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差別とは一体なんでしょうか?

差別の意味、定義がわかりません。
差別と区別の違いはなんでしょうか?
仮にこの世に差別というものがあるのなら、それは本当に悪いことなのでしょうか?

以前、某掲示板(2chではありません)にこんな質問をしたら、大激論になりました。
結局、私が納得できる回答は得られませんでした。
この場で皆さんの知恵と知識を頼りにもう一度お聞きしたいと思います。

世の中には差別と呼ばれるものが沢山あります。
人種差別、差別、男女差別、学歴差別etc…
それぞれに様々な問題があるのは承知しています。
ですが私が思うにそれらの問題は差別そのものではなく、もっと別のところに問題があるように思えるのです。
その根本的な問題に目を向けずして、被害者もしくは第三者がそれによる区別を安易に“差別”と称して相手の区別そのものを非難する。結果、差別と区別の違いが見えなくなり、差別=悪という印象が定着する。

本来、人は他人の頭の中にある感情、区別、判断に対して文句を云う権利はありません。
好きなものを嫌いになれ、とも、嫌いなものを好きになれ、とも云えるはずはありません。
問題にすべきことは『何を区別したか』ではなく、『何をしたか』ではないでしょうか?

その昔、ある国では白人警官による黒人への不当な逮捕、暴力が日常化していました。
黒人差別といわれる代表的な事例です。
しかし、本来非難すべきことは、差別そのものではなく、不当逮捕、不当暴力という行為でなければならないはずです。
たとえこれが白人に対して行われたものであっても、不当逮捕、不当暴力という行為はその対象が何であれ、悪いことに変わりはないはずです。
なのになぜ、その対象が黒人だということだけで、差別という謎のベールを被り特別扱いされるのか?私には理解に苦しみます。

同じことをしてもその対象次第ではいわれなき非難をこうむる。

その結果、世の中はどうなったか。
その対象が神聖化されるようになった。
現代の漫画家は黒人を描きたがらない。
何故か?
チリチリの髪の毛、大きな鼻の穴、たらこ唇、ありのままの姿を描こうとすると非難されるからだ。
市町村役場の窓口も民に対しては頭が上がらない。
単なる区別を特別扱した結果、逆差別が起こるようになった。
この傾向は果たして許されるべきことなのでしょうか?


先日、某大型テーマパークで見た光景です。
入口では所持品検査が行われていました。
検査とは名ばかりの簡単なものです。
そこへ、外国人男性二人組の順番になりました。
検査員は日本人の家族連れの時とは明らかに差のある時間をかけました。
私はそれを目にして「そりゃそうだろうな」と思いました。
検査員の責務は危険物を園内に持ち込ませないこと、それと同時に膨大な人数の所持品を効率的に検査すること。
それを考えれば、多少でも危険物を持っていそうな相手に対して慎重に対処する行為はごく当然のことだと思う。
きっと私とは違う考え方を持つ人がこの光景を見たら「差別だ」と思うのでしょう。



皆さんはどう思われるでしょうか?

A 回答 (15件中1~10件)

こんばんは。



なかなか深いテーマでの投稿に私も回答することに迷いました。

私なりの意見ですが、
「差別」とは、ある事を基準に優劣を付ける事であると共に、その「ある事」そのものに優劣を付ける事なのでは?と思いました。

勉強ができる人と足が速い人、それぞれの優れた所があります。
しかしながら、世間では
勉強ができる人が偉い、優れていると評価されますね。

つまりは、頭がいい事と足が速い事では頭がいい事が優れていると勝手に定義されてる、そこに問題がある様に思います。


白人警官の不当逮捕も
白人同士ならば、基本が同じ立場である、その上で逮捕の理由がある。
という定義ですが、相手が黒人だとそもそも白人と黒人だから、白人が偉い、立場が上だ。
だから理由を問わず黒人が悪い→逮捕という図式なのではないか?と思います。
これも、肌の白黒に優劣はないはずなのに、勝手に白は良くて、黒は悪いと決めつけていますよね。

ミスユニバースの選考も
黒人が選ばれるのは希です、黒は悪い、綺麗ではない、と偏見を持って評価されてるようにも思えます。
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なかなか鋭い興味深いテーマです。



>なのになぜ、その対象が黒人だということだけで、差別という謎のベールを被り特別扱いされるのか?私には理解に苦しみます。

一般的に、権利が弱い弱者が対象なものに対して差別という言葉が使われているのかと思っていました。つまり、黒人は歴史的に虐げられていたので黒人が別の扱いを受けると差別ということかと。

>検査員は日本人の家族連れの時とは明らかに差のある時間をかけました。

友達とシンガポールから帰国した際に、税関検査で私の前の友達が長い質問を受けていました。待ちくたびれて職員と友達のいるところに進み、「どうしたの?」と質問しました。職員は「あなたはこの人の知り合いですか?」、私は「はい、そうです」と答えました。職員「ああ、そうですか、じゃあ進んでください」。友達は顔の堀が深く日焼けしていて、いかにもマリファナとか持っていそうなバリとかにいそうな風貌なんです。差別と言うより、見た目上の偏見ですね。日経飛行機内でも英語で話しかけられていました。

なにか参考になればと思って書き込みました。

>仮にこの世に差別というものがあるのなら、それは本当に悪いことなのでしょうか?

さあ。利用する人もいれば、逆に利用する人もいると思っています。最近はあからさまな差別行動がないのでそういう意見なのだと思います。
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極論すれば本能的な好き嫌いの延長でしかないものに『差別』と云う名の枠を被せて、道徳倫理で批判したり擁護したりするのはおかしな事だと。



ならば差別と区別の違いで云えばそれは必要性の有無と云うことでしょうね。

男子と女子とでトイレを分けるのは区別。
これは必要であって意味がある。

男子にしか参政権を与えないのは差別。
これは必要でないし意味もない。

黒人差別の例で云えば、白人達が黒人を『区別』したのには合理的で明確な客観的理由が存在しなかった。

例えば黒人は、白人に比べて知能が圧倒的に劣るとか、遺伝的に情緒不安定な人種だとかの根拠がなかった。

■必要性も合理的理由もなくなされる『区別』=『差別』。

■区別される対象にとってマイナスに作用する区別は『差別』。

■プラスに作用する区別は『神聖化』。

『差別』にも『神聖化』にも両方問題がある。

『差別』には、常識なら明確なはずの対象への不当行為を理不尽に正当化してしまう歪みがあり、

『神聖化』には、対象を不自然に美化または擁護し、その有りのままを姿を否定してしまう歪みがある。

文中の手荷物検査の話は一つの核心ですが、これが区別か差別かと言われれば、定義の上では確かにかなり微妙ですね。

外国人の方が日本人よりも犯罪率が高いと云う明確な根拠があれば『区別』ですが、

そうでなくてもこの場合には、大多数の日本人よりも少数紛れ込んでいる外国人の方が、何か良からぬ事を企んでいるのではないかと考える一定の根拠にはなりそうです。

合理的に、ではなくとも心理的に理解できる部分も無くはありません。

しかしもしそこで、検査官が、外国人であるからと云う理由だけで彼らを逮捕してしまったら、その行為は『差別』になる・・。

と云うかそれ以前に、検査官のしていることは誤認逮捕であり、『差別』にそもそも関係なく理不尽な行為である・・。


とすると、やはり質問者さんの仰る通り、

『差別』と云う好き嫌いの問題が問題なのではなくて、『差別』と云う好き嫌いの問題が現実に不当な扱いを生んでしまう原因となるとき、初めて『差別』の問題も浮上するが・・。

しかし『差別』には逆の問題としての『神聖化』と云う側面が必ず存在するので・・。

そもそも人の自然な感情として不可避の、好き嫌いの問題として発生する『差別』自体を問題視するべきではない。

・・と云う結論になりますね確かに。

と云うことは、先述の定義もこの様に変わってきます。

■理不尽な理由を含まない選別全般=『区別』。

■理不尽な理由を含む区別=『不当行為』。

■理不尽な理由を含まないが個人的な感情を含む区別=『差別』。

この様に定義すると、差別と云う言葉が一方的に持つマイナスイメージはかなり払拭できますね。
あくまでそれは、理不尽な理由は含まない『区別』の一種に過ぎないのだと。
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おはようございます。

 はじめまして。

『差別』ですね。 字からだけなら、差を付け別にする。ということになりますが、明確な定義付けとなると、いろんな方のいろんな意見があるのでしょうね。

一般的に、『差別』というと、差別化、人種差別、差別など、ほぼ、優劣をつける…といった、動物会の『順位付け』にも似た、ある決められた秩序を守るための、ルールとか、規律のようなイメージがありますね。

個人的には嫌いな言葉です。

難しい事はわかりませんが、『差別』って、わがままな誰かが、自分に都合が良く、やりやすいように、統治や、コントロールしやすくなるために考え出した、自己中心的なシステムなんだと思います。

僕は、normalizationの方が好きですね。
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 差別とはその人が所属する集団に対して別の扱いをする事です。

そしてその扱いが合理的では無く不利益を与える場合だと考えます。

>そこへ、外国人男性二人組の順番になりました。
>検査員は日本人の家族連れの時とは明らかに差のある時間をかけました。
 「外国人」という表現から分かるように、日本国に所属していない事が外見から分かったと思います。
ですから、日本人としては扱わず検査が厳重になったのだと思います。
 そこで明らかに過剰でその人達に負担になるような検査を行えば差別に当たると考えます。

 差別か区別の違いは、その人を個人として尊重するかどうかによると思います。
その人の所属する集団・属性で人を判断する事が、区別だとするなら、
その区別の上で不利益を与えるなら差別にあたると思います。

>それぞれに様々な問題があるのは承知しています。
>ですが私が思うにそれらの問題は差別そのものではなく、もっと別のところに問題があるように思えるのです。
>その根本的な問題に目を向けずして、被害者もしくは第三者がそれによる区別を安易に“差別”と称して相手の区別そのものを>非難する。結果、差別と区別の違いが見えなくなり、差別=悪という印象が定着する。
 区別と差別の違いは、個々人の人格を尊重するかしないかにあると感じます。
社会的な利権を獲得するために「差別問題」を政治的な手段として主張する方法は間違っていると感じます。

 それでも人には差異があり、区別は至る所に生じます。
その違いを紋切り型・ステレオタイプに受け止める事は、非情に危ういことです。
正確に言うと、1人1人の個性を見ようとしなければ無意味でしょう。

 「差別」の本質は、人の個性に対して無関心であることでは無いかと考えます。
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なんか皆さん真剣な回答のところ、私が回答してしまって申し訳ないですが。



差別の定義は結局曖昧じゃないですかね。
説明出来れば差別は薄れるけど、相手がそれに納得できないと、やっぱり差別だって言われてしまい。


その黒人の件は、前例があったから差別だと思ったのだと思います。
黒人は今まで奴隷な存在でしたから、たぶん敏感になってしまったのかと。
弱者だと、守るべき存在だと。そんな感じになってしまったのでは。
例えば昔は男尊女卑だと言われてますね。それは悪いことだとなり今は女性も社会進出していますが、今現在、どこかで女が優先になってしまうこともあります。例えば痴漢にあったと女性が言って泣けば、女性の証言が優先になることが多く、そこから痴漢冤罪も出てきたりしますね。これは昔はおさえられていた可哀想な女性という存在、弱者だという存在。だからこういう結果になるのかもと、思いました。

前例があれば区別に近いと思うのですが、相手がそれを納得せず例えば裁判にかけたとしたら、負けるのは区別した方なのでしょう。
「●●人の犯罪率が高いから警戒する。」これは前例があるから私は別に構わないと思うのですが、警戒された方にとっては差別なのでしょう。「全員が犯罪をおかすわけじゃないのに!」と。


まとめられなくなったのでこれにて終わります。
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”差別の意味、定義がわかりません。


差別と区別の違いはなんでしょうか?”
    ↑
差別とは合理的理由が無いのに区別することです。

”仮にこの世に差別というものがあるのなら、それは本当に悪いことなのでしょうか?”
    ↑
区別は必ずしも悪くありませんが、差別は悪いことです。
つまり、合理的理由がないから悪い、ということです。
悪い区別は、合理的理由がない、ということになります。

”本来、人は他人の頭の中にある感情、区別、判断に対して文句を云う権利はありません”  
         ↑
ある黒人活動家が言っていました。
内心で差別していても構わない。
それはその人の自由だ。そこまで規制しろ、と
いうつもりはない。
それが表にでて
就職や賃金で差別するのが問題なのだ。

”人種差別、男女差別”
       ↑
人種間の能力の差異は科学的に否定されています。
従って人種だけで区別するのは合理的でなく、差別になります。
男女には種々の差異があります。
だから、男女を区別するのは合理的な場合もあるわけです。

”その対象が神聖化されるようになった。”
    ↑
差別は悪い事です。
ただ、その差別を利用して、利益を得る輩が出て来ていることが
問題になる訳です。
そういう人達は、差別がなくなると甘い汁が吸えなくなります。
だから、ことあるごとに差別差別と騒ぎ立てる必要が
出て来ることになります。
社会がそれに負けているのです。
なぜ負けるのか、というと
(1)彼らは団結している。
(2)後ろめたさがある。

”皆さんはどう思われるでしょうか”
    ↑
問題が典型ですね。
放置しておけば自然消滅するものを、ことさら騒ぐから
何時までも残ってしまうのです。
差別する口実を与えてしまうのです。
差別を利用して儲けようとする人間には断固たる処置を
すべきです。
また差別される側も自浄努力をすべきです。
仲間が補助金などを受け取っていたら、止めろと
言うべきです。
本人も受け取るべきではありません。
そうでないと差別は永久に無くなりません。
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人間は自分に関わる周囲の複数のものを見てそれらに差異があれば区別し、それぞれに名前をつけてきました。

人間が世界環境のなかでよりよく生きるためにそれらを理解していくためのひとつの重要なステップが区別という動作です。理解することを「わかる:分かる」というのはそれをしめしています。お互いに変異、差が認められなければ同一視してしまいますが、差があるから区別ができるということです。この人間の行いには善も悪もありません。むしろ生きるための良き行いのひとつ、人間の理知的な行動なのでしょう。
ご質問で問題にしている「差別」という言葉はここから出発する必要があると思います。もちろん上記の行いがその「差別」そのものなのだから、悪いことではないと強弁するつもりはありません。質問者様の考え方からそういうことが導き出される可能性もあるのですが、一般的に「差別」は悪いことだということになっています。これはなぜか。
分類学では実に様々な生物が種として登録されています。サルといわれる獣の中でも多くの種が分類されていますが、それは厳密な遺伝形質の比較からなされたことで、分類によって後世の学者達をはじめとするサルとかかわりを持つ人間達がさまざまなメリットを享受できるということでしょう。こういえばちょっと難しくなりますが、サルでなく、キノコ、菌類の分類をいえばもっとわかりやすいかもしれません。われわれは先人のキノコの研究と分類によって美味しい種類と毒のあるものを明確にできたことで大いにメリットを享受しているというわけです。
ちょっとくどくなりました。
お話の「差別」では人間の区別が多く問題になります。男女の差別、白人と黒人の差別、問題における差別、これが学術的に意味のあることなのかどうか(男女の区別はもとより、人種の区別でも、はっきり外見的な区別が可能なものは仰るとおりそれ自身が無意味だとはいえません)はまず置いて、「差別」とは、まず「AとBの区別」が最初に行われ、第2段階でAとBとになされる対応に差をつけるということで「差別」が完遂さるわけです。
AとBとの形態的、歴史的人格的差異をまず認める、それが明らかに意味のあることであればAもBも文句は言わないでしょう。この段階でナンセンスだというクレームがつく場合もあるかもしれません(差別がこれに含まれる場合があります)が、多く問題になっているのは第二段階でしょう。なぜAとBの差異が対応の差につながるのか?男女差のために(トイレを別に設定する、公衆の風呂を別に設定する、競技で別のルールを設定するなど)行われる差別は多くが合理的なものですが、求人での条件的区別などはナンセンスだといわれることは納得できます。
人種差別は多くがナンセンスな場合が多いと思います。男女差の墨守を含め、既得権益を守ろうとする権力側のおもわくがそういった理由になっているのかもしれません。

>外国人男性二人組の順番になりました。
検査員は日本人の家族連れの時とは明らかに差のある時間をかけました。

微妙な問題ですね。検査員も極力合理的に対処することで、誤解からくるフリクションを最小限にすることはできると思いますが。
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言葉の定義としては、合理的な識別が区別で、非合理的・不条理とか、偏見による識別が差別と言う定義で良いと思いますよ。



ただ、区別・差別の違いは、パワハラ・セクハラなどと同様で、受け手側の「感性」で、一方的に決定されるものではないでしょうか?

まさに質問者さんが例示される手荷物検査もそうですが、国籍を合理的な基準と考える人も存在しますが、一方で合理的では無いと感じる感性も存在します。

厳重に検査されることに対し、検査を受ける外国人が「合理的である」と感じ、受け入れたら区別であり、合理性が無いと感じれば差別です。
また、それを見ていた第三者が「差別だ」などと行ったところで、全く無関係ですから、あくまで受け手のみに決定されます。

かつ、感性の問題ですから、被差別意識そのものが不合理的な感情と言えるかも知れません。
仮に年収300万円以下を「低所得」と定義すれば、年収300万円以下の人は「差別的である」と言うでしょう。
しかし、では「その低所得層には補助金を与える」となると話しは反転し、年収300万円以下の人は「合理的な区別」と感じ、一方の年収301万円以上でその付近の人は、「逆差別だ!」などとなるワケです。

受け手が「差別」と感じる以上、その人に対する差別であって、差別は成立すると言っても良いかと思います。
ただ、これもセクハラなどと同様で、「だからと言って違法かどうか?」などは全く別の話しですね。

「差別だ!謝罪し撤回しろ!」などと言われても、直ちにそれに従う必要は無いし、たとえ提訴されて敗訴したとしても、賠償命令などを受けるだけで、「被告は原告に謝りなさい」などと言う判決は下らないですから、謝罪も撤回もする必要は有りません。

差別とは「行為」ですから、その行為によって精神的苦痛を与えたことに対しては、賠償責任を負うことになりますが、差別と言う行為の発端である「偏見」などは、思想や信条の自由に含まれると言っても良いですね。
仮に名誉棄損で実刑判決になる様な、差別的言動を行ったとしても、その差別的言動に信念などがあれば、刑には服さねばなりませんが、自分の信念を曲げる必要は無いと言うことです。

即ち、差別か区別か紛らわしい言動があったとして、
・その言動を受けた側がどう感じるか?
・仮に差別と受け止めた場合、それがどの程度で、どの程度騒ぐか?
と言うだけの問題じゃないですかね?

余談ですが、個人的には、差別用語なんてのが一番バカらしいと思ってます。
「め〇ら」を「目の不自由な人」とか、「ち〇ば」を「足が不自由な人」などと言い替えますが、障害箇所を直接指摘しているだけですからね。

その内、ブサイクを「顔の造形が不自由な人」とか、ハゲは「頭髪の不自由な人」になんて言わされるのかも知れませんが・・・。
言われた人は、どんな気持ちなんだろう?と考えますと、余計にみじめじゃないですかね?

おまけに、差別用語を「使っちゃいけない言葉」などとして教育することで、代々語り継いでますし、余計に記憶に残るんじゃないですかね?
うっかり子供がそう言う言葉を発したら、差別者として差別されるし・・。

何だかバカらしい・・いや「頭脳が不自由っぽい」ですね。
私は、「そういう言葉を、悪意で吐く人の心が醜い」とだけ教えたら良いのでは?と思っています。
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簡単に言えば、優劣をつけているにすぎません。


人種的には白人優位主義なんて言うし、KKKは有名です。
学歴も最終学歴の学閥を言うでしょ。最高位は東大です。最低ランクは無名私大でしょうかね。
不思議と運動能力については議論がありませんけどね。
差別は、自分の立ち位置を明確にしたいがための身分制度の名残だし。

私は、いじめの問題も同じと考えています。強い弱いの自分の立ち位置を確認したい稚拙な愚かな行為です。

悪いことかと言われればそうでしょうけど、これは世界にありますしね。
動物の本能であることらしいので、悪いことでは相手を不利に貶めることでしょう。それさえなけりゃいいんでしょうけど、自分はそいつより優れているとおもってりゃ無理な話なんだろうと考えます。
見下す姿勢というやつですかね。

役所に対して逆差別的なことは、それを嵩にきた職業的な人たちに多い。特に公共工事。
一般市民にはほとんどないんじゃないかな。片田舎では残っているのかもしれませんね。
容姿については、アイヌ民族ではよく聞いたりしますが、毛深いとか言ってはいけないと聞きます。
では、ガレッジセールのゴリはどうなんだろう。自身でも周囲からも毛深いと言ったり言われたり。
そう考えると、なんか変でしょ。

さて、テーマパークでの一コマは差別じゃないでしょう。
やられた側は言いたいことはあるでしょうけどね。
人間、第一印象は大切です。
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