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 今から80年も前に兼常清佐という人が書いた「音楽界の迷信」という随筆があります。これを読まれた方のご意見をうかがいたいです。
私は若干異論がありながらも、全体としては鋭い指摘であり面白いと感じました。

 内容は、主にクラシック音楽のピアノ演奏におけるいわゆるタッチの技巧を、迷信と断じたものです。
『ピアノの音~をきめるものは、簡単にいえば、鍵盤が沈む時の角速度である。今パデレウスキーが鍵盤を押し沈めた時と同じ角速度で猫の足が鍵盤を押し沈めたとしたら、この猫の足のタッチからは、パデレウスキーが指のタッチと同じピアノの音が出たにちがいない』

 また、美術学生と音楽学生と比較して論じながら、ピアニストの存在意義に疑問を投げかけるくだりがあります。
『一人は自分の独創的な芸術を画布の上に描き出そうという事を理想としている美術学校の学生で、まさかその一生をラファエルやセザンヌの模写をして過そうと思うような人はあるまい。またその模写にしても、先生が青といえば青、赤といえば赤、何から何まで先生の言う通りに追随する事が一番大きな事業だと思うような人はおそらく一人もあるまい。しかし音楽学校の学生の方は、その美術学校の学生の決してやるまいと思う事だけをやっている。そして仕事は模写と追随だけである。曲はショパンやリストの作ったものである。ピアノはピアノ会社の作ったものである。その弾き方は何から何まで先生の言い付け通りである。もし個人的なものが知らず識らずタッチの上に表われるというかも知れないが、不幸にしてそのタッチというものは世の中には存在しない。やはり今のピアノの学生の仕事を取ってみれば、ただ模写と追随という事より外に何物も存在しない。
 この二人の学生は、将来どうして私共の芸術を求める心を同じ程度に満足させてくれるであろうか。私はピアノ弾きにならなかった事を、いつも幸福だと思っている』

 原文は青空文庫で読むことができます。
ttp://www.aozora.gr.jp/cards/001294/files/47164_34802.html

A 回答 (4件)

「物理的に全く同じ叩き方をすれば、物理的に全く同じ音が出る。

それをいちいち玄妙なる神秘が作用してるかのように言うのは科学的でない」という主張は、まあその通りじゃないでしょうか。「音楽とは音そのものである。なのに音楽を文学的に哲学的に有難がるバカが多過ぎる」というようなことを言いたいのかなと。

ただし、「タッチ」は多くの場合、「タッチとタッチのつなぎ方」を含むものと理解される、ようにも思います。

例えば自動車のアクセル、ブレーキ、クラッチを足の裏で操るのも一種の「タッチ」です。このタッチについて「F1ドライバーだろうがネコだろうが同じ角度だけアクセルを踏み込めば同じ結果になる。タッチの巧拙など迷信である」と言うことは可能かも知れません。しかしF1ドライバーの足裏のタッチの凄みというものは、ポンと1踏みする際の踏み方そのものというより、時に滑らかな、時に急激な、踏み方と踏み方の間の精緻な「つなぎ」にあるんじゃないかと、まあ、そう思うんですね。そういう意味では「タッチの巧拙など迷信」とは到底言えないでしょう。ドライバーの仕事はスタートからフィニッシュまでのトータルで評価されるべきで、一瞬だけを切り取って「ネコの足でも同じことができる」と主張しても、大して意味はありません。

「一つの音でさえタッチの区別の出来ないのに、どうしてあれほど複雑な曲でタッチの変化が耳にわかるか」とありますが、いやそれは逆だろ、ひとつの音じゃわからなくても、複雑な曲になれば巧拙がはっきりわかるだろ、というのが常識的な見方でしょう。同じようなことは絵画にも彫刻にも文章にも言えます。
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>パデレウスキーが鍵盤を押し沈めた時と同じ角速度で猫の足が鍵盤を押し沈めたとしたら



速度は同じでも猫と人間の足と指では重さが違うので、同じにはならないと思います。ピアニストでも指の太さが違うだけで音色も変わりますし、自動車と自転車では同じスピードでも衝撃は違うところからわかります。

また中村紘子さんが著書で書いておられたことに、「ハイフィンガー奏法」というのがあって、昔のピアニストは指を立てて弾いていたそうで、そのため金属的な響きになったそうです。氏自身もその奏法が間違っているのを留学先で指摘され、直すのに苦労されたそうです。今は指を立てる奏法は間違っていて、指を伸ばす奏法が普通です。

タッチやピアノ全般のことについて、青柳いづみ子さんという方が本を多数書かれているので参考にされてみてはいかがでしょうか。

>また、美術学生と音楽学生と比較して論じながら、ピアニストの存在意義に疑問を投げかけるくだりがあります。

この文章を書かれた方はピアニストが「模写と追随だけ」とおっしゃってますが、仮にそうだとしても出てくるものが違うので、意味がないというのは間違っていると思います。
美術学生にしても同じ対象物を違う学生が描けば出来上がるのも違ってくるわけで、演奏者や描く人というフィルターを通さなければ鑑賞できません。
ましてや音楽の場合楽譜を見ただけで頭の中に音楽が鳴る人もいるでしょうが、普通は演奏してもらわないとわかりません。
演奏家というのは作曲家の作品を演奏する「開かれた窓」であるとプルーストも言ってますので私もその論には与しません。
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 No.1さんと同じ内容になってしまいますが。


 80年も前にしては、いまどきの若者のような「デジタル思考」ですね。

 「ピアノの鍵盤をたたく」というのが、コンピュータ・ソフトのアウトプットのように「画一的」「均一」にできると信じている「理科音痴」丸出しの方かと思います。
 現在の技術をもってしても、たとえば「ピアノロール」が残っている伝説の名ピアニストのタッチを再現することは不可能です。また、同じ奏者であっても、10本の指のタッチを、音の連続に対して「瓜二つ」に再現することは不可能でしょう。

 例えば、1本の指で鍵盤を押す「力」(荷重)と「速度」をパラメータに選んでも、「力」と「速度」は連続可変なので、2つのパラメータだけでも組み合わせは無数です。しかも、その「パラメータの取り方」自体が無限大に近い自由度があります。
 こういった「タッチ」を特定する「状態変数」の組み合わせは、事実上無限大です。
 さらに、演奏する対象である楽器としてのピアノも、「タッチに対する音の出方」は全て異なります。

 似たような話に、「俳句は高々17文字、しかも意味を持つ組み合わせは極めて限定されるので、すぐに言葉の組み合わせの限界が来る」というものがあります。でも、数百年経っても、まだまだ新しい俳句が詠まれていますね。

 さらに、「音楽学校の学生」と「美術学校の学生」のくだりは、「創造芸術」と「再現芸術」(再現も立派な創造ですが)などの「質の違い」を混同させた乱暴な議論だと思います。絵画の「見た目の違い」を芸術創造そのものと考える「表面的な」捉え方しかできない、底の浅い捉え方です。絵画にだって、「描いている対象は全く違うが、芸術としては単なる模倣」というものもあるわけですから。

 芸術論なんて、感覚論・情緒論で何を言っても勝手なわけですので、読む側が自分の価値観からそれをどう評価するか、ということが大切だと思います。私には、質問文にあげられた方の論法は全く評価できない暴論にしか見えません。
 音楽に限らず、学問やアカデミックの世界には、往々にして「奇論・極論」で目立とう・注目されようとする輩が必ずいるものです。
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はは、80年前に面白いことを書く人もいるんですね、


たしかに理屈で言えば、「鍵盤が沈むときの角速度」が
決め手かも知れませんが、それは似せることは出来ますが、
まったく同じにすることは出来ますかね。
鍵盤を押すタイミング、スピードが同じく、離すタイミング、
スピードも同じ、強弱も寸分ともちがわずとも同じ、
一曲に何回も鍵盤を叩くわけですから5本の指の力加減、
間の取り方、体力の消耗による握力の低下、場面によって意識を
集中するタイミングや入り方、すべてに置いて寸分違わずに
出せたらその理論は正解でしょう。
ただ1音だけだすなら、今のエレクトロ技術なら出せると思いますよ。
タッチというのはそういうのをすべて引っくるめて表されるのでは。
80年前は画期的な理論であったでしょうが、今はその程度なら
コンピュータで出せますね。
あと一言で芸術を片付けていますが、昔の古典音楽を模写するクラシックも
新しい音楽を想像するポピュラーも両方とも今は細分化されていて、
その人が進みたい方向に進め、学びたい方向も選べます。
この作者が「どちらか選べない」という曖昧な態度なだけです。
または「どちらも対して好きではない」または「両方ともやっていない」とか。
どちらにせよ音楽に向かなかっのでしょう。
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