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http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …
を読むと

・立憲政友会
1:内政は保守的
2:中国に対しては強硬外交
3:財政は積極財政であった。
 ↓
右寄り。

・立憲民政党
1:内政は自由主義的
2:中国に対しては不干渉
3:財政は緊縮財政であった。
 ↓
左寄り。

一方でhttp://www.geocities.jp/since7903/senzen-seitou. … の政党変遷図
および、http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question … をみると、

・立憲政友会
1:板垣退助の自由党由来。
2:自由党はフランスをモデルにした急進的な性格。
 ↓
左寄り。

・立憲民政党
1:大隈重信の立憲改進党由来。
2:立憲改進党はイギリスをモデルにした穏健な性格。
 ↓
右寄り。

なぜ、出自と実際の性格が異なるのでしょうか?
何かが、きっかけで変わったのでしょうか?


このあたりの事情について、ご存じの方がおられましたらよろしくご教示くださいませ。

A 回答 (1件)

creamysoft さん、こんばんわ。




立憲政友会は自由党とは別物です。確かに自由党の流れをくむ、星亨などの自由派憲政党を含みますが、この政友会ができる時点で板垣退助が事実上の引退に追い込まれます。他は伊藤の部下の官僚や他の民党関係者などで成立し、党首は伊藤博文です。そして党首の専制的な政党組織でした。だから急進的な政党にはなりませんでした。

立憲民政党に至っては成立は新しく、昭和に入ってからです。確かにこの党にも立憲改進党の流れをくむ加藤高明の立憲同志会が含まれています。これと尾崎行雄の政治グループとで合併した若槻礼次郎の憲政会と政友会に不満をもって離党して成立した床次竹次郎のグループの政友本党との合併でした。党首は浜口雄幸でした。

このことから、立憲政友会も立憲民政党もそれぞれ自由党や立憲改進党の流れをくむ勢力がいましたが、時代を経るにつれて新しい政治グループとの合併や分離を繰り返すうちに力が小さくなり、やがて、本来の性格から変質していったのです。
理由は党利党略がらみだと思います。

詳細なことは下記のURLを参照ください。
立憲政友会
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%86%B2% …
立憲民政党
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%86%B2% …
自由党
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1% …
立憲改進党
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%86%B2% …
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この回答へのお礼

ithiさん、丁寧なご回答ありがとうございます。

>この政友会ができる時点で板垣退助が事実上の引退に追い込まれます。
そうだったんですか。この経緯を自分なりに探ってみます。

>時代を経るにつれて新しい政治グループとの合併や分離を繰り返すうちに力が小さくなり、
>やがて、本来の性格から変質していったのです。
>理由は党利党略がらみだと思います。
現代にも通ずる部分がありますね。。。

明治~昭和初期の政党は名前が紛らわしくってわかりにくいです。

また、よろしくお願い申し上げます。

お礼日時:2013/07/07 08:21

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