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庸調を都まで運ぶとき、どこに泊まったのでしょうか。
一般人は、駅家を利用できなかったので、寺社に泊めてもらったのではないかと思っています。
また、都まで庸調を運んで来た人々は、都ではどこに泊まったのでしょうか。
具体的な事例を教えて下さい。
よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

万葉集に「草枕」という言葉が出てきます。

この草枕は、「草を結んで枕として野宿すること」の意味につかわれます。また、「旅」・「むすぶ」「ゆふ」「かり」「つゆ」など、旅に関する語句の枕詞としても使用され、当時の旅が野宿であったことがうかがえます。運脚夫も野宿が当然でした。
運脚夫は食料も自弁の上、野宿ですから、飢えや病に苦しめられ、運送の途次に倒れ、死亡し、困窮に耐えかねて逃亡する者もありました。このような状況は社会問題として捉えられ、特に仏教界では済世救民の考えから、「布施屋」という宿泊・食事の給付・医療などを施す施設が作られるようになります。奈良時代の僧侶である行基の活動の中にも布施屋の設置があげられています。また、国府が布施屋の設置・運営にあたる事もありました。
布施屋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E6%96%BD% …
行基
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E5%9F%BA

なお、関連する施設に、世界最古の旅館の一つとしてとして、718年創業の石川県の法師があります。これは、温泉旅館ですが、日本各地の温泉には、僧侶が庶民の病気・けがなどの治療の目的で開湯したり、施設を建てたりしたとの伝承を持つ温泉があります。法師についてもそのような話があり、仏教の済世救民のための施設が早くから多方面で展開されていたことが知られます。
法師(旅館)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E5%B8%AB_ …
http://web.archive.org/web/20091121091421/http:/ …

以上、参考まで。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
「草枕」という言葉は知っていましたが、どちらかと言えば、ロマンティックな想像をしていました。
同じことでも「野宿」と言えば、「草枕」とは正反対の雰囲気ですね。
「布施屋」という施設が作られるようになったのですね。
奈良・平安時代はおおよそ500年も続いたのですから、だんだんと庶民の「納税の旅」もし易くなっていったということ、大変よく解りました。

法師旅館も名前だけは知っていましたが、そんなに古い時代から続いているとは驚きです。
慶雲館(山梨県西山温泉)や千年の湯 古まん(兵庫県城崎温泉)も同時期ということ、話のタネが増えました。

お礼日時:2013/03/16 10:05

基本は野宿です。

 庸調を運搬するのも、納めてから帰るのも、基本は人力・歩行ですから、膨大な人数が歩いています。そのような人数を宿泊させる施設は、奈良・平安時代にはありません。寺はそのようなことをしないし、神社も、官衙もしません。 官営や寺営の救済救護施設を作ったこともありますが、例外的なものです。 沿道というか経路上の農家も、そうした運脚人を泊めるようなことは基本的にはしなかったハズです。 
通常は、木の陰、岩陰などで宿泊したり、それこそ野宿したはずです。
時代が大きく下がって江戸時代の伊勢参で、御師に先導されて、村の講などの支援を受けて旅する場合も、宿屋に泊まることもあったし、伊勢ではそうした豪勢に宿泊したのですが、途中では木の陰、岩陰、野宿は当然だったようです。 
http://www.vill.takizawa.iwate.jp/contents/sonsh …
 
そもそも、旅をしていないとき=地元で生活しているときでも、普通の農民は、平安時代までならば、ほとんど竪穴式住居に住んでいます。 掘立柱建物という地面に垂直の柱を立てて壁を作り屋根を載せる形式の建物が一般村落で増えるのは律令制がだめになる平安末期です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%98%E7%AB%8B% …
庸調を運搬する人も、兵役にかり出される人も、村落と村落を土器や塩、鉄器などを交易で運ぶ人も、野宿は当然のことで、特別のこととは思わないでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%9F%E5%BA%B8% …
 
日本でなくても、交易で旅する、聖地に巡礼する、領主(主人)の命で他の国の領主に使いにいくのでも、他国を攻めるために進軍するのでも、基本的には野営、野宿だと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
“野宿”ということで十分納得しました。
当時の人はたくましかった、とつくづく思います。

盗賊に対しては団体で行動することでそれなりに安全に旅することができたのでしょう。
また、国家としても税の安定した確保は絶対条件なので、道路を整備、道中の安全確保に何らかの施策も講じたのでしょう。
当時の様子を想像できるようになりました。

お礼日時:2013/03/18 09:08

 具体的な史料をみたことはありません。



要はそれほど税を運ばせる朝廷の側から

は無関心であった証拠ではないでしょうか。

昔、授業でそうした人たちは野宿で旅を

し、食料がなく飢え死にする人もいたと

聞いた覚えがあります。

 考えて見れば、奈良時代の寺院はまだ

数も少ないしそれ以上に寺院は一般庶民

とは別世界の中央貴族や地方豪族にとっ

ての「学問所」「出世のための予備校」

でしたからまさか庶民を宿泊させるとは

思えないです。

 何にしても税を運ぶ彼等から金をとれ

ない以上、宿泊業は成立しないでしょう。

当然、昔の公的機関はそんなサービス良く

ないですしもしあればきっと律令に記載

されているでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
野宿ですか…。
それもちょっと思いましたが、大事な高価な物を運ぶので襲われる虞があるのではないか、雨露で傷むのではないか、と思って始めから除外していました。
しかし確かに、寺院が庶民を泊めてくれることはなさそうです。
せいぜい、門の軒下で雨宿りでもすることができれば御の字だったのでしょうね。
#2の方も“野宿”と仰っています。考え直します。

お礼日時:2013/03/16 10:03

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