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他人に意識があり、他人が生きている証拠は、ありますか?

また、独我論は否定できないというのも、よくわかりません。



例えば、私に5感がある。寒い・熱い、触る、音を聞く、見る。

そして、他人にも、「5感があるように思える」。

他人は、笑い、悲しむ表情があり、、、、「完全に生きているように見える」。

わけですよね?




そして、全世界の99.999999999999999%ぐらいの人達は、

「他人は自分と同じような存在であり、自分が生きているから、他人も同じように生きている。他人に感情や、意識はある。それは、確かだ。」

っと、思っています。私も、基本的にそのスタンスです。


他人に意識・感情があると思うのですが、合っていますよね?

しかし、オカルトサイトでは、「他人はいない」とか、書かれています。大本は一体どこなのか?

「他人は自分の鏡」という話もありますが。


でも、他人に意識や、感情がなく、他人がただの人形だとしたら、非常に不気味な世界だな、と思えます。

それに何より、この世界で生きているのが、「自分1人ぽっち」だということになってしまいます。


例えで、映画を自分が見ているのが、現実だ、という話もあります。

自分の内側が投影されて、外の世界が映し出されているだけだと。



それに、自分が全てを創造しているとしても、自分の思い通りになっていない世界なんて、
存在価値があるのか?と思えるし、馬鹿らしいと思えます。

しかし、自分の思い通りにならない世界は、自分と違う考えの世界であり、
自分と、他人は異なる考えを持つように見えます。=自分と他人は別々に存在する。

それはまさに、「現実そのもの」に思えます。


例えば、今日なんか、デパートへ行きましたが、他人は、笑ったり、話したりしています。

明らかに、「他人に意識があり、他人は自分同様に生きている」と、思えます。

そして、これは世界の常識となっていて、疑う必要なんて、あるのか?
独我論なんて、考えすぎの嘘の論じゃないか?と、思えます。


それは、確固たる現実として、目の前に開かれています。

ただし、ネット上の書き込みは、他人に意識がないように見えてしまいます。

つまり、目=視覚の現実のウェイトが大きいことを意味します。


ドラマや、映画などの、「演技」ってのもありますが、
現実の他人の容姿は、まさに、「演技じゃなく、真実」に見えます。

よって、独我論は嘘であり、他人にも意識があり、考えがあり、生きている、
自分と同じような存在だと思えるのですが、どうでしょうか?


別の話として、1人1人が宇宙を創造しているという話もありますが、これもよくわかってません。
それは別に、他人も自分同様に、生きているだけ、と思える。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さて、、、逆に考えます。
他人がいない、世界に1人ぼっちだけ、だとする。自分1人だけ、と。
そんな虚しい世界に、存在価値はあるのでしょうか?
全て、自作自演です。
自分が他人をも創造して、自作自演していると。
ネット上のカキコすらも、自分のただの創造だと。

そんな自作自演劇に、意味はあるのでしょうか?

A 回答 (11件中1~10件)

自作自演であっても、意味は在りますよ。


みかんを食べておいしいと感じたことには、世界が自作自演であるかないかは、関係ないです。
世界が自作自演であってもなくても、みかんを食べるとおいしいと感じるでしょう。


後は、前にvanticeさんがした「自分が現実を作っているのなら、他人とは?・・・」という質問に俺がNo.5でした回答を引用します。

「幻覚がなくても、他者っていうのは、完全には確かめられない存在であって、結局は、自分が他者に生命感や現実感や自律性や意志や整合性などを感じているだけだと思います。自分が感じているそれらだけが、自分にとっての現実です。
また、気付きにくいですけど、自分についても、そうです。つまり、自分が自分に生命感や現実感などを感じてもいます。
結局は、そのように感じたり判断したりする機能が在るだけであるとも考えられます。

vanticeさんの例で大切なことは、やはり、現実との様々な整合性を積極的に確かめていくことだと思います。そうしないと、どうとも結論できないままだと思います。

もちろん、そんなvanticeさんもが、誰かに創造された存在であるとも考えられますけど、結局、vanticeさんにとっては、vanticeさんという基点や材料から創造された物事や現実をvanticeさんが満足に制御できることが大切ですからね。」


後、確かめたいんですけど、vanticeさんは同じことを何回も質問していますけど、過去の記憶を忘れて、1人エンドレスエイト状態なのでしょうか?(もしそうなら、8回目は何か特別なことをお願いします。w)
また、出来れば、お礼を書いたらすぐに質問を締め切るのでなくて、みなさんの回答の分からない部分をお礼欄や補足欄でさらに質問したりすると、より良いと思いますけど、どうでしょうか?
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

その通りだと思いました。

同じことを何度も質問する・・・ってのは、私の幻覚体験が異常過ぎるからです。
書ききれませんし、気持ち悪い、とも言えます。

言えそうなのは・・・・・・・・・変わっている、自分が。

そして、色々聞いたので、もうだいたいはわかりました。
だから、もう質問しないように、したいです。。
つい、ノリで、質問してしまうのです。

お礼日時:2013/01/04 22:21

追加です


自由と愛の取り違えというのは、
自由のある所に愛を探して、愛のある所に自由を探したら、世界は真っ暗闇、という意味です。
本当は両方共あるのに、両方共ないと思ってしまうので。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

そういえば、愛は6次元に存在するらしいです。
愛ってなんでしょうかねぇ・・・?

お礼日時:2013/01/04 21:34

こんばんは。


個人的考えですが。参考程度に。

>他人に意識があり、他人が生きている証拠は、ありますか?

脳や体、という物質的生物学的な意味では、他人が生きてる証拠はあります。
ここで言われる意識や生きてる、という単語が、脳で知り得る機械的な仕組み以上のものを指すなら、無いと思います。

>独我論は否定できない
独我論って何か調べたら、確かに存在するのは自分だ、という意味ですか。
それはそうですし、間違い無いです。
ただそれは、脳の一機能が生み出す世界観、リアリティーの一つです。
そして脳は自我も生み出してますし。
オカルトサイトでは、「他人はいない」 というのも独我論でしょうか?

>他人がただの人形だとしたら、非常に不気味な世界
>この世界で生きているのが、「自分1人ぽっち」
もう既に質問者さんが頭に描いてるとおりこれは事実です。
ただ現実は一つではないので、おかしいことではないと思ってます。

>自分が全てを創造しているとしても、自分の思い通りになっていない世界
無意識の底までもし見ることが出来れば、思い通りになってる世界なんだと思ってます。
つまり自分が矛盾を望んでる、あるいは気づかずに社会常識などに潜む矛盾を肯定してる、ということだと思うので。
あるいは意識と無意識で逆のことを望んでるなどです。
>自分と、他人は異なる考えを持つように見えます
という文も似たようなものだと思います。

>独我論なんて、考えすぎの嘘の論
ある特定の才能を持つ人達にとっては、これは考え過ぎではなく、普通に思いつくみたいです。
彼らにとっては当たり前、です。

>現実の他人の容姿は、まさに、「演技じゃなく、真実」
自分を考えても、もし年齢性別職業名前出身地などすべてを取り上げたら、何も無くなることを見ても演技だと思います。
それは自我に相当する演技だ、と考えることで矛盾はないと思うので。
演技=自分、という意味です。
違うかな・・。そこに愛を見てはるのであれば、それは真実ですが・・

>それは別に、他人も自分同様に、生きているだけ
生きてることが宇宙を創造してることなのでは?

>世界に1人ぼっちだけ、だとする。自分1人だけ、と。
そんな虚しい世界に、存在価値はあるのでしょうか?
これは評価の仕方を間違ってると思います。
こういう世界観を作る時には、これは何にも制約されない自由の世界だ、という内容を持つと思います。
・・・まー多分ですが。
制約のない自由を、何らかの価値のものさしで測ることがおかしいと思います。
価値に束縛されない素晴らしさです。

>そんな自作自演劇に、意味はあるのでしょうか?
自由と愛を取り違えてるのじゃないかなー、多分、と思います。


想像だけで書いてみました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

考えすぎのような、そうでないような。<自分が創造

今のところ、「現実世界は怖い」
例えば、死ぬこととか。

それを無意識に自分が望んでいる・・・・・・・・・・・可能性は、ありそうです。

お礼日時:2013/01/04 21:33

何を以って出発点とするか、ということでしょうね。


誰もが自分はひとりぼっちなのだ、と思う時を持つのは有意義なことです。それはある意味真実なのであり、それに耐えうる精神力を鍛えるという実用性があります。
そのあたりを徹底して考えることには意味があると思います。
現実の世界でも、少なくとも自分という人間は世界に一人なのであり、生まれるとき、死ぬとき、そして自分の危機に際して頼りになるものはやはり自分ひとりでしかないのですし。
それが怖いということの救い(または解)としてプラトンのいう愛が考えられたのだと思います。

盛り場を徘徊し、酒場に入り込んで高い酒を飲むのも、ネットにでてこうして盛んに書き込むのも結局さびしいからであり、一人で考えることに耐えられないからでしょう。

人間は本来さびしがりの生き物です。これは言葉という緻密なコミュニケーションの道具を見つけたことで更に他人を必要とするようになったという逆説が可能です。ですから、他人がいないという世界では言葉そのものが意味を失います。生きていることが無価値になるとは思えませんが、少なくとも一人でいる間は言葉は無意味になっています。

>全て、自作自演です。
自分が他人をも創造して、自作自演していると。
ネット上のカキコすらも、自分のただの創造だと。

そんな自作自演劇に、意味はあるのでしょうか?

確かに意味はないと思います。完璧なクローン人間ばかりが周囲にいて、いくら交わっても同じDNAしか生まれないなら。

そこにコピーはあっても、創造はありえないでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

他人の幻覚体験・・・というと、気持ち悪いのですが、

1,電車で2人の男性が横になって寝た状態でホームに到着し、起き上がって出ていった。
→これは、実際には、立っていた人達、のはずだが・・。

2,手をゴニョゴニョ動かすトラック運転手(魔法詠唱?w)、また、同様の動きをするコンビニ店員2人・・・。
→ 実際には、手を普通に動かしていた?

結局、自分の脳が現実を処理している・・・ってことですが、
ん~~~謎です。他にも色々あったので。

お礼日時:2013/01/04 21:28

社会の企画に合う人と合わない人。

一般的に合わない人がこういう疎外感を持ちやすそうです。「自分探し」というのは、このような社会的解離感の中で、社会の中で自分が存在する意味は何なのかを探す作業ではないでしょうか。
「元々特別なオンリー1」といわれる自分の個性、特徴と社会を結びつける回路がなかなか見出しづらい社会。企画に合わせてレールに乗り続けた人がどうしてもうまくいく世の中に見えます。独我論とは企画外の自作自演劇ということでしょうか。

(携帯なんで書きづらいです。)
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

パソコンと、向かい合う時間が長いとか、夜起きている人は、静かだし、
独我論とかに注意が向くんじゃないかと思います。

また、暇人でないと、考える暇がありません。

仕事が終わって、帰って、寝る・・・・・・というのが一般的で、考える時間がありません。

しかも、独我論は、他人と一緒に仕事をするほど、気づきません。
3次元立体スクリーンは、完全に完璧に3次元現実を創造しています。

お礼日時:2013/01/04 21:24

 こんにちは。



 ★ そんな自作自演劇に、意味はあるのでしょうか?
 ☆ その意味がおれにはあるのだと言う人に向かって――信頼関係にあれば言ってもみますが―― やめとけとは ふつう言いません。

 それだけのことです。

 そんなこと――独我論でしょうか――にかまわず 社会生活上は 共生して行きますし 経済活動をとおしても言論活動においても互いに自由に交通することはありえます。というそれだけのことだと考えます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2013/01/04 21:21

観念論において、意識(認識される環境)が存在の本質


(意識=宇宙)である以上、他人もその一部に過ぎません。
肉体が自己であるという素朴唯物論的な意識のまま
観念論を扱うと、わけが分からなくなります。

相対性理論にしても、量子論にしても、認識体との相対に
よってしか存在は無い、という帰結を潜在的に持っています
(客観的時空や絶対的存在というのはない)。
その無限不確定性の闇に、認識体の仮定断面の運動
(プランク定数hの収束の時系列化)を想定すれば、相対的
に無の風は光になり、認識体はその光の向うに、自我仮説
の補完としての時空仮説=宇宙を認識するのです。

そして、その仮説的時・空軸の相補分化において、(時間軸
が虚数ゆえに)等距離点に「ライトコーン」と呼ばれる、0の
界面を生じます。
なぜライトコーンかというと、それこそが光の描く軌跡だからです。
「何か有るんじゃないの?」という疑問(自我仮説)の相補と
して生じた時空仮説に対して、「本当はないんだけどね」という
無の射影として、存在は生じていると言えるのです。
換言すれば、無いとは分からない事が有なのです。

そこにおいて、異なるhを時系列化するという虚構(虚数)軸
=認識可能性の量子的不連続の潜在化において、その射影
としての環境にも認識可能性(他人)が派生します。
自己の生命性の環境への敷衍(物質循環~持続的環境~
社会的分業)において、その社会化に応じた他我化(自己の
生命性の自覚化=自律的助け合い(愛))において、その自己
存在の本質(自己の必要としての環境)に根ざした生による、
矛盾のない最大限の精神的充足は可能になるのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

わからないこと=有!?
=・・・面白い。。。

つまり・・・・・・・
存在する=面白い・・・?

お礼日時:2013/01/04 21:21

まわりにいるヒトはすべて哲学的ゾンビかもしれないです。


だとすると、意識やクオリアというものは持っていないのかも。
哲学的ゾンビだと、人間であるか否か、確かめようがないっけね~(笑い)。

結局のところ、自分が他者に意識の存在を認めるかどうかというところに行き着くんじゃないですかね~。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

結局、他人を自分が、創造している・・・・・・ってのは、本当かもしれません。

バシャールも言っています。1人1人の現実が異なる、と。。。

つまり、1人1宇宙であり、自分の脳が・・・・宇宙を創造していると。
だから、現実も1人1人違っていると。

ちなみに、愛・・・特に・・・・・ナルトのガアラみたいに、我愛羅・・・
自愛ってのが、大事になってくるのかもしれません。

自分を愛する=他人が自分を愛するようになってくる・・・ということかも?


また、他人に意識があるかどうかとか、わかりませんね~。
まぁ、謎・・・わからない・・・・・・ということが、「面白い」
っと、最近良く思います。

お礼日時:2013/01/04 21:18

皆が一つに繋がっているという感覚は、瞑想をしたり、スピリチュアルな見方をしていくと体感として理解できてくるものですが、科学的な根拠はなく証拠としては不十分ですね。



スピリチュアルな見方では、全ての始まりは一つ。我々の全てが根本では繋がっている。ゆえに自作自演でもある。

人間としての個を体験する為、学ぶ為、成長する為に我々は存在している。

全ての原因は自分の中にあり、現実を創り出している。自分を知り、自分らしく生きるという人間としての体験をする為に。

意味は、自分を知り、自分らしく生きることが出来るようになってくると、理解できるようになります。


どのような事を体験し、学び、成長するのかをある程度決めて、人間として生まれます。

しかし、決めた内容は忘れる事になっています。自分を知るという事自体が、課題だからです。

全てを知っているハイヤーセルフという本当の自分の状態で生きたのでは、予定通りの人生になるだけで人間としての体験をすることが出来ません。失敗や間違い、人間だけが感じる事の出来る感情。視点。それらを体験することに意義があります。


ご参考までに。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

感情とか、体験とか、そういうのが大事らしいですね。
わかりやすい説明ありがとうございます。

お礼日時:2013/01/04 21:14

>そんな自作自演劇に、意味はあるのでしょうか?



 人生の秘密 そのものです。それが意味そのものなのですよ。

 他人に意識がある証拠はありませんがもっと確たる想像ができます。
 他人の脳と自分の脳を完全に繋いだらどうなるかです。

 2つの脳は融合し自分になってしまいます。認識も記憶も一つになるでしょう。
 多重人格障害になるかも知れませんがそれは今の自分でもおこっていることです。

 独我論の本当のところはいわば人間論なのです。
 科学も哲学もあらゆることが人間の客観性の限界内でしか知ることが出来ないということにすぎません。他人に意識があるかどうかは、犬が何をどう感じているかと同じです。

 犬の脳と自分の脳をつないで見たらどうなるかだけで、結局、単一の自分に融合されます。

 光りも音も何もない暗闇は、無限の時間と無限の空間の広がり。それは、ことごとく何もない点であり、静止した刹那と同じです。

 そこで、目を凝らし、耳を澄ましているのは、だれでもない自分なんです。他人も同じような意識でしょうし、更に高次元の知的生命体さえ存在しているでしょう。

 それをもっと驚いてくださいませ。
 どうです、この自作自演劇は、リアルでシビアで、恐怖に満ち、優雅で、美しく、エキサイティングではありませんか。これ以上の価値や意味はどこを探しても無いんです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

現実が素晴らしいということは、エヴァでも出ていました。

もっと、5感の現実世界の凄さ、、、ってのを理解すべきなのでしょうか。

お礼日時:2013/01/04 21:12

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