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今回はかなり常識に反した質問なので
なに言っているんだという回答でかまいません。
ただの思いつきで質問しました。

まず、マハーヴァッガは現代日本語訳されていますか?
どうやって入手できますか?

縁起説および空は本当に悟りの内容ですか?

「不死の門は開かれた」という文章が気になります。

不死はあくまで、輪廻からの解脱という意味ですか?

A 回答 (9件)

No.3です



「不死はあくまで、輪廻からの解脱という意味ですか?」

に関して、手持ちの書籍に関連事項の記述がありました。

バウッダ(佛教)(小学館ライブラリー)著/三枝充悳 著/中村 元
http://www.shogakukan.co.jp/books/detail/_isbn_4 …

(おなじ、中村 元、三枝充悳著の同名書籍が講談社学術文庫から出版されています)
http://www.bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search …

私の持っているのは小学館ライブラリーのものですが、そこから一部引用しておきます。

>>>p.206-209 ニルバーナ(涅槃)から抜粋(サンスクリット語等の言語部分を削除)
釈尊当時のあまたの思想家は、彼らの理想ないし目的とするところを、安穏、平安、安楽、幸福、不死・甘露、彼岸などと呼び、それに到達することを解脱と称した。
(中略)
釈尊においても、同類の表現が見られる。(中略)その境地をとくにニルヴァーナと名づける。(中略)中国ではあえて翻訳せず、(中略)涅槃の音写を当てた。
(中略)
ニルヴァーナを「(炎すなわち煩悩が)すっかり消えてなくなった状態」と解する。
(中略)
(以下、スッタニパータを資料としての、中村 元氏による考察)
次に「スッタニパータ」を資料として、ニルヴァーナが明確に説かれている諸詩句の内容を要約すると、(中略)ここには、否定的と肯定的の両方の表現が目立つ。(中略)
ニルヴァーナはまず最初に否定ないし排除を含む消極的な在り方を示す。
そこでは、煩悩-欲望と無知とに沈む凡夫の在り方を、まず否定し、排除して、さらにはそれからの離脱へ、超越へと向かう。換言すれば、いわゆる世俗の立場に固執する限り、ニルヴァーナは成立せず、実現され得ない。(中略)
しかし、釈尊は、さとり、成道したままにとどまってはいない。しばらくその寂静を楽しみ、その境に浸りきった中から、数週間に及ぶ躊躇・逡巡のあと、決断があって、広く民衆の教化に踏み切る。
(中略)
釈尊のニルヴァーナに関するこのプロセスには、略言するならば、一種の「往」と「還」とが明らかに示されている。それを、たとえば「スッタニパータ」に何度か説かれる「この世と、かの世とを、ともに捨てる」という表現に重ね合わせてみれば、「この世を捨てる」のが「往」であり、「かの世を捨てる」のが「還」であることは、とくに付言するまでもあるまい。
さらには、阿含教の散文に、たとえば「中部」のある教には、「ニルヴァーナより、ニルヴァーナを知り、ニルヴァーナを思惟せず、ニルヴァーナにおいて思惟せず、ニルヴァーナより思惟せず、このニルヴァーナが自分のものとは思惟せず、ニルヴァーナについて喜ばない」という。
(中略)
ニルヴァーナに固執すること自体はすでに固執そのものとして、それからのさらなる離脱こそがニルヴァーナであるとする、いわばニルヴァーナの二重否定の方向ないし推移を、うかがい知ることができる。そして、これは、ニルヴァーナの第二の積極的な在り方を示す、と私は考える。
<<<

上述のように、「不死」という概念は、ブッダ以前からの当時一般的な「悟り」の一種として用いられていた用語だったようです。ブッダが悟りを開く過程もまた、仏典内部に入っているでしょうし、中国→日本へと仏典が入ってきた過程で、そういった過程のいずれかを「悟り」と誤認する危険性があると思います。

ご参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

再び回答ありがとうございます。

悟りは、どのような内容かはともかく
仏教だけのものではなかった
ということになるようですね。

お礼日時:2012/09/27 11:01

何の誰の悟りでしょう?。

悟り、という実態、主体、がある。という意味でしょうか。
それとも、釈迦の菩提樹の下での悟り、とはなんであったのか。にたいする
思いつきの質問でしょうか。
それなら、若い頃、私も、考えた事があります。
、仏教(ブッデイズ)、なのか、縁起の理法、なのか、八正道、なのか、輪廻、か、大慈悲、か。
などと考察して見ましたが。わかりませんでした。既にない過去のとっくに死んで、今はいない人物むが
、座し何を考えついたか。など解るわけもありません。
世界が在り、人間の認識が想起し、表現をする。
存在と認識が一致する訳でも、認識と表現が一致するわけでもありませが。
表現をしたとは、その時の認識と無関係ではない。認識、思い、を一方の縁として、表現が起こる。

とすれば、菩提樹の下で思索し、悟り(自ら考え納得出来る答)を積み重ねた後の、行動、いわゆる釈迦の第一声、最初の説法、と無関係ではない、ないはずです。
そういう意味では、菩提樹の下での釈迦の悟りは、四諦の法門、とか、四諦八正道、とかいわれる。ものであり。ブッディズムで、導くもの、(ブッ、仏)を縁として、智、悟り、が起こる。
大切にすべきは、仏である。との思想を人々に教えようとの思いだったのでは?。
釈迦は29才で妻子も皇太子という地位も捨て、修行の旅に出たとされています。
学問を修めた後、40才までは結婚をしてはならない、女人と交わってはならない、という戒律の元、
修行の旅に出る事を義務づけられていた。バラモンの男子、ではない、釈迦が、何故、バラモンの真似をし、
バラモンに対抗しようとしたのか。
それは、彼には、ボラモンを超える、智的素養が自分にはある、人々を導ける思想を、会得出来る、
基本としての、考え方、をもっている、との自覚だったはずです。つまり、縁起の理法は、出家前に会得していた、悟っていた。とみるべきではないでしょうか。
それがなく、ただ、悩み苦しむ人々を救うべく道(方法)を求めて放浪に出る。
そんな、「詩人にすぎない、阿呆にすぎない(i-チェ)(婉曲に29才で十字架にかけられたキリストの事でしょうが)青年が数年後に、ブッダ(目覚めた人)と評されるような賢者に変身する。とは考え難いのでは。
また、妻子を捨てて、道を求める者が、自らの、ニルバ-ナ(静けさ、涅槃)の境地を、悟り、として追い求める訳はありません。釈迦が、これより涅槃に入る、と言ったのは、死ぬとき、だったようです。

釈迦が菩提樹の下での瞑想、思索の修行、ハンニャパラミ-タ(知恵、理法によりて見る、般若波羅密多)の後
語った。とされる言葉は何だったのか。2つあります。
ひとつは。「世界の歴史」によると。

釈迦はかって修行苦行を共にした。5人のバラモン修行者を前に。

ここに4っの真理がある。
苦と、苦の起源と、苦の滅と、苦の滅に至る道、とである。
生も苦、老いも苦、死も苦、であり。
愛する者と離別するのも苦なら、好まぬ者と結合するのも苦である。
苦の起源とは何か。喜びと貪りとを伴い、あれこれ執著する愛執である。
苦の滅とは何か。愛着の心を残りなく捨て去る事である。
苦の滅に至る道とは何か。八っの正しい道
1、正しい思惟 2,正しい見解 3,正しい言葉 4,正しい行為 5,正しい生活
6正しい努力 7、正しい思念 そして 8正しい瞑想 てある。

これが法門、言われている。仏教(釈迦の思想)の入門であり、基本、なのです。

不死の門は開かれた、? 甘露の門は開かれた。では?

もう一つの釈迦の、第一声、と言われているのは。多分?を付けずとも、
ヒンズ-教の神話としての、源祖神(ブラフマン?)の6番目の転身、生まれ変わり、としての。蓮の台座に座った、お釈迦様、の伝説、ヒンズ-の教の中のブッダの神話、の経典。です。

菩提樹の下て悟りを開かれた釈迦は。
私が苦労して悟りえたこの理法は微妙であり。繊細であり、世の人々の理解するところではない。
説法をしても、理解してもらえなければ、私には徒労が残るだけである。と説法をしようとはしなかった。
それを知った、世界の王梵天は。
ああ人類は滅びる、真に悟った御方が、説法をしようとはなさらないのだ。
と、釈迦のもとに出向き。
かってマガダ国に悪い思想がひろまりました。世の中には、知的素養の優れた者たちもいます。
彼らは聞かなければそのままですが、聞けば悟る者もいるでしょう。どうか、説法を始めて下さい。
と勧請をします。
釈迦は梵天の勧めを聞き。蓮の池を悲しみの眼で見渡し。
蓮にもいろいろある。水中に生まれ水中で没するもの、水中に生まれ水面に顔を出dすもの。水中に生まれ、水面から立ち上ったもは、水に汚されることがない。などと思いをめぐらされた後、

耳ある者たちに、甘露の門は開かれた。己が信仰を捨てよ。
と言われた。

梵天勧請の説話は概略そんなものでした。
理法についても、何々を原因として、何々という結果が起こる、というような。因果律としか理解されていないようでした。

そして、マガダ国に広まった悪い思想?、また捨てよ、という、己が信仰?とは、いわゆる、小乗仏教、のことですよね。
何故、大乗仏教はそこまで、小乗仏教を否定し、排除しようとするのか?を考えてみられてはどうでしょう。鍵になるのは、バラモン階級、バラモン思想、となるのでは。釈迦の思想を理解し広めたのは、バラモン修行者達であり。仏教経典を編纂したのも、学識があり文字が書ける、元バラモン、出身者だったはずです。
しかし釈迦の思想は、階級の否定であり、神のいない哲学なのです。
しかしそれを受け入いれ、賛同した、バラモン修行者達の知的精神的高さ、驚嘆すべきものであった。とも言えるでしょうが。釈迦が死に、時が経てば。バラモンは、
司祭階級でもあり。神がいなければ、都合が悪い意味があり。またバラモン修行者は、期間限定の修行者でもあり。40才になれば。国に帰り、結婚をし。指導者として迎えられる。比して仏教修行者は帰る家もなく、一生が修行となる。
仏教に帰依したバラモン達のなかから、これでは都合が悪い。仏教に神を取り入れ、
バラモン思想=ヒンズ-教と融合しよう。というような、バラモン思想からの反抗が起こった。
それが、大乗運動、ではなかったのでしょうか。
釈迦には、バラモンによって広められた仏教はいずれバラモンによって滅ぼされる。ということは
解っていたようなふしもあるようです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

ようするに後からできた理論である
十二支縁起説などを持ち出しても
ゴータマの悟りとは本当は言えないのではないか
ということです。

そして、縁起に基づいた空というも
実は悟りではなくて
たんにそうだと、見なしてきただけではないの?
ということです。

お礼日時:2012/10/01 11:12

 こんにちは。



 ★ 縁起説および空は本当に悟りの内容ですか?
 ☆ 縁起がもし 経験事象をめぐる因果関係としての人間関係やその社会的な構造のことをのみ言っているとしたなら それは《さとり》というほどのことではないでしょう。
 哲学ないし科学の問題です。

 空・シューナター(無・ゼロ)の概念をしのばせないなら 縁起説は ゴータマ氏の専売特許にはなりません。


 と言ってもこの空観に裏打ちされた縁起説は 経験事象としての因縁起が 諸法無我ないし諸行無常の説とともに空と見られると言っているのですから そうなるとその世界観は やはりブラフマニズムの梵我一如の見方に限りなく近づくと考えられます。

 いえ 近づくのではなく 類型として構図としては まったく同じものになると言わざるを得ないのではないでしょうか?

 ○ 梵我一如
 ・我:アートマン(われに神霊がやどる)
 ・宇宙(世界)の主宰神:ブラフマン(梵・神霊)

 ○ 空〈無我〉一如 または 空仏一如
 ・我:アン‐アートマン(無我)(ただしのち 仏性をやどすと言う)。
 ・宇宙:空(シューナター・無・ゼロ)

 
 ということは 我としてのアートマンを アン‐インストールして アン‐アートマン(無我)と言いかえた。だけのことです。ブラフマンなる神をもしりぞけ 空を持って来た。だけのことです。
 どうもゴータマ氏は へそ曲がりであって 消極的に――つまり先行する世界観に反抗するかたちでその――梵我一如説に難癖をつけただけのようです。






 ★ ~~~~
 「不死の門は開かれた」という文章が気になります。

 不死はあくまで、輪廻からの解脱という意味ですか?
 ~~~~~~
 ☆ もし文字通り《不死》を言うのなら 《空》を《有》――たとえば《有りて有るもの》なる表現――として表わし その神学を打ち建てているべきだったでしょう。

 もし《不死ないしアムリタ》が ただ《ありがたい》という意味であるに過ぎないならば 《人びとにはこのわたしが体得したさとりをおしえて果たして理解できるだろうか》などとふざけていないで しっかりとその中身を――縁起説や空観などをめぐってさらに言葉による表現を出来るだけ用いて――明らかにしていなければならなかった。
 たとえば 《仏性・ブッダター》について 後世の人びとによっておぎなわれるというかたちになるのではなく そうではなく 自分ですすんで明らかにしているべきであった。

 それにしても ゴータマ氏は みなに好かれるのでしょうか。ほとんど誰もけなす者はいないようです。

 ひとつには 何ごともその世界観の途中まで説いたというあいまい路線が そのモヤモヤワールドを人びとの頭のなかに形成させて 社会のシガラミに巻き込まれくたびれた人びとにとって 恰好のオアシスとしての蜃気楼閣を得させそこで千年二千年と夢を見続けさせているのでしょうか。



 後世の人びとが

  一切衆生 悉有仏性

 とあとづけたとき――あとづけたから―― 曲がったへそがやっと修復された。と見るべきだと考えます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

最近、自分がこれまでもっていた
仏教の概念がどんどん崩れていますので
ゴータマ非実在説すら考え始めました。

お礼日時:2012/09/29 09:52

この回答は、縁起説、空の説明をするのではないです。


「不死の門は開かれた」の意味だけ、参考になりそうなものを、URLで。
http://mujintou.lib.net/dharma/bukkyo/sarnath.htm
http://www1.kcn.ne.jp/~hk2565/kokoro-223.htm
シャカが悟りを得て、
中村「~。この自分自身が味合わせているこのありがたい境地、このまま自分一人で保っていていいのかどうか。あるいは他の人も同じように苦しんだり悩んだりしているんだから共にすべきではないか、という反省もまた心のうちに起こったんじゃないでしょうか」
奈良「たしかに自分がいろいろ悩まれて、そして悟りを開かれて、いわば人生の不安、苦悩というものを克服されたわけですし、世間を見ると悩んでいる方々がたくさんいらっしゃるわけですから、何とかときっとお思いになったでございましょうね。と同時に、なかなか気付かされないものを人に気付かすということの難しさもおそらく身に沁みて釈尊はお考えになったんじゃないかと、私は実は思うんでございますが」
中村「そうだろうと思いますね。本当のこの自分の体得した境地というものを人に伝えることができるかどうかという、そういう難しい問題になるわけですが、おそらく釈尊の心の中にも一種の心理的な反省といいますか、葛藤といいますか、あったろうと思うんです。それが経典の中では、「梵天勧請の伝説」になっているんじゃないかと思うんですがね」
奈良「梵天という神さまが出てきて、どうぞお説法をしてください、と勧めたというエピソードですね」
中村「そういうわけなんです。梵天と申しますのは、ウパニシャッドで最高のものを「ブラフマン」と申します。それは神格化されてブラフマーと言い、「梵天」と訳されておりますが、宇宙を支配する最高の神さまですね。その神さまが出てきて、お釈迦様に向かって、世の人々のために説いてください。「甘露の門を開け」と、そういう詩の文句になっておりますね。「甘露(かんろ)」は元の言葉で、「アムリタ」とか「アマタ」というんですが、これはまた「不死」とも訳されるんです。つまり「不死」というのがおそらく元の含まれた意味だと思うんですが、それをまたインド一般に「甘露」という意味にも使っております。お釈迦様のお花祭の時に甘露のお茶を頂きますですね。それはそこから出ているわけですが、頂いて有り難いもの、快いものという意味です。味で賞する時には甘露と申しますが、そこへ含まれている言葉の意味は不死、つまり人間は死ぬものであり、老いるものであり、やがて消えて亡くなるものである。けれども、不死の境地というものがその中にあるんじゃないか、と。人々も考えてしまったし、お釈迦様自身もそう考えられたんでしょうね。それで梵天が出てきて、不死の門、甘露の門を開いて下さい、とお願いしたと。そこで釈尊は教えを説くほうに一歩踏み出されることになった、と。そういう伝えになっております」
~~~~~~~~~~
「ありがたい、心地よい」=「甘露」=「不死」を、同じ言葉(アムリタ/アタマ)で表していたということでしょう。
翻訳するときに、「ありがたい悟りを私たちにも教えてください」=「甘露を私たちにもおわけください」=「不死の門を開いてください」、『わかりました。そうします』ということなのではないですか。悟りを相手に応じて適切に説法する決心がついたということでしょう。
普通の生死の死に対する「不死」ではなくて、深甚の悟りのありがたく・快い内容(?)のことを(アムリタ/アタマ)で表していたんでしょう。
そう考えてから、[お釈迦様は「不死の門は開かれた」(マハーヴァッガ)と、永遠の命を示してくださいました]という表現を解釈すると、永遠の命=悟りとわかるし、四諦がその方法を示していることもわかるのではないでしょうか。
http://www.houkouji.or.jp/houwa_husinomon.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%AB%A6
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

翻訳の問題なんですね。

お礼日時:2012/09/29 00:25

『縁起説』の本当の意味は、仏の弟子でさえ知らない人が沢山存在すると思いますが、我流の解釈ですが、『因果を晦まさない』と言う意味と思います。



人間の目の前には『二つの世界が展開しています。』その内の一つが『真実の世界』でもう一つは『仮の世界です。』

同じ目の前に展開していながら、その世界には『交点がありませんし、また交点があります。』この交点が見える場合に『因果を眩ませない見方』が出来たと表現します、言葉を替えて言うなら、『縁起説』を体得している事を意味します。

『因果を晦まさない』と言う意味は『原因と結果の間に、繋がりを見つける事が出来る。』と言う意味です。結果に対しての原因が分っている、と言う意味です。

全ての結果にはその原因が存在している事です。是は目には見え難い場合が在りますが、その目に見えない原因が、分かると言う意味です。

真実の世界が見える場合には、『我』の計らいが存在しない目で見ています。我の計らいがない場合が『空』です。『我』の計らいで見た世界が『仮の世界です。』言葉を替えて言うなら『頭の中で、自分の計らいに沿うように作り変えた世界』と言う意味です。

頭の中に作った世界は『現実にはない世界です。』ゆえに『仮の世界』と表現しています。『仮の世界』をもっと適切な表現をするなら『妄想』と言います。

原因と結果が、わからない場合では、多分に『自分の計らいが混じっています。』真実を見る目が濁っているからです。

今の教育委員会が頑張れば頑張るほど『墓穴を掘る現象に似ています。』今の政治家が、頑張れば頑張るほど『混迷したり、民意から離れてゆく』現象に似ています。

その共通点があります。『教育委員会の計らいと、教育の本質に矛盾が在るからです。』

政治に関しても同じです。民衆の望んでいる事と『政治家の計らいが矛盾しているからです。』

分りやすく言うなら『教育委員会の本来の仕事は、子供の健全な成長です。』今の教育委員会は『何事も無かったかのように、問題を隠蔽して、自分の身を守り、自分の所得を守る事にのみ腐心していることです。』そのための方法が、問題点を見え難くする事を仕事にしています。

政治家も同じです。国のためや国民のための政治が『自分達の保身のみが優先事項になっています。』自分の計らいを通すために政治家と言う立場を利用している事は、『誰の目にも明白です。』

国のためや、国民のための予算であるならば、この膨大な借金に対して、ボーナスの返上くらいでは『納得出来ない段階に来ています。』

少子高齢化が進んでゆく、近い将来に『誰が借金を返すのかを示していません』政治家が作った借金の責任は、政治家が取ると云う事がない、今の無責任政治家には『退場して頂いて』

責任が付いて回る政治にしてゆく必要があります。任期の間に作った赤字に応じて、ボーナスの返上や財産の返上をしてゆくくらいな、政治家が『今求められている。』と考えるのは、私だけでしょうか?

話が逸れましたが、「不死の門は開かれた」と言う意味は、全ての人間には、生まれた訳ではない事から滅する事がない、と言う働きを持って生まれています。

即ち『命そのものの働き』です。その働きは別な言葉で表現するなら『仏性』です。分りやすく言い表すなら『右脳の意識』です。その機能は『生命維持機能です。』

生きとし生ける者には、全て備わっている機能です。蜘蛛が蜘蛛のままで『蜘蛛として生きる機能です。』桜ならその種の花も色も匂いまでも違わずに再現する機能です。

草でも花でも、牛でも。馬でも、生まれる以前に『学校で習わなくとも、全て備わった形で生まれています。』

人間も例外ではありません、命の働きとの出会いを『悟る』と言う表現をしています。脳梁(意識の根底)で、出会う事を意味します。

『命の働きは』永遠からやって来て、また永遠に帰って行きます。『不死はあくまで』自分を働かせている意識の事を指します。

右脳と左脳は『脳梁(意識の根底)』で、絶えず情報交換し合っていますが、『没交渉』の関係です。その理由は『自我意識には、意識が無くなった事を、意識出来ないからです。』

人間は二つの意識の、交替制で、普通の暮らしがキープされています。仏性は『無意識の底に封印されたかたちで存在しています。』

仏性がどれほど人間に役に立っているのかの例を一つだけ挙げてみます。

眠る場合では『自我意識が無くなってゆきます。』完全に無くなった時『無意識の自分(仏性)が身体も心も支配しています。この事を自我意識は知り得ません。

無意識の世界の主人公が『仏性』です。身体の機能も、心の機能も、行動する機能も全て握っています。

不眠症とは『自我意識単体で』眠りに入ろうとしている事を意味します。出来ない相談です。自我意識が無くなった時に出てくれる意識が『空』と言う意味になるからです。

右脳と左脳の説明を、自分の体験から語っている、脳科学者の動画を紹介して終わりにします。

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2012/09/28 05:54

本当に縁起説が悟りの内容なの?



○その通りですよ。
縁起を頭で考えても何の悟りにはなりません。悟りの縁起とは、宇宙が始まる前から現在までを早送りの映像で見れば、縁起がわかるということですね。釈尊の縁起とはそのような縁起ですね。
釈尊の悟りは宇宙ボールができてからのようですから約400億年を早送りの映像で見たということですね。
地球ができてたかだか45億年程度ですから遥か昔から見たということなのです。
言いかえれば、過去現在未来を見通すと縁起がわかるのです。すべてが縁起であるということがですね。
偶然などどこにもないことがわかるということですね。
80年くらいの時間スパンで物事を見ているのではないのですね。80年程度では縁起がわかりませんね。
さて、空が悟りかと言えば、縁起を見るには空の段階が必要ということですね。だから空も悟りの段階なのです。釈迦仏教の悟りの意味は仏典の個々の言葉からわかるものではないのですね。全体を鳥観して始めてわかるものなのですよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

縁起と空は悟りの内容という意見ですね。

お礼日時:2012/09/27 18:21

ブッダは「形而上学的問題について黙して語らなかった」とされています。



「縁起説」は、「輪廻する魂の同一性(生前と死後の魂が同じ)」かどうかに関しては触れていないということです。
ブッダ以前からの「輪廻する魂の同一性」については「あるのでも・ないのでもない」としているようです。

「不死の門は開かれた」に関する背景と、「縁起説および空は本当に悟りの内容ですか?」に関する、ひとつの分かりやすい解説が、下記にありました。

「不死の門は開かれた」でググるとトップにて引っかかってきます。
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_ …

あと、
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6031948.html
も、参考になるかも知れません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

いわゆる無記の立場も
本当にゴータマの思想だったんでしょうか。
別の人の思想だったりして。

それにしても、リンク先の質問
「仏教を捨ててこそ仏陀となれる。」
そういう意見の人もいたんですね。

お礼日時:2012/09/27 10:59

マハーヴァッガは、日本語だと「律蔵・大品」で探せば出てくるようです。


律蔵と大品、別々の本の場合もあるような感じでした。
いろいろあるようですので、ご自分で探してみて下さい。


悟りの「悟」は、吾心(わがこころ)ですよね。
私(自分自身)の心を深く知ることが悟りじゃないかと思います。

その時に、理(ことわり)があり、それが縁起説や空論ではないかと思います。
No.1さんが書いてあるように、法則性ですね。


不死は、自分が何らかの形でこの世に残る事だと思います。
人間としての形は留めなくとも、生きてる時に起こした波紋は広がり続けますからね。

心理的影響でも物理的影響でも、何がしかの形で生き続けることだと思います。
それを吾心で深く理解した時、死は恐れるものでもなくなりますよね。

自身が到達しないと、怖いものは怖いで終わりになりそうですが。

話しの内容に対しての、理解の深さ(自分の心をよく理解しているか)で
意味が通じる人がいるし、通じない人もいます。

「知ってる」知性より、深く響く「感性」での理解は
自身の心を深く知る必要があり、そこから見出すことは多いです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

どうやらマハーヴァッガが重要みたいです。
探してみます。

お礼日時:2012/09/27 10:56

縁起や空性ってのは法則や理法であって、真理そのものではありません。

まあ、釈迦世尊は理法や法則を用いて「本当は何も無い」という真理を知らしめようとしたって事です。

仏教で言う不死とは、実在という嘘を看破し、非在という真理に至る事を言います。自分など居ない、即ち無我であると悟る道が、不死への道でもあるという事です。

釈迦世尊が説いたのは、真理とか、絶対の答えそのものではなくて、嘘を嘘と看破する為の理法です。法を灯明として自ら歩めと教えたのは、本当は何も無いという真実には、自力で到達しなければ意味がないからです。

本当は、あなたなど居ないし、居ない者は死ぬ事も無いし、輪廻する事も無い。嘘-嘘=真理。これが仏教です。

・・・などと思いつきで書いてみる。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

縁起や空は悟りの内容ではない
という意見ですね。

お礼日時:2012/09/27 10:55

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