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2006年に発覚した高等学校の未履修問題をどう思われましたか?

その前でもその後でも時期を問わず質問しますが、

1、皆様が卒業した高等学校ではございました?(あったとしたら何県の学校で、何の教科だったでしょうか?)
2、世界史A/Bが必須なのに履修しなかったり, 芸術系や家庭系の科目を履修せずその代わりに受験科目の授業に当てるというのがメインだったようですが、個人としてはどう考えますか?

3、学習指導要領の標準単位数より少ない単位(たとえば必修では無いが地学IIの標準3単位を2単位にすること)で履修しても、その科目を卒業単位として認めることは可能なのでしょうか

私の考え方は回答終了時に。

A 回答 (6件)

さて,これは質問者への回答。



この「調査書ごかかし事件」は,背景に「地歴科(ないし社会科)はどうあるべきか」という奥深い問題があったことがわかったと思います。質問項目1~3は,まあ,素人の表面的な視点からのものです。

ごまかしを摘発された高校長が,こういう問題をきちんと認識しており,全国校長会(仮称。そういう組織があると思う)を動かして文科省に「制度を改善しろ」と訴えたのなら,偉いといえます。しかし,ぼくがみるところでは,そうは思えなかった。姑息に単位をごまかして生徒を卒業させただけにしか見えない。それでも教育をあずかる身か。
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この回答へのお礼

未履修問題は全くいただけないですが, 地元の名門の愛知県・岡崎高でも全く同じことをやっていたと聞いていますが, ある岡崎高教諭が生徒に「入試に出ないから世界史は勉強せんでええ。入試に受かる事だけが大事だ。」と言って履修させなかったとの話が私のいる東京にまで伝わっているほどですが, 社会に出た後の一般知識として世界史の知識が必要になってくる事は多く, それを学ぶ事につき各高校がどう考えるかでしょう。
大体「必修」と決められた事を高校の教諭が守らないんじゃ, 入試に出るとか一般教養の勉強とか以前の問題です--。

お礼日時:2013/06/06 20:13

なんだか,質問者をそっちのけで相聞歌になっちゃいましたが 笑。

ご専門を誤認したのは,たいへん失礼いたしました。昨日はくたばりかけたパソコンの入れ替えをしていたため,ご返事おくれました。

「歴史教育は新しいほうから」には,同意する点も多々あります。地理だってまったく現在の事象だけ考えているわけではないはずで,近代化から,あるいは少なくとも大戦後(とくに社会が激変した高度経済成長期)からの経緯はおさえておく必要があるでしょう。この点では,地理と近現代史はかぶっていると思います。しかし、そういう総合科目(公民科の現代社会に比すべきもの)は,成立しなかった。歴史では2単位ものの世界史A・日本史Aが新設されましたが,時間遡航の観点があったかどうかは知りません。「半分しかやらないなら,せめて新しいほうをやってね」というつもりかもしれません。じっさい,ぼくが世界史を履修したとき,古代エジプトだのローマだのは実につまらなかった。これらはヨーロッパの連中にとっては「原点」かもしれないが,日本人には関係ないもんね----と当時のぼくは思った。なお,地理Aは,大学地理学のダイジェストともいえる理論的な内容をはぶき,実際問題にウェイトをおく構成のはずです。

ぼくは,科学思想の観点(そんな科目も担当しています)から,歴史学や地理学における「因果律」について考えることがあります。ヒトが自己および身の回りの事象を理解するうえで,時間軸上でとらえるか,空間軸上でとらえるか。前者はたとえばハイデガーの「Sein und Zeit」,後者は和辻の「風土-その人間学的考察」にみることができます。たぶん,ヒトの脳機能としては,時間軸上で新しいほうから(記憶がはっきりしている),かつ偶然の事象にすらもなんらかの因果律や「こじつけ」をみとめつつ,納得しながら生きている。いっぽう,空間軸上の因果律を考えることは,狩猟民でもないかぎり,ヒトの脳には処理が難しいのではないか----これが,歴史学科よりも地理学科のほうが受験生人気がないことを説明しないか? 爆。

しかし,ぼくがみるところ(=少なくともうちの学部では),近現代史ゼミには学生が少ない気もします。史料が膨大にあって読み切れず,かつまだ硝煙のにおいも漂っているからではあるまいか。かたや中世や古代,考古には「ロマン」らしきものが認められる。関ヶ原合戦の硝煙は,もうとっくに雲散霧消しているから。学生連中は,日本史専攻でも,この国の歴史をきちんと学ぶ気があるのか。まあ,門外漢の戯れ言と聞き流してください。

「全ての教科目がリンクする」という点については,高校生にとってどっちが易しいかを考えたとき,すべてを煮込み鍋にするよりも,個別の皿に盛りつけてやったほうが食べやすいかなあ,とも思います。総合は大学でやるほうがいいのか。ぼくの授業には,多分にそういう傾向があります。理学部出身で文学部で教えているという背景もあります。ぼくの目では,歴史事象の一部は生態学的あるいは資源論的な観点でもとらえられます。

そろそろ1限が始まるので,かなり支離滅裂で舌足らずながら,ここまで。

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なお,ぼくは専門は歴史学ではありませんが,No.2,4の記述はほぼ100パーセント理解できました。それが1970年代の受験勉の水準(いままでの40年間の減衰・ボケをみこむ)といってもいいと思います。いまの高校生がこの相聞歌の読者であったとして,彼らにぼくのほうから質問しますが,どれくらい理解できましたか? 大学で教えた経験から推定すると,平均的にはかなり心許ないと思います。へたをすると,「こじき」を漢字で「古事記」と板書しなきゃいけないんだから・・・。
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 No.1および3の同業者の先生に誤解を与えてしまいました、申し訳ございません。


僕の本業は日本史学それも中世史です。日本史教育の立場からすれば、現在の日本史教育は「とある目的」と「それを生みだした背景」を抱えています。
 通常のカリキュラム編成からいけば、現場で近現代史を扱うコマ数がどうしても不足になりがちです。しかも1月にはセンター試験が待ち構えていますので、それまでに日本史の流れを全過程に渡ってしかもポイントを絞りつつ終えねばならないとのまことに厄介で矛盾に満ちた数式を解かねばならない板挟み状態に苦慮する事態を生み出している。「遡り方式」もあるにはあるのですが、それを文科省や学校長側も認めるには至らず、指導要領に基づく、国際社会との良好な関係を築くための歴史認識を育むことからすれば、方法と目的が矛盾してしまいます。逆のベクトルです。将来のあり方を考えるためなら、近現代史から手を付けるのが筋道であり、その前提として前近代史はある。けれども日本史の特殊な性質を考えるなら、近代以前と近代以後のコントラストを明確にするためにはどうしても前近代史の構造的特質を踏まえねばならない。もし世界史のみを必修とするなら、自国と海外の関係を問うにせよ、外交史の問題を最低限時系列で理解しておく必要もある。子どもが赤子から幼児そして児童から生徒へと成長する過程と外交史の展開は似てもいます。
 米がどこからもたらされてきたかに始まり、金属器そして文字といった「モノ」が語る王権、古墳から出土するガラス器が中東のそれと類似することから東西交易の可能性と文化的中継点としての中国、権力構築と維持を目的とする規範とその正当性を裏付けることを目的とする王権の来歴を語る史書をみても中国大陸・朝鮮半島といった文化圏をベースにしつつ、やがて訪れる富の蓄積を目的とする中国との遣り取り、そして新たなカルチャーショックをもたらした南蛮との出会い、インドシナ半島での日本人町、地方での個別による新たな外国との出会い、幕末維新と帝国主義への傾斜など、行動半径も広がっていきます。「遡り」が持つ危険性は限りなく遡ってしまい、外交史を端折って説明しても肝腎な近現代以後が見えにくくなってしまう部分にもあります。
 しかも高校生にとっての目標である大学受験と審議会委員が目的と考える「国際化する社会に対応できる人材の育成」では問題間に乖離もあるのは当然で、大人達は生徒学童の現実を余りに知らないともいえましょう。僕の高校はいわゆる実験校でした。そのため従来の座布団型とは異なるシステムを試験的に導入していたこともあり、一二年次で地理歴史分野(一年次での地理と世界史前近代、二年次での地理・世界史近現代・日本史前近代)三年次で歴史分野・公民および社会思想分野を扱った形です。こんな形だったら比較的時間とコマ数にゆとりがありますが、そうなれば他教科も黙ってはいないでしょう。英語だったら「もっとこちらに時間をくれ」と要望します。しかも外国人講師の配置などを求める可能性もあります。日本語文化と外国語文化の共通点と相違点を理解している講師ならまだしも、アメリカではこの様に言うと他は認めないなどの狭量な人物が担当したなら受験英語との齟齬も来たし、生徒は混乱します。それでは生徒に不利益をもたらしかねもしない。
 日本の中世社会一つを説明するにしても、そこにある要素として武家と公家の間にある権力の相克関係もあれば、境目としての中世社会の構造的特質を説明する考え方もあります。そうした中世社会が見せる様々な顔を全部余すところなく説明しようとするならば、高校の三年間では到底不可能でもある。世界史や地理そして倫社や政経でも同様です。倫社を事例にとれば、同じ実存主義といってもヤスパースとハイデガーの間でも乖離はあり、また彼らとサルトルでは全く異なってしまう。まして哲学史の中で、なぜマルクスの経哲手稿を扱うのかを説明せねばその意味も生徒が理解することにつながらない。
 地理教育でも同様です。単に自然地理だけでは地理を学習することにはつながらない。気候帯や地形の問題を扱うならば、それと人間がどう関わっているのかに焦点をあてねば、単にクイズ形式の一問一答になってしまう危惧も多分にあります。
 ボーダーレスの意味を生徒に考えさせるなら、経済活動による人の移動と往還、信仰をキーワードにするならキリスト教文化とイスラムの関係を引用し、イギリスの二枚舌外交と二つの世界大戦そして戦後世界の枠組みとその再編などといった話題を盛り込んでいかねばなりません。マジョリティとマイノリティを切り口にするなら、アメリカ社会でも変動し続けていることを読み取ってもらえねば、いつまで経っても「アメリカ社会が、常に自由の国である」と勘違いを与えてしまいかねもしない。“9.11”で一夜にして人種の坩堝であり肝要な社会だったはずが、ナショナリズムへと大きく舵を切ってしまったことや今でこそアフリカ系の人を祖先に持つ大統領が誕生したものの、僅か50年余り以前では黒人に対し公民権すら認められていなかったことなどを説明せねばなりません。今の中学生高校生なら東西冷戦・ベルリンの壁そして天安門も知らないはずです。
 現在の中国(中華人民共和国)が国際舞台に復帰したのも今から40年余り昔のことであり、それもピンポン外交や民間交流を通じて細々とつながっていたパイプの役割を知らしめたのもR.ニクソン元大統領による電撃訪中という強い後押しがあってのことです。実際に僕が高校の時に受けた地理教育で受けた「中国」では「大塞に学べ」との言葉でした。これは経済活動に未だ活力も見いだせない貧しい農業国が国家と国民生活をどの様に切り開いていくかとの課題を端的に表した言葉で、工業立国そして将来的には貿易立国として国際社会での立場を築いて行かんとする政治方針である、との説明を受けました。宝山製鉄所やら三門峡(サンメンシャ)のダム開発といった国家的事業を単語レベルで暗記するだけでした(今となっては顔から火の出るほど恥ずかしい経験です)。
 「社会科」を科目毎に単科目として扱うとの審議会委員の偏狭なスタンスでとらえてしまえば、それこそ社会科は臨終宣告を受けたに等しいといえます。全ての教科目がリンクする。こうした点は国語教育そして外国語教育にも通じる部分がある。単語やイディオムを憶えたりするだけで英語の文章を読んで「内容を理解する」ことにはつながらず、活用形の形式を暗記したり品詞分解するだけで文章を理解することができない様に、社会科の教科目を単に暗記科目としてとらえてしまっている、とらえさせてしまっている風潮がよほど恐ろしい結果を生み出してはしまわないかと危惧しています。
 本来ならば、大学入学後にスムーズに教養課程や専門科目へと入っていけるだけの前提を高校までの先生方に求めたいのですが、それも受験との高くそして易くは越えることの難しい壁も立ちはだかっています。
 「自ら考えて行動する人間」の育成を目標に掲げながら、それを自ら阻んでいる日本の教育が持つ歪み、この狭間に立たされているのが現場の教員です。
 文科省と審議会が一体何を目論んでいるか、さっぱりわけがわからなくなっています。
“わ か ん な ~ い”、質問者様には質問趣旨から脱線ばかりして申し訳ございません。
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No.2の同業者の方は,たしか世界史がご専門だったはずなので,No.1のいやみな記述に補足したほうがいいでしょう。

ぼくを前の大学で「いじめ」た筆頭は世界史の連中だったので,どうもバイアスがかかります 笑。

学校教育を「破壊」するにあたり,地歴科では公民科にはない問題がありました。科で共通の「それ1つだけでもいいよ」という,現代社会のようなインチキ科目をたてることができなかったことです。いっぽうで,教育は薄っぺらにしなきゃいけない。そこで世界史,日本史,地理のなかから1つを必修にして,「その1つだけでもいいよ」という制度にしたのです。

このとき,3分野の間では激戦----”市場”をめぐる戦争----がおきたはずです。その審議会が開かれたとき,世界史から選出された委員(テレビ文化人でもあるK.S.)の声がおおきく,「世界史必修」がごり押しで決まったのです。世界情勢を勉強するなら,ぼくのような素人でも地理のほうが近いんじゃないかと思うのですがね。ぼくはそのときの朝日新聞記事を切り抜き,「日本の断末魔」というテーマのファイルにおさめましたが(いまは紛失してしまった),「日本史委員は席をけたてて会議室から去った」のような小見出しがあったと記憶します。じっさい,ぼくの同僚もおなじく激憤してました。だから,こういう内情も(バイアスつきで)知っているのです。
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 こんばんは夜分に失礼します。

僕もNo.1の先生同様70年代半ばに高校を卒業しました。当時の高校では文系でも生物・地学・化学B・物理Bそして理系でも地理B・世界史B・倫理社会・日本史・政治経済が必修でした。その後に社会科では現代社会なるトンデモナイ代物を加え、それだけでも可とする余りにも乱暴なカリキュラム構成となり、その後も社会科教育に対する圧力も高まるばかりです。国語は勿論、文系理系を問わず、現代国語・古典一乙・古典二に漢文、数学も数I・数IIB・数IIIです。でも僕らは全部クリアしてきました。そして今回、センター試験で小林秀雄が採り上げられ、試験会場では阿鼻叫喚の地獄絵巻が展開されたとの報道を見て、試験問題を見直してみましたが、大した問題でもありません。僕らの年代ならば、スラスラと解ける問題ばかりでした。
 当時、立教大学文学部の社会科は世界史Bのみとされていましたが、試験問題の内容に目を通してみますと、地理および日本史そして政経との密接なリンクを求めようと出題者が苦悶する姿が透けて見えます。その後文科省は更にひどい仕打ちを執拗に加え続けてもいます。「国際人の育成を期して」などの御託を並べ、社会科の教科書を薄っぺらくし、国語のテキストも「国語総合」などを新たに設けて、現代文すらまともに読めない受験生を大量に大学に押しつけてくるだけです。しかも今度は小学校中学年段階からの語学教育も必要などと、まるでわけのわからない文章を平気で書いている大人の都合を子ども達に強要しようともしている。正しい国語などは確かにありませんが、平易な文体で適切な語彙と文字を使い文章を書いたり読んだりそして相手に説明したりする能力を育むとの目的を何処かに置き忘れてきたかの印象も受けます。
 英語といっても単語を詰め込んだり、簡単な日常会話の決まり文句を憶えさせたりするのでは英語教育とも言えないでしょう。ネイティブ・スピーカーを各学校に配置するといっても、彼が言語教育の意味や他国の言語文化を理解できていなければ、それは英会話教室と変わりありません。受講生からの質問に、英語の文法をははじめ言語構造理論などの教育を受けず適切に応えるだけの引き出しも持たないお粗末な「私はネイティブ・スピーカーです」とだけの理由で教壇に立つなら、それは危険です。
 立法府の政権と行政府の文科省の役人そして教育課程審議会のジジイやおばさん達は何か勘違いしている様な感じがします。
 大学教育に携わる現場の教員ならば、普通はあいつらが早くいなくなった方がやりやすいと考えているはずです。それほど外的要因にしか縛られていない「日本の教育」は不幸な状態にあるともいえます。大人でも「いろは歌」を見て「ん」の文字がない、などと平然と口にしてしまう方もいらっしゃいますが、文語としての歴史的仮名遣いの「む」を口語で発音する場合には「ん」と発音することなどわかっているはずです。にも関わらずこの体堕落では本当にお先真っ暗です。この先日本はどないしてしまうんやろ 爆!
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この回答へのお礼

どうもです。

お礼日時:2013/06/06 20:14

1&2.


1970年代の普通科高校ですが,世界史,日本史,地理をすべて必修で履修しました。ぼくは(現役時には)大学入試を日本史で受験しましたので,3年生で日本史選択という形だったと覚えます。

世界史が必修になりほかが選択制になったのは,入試で世界史受験者が低迷したためであり,世界史業界が(メシの食い上げになると考えて)圧力をかけたためです。この時点で,「日本って国は,そのうち滅ぶな」とぼくは考えました。必修化したいまでも,センター試験で世界史受験者数は最低という,さんたんたる有様です。

世界史を履修していないのに調査書をごまかしていたことが発覚したとき,大学教員としてのぼくは「高校との信頼関係は,もう消滅したな」と考えました。同時に,「ごまかしをしなきゃいけないなんて,日本の青少年の学力も落ちたもんだ」。
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