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仏教においては、いかなる生物の殺生も戒められていると思いますが、
それは、現実的には、「無駄な殺生をしてはならない」と言う事でしょうか?
食べるため食べさせるための殺生ならば許されるのでしょうか?
自分で釣って食べることには、「自分の行為が魚の死に繋がったことと、魚を釣り上げた喜びのあること」が、買って食べることとの大きな違いだと思いますが、
少し考えてみますと、
買って食べる事も、漁師等に「彼らの行為が魚の死に繋がったことと、魚を釣り上げた喜びをさせた」背景(?)である自分が居て、罪に大差は無い気もします。
極端な喩えですが、自分の手は汚さないギャング団のボスと、ギャング団のボスの意向を受けて暗殺に手を染めるスナイパーの罪に、それほどの違いがあるのかと。勿論、国によって違う法律上の罪ではなく、人道上と言うか。。
後、植物も生き物ですが、植物を自分で採って食べたからと言って殺生とは言わないと思いますが、仏教では、「無情」として同じ生き物とは扱わないんでしょうか?
昔読んだ本に、魚は動物の中では機械的な脳を持っており、他の動物を殺して食べるよりも罪が軽いようなことを学者が書いていましたが、本当でしょうか?
悩んでいます。
仏教の出来るだけ正確な見地からのご回答をよろしく御願いします。

A 回答 (5件)

○釈迦仏陀が生まれたのは北部インドですが、当時も現在も地域的に牛や豚を主食とする民族ではありません。


そのような場所を選ばれたのは、天上天下唯我独尊の釈尊であるがゆえ殺生を好まなかったからでもあるのですね。自ら創造したものを食さないと生きられないのが人間仏陀ですからね。
釈迦仏陀には六大神通力が備わっていました。理解不能かもしれませんがすべての生物と話すことができる能力です。草も虫も鳥も魚も動物もです。これが山川草木悉有仏性という本当の意味なのですよ。
このように言えば、仏陀が地上で生きることの大変さが理解できるでしょうか。人間として生まれたものは食べないと生きていけません。あらゆる植物、魚、動物には魂があるのですから、仏陀が食べようとすると「仏陀よお許しくださいもっと長生きしたいですといえば」これでは食べられませんね。それでは生きられないですからね。
それでも釈迦仏陀は80年生き、法を説いてますね。ここにあるのはすべての生き物が奉仕しているということなのですね。奉仕というのはより高みを求めて自らを犠牲にするという意味ですね。
植物連鎖は自らの犠牲、奉仕の精神に裏付けられているのですね。その意味では全て平等です。
すべての生き物がより自由度を求めてということですね。地球では最大の自由度をもつ者は人間ですから、人間に向かってすべてのものが奉仕しているということですね。では人間はといえば、当然、仏神に奉仕しなければならない存在ですね。これを忘れると人間ではいられなくなる。
釈迦仏陀が説いたことはそのようなものです。
人間は食する生き物全てに感謝しなさいということですね。だから職業に貴賤はありませんし、種物、魚類、動物に差もありません。菜食にも肉食にも差はないのですよ。菜食主義者は多いに勘違いしてますけどね。草花の精霊は可愛いんですよ。それを鬼のように食べているのですね。
ただね。仏陀に帰依し、仏道を歩む者は、自身でのあるいは自身のための殺生は慎みましょうということだけですね。それが、聞目疑の食物ですね。お坊さんのために殺生した食べ物ですね。
生きるということは犠牲の上に成り立っているということに気づくこと、自らも奉仕することそれが人生ですからね。
個別の疑問の回答がこの中に入っているといいですね。
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この回答へのお礼

大変遅くなりましてすみません。
手塚治虫のブッダを思い出させるようなメルヘンを感じさせるご回答有り難うございます。(もちろん良い意味でです。)
できましたら、そのことが書かれた経文が知りたかったです。

お礼日時:2013/01/13 05:05

ブッダの教えは


  直接に動物を殺すことは禁止したが
  間接に殺し(必要最小限)肉食することはOKとしたようです。
ただし、当時、植物は生き物という認識はなかった。
ブッダ後は、肉食には三種の浄肉という条件がつくことになった。
現在は 歴史的背景のもとに宗派によって取り決めは異なるようです。

ご質問ですが ブッダが生きていたとして 直接魚をとり食するのは×ですが魚屋で買って食するのは○と答えたとおもいます。

以上参考になれば。
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この回答へのお礼

大変遅くなりましたが、ハッキリとした回答有り難うございます。
ただ、それらの根拠となる経文を知りたかったです。

お礼日時:2013/01/13 04:57

私の申し上げたかった事は


その本文中にも出ている様に

目的が自ずと思考に序列を設ける

と言うことです 
木を見て森を見ず の様な思考はそれ自体が無意味です
貴方の御質問で罪の重い軽いが判断できても それは一体何の為の思考なのかが判りません
何の為の思考か と問いたいと申し上げています

たとえ話で原爆を投下決定したのはトルーマンです
でも実際にエノラゲイの射手がスイッチを押したが為に
一人の人間が苦悩する羽目になったと言う逸話にあるように
何が罪か
何が人を本質的に苦しめるのか
と言う問いならば
それは戦争だと言う回答になるのでしょう
でもこの回答ならば 質問の本質から逸脱しています
貴方の御質問も一体内を求めておられるかが判断不可能なように
目的が思考を序列立ていないところに 私は戸惑いを覚えるのです

この回答への補足

ご紹介のトルストイの主旨は、仰る通り「目的が自ずと思考に序列を設ける」だと思います。

私の質問目的は、純粋に以下を知ることです。

仏の教えはどうなのかです。
仏の教えからしてどう考えられるかなのです。
具体的には、釈尊は、自分で釣った魚を食べる事は否定され、商売人から購入した魚を食べる事は許されたのか?
それとも、自分で釣った魚を食べる事よりは、商売人から購入した魚を食べる事を、比較すれば罪が軽いとされたのか?
です。

余裕がありましたら、魚の脳が他の動物(ほ乳類)と比して機械的であるかどうかも知りたいです。

osakajapan2001さんが、仰りたいのは、私が何のためにこのような質問の答えを求めているかでしょうか?
私は、釈尊の正確な教えが知りたいのであり、「知識欲」と考えてください。
それ以上の何のためを語れば、正確な知識を得る障害となるのではと懸念します。

なお、私は、大乗教典も釈尊の意思とする者です。
特に法華経においては、どのように、この罪を捉えていたのかを知りたいのです。

補足日時:2012/12/25 18:33
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あくまで無用の殺生を避けるという意味でしょう。


植物と動物に本質的な違いはありません。
動物細胞に光合成バクテリアが共生したものを
植物と呼んでいるのです。
あまり最近に共生したものは、ミドリムシのように、
「動物と植物の中間」と呼ばれたりしますが、歴史
的には植物は動物の一種から派生したのです。

僧侶もブッダも、殺生しないといっても植物は食べ
ています。
動物を食べるという事は、動物が食べる、より多く
の植物を食べる事と同じであり、効率が悪いのです
(同じ物質循環量において生きられる人数が少ない)。
ましてどんなに生き物は殺さないといっても、体内で
白血球が無数の細菌を殺しています。

「高等動物だから残酷」などというのは詭弁です。
自分と考えの違う(あるいは利害の対立する)人間を
平気で殺しているではありませんか。
もちろん、生きる真の目的たる「精神的充足量の
最大化」において、それは社会生命化において、
組織全体の総和となりますが、その「自律的助け
合い」の対象とならないものは、敵であれ可愛い
動物であれ、単なる道具に過ぎません。
もちろんペットが可愛いので殺すと残酷というのは
妥当ですが、それは飼い主の「充足量の最大化
(自己満足)」でしかありません。

この回答への補足

ご回答有り難うございます。
私の認識が正しければ、仏教では、植物を刈るような行為も殺生に入れているようです。
では、なぜ釈尊は、植物を食べる事を問題にしないのかと言えば、生物に上中下をもうけ、植物は下にも入ってないとの認識のようです。(感情(仏性)が感じ難いと言う点において)

>動物を食べるという事は、動物が食べる、より多く
の植物を食べる事と同じであり、効率が悪いのです
(同じ物質循環量において生きられる人数が少ない)


これまで多量に植物を食べて育った植物を一気に食べるからと意味でしょうか?
この点の意味が判りませんでした。
なぜなら、人間が動物を食べれば、その後その動物のよって食べられる多くの植物は食べられないですむからです。
と書きながら、理解したのは、
人間にとって、動物を育て食べるよりも植物を育て食べる方が多くの人が生きられると言う事ですか?

つまり、貴方が仰りたいのは、動物よりも植物を食べるというのは、ある社会に限られた論理であって、動物を殺すをことの否定は、罪や残酷だからと言うのは釈尊の教えでしかないく、普遍的な論理では無いという事でしょうか?

教えてgooには、「宗教」のカテゴリーがありませんので、仕方なく哲学で質問しました。
私が、知りたいのは、仏の教えはどうなのかです。
仏の教えからしてどう考えられるかなのです。
具体的には、釈尊は、自分で釣った魚を食べる事は否定され、商売人から購入した魚を食べる事は許されたのか?
それとも、自分で釣った魚を食べる事よりは、商売人から購入した魚を食べる事を、比較すれば罪が軽いとされたのか?
です。

補足日時:2012/12/25 16:35
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仏教では物事の在りようが無常であるとしています


有情(ウジョウ)とは煩悩の事です
従いまして無情とは一切の煩の無い様
を言うのでしょう
しかしながら無情も無常も仏教でははかないものの様
を総合した表現ととっても今現在は構いません
鑑真和上に代表されるような行いに関しては
生き物を愛しむ思いの事であり 草木には想いの程がありませんので
精進料理に代表される様な考え方が表面化したのでしょう
貴方の考え方がかなり歪だとは思いませんが 発展飛躍しすぎていると
捉える方々は居られる事でしょう
貴方にはトルストイの著書
「人生論」を読まれる様に御推薦申し上げます
本の冒頭に粉引き男のたとえ話が御座います
是非 御一読をされるように御推薦申し上げます

この回答への補足

ご回答有り難うございます。
「無情」とは「非情」とも言い、仏教における草木やいわゆる物質のような存在です。
対する語は、「有情」ですね。
「煩悩」と言うより、感情などが感じられる存在ですね。
人間に対して煩悩との語はあてはまりますが、動物に煩悩と言う語は通常使わないでしょう。

なお、この補足には、私の認識を書きましたが、質問には、自分の考を主張したのではなく、回答への材料として書いたまでです。
よって、「発展飛躍しすぎている」のが、何を指すのか疑問です。

「粉引き男のたとえ」読みました。有り難うございます。
要するに、殺生の背景となっている自分よりも、殺生の主体となっている自分の方を問題にすべきだと言う事でしょうか?

教えてgooには、「宗教」のカテゴリーがありませんので、仕方なく哲学で質問しました。
私が、知りたいのは、仏の教えはどうなのかです。
仏の教えからしてどう考えられるかなのです。
具体的には、釈尊は、自分で釣った魚を食べる事は否定され、商売人から購入した魚を食べる事は許されたのか?
それとも、自分で釣った魚を食べる事よりは、商売人から購入した魚を食べる事を、比較すれば罪が軽いとされたのか?
です。

補足日時:2012/12/25 16:11
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