プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

質問させていただきます。
私の知人の話なのですが、来年小学校に入学する男の子がいます。その子は3歳半ばで熱性の難聴になってしまいました。幼稚園には通わせていません。その彼女が、近くに良い聾学校があるにも拘らず、家の子はちょっと耳が聞こえないだけで普通に暮らせる。なのに、小学校の方は受け入れ態勢が出来ていないから、聾学校を薦めてきた。でも、そんな可哀想な事は出来ないし、他の子と変わらないのだから絶対にこの子を公立の小学校に入れたい。署名運動を手伝ってくれと言われました。でも、正直私はあまりそれに乗り気ではありませんし、きちんと専門の教育を受けられる事がその子の権利なのに、なぜ普通学級に入れたいのか気持ちがわかりません。
私の従妹にも伯母が妊娠中に飲んだ薬物の影響で耳が聞こえませんが、彼女の母親も「聾学校なんて行かせるのは可哀想だしみっともない。家の子は普通の子と何も変わらないのだから、絶対に普通の小学校に行かせる!」と言って市の教育委員会などに談判に行き、無理に公立の小学校に通わせていました。でもその従妹自身は、勉強を覚えなければいけないのに黒板の文字と教科書だけじゃなかなか理解も出来ないし、大人になってからならいざ知らず、子供のうちだからコミュニケーションもままならずに辛かったと大人になって打ち明けてくれました。
色々な考えの人がいるし、一概にどれが正しいと言えませんが、きちんと専門的教育と一般過程の両方を得られる聾学校で教育を受けた上で、社会に出る方が子供にとってもメリットは大きいと思うのですが・・・誰の言葉も頑なに拒否する伯母の姿勢の方が、却って子供には重荷のような気もするし、また、伯母のプライドと自己満足のような気もします。私は従妹の話も考えた上で、やはり専門の教育をしっかり学ぶことは大切だと思うのですが、聾学校に通うことは可哀想な事なのでしょうか?

A 回答 (9件)

聾学校だけじゃなく、養護学校という視点からですが・・・。


私の子どもは、1ヶ月の時に水頭症の可能性あり、と言われました。多分、脳にも影響があるだろうと。
知能、発達の障害は覚悟してくださいと言われました。
目の前が真っ暗になりました。可哀想とも思いました。
でも、この子が社会で立派に生きていけるように育てていかないといけない、そう思いました。
その時点で、この子にはこの子に合った教育を受けさせようと決めました。速い流れではなく、ゆっくりとした流れの中で、病気のことを一番わかっている専門家に任せようと。
幼稚園から養護学校に行かせるつもりでした。
その後の検査で、水頭症ではなく、硬膜下水腫という病気で、水は自然に抜け、障害なども一切ない、という検査結果になりましたので、今は普通の子と同じように成長しているので、普通に保育園に通っていますが・・・。

私は、普通学校に入れて、不自由な思いをしたり、葛藤をしたり、そのほうが可哀想だと思います。
中学生ならまだ分かりますが、小学校時代には、もっと伸び伸びと、自分の事を分かってくれる人たちと、基本的な社会での生活をも含めて身に付けていくことが大事なんじゃないかなと思っています。
例えば、足が不自由で、階段の昇降が出来ないから普通学校への入学を拒否されたとかなら、それは不当だと思います。普通学校に入って、ほかの子と同じように勉強でき、生活も出来る。確かにトイレ等困ることはあるかもしれませんが、それくらいは何とかできる範囲だと思います。
でも、そうではなく、耳が聞こえないというのは、やはり普通の子と同じ教育をしていたのでは、この先生活はしていけないでしょう。
専門的なことを身に付けていくこと、付けてあげるように努めることが親の責任じゃないのかなって思います。

私は、可哀想とは思いません。
我が子なら、迷わず聾学校に入れます。

この回答への補足

先ずは皆様、こんなに回答を頂き本当に感謝しております。パソコンが家に無いため直ぐに返事が出来なくて本当にごめんなさい。(この質問も友人宅でパソコンを借りてしたので・・・)書き込みは出来ませんが、図書館で閲覧していました。とても参考になりました。

それぞれの立場で色んな思いがあるのですね。改めて考えさせられました。叔母の話はそれこそ見栄っ張りの何者でも無いと自分では思っています。結婚したいが為に結核であること嘘をついて、そのままこっそり投薬しながらの妊娠出産だし、産んだ後でも「夫の家系に問題あり!」で散々騒いだ人だから・・・だからこそ、これほど頑なに「可哀想!」と言う知人に違和感を覚えていたのだと思います。皆様からのお返事を読んで自分なりに考え、知人には彼女の気持ちを汲みながら自分の叔母の例と従妹の気持ちと自分の考え方を伝えて、パソコンを持っているようなので、ここの皆さんの回答の閲覧伝えてみました。すると2週間くらい経ってから「自分の心がいっぱいいっぱいだった」と言うような感じのメールが届いて、もう少し冷静に考えてみようと思うと言う事でした。7さんと3さん、5さんのご意見がとても胸にしみたそうです。でも、皆さんのご意見を読んで、お姑さんからの嫌味や「かわいそう」攻撃で自分と子供を守るためにトゲを出して攻撃することで守っていかなきゃいけないと思っていたと言っていました。

本来ならば皆様一人一人にお礼を言わなければならないのでしょうが、今も友人のパソコンを借りてなのでそんなに時間が取れません。でも皆様にご回答頂いた事は本当に本当に感謝しています。補足欄で失礼なのは承知の上ですが、9さんの補足欄をお借りしてお礼と代えさせて頂きます。本当に有難うございました。

補足日時:2004/03/25 19:13
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小学生の勉強ってそんなに、高度ではないですよね。


だったら、ちょっとクライみんなに迷惑かけても、
授業の内容を回りに聞いてもいいじゃない?

普通じゃないって思うのは、今まで障害のある人
と接した事がなくて、特別視していたから
じゃないかと思います。
それで、自分の子がそれ以外は他の子と変わらないって事に気づいて、葛藤しているんではないですか?

可哀相とは思いませんが、そうゆう葛藤を持つ人を
少なくする意味も含めて、一緒の学校に通わせたいです。
他の子がどのように障害を持った人と接すれば
いいか、学べますし、

当事者本人もどこがほかの子と違うか
じゃあどうすれば、一緒に行動ができるか
考えられると思います。
ずーと障害者同士で生活していくわけにはいかないですし。それは余りに味気ないです。
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たくさんの方々↑のご意見を読ませていただきました。


色んな考え方があるのだなぁとしみじみと感じました。

私は中学校の教員をしていますが,何年か前に耳の聞こえない女の子を担任したことがあります。

その子は補聴器をつけていましたがほとんど聞こえない状態で口唇術で話を聞き取っているということでした。中学に入学してくる際に耳が聞こえないと言うことは出身小学校の先生からの申し送りでわかっていましたが,どの程度なのかがつかめず,まわりの先生方ともどのように対応したらよいのか何度も相談しあった記憶があります。

聾学校ではなく地域の小学校,中学校に通わせたいというお家の方の希望は,そのときは理解できませんでした。ですが,彼女の中学校での3年間を見守って何となく感じたことがあります。

障害があるなしに関わらず,多くの人々とのかかわりの中で彼女が得たものは大きかったのではないか。ということです。

もちろん耳が聞こえないのですから不自由なことがたくさんあったでしょう。授業だって他の子と比べたら遅れていました。

でも,彼女はどんなことにも前向きで一生懸命努力していました。その一生懸命さが,差別とか偏見とかを乗り越えてまわりの友達もみんな彼女を認め受け入れていました。

聾学校が良いのか地域の学校が良いのか,どちらがいいのか私は分かりません。
それぞれの道によい点,悪い点どちらもあると思います。
それを乗り越えなくてはならないのは本人と家族なのですからまわりがどちらが良いと決めるべきではないと思うのです。

なんだかまとまりがなくなってしまいました。すみません。
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『正論』としては確かに皆様の仰る通りだと思います。



さて実情は?となると・・・聾学校にもよるでしょうが、なかなか難しい問題を含んでいるようです。(URL内の「ろう学校の現状」を参考にして下さい)
普通学校でも同じ事が言えますが、実際の教育現場で一体どれくらい正論に則した教育が行われているかが問題です。
私も下記HPで初めて知ったのですが、少なくとも昨年まで文部科学省は聾学校での日本語手話を教育使用言語として認知・承認していなかったようです(今はどうなのでしょうか・・・?)。

もう一度その方に「かわいそう」の理由などをお尋ねになってみられてはどうでしょうか?
署名を依頼されたのでしたら、尋ねる権利はありますから。
何も言わずに署名するほど無責任な事はないですし、よく知りもせず断るのもどうかと思います。
harujyoonさんを信用してその様な依頼をされたのでしょうから。

親の子供への悩みは、他人には到底はかり知れない程深いものです。
今は情報が溢れていますから、その方も色々とお調べになったり、お考えになった結果だと思いますので’、安易に軽はずみな発言は出来ません。

障害を持つ子供の親は『受け入れなければならない』という気持ちと、『受け入れたくない』という気持ちが交差するものです。
そして全ての悩みをくぐりぬけながら次第に親として成長するのです。
「今は全てを受け入れるまでの単なる通過点」だと思って理解してあげて下さいね。

それと余談ですが、他のお子さんと比較することは決して悪いことばかりではありません。
特に発達面に関しては、比較することで様々な病気を発見することが出来ます。実際私も子供の病気を他の子供との比較で発見することができました。
誤解のなさらないように・・・。

アドバイスにも何にもなりませんでしたが、お許し下さい。
それと他の皆様、私の回答に間違った記載があれば遠慮なくご指摘くださいね。

参考URL:http://www.hat.hi-ho.ne.jp/at_home/index.html
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私は保育を学んでいるのですが、最近は障害児保育の必要性が叫ばれていて、実習先にも補聴器をつけている子どもがいましたよ。


実際、接しているとその子どもが聞こえないがためにいざこざが起きたりもするんですよね。
これは保育者が関わっていかなければならいこととは思いますが。

私は普通の学校に行くことを否定はしませんが、軽度の身体・知的障害等とは違って、盲聾唖に関しては簡単にそうは言えないと思います。
細かいところまで言えばチャイムの音も聞こえないのですし、みんなが笑える話も聞けない、音楽の授業なんて辛いのではないでしょうか。
これは当事者でなければ分からないのですから、どれがいいとか悪いとかはいえませんけれども、少なくとも親が選ぶべきは子どもが過ごしやすい環境を作ることでしょう。

実際、聾ということは手話が必要になってきます。普通学級に通わせるならば、それとは別に習う必要があるかと思います。小学校の特別学級でも、手話を教えることはまだないに等しいかと思いますし。
昔は手話は恥ずかしいとされていたようですが、今は自分のスキルアップに手話を学ぶ人が増えていますし、第三者から見ても手話を拾得しておく必要はあると思います。
また、聞こえないからといって諦めず、難聴であるならば補聴器を使って少しでも音の記憶を増やすとか、50音の発音を聞こえなくても発せられること、口唇術を学ぶことなど、一人で生きていくために必要なことが色々あると思いますよ。

署名運動をすべきは、盲聾唖の人たちが暮らしやすい社会を作るとかそういうことで、受け入れてくれないからというのは端的にとられると自己中心的思考とも言われかねないですしね。

できれば少しでも幼児教育を受けて欲しいのですが、残り1年では難しいでしょうか。
多分、そのお母さんはまだ受け入れの段階に入っていないんですね。「そんなはずではなかった」「問題ない」と信じたいというか。
児童相談所などの専門機関を尋ねてはいかがでしょう。小学校や聾学校の紹介もしてくれるでしょうし、そういったケアもしてくれると思います。
他にも、障害児の母親たちのサークルが大抵各地にありますから、そういうところに行くのもありかなとおもいます。
でもその前に、お母さんが自分の子どものありのままを受けとめることでしょうね。
苦労するのは成人したときの当事者です。
障害には、早い対応が必要です。
ただ、期待を持っているお母さんにはその挫折は辛いはずです。お母さんを頭ごなしに否定せずに、けれど本当にそれで子どもが幸せなのか、子どもの将来を考えてゆっくりと思案してみることが必要かなと思います。
子どもの障害についての専門機関もあるでしょうし、ネット上にいろいろな情報もあると思います。

「子ども自身が感じる幸せ」のある道こそ一番ではないかなと思いますね。

長々と失礼いたしました。
少しでも参考になれば幸いです。
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 すべて質問者さんと、ほかの回答者の方々が仰るとおりだと思います。


 けれども、まだ子供を産んだこともない身からは、なんだかその二人のお母様がなぜそうかたくなに「普通」にこだわるのか、想像をちょっとたくましくさせて「きっとこうなのでは?!」と思ってしまうところもあります。
 
 このサイトで見ているだけでも、たびたび出てくるのが「うちの子、いま生後○歳○ヶ月なのですが、ほかの子と比べて~~なんです。心配です」といったご相談です。
 のほほんとした私から見れば、たいしたことじゃないじゃない!と突き放したくなるようなことでもまあ、こまごまと気にされているものです。私も子供を生めば、同じ道を歩むのでしょうか?(^_^;
 そこでみな一様に口を揃えていうのが「普通なら」「平均では」「標準では」・・・。
 普通ってなになのか知りませんが、ある程度児童心理の本を読んだりしてもわかったと思ったことなのですが、そういう「標準」から乳幼児がはずれた時、真っ先に責められるのは母親だそうですね。
 子供が熱を出しただけで「まったく母親のクセに」と言われ、転んでけがをすると「目を離すなんて」と言われるとか?←本当ですか?
 その伯母様と、ご近所の方に共通しているのは、子供が生まれた時はその障害を持っていなかった、本来ならばそう生まれはしなかったという理由がはっきりしている、ということです。
 私の知っている人は、アトピーで生まれました。今ほどアトピーの人がたくさんはいなかった時代、お姑さんは口を極めてその母親を罵ったそうです。
 アトピー程度(この書き方も問題が(^_^;)でそんなことが本当にあるのならば、飲んだ薬で子供が難聴、子供を病気にさせて難聴・・・なにを言われてどこまで責められたんだろう?と思います。
 お二人とも(ここでこう書くのは障害者には悪いけれど)もしかすると、本当ならうちの子はこんなはずじゃなかった、障害なんか持っているはずではなかった、という思いがあって、それが、自分の行動がその障害と結びついたのではというところで視野が狭くなり、必死になっているのではないでしょうか。
 私が本で読んだりした障害児をもつ親たちは、たいていはやはりある種の昇華を経てその子供の障害、自分の子供がそういう障害を持っているという事実を受け入れているように思えました。その前向きさのなかには子供への愛情も含まれるのでしょうが、またある種の諦観も感じました。
 お二人にはそれができないのだと思います。普通、であることにどうしてもこだわってしまうんでしょう。
 だって、なんだかんだいって、子供が障害児というのは大変そうです。子供の障害それ自体以外ともうまく折り合いをつけなくてはならないのに、世間の目もどうしても気になるのではないでしょうか?
 「あの子って可哀相ね」という、「普通からはずれた」子供への目線を常に気にし、「うちの子は~~だけど、普通の家庭なんですよ」と、いちいち説明して回らなければならないつらさ、障害という言葉がもつ暗さ。
 自分が小学校のころを思い返しても、障害児学級は「特別」なクラスでした。いろんなものがたくさん置いてあって、不思議な部屋。ちょっと普通でない子たちが通うクラス。
 ちょっと語弊を招きそうな書き方ですね。
 けれども、日本にはまだ障害者に対して偏見が残っていますし、母親は特に「普通でない」と見る視線を常に痛いほど感じることでしょう。
 「普通である」ことの価値を、重く見いださないのはその「普通」の中にいる人たちだけです。世の中にはマイノリティに類される人々がいて、ある意味いろんな面で多かれ少なかれ、それを自覚しなくてはなりません。
 たとえば私は母がおりません。
 小学校一年の時からから、毎年一回は誰かのお母さんやお父さん、おじさんやおばさんといった身内の方が亡くなったので学校を早退する子がいました。だから私は、そういうことがある、というのは知っていました。
 けれどもある年、そのお鉢が自分に回ってきてびっくりしたものです。その一年に一回かそこらの稀な、「お母さんを亡くしてしまう子」に、自分がなったということにです。あるのは知っていました。けれども、まさか自分がなるとは思っていなかったんです。
 そのお二人とも、障害者という存在があることは知っている。けれども、自分の子供がそれにあてはまってほしくはないのでしょう。
 なんとか「普通学級」に通わせ、普通の子供と交わらせること、障害者教育を受けなくても自分の子供がやっていけるという証を持って、その子供から「障害を持った可哀相な子供」というレッテルをはねのけたいのかもしれないと思いました。
 究極の否定、差別かもしれません。
 けれども、もうその冷静な判断は彼女らにはできないと私は思います。子供を産んだのはその人たちであるが故に、その子どもの障害を彼女たちの責任になっているが故にです。

 質問文以外にも、harujyoonさんはその別々の母親二人の、いかに差別主義的で独善的で思い込んだら引かなくて、自分の世間体を取り繕うことのみを気にするか、ずっとご覧になってきたのかもしれません。
 けれども、もしかすると最初はさほどでもなかったのに、私が書いたような世間の目、そういったもののために少し歪んで依怙地になってしまっているということも、あるかもしれないと思いました。まったくの想像にすぎないのですが・・・。
 そういう問題には夫婦で立ち向かわなければ、一人で責められる母親は歪む一方ではないのでしょうか?
 ご質問の中の署名運動云々を諫めるのは、もっと広い視野に立つことができ、そしてなおかつその痛みを分かち合っていくことがわかっているために、言葉がまっすぐに伝わるだろう父親ではないかと思うのですが・・・。
 またharujyoonさんも、機会があれば伯母様の例を取り上げ(伯母様が良いと仰ったら)、声で進む学校の授業で、耳が聴こえないことがどれだけハンディキャップになり、子供につらい思いをさせるか、伝えてみても悪くはないかもしれません。
 長文でお時間を取らせた割にうまく書けず、的外れであったなら申し訳ありません。また、不愉快にさせる表現がありましたら、その意図ではなかったとは言え、またこれも申し訳ありません。
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 障害者を家族に持ち,福祉事業に携わっている者として申し上げます。


 「聾学校へ行かせるのは可哀想」というのは,親のエゴ・世間体・プライド以外のなにものでもないと思います。
 聴覚障害の度合いによって,聾学校・難聴学級・普通学級に分かれますので,どこが適しているかは専門家ではない親が判断できるわけがないのです。
 聾学校・難聴学級では,聴覚障害の度合いに応じて,大人になって社会生活を送る時にできるだけ支障が生じないように訓練が施されます。むろん,聴覚障害以外の障害がないのであれば,教育の内容は普通学校と変わりなく,逆に少人数制になりますから,きめ細かな授業が行われます。
 質問者の方がおっしゃるとおり,「きちんと専門的教育と一般過程の両方を得られる聾学校で教育を受けた上で、社会に出る方が子供にとってもメリットは大きいと」私も思います。
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その子は補聴器はつけていないのですか?


僕の弟の子供は生まれつき重度の難聴で補聴器をつけても
殆ど聞こえていないような状態です

今は聾学校に通っていますが
近所に友達がいない(できない)
とか近所の同じ歳の子供よりも早く出て学校に行くので
(学校が遠いためですけど)
接点がない
等みていてかわいそうな気もします
でも弟はみんなと同じ学校に通ってもみんなとはコミュニケーションがとりにくいし、結局同じとちゃうかな?って言ってます
でもそれがクリアできるなら、近所の子供たちと同じ学校に通わせてやりたいみたいです

それをクリアする方法は、弟の子供の耳が聞こえるようになるって以外には
周りの人、同級生、学校の先生、等々みんなに手話を覚えてもらう
くらいしかないですよね

高校の友達にも難聴の子がいましたが
しょっちゅう授業中に回りに先生の言っている事に解説を求めていました
やって当然なのかもしれませんが、迷惑に感じていた人もいると思います
授業に集中できませんからね

周りにそんな風に感じられながら、通学するのは
その子にとってどうなんでしょうね?

それならば僕の弟の子供のように
帰ってきたらさびしい思いをするだろうけど
学校に行けば、みんなとコミュニケーションが取れるって環境においてあげたほうがいいではないかと
思いますね
帰ってきてからは、親の対応でなんとかなるって気もしますしね

まーあくまで僕の考え方ですけど
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友人の子供は公立小学校に入学しましたが 学校の勧めで聾学校に転向しました。

学校からこの話があったときは
学校をうらんだそうです。しかし 話を聞いてみると 本当に子供のことを考えてくれていることがわかり
転向し 現在は 親子ともども大変満足しているそうです。はっきり言って聾学校に入れたくないのは 親の世間体を気にする気持ちだけで 子供のことを本当に考えていないと思います。まずは 教育委員会のようなところで
相談されてはいかがでしょうか?
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