ分配されたわけですね。
ですから、自作農の子供たちが、自分の家の田んぼで働いて得られる利益よりも、地主の下で働いていたときの賃金の方が少なくなり、自分のところで働いた方がよいということになると思うんですが。
また、地主社会において、たくさんの子供たち(それがまた大人になる)を雇用できるだけの力は、利益の総体からして、ないと思うのですが。
どうなのでしょうか。

補足日時:2012/09/01 00:11
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> しかし、欧州並みに農業の規模が大きくなっていないとは言えるのではないでしょ


> うか。どうして日本と西ヨーロッパとで、そこまで大きな差ができているのでしょうか?

> あちらでは、どうやって農地の集中が進んだのでしょうか?

(ここではEUは一つの国のように仮定しています)
EUでは、農業や食料分野は完全な安保の一環として行われており、反自由化反市場化が進められています(反市場化というより農業反グローバルと言ったほうがよさそうですが)。
また米国においても似た様なもので、他国に対しては市場開放や関税撤廃などを迫り、自国の農産業へは莫大な補助金を付けるかたちで農業保護政策を行なっています(米国の場合は自国にとって有利なのが関税よりも補助金政策であるからそちらを選んでいるだけのことですが)。

EU諸国の多くの国では以前は米国への食料依存を受け入れていましたが、米国の食料を使っての政治報復などが行なわれた経緯などもあり、そこからEUでは食料安保の観点が非常に重要視されるようになりました。

ここまで日本での農業改革は経済性や合理性がひたすら求められ、その結果としての減反政策などがあります。一応、民主党になってからの農業改革はEUをモデルに行なわれている訳ですが、経済性やグローバル市場化を阻む農業政策という事で自民党を中心とした野党や多くのマスコミ関係者から批判を浴びて世論も野党よりのようです。
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この回答へのお礼

農地の集中の件は、分かりませんが、
勉強になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2012/09/01 01:06

「大規模地主制が小さな国であった」という事実は全く有りません。

それは三井地所が小さな国であったというぐらい馬鹿げた妄論です。借金のカタに農民から土地を取り上げた不在地主は、そのまま元の所有者を小作人として営農させて賃貸料として法外な小作料を収奪していただけです。だから不在地主は只の不動産業だったのです。こういう経緯で入手した土地だから、まったく細切れで不連続です。こういう経緯で入手した土地だから複数の農村に点在し、他の地主の所有地と入り組んでいます。それが地租改正によって生じた村落共同体の崩壊であったわけです。個々の農民は地主に隷属していて、共同戦線もはれない。小さな国でもなんでもありません。地主は暴力団みたいなチンピラを雇って小作料を取り立てるだけでしたから。地主は農業の生産性が上がるような施策を何一つ実施したわけじゃないんです。

このような悲惨な農村の実態に気づいた社会運動家の賀川豊彦と杉山元治郎が中心となって1922年日本農民組合が結成されます。日本史上初めての全国的農民組織です。従来、農民は村落共同体の枠を超えて組織化されることはありませんでした。江戸時代の百姓一揆が局所的であったのはその為です。日本農民組合の活動は小作争議を指導することでした。実際、小作争議の発生件数は日本農民組合が結成されてから激増の一途をたどった訳です。

「小作人の次男坊、三男坊も、地主の下で働き先があった」という事実は全く有りません。働き先が無かったからこそ、小作人の次男坊、三男坊は海外移民、都市への流入、北海道開拓、満州農業移民、軍部に活路を見出すしかなかったわけです。

戦前の軍国主義の本質は、小作人の次男坊、三男坊を食べさせるための公共事業だったということなのです。戦前、中央官僚への道を閉ざされた賊軍系の旧士族の家系は陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校を経て陸軍の青年将校を目指します。中央官僚は官軍系の旧士族に押さえられてしまったからです。その象徴が、旧庄内藩士の家系の石原莞爾です。石原莞爾の部下が小作人の次男坊、三男坊だったのです。だから満州事変を軍事的に成功させた石原莞爾が軍神と崇め奉られたことになった。それは小作人の次男坊、三男坊の働き口を増やすことになったからです。教科書には軍部の暴走と書かれているが実際は、東北出身の青年将校の暴走です。軍中央は決して暴走でもなんでもなかったが、青年将校に突き上げられて、抑え切れなくなったのが実態です。

以上のような軍国主義の構造に気づいたGHQが農地改革を推進しました。農地改革なくして軍国主義の解体なし。小作人の次男坊、三男坊が軍隊に身を投じなくても食べていける仕組みが必要だったからです。農地改革の後、発足した農協の課題はもはや小作争議の指導ではなかった。農協の課題は農業生産性の向上、品質の向上、効率化でありました。農協は肥料・農薬の共同仕入れ、農産物の共同出荷を指導しました。

冷害に強い水稲の品種改良、農業の機械化、自動化はほとんど戦後になってから推進されたことなのです。トラクター、田植え機、コンバインは全部戦後開発されたものです。1936年に井関農機が設立されたが戦前には全自動籾すり機ぐらいしか開発されていません。もみからもみ殻を除いて玄米を得るってだけですから、何ほどのものでもない。この事実をとっても戦前の農業がどれだけ人力・馬力に頼っていたか分かるはずです。

現代では田植えはほとんど田植え機で行われるようになったが、これだってまだ2,30年程度の歴史しかない。農業の機械化・自動化がなくては大規模農業もへったくれもありません。

戦前、どうして農業が発展できなかったのか。それは戦前、金、知恵、情報が農業に投資されなかったからです。地主は小作料を元手に所有地を買い増ししただけで、農業そのものには一銭も投資していない。銀行は、商工業には融資をしたが、農業には一銭も融資しなかった。資本家は鉄道、工場、発電所には投資をしたが、農業には一銭も投資をしなかった。小作人は小作争議で生活向上を目指した。
戦前、ほとんど誰も農業に眼が向いていないのです。軍需産業ばかりに金が回って、誰も井関農機に投資しようとはしなかった。

農地改革によって、金、知恵、情報が初めて農業に投資されるようになったのです。農地改革が無かったら農民は機械を買う金もない。農地改革が無かったら大規模農業が可能だったという論は余りにも馬鹿げた妄論です。

日本の歴史教育は分野が偏重していて、農業が全く無視されている。おかしな話です。
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この回答へのお礼

人口増加時に、それを経済的に吸収するというのは大変な課題なんですね。労働需要も生まなければならないし、食糧自体も増やさないといけない。

大変勉強になりました、ありがとうございます。

お礼日時:2012/09/01 01:01

大規模地主制というのは、ひとつの小さな国がその地域にあるのと同じで、そこの社会の中で人々は暮らせていた制度です。


これが破壊されたというのが、農地改革の本質であり、それを命じた側の「目的」でした。
小作人の次男坊、三男坊も、地主の下で働き先があったわけです。

その働き先が無くなったわけですから、小作農が転じて自作農になった小さな土地を分割して相続させるわけにはいかず、次男坊、三男坊は、他の土地に働きに行く必要が出たわけです。これが集団就職をした金の卵と呼ばれた人たちですね。
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この回答へのお礼

これは、はじめて聞きましたが、おもしろいです。
しかしどんな労働需要を、どうやって地主が作り出したのかが疑問なんですが。

お礼日時:2012/08/31 09:54

 結論から申し上げれば、わたしは農地解放がなかったら高度成長もなかったと考えています。



 高度成長がなぜ実現したのかと言えば、国内の供給力が増したからではなく需要力が増したからであり、つまりは国民の購買力が増したからです。質問者様が指摘されているとおり、農地解放によって全国の多くの国民の経済基盤が改善しました。これが需要力につながっているのです。
 日本は貿易立国だと言われてきましたし、その言にまちがいはないのですが、いっぽうでわが国のGDPにしめる割合はつねに小さく、いざなぎ景気と言われて輸出が飛躍的に伸びた時期でさえ経常収支は0.1%しかありませんでした。ざっくり言ってしまえば、日本の経済を押し上げたのは国内市場の力なのです。

 もちろん農地解放だけが理由だったわけではありません。
 戦後、GHQは農地解放だけでなく財閥の解体や労働者の地位向上を図るなど経済の民主化を図り、シャウプ勧告による税制の改革を行ないました。これらによって日本では所得の再分配が進み、国民所得の平準化が進みました。つまり、持っている人から取り上げて、持っていない人に渡すあるいはそのために使うなどしていったのです。
 参考までに、高度成長期の所得税と住民税を合わせた最高税率は90%にも達していました。いまは50%くらいですが。
 P.クルーグマンはアメリカについて、戦後政策的に所得の再分配が進んだ結果、50年代の黄金時代を実現したと述べています。これだけが理由とは言えないのですが、重要な要因であったことはまちがいありません。国民所得のある程度の平準化は国民経済に活況をもたらすのです。
 反対に、富裕層の負担を軽減する新自由主義的改革はたしかに成果を上げた時期もありましたが、90年代以降これを行なって持続的な経済成長を達成した国はありません。日本もそのひとつです。

 最近の話はさておき、かくのごとく考えるので、わたしは「農地解放がなければ高度成長もなかった」という結論にいたっています。

 質問者様の言われる、農業の大規模化と零細農家の保護については、戦後改革のあとの政治が怠慢だったからであって、また別問題と考えます。農地解放自体は正しかったのです。

この回答への補足

しかし90%は、実際に払っていたんでしょうかね?そうであればありがたい限りですが。さまざまな節税、脱税、工作が行われていたのではないかと想像します。
今だったら、その人たちはみんな海外に移住してしまうんでしょうか?

補足日時:2012/08/31 09:51
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この回答へのお礼

なるほど、国内の購買力という点からみれば、そうなるわけですね。総中流化というのは、大いに経済発展に貢献したわけですね。
ありがとうございます。

お礼日時:2012/08/31 09:46

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