プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

織田信長は6月の初旬に京で馬揃えを行い天皇に披露するよていだった
その役割を任されていたのが明智光秀です

信長は光秀の部下に「光秀は6月2日に軍勢を率いて上洛せよ」と伝えています
それを部下から伝え聞いた光秀は「信長様は間違いなく軍勢を率いて…と仰ったのだな?」と聞き返す
部下は「間違いございません」と言った
その時光秀の瞳がキラリと光った…しかし光秀はその表情を悟られまいと 一点を見つめて動かなかった…。

これが5月20日過ぎ
そして26日に光秀は上杉景勝に「御当方無二御馳走相成るべき事」と書状を送っています
上杉は最大限の援助をせよ という意味です
これは金の無心なのか 軍事面での援助なのかはわかりませんが…



いや 要するに
「軍勢を率いて上洛せよ」と信長が言ったのだから 光秀はそれに従った
つまり 謀反じゃないと言う事ですよね?

A 回答 (9件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>織田信長は6月の初旬に京で馬揃えを行い天皇に披露するよていだったその役割を任されていたのが明智光秀です。そして26日に光秀は上杉景勝に「御当方無二御馳走相成るべき事」と書状を送っています。
>>「軍勢を率いて上洛せよ」と信長が言ったのだから 光秀はそれに従ったつまり 謀反じゃないと言う事ですよね?


あなたのおっしゃる通りです。

ただし、光秀にとっては「好機」とみた可能性も捨てきれないですね。

話は少し脱線するかもしれませんが、

「信長を討ったのは光秀ではない!」

という「説」もあります。

それも、天下のNHKが2007年に「検証した」といって放映されました。

(1)光秀の居城「亀山城」からは、城下を通り、老ノ坂(おいのさか)の峠を越え、京都に入り、桂川を渡って本能寺へ着いた。
<1>このルートは、各種の史料等で、現在は「定説」となっている。
<2>しかし、このルートであると、亀山城から本能寺までは約20Kmとなる。
<3>光秀が亀山城を発進したのが、6月1日午後8:00。
<4>本能寺の変が起きたのは6月2日午前2:00。
<5>とすると、6時間で本能寺に到着しなければならない。
<6>当時の具足(鎧や兜)は、鉄砲に対する防御で、鉄板が多く使われており、約30Kgあった。
<7>城下は、ともかくとして、老ノ坂は、だらだらとした昇り坂で、馬であれば1頭ずつが縦に並んで通れるぐらい。人であれば、3~4人が横並びでも通れた。
<8>京都に入ってからは、「桂川」を馬上または徒歩で渡った。橋ははるか上流にはあるが、そこを通るとすると、時間はさらに延びる。従って、一番早く着くには桂川を馬上または徒歩で渡るしかなかった。
<9>ところが、公家の「山科言経(やましなともつね)」の書いた「言経卿記(ともつねきょうき)」によると、6月1日は「前日から雨」。
<10>当然、桂川は増水しており、馬上であっても徒歩であっても渡ることができない。はるか上流か下流の橋を「迂回」せざるを得ない。
と、なると、6時間で本能寺に着くまで、時速3~4Kmで進軍しなくてはならない。また、老ノ坂峠にしても、「ぬかるみ」だらけで、馬上の者は別として、雑兵などはとても早足で越えることはできない。
<11>従って、光秀は「本能寺の変」には間に合っていない。

(2)では、誰が信長を殺したのか。
<1>結論から先に言うと「イエズス会の宣教師たち」であった。
<2>イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスの記した「日本史」によると、
「信長が厠(かわや)から出て、手と顔を清めていたところを背後から弓矢を放って背中に命中させた。(中略)。直後に、信長は小姓たちを呼び、鎌のような武器(薙刀)を振り回しながら応戦していた。しかし、鉄砲隊が放った弾が左肩に命中した。信長は直後に障子の戸を閉じて、火を放ち自害した」
と、あたかも「現場」を間近で見ていたかのような記述がされている。
<3>光秀軍が襲ったのであれば、何万もの兵がうごめく中、このような「詳細」を見ることはできなかったはず。

(3)では、なぜ、イエズス会だったのか。
<1>信長は、イエズス会の布教活動を許可し、自らも南蛮製のマントや帽子を着用していたから、イエズス会と仲は良かったはず。
<2>イエズス会の「怒り」をかったのは、やはり、ルイス・フロイスの記録によると、
「信長は、かくのごとく傲慢(ごうまん)になり、世界の創造主であるデウスのみに帰すべきものを奪わんため(中略)その霊魂は地獄に葬った」
と、ある。
<3>「かくのごとく傲慢」とは・・・。
信長の居城であった安土城跡(滋賀県安土町)に残る「廟(びょう)」のてっぺんに「盆山(ぼんさん)」と呼ばれる「岩」を乗せてあり、信長は、生前より、
「この石を神と思え、わしと思え」
と、いかにも天皇をも越えて、自分ただ一人が「神」である、と、命令していた、と、言われ、これがイエズス会にとっては、神はデウスであって、信長ではない、との反感をかった。

(4)本能寺の発掘調査が物語るもの。
<1>2007.3.3の「産経新聞」の掲載記事によると、本能寺は、北は六角通。東は西洞院通。南は蛸薬師通。西は油小路通。に囲まれた120m四方と言われていたが、信長が宿泊したと思われる場所は、北東の角にある40m四方の小さな建物で、寺と言うよりも「武家住宅」あるいは「小御殿風」であった。
<2>と、なると、信長をはじめ側近の者が「雑魚寝」をしても、せいぜい40人位。
<3>これまで、100人近い兵と共に宿泊をしていた。と言う考え方は、到底無理が生じる。
<3>従って、イエズス会の宣教師たちの少人数でも攻めることができた。

(5)イエズス会のバックボーン。
<1>イエズス会は、南蛮貿易で「火薬」の原料である「硝石」を貿易しており、十分な資力があった。
<2>従って、弓矢や鉄砲などの武器を調達することは、「たやすい」ことであった。
<3>また、イエズス会の「本山」である「南蛮寺」は、本能寺から、わずか、300mしか離れていない。

(6)では、なぜ、明智光秀が罪人なのか。
<1>光秀が到着した時には、すでに、イエズス会により信長は「暗殺」されていた。本能寺も焼け落ちていた。
<2>確かに、光秀は信長を殺そうと本能寺に向かった。
<3>これにより、光秀は「謀反の罪」を着せられた。

あなたは「信じますか?」「信じませんか?」・・・。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2013/02/05 20:40

君主に背くことが謀反なので、おれを殺せと言われてない限りは謀反でしょうね。

    • good
    • 2
この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2013/02/05 20:40

>信長は秀吉に援軍を請われて光秀を備中高松に遣わせる予定だった その際に京都に立ち寄らせて織田軍の馬揃えをする予定だったんですよ?


信長の「馬揃え」とは一種の軍事パレードです。出陣前の軍勢を対象とするものではありません。

>しかも手紙は密書です 事を起こすから上杉は味方してくれ と言う解釈になりますが?
どこにそんな内容が書いているのか?全文に目を通したのでしょうか?そもそも漢文を読めているのでしょうか?

>もっと歴史を学びましょう
>意見はそれからお願いします
学んだ歴史で得たことをもとに内容や日付や史料の解釈が成り立たないので、謀叛じゃないという質問にノーと回答したのですが。
質問者さんはどうやって歴史を学んでいるのか、是非お聞きしたいところです。質問に至った知識は一体どこで得たのか典拠を教えていただきたい。
それができずに、質問の前提を盲信して固持したまま、思った通りでない回答を受付けないのであれば、この場で質問する必要がないと思います。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2013/02/05 20:40

 たとえば、自衛隊が災害救助に派遣されたら、どうなるんですか?

    • good
    • 1
この回答へのお礼

さあ

お礼日時:2013/02/05 20:41

 たとえばナイフを持っている人に、「そのナイフ、ちょっと見せてくれ」と言ったら、それはどうなるんですか?

    • good
    • 1
この回答へのお礼

さあ

お礼日時:2013/02/05 20:41

 たとえば、援軍を要請したらどうなるんですか?

    • good
    • 1
この回答へのお礼

さあ

お礼日時:2013/02/05 21:31

 ご質問文を全て肯定して解釈するとして。

上洛は殺害を意味するんですか?
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2013/02/05 20:41

どこから出てきたのか知りませんが、前半の典拠不明の小説のような妄想を信じるなら、そんな論理の飛躍も可能かも知れませんね。


しかし、信長が「軍勢を率いて上洛せよ」と言ったことを示す確かな史料がありませんので、謀反じゃないという理解は前提から成立しません。
日付もでたらめ。光秀が安土から坂本に帰ったのが5月17日。亀山に移るのが26日。
6月に馬揃えを予定していたという史料も聞いたことがありません。信長が秀吉の注進を受けて中国に出馬する予定で、京都で馬揃えをする状況ではない。

ちなみに、引用されている史料は光秀が上杉景勝に宛てたものではなく、光秀の使者を受けた須田満親から連絡を受けた河隅忠清が直江兼続に宛てたものです。書状の日付も諸説ありますが、どれも6月に入ってからのはず。
しかも引用文も間違っている。訳は「御当方=あなた(上杉氏)にひたすらご協力したいとのことを(光秀が)連絡してきたと聞きました。」です。もっといろいろな本を読みましょう。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

はいはい
信長は秀吉に援軍を請われて光秀を備中高松に遣わせる予定だった その際に京都に立ち寄らせて織田軍の馬揃えをする予定だったんですよ?

しかも手紙は密書です 事を起こすから上杉は味方してくれ
と言う解釈になりますが?


もっと歴史を学びましょう
意見はそれからお願いします

お礼日時:2013/02/03 07:54

そのまま信長を襲わなかったのであればそうでしょうね。

    • good
    • 1
この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2013/02/05 20:41

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!