アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

 私は小学校の作文教育では、原稿用紙の使い方のほかには「思ったことを自由に書けばいいんだよ」としか指導された記憶がありません。

 今の小学校でもそうなのでしょうか。
 そうだとしたら、「自由に書けばいい」は教師の建前に過ぎないと考えてよいでしょうか。

 というのは数ヶ月前に、ある児童が『ごんぎつね』の読書感想文に「撃たれた狐は自業自得だ」と書いて叱られたという話を読み、疑問に思ったからです。「自由に書けばいい」のに、なぜ叱られるのか。

 本当に「自由に書けばいい」のならば、表現力や構成力、内容の独創性で作文を評価すべきだと私は思います。極端に言えば、たとえばいじめの加害経験や万引きの経験を書いても、日本語として良く書けていれば褒めるべきではないでしょうか。「国語」と「道徳」は違うのだから。

 そうではなくて、教師が暗黙に期待する内容を児童が察して、その通りに書くことを学校では期待されているのでしょうか。「感動した、反省した、ためになった、平和と人権の尊さを実感した」のような。

 保護者のかたは、お子様にはどのように指導されますか。たとえば

「自由に書けばいいだなんて、先生の建前に決まっているでしょ。お前も将来、仕事では建前ばかり書くことになるんだから、そのための練習になるの。ちゃんと、先生に期待されている内容で書きなさい」

とか。

A 回答 (11件中1~10件)

>そうではなくて、教師が暗黙に期待する内容を児童が察して、その通りに書くことを学校では期待されているのでしょうか。

「感動した、反省した、ためになった、平和と人権の尊さを実感した」のような。


多くの先生はそうだと思います。
1つの理由としては、教育(漠然としていますが)だからです。ある目標がないと、教育になりません。


学校で課題図書の「感想文」を書くことになった小学生が、

全然面白くなかった、自分は戦国時代の本が好きだ、本の作者の気持ちがわからない、

という趣旨のことを書いたのです。そうしたら、保護者が学校の担任に呼び出され、どういう躾をしているのか、と怒られたそうです。


だから、このケースでも先生は「この本を褒めてください、そういう感想文を書いてください」と指示すれば良かったのです。
そのほうが国語力は養えます。褒める、という条件の下で書くのですから、生徒の力(表現力)がわかりますし、そういう力が養成できるのです。


作文を書かせるなら、書くときの条件をはっきり子どもに与えることです。
条件を与えずに書かせてしまい、あとで文句を言う先生がいるとすれば、技量の不足した先生ということになります。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。

>だから、このケースでも先生は「この本を褒めてください、そういう感想文を書いてください」と指示すれば良かったのです。

 そうです、これは私もまったく同感です。
 あたかも私も「ごんぎつねは自業自得だ」と考えているかのような、国語力欠如のご回答を複数いただいてしまい閉口です。

お礼日時:2014/01/03 23:54

 自由なテーマで書けと言われた書けない子供も居るけどね。



 学年が低い場合は、文章の上手さなど考えて居ません。ただし、書かれた物が公になる事もありますので、好き勝手に悪口とか書くと駄目です。その場合、先生から保護者に連絡が。
 
 実際に自由に書かせることで、子どもの感情や悩みがわかったりもします。書くことのすばらしさ、伝え方の勉強などにも使われています。
 小学校の先生達と話す事も多いので、色々と話しを聞きますよ。自由に書かせることで子どもが伝えたいことが分かりますよと。これは多くの先生から聞かされています。絵でも作文でも。
 たまに先生との勝負みたいな文章もあるようですけどね。それが分かったときに子どもとの距離が縮まっている感じみたいですね。
 後は、その作文から子どもの悩み等保護者を通じて、先生と保護者と話し合って解決させるなども。

 私自身子供達が書く文章は楽しみです。 建前あたりは中学校や高校あたりから、身についてくるかな。それまでに親や先生とで随分と話し合っていますけどね。

 テーマを与えられると、自然と建前みたいな感じに成るよ。で、自由に書かせると違った方向性が出てきて面白いけどね。

 クラスをまとめ上げることが出来る先生はみんな作文を上手に使って居るみたいです。出来ない先生ほど子どもの心をつかめず、学級崩壊までにも成った事例もあったようですから。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。
でも、私の疑問にご回答をいただければ幸いです。

お礼日時:2014/01/03 23:47

http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/youry …

文科省の小学校学習指導要綱から、国語を上に引きました。
書くことはおろか読むことにおいてさえも、自由にという文言はありません。と一応確かめておきます。

作文に大まかなテーマしかない場合(家族、とか、大切なもの、とか、思い出、とか)、ピンポイントのテーマ(昨日の遠足で印象に残ったこと、というような)ほど書きやすくないでしょうから、
何をどう書いたらいいのかわからないという児童も多いであろうと思います。
というわけで、思ったことを自由に書きなさい、という先生がもしいるとすれば、
まあ、それは指導要綱の「書く」の項が求める指導ではなく、
力を抜いて楽な気持ちで書きなさいとか、うまく書こうとか評価をもらうとか他人の目を考えずに書きなさい、
といった程度の、書くことの気構えについての助言にちがいないのですが、
それで、酒乱のお父さんをいつか殺したいとか、鑑別所にいるお兄ちゃんに帰ってきてほしくないとか、自分は親を恨んでいるし弟をつねったり叩いたりしているなんて書いてあったとしても、
先生は内容そのものに口をはさむことはないと思われます。
経験を綴り、経験に裏打ちされた思いを綴ることが、たとえ拙い性質のものであっても、それを自由にさせないということはまずないでしょう。

ところで、読書感想文は、国語の指導要綱にも無い活動で、
どちらかというと図書関係からの要請のようなふしがあると思うのですが、
いってみれば、読書習慣を身につけるとか、
心の内を他人に伝えるとか、作者の感性や思念に乗っかって自分の成長をはかるとか、
何かと気色悪いような教育法と言っても過言ではないと思います。
しかしこの気色悪さも、親がやらずに小学校教員がやってくれるのは実はありがたい。
「ごんぎつねは自業自得」と児童が書いたのを読んで、
「業も得もその何たるかがわからないくせに、手垢のついた月並みな言い草でわかったようなことを書くんじゃない」と腹を立ててくれる教員などは、なかなかよいと思います。
東大の印哲でも出て小学校教員になったのかもしれません。

まあ何しろ、読書感想文は国語の指導要綱にありませんので、
先生にとっては国語では教えきれないものを伝える機会になるのでしょう。
何も伝える気のない先生もいれば、熱く伝えたいものがある先生もいて、
仰げば尊し出会いが有るか無いかの問題かもしれません。
「子供が自由に書いたからちょっと馬鹿なことを書いたにすぎないのに叱るなんて」などと考える親がいたら、きっと先生はがっかりしてしまうでしょう。

> 教師が暗黙に期待する内容を児童が察して、その通りに書くことを学校では期待されているのでしょうか。「感動した、反省した、ためになった、平和と人権の尊さを実感した」のような。

読書感想文に教師が期待する内容は無いと思います。建前があるとは思いません。
借り物の観念を並べたような作文も、形式的な図式に填めてうそぶく読書感想文も、その内容がたとえ陰であれ陽であれ、どちらも先生は読み手としてつまらないはずです。
そうではなくて、自分の経験にぐっと踏みとどまって内省した気配のある作文や読書感想文は、拙くともきっと先生も読んで打たれるものがある。
しかし子供というのは不幸や不遇でもないと、なかなか、経験らしい経験として経験を語るという凝集的な反芻作業ができません。
だから先生や審査員の胸を打つ作文や読書感想文というのは、不幸や不遇をテーマに据えた子供に偏りがちなものです。

というわけで、我が子にはせいぜい年齢相応の経験と自己洞察を積ませ、馬鹿なことや上面なことを書いたらすぐに叱ってもらって恥ずかしいとわかるように育ってもらいたいと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。
そもそも「自由に書きなさい」は学習指導要綱からの逸脱であり誤った指導なのですね。これは知りませんでした。

お礼日時:2014/01/03 23:49

 いろいろ考え直して補筆。



 もしかしたら質問者さんは子供に最大限の可能性を与えたいと思っているのかもしれません。だから与えられた「自由」を享受できないと言って、ご不満でいらっしゃる。しかしごんぎつねが死んで自業自得だと書いてはいけないのかという発想は、お子さんの教育に逆に悪いと思います。そんな自由は子供には荷が重すぎる。また親が「建前なんだから」と教える必要もないと思います。

 ごんきつねなどをよむ段階の子供には、一緒に読んであげて、「きつねさん、かわいそうだねえ」なんて言ってあげる方がよい。共感する力を育てられます。私がこのようにいうのは、実のところ、文学の全ては共感する力に基づいていると断言してもいいと思っているからです。破天荒な小説とか、ポルノまがいの小説とか、何を読んでも共感する力が必要なのです。共感できないと面白くも何ともない。また社会も共感でまわっているところが多分にあります。小学生は、共感の幅を育てる時期であって、これを欠損させてもよいことは何もありません。逆に子供の幅を小さくしてしてしまいます。

 だから仮に私が子供を、将来は国語の研究者にしようと思っていたとしても、破天荒な解釈はさせません。おまえ、それどこに根拠があるんだ? 無い? 何ページの年行目は読んだのか。読んでない? ふざけんじゃねえぞ。よく読んでいないのに、何が言えるんだ。みたいなことを言うと思います。批判する方法は大人になって学んでも遅くありません。コミュニケーション障害に陥ってるんじゃないかという指摘は、厳しい言葉ですけれども、真面目に受け止めた方がいいと思いますよ。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。
そのような粗野な言葉で指導してしまうのは、あなたの自信のなさと指導力のなさをあらわしているのではないでしょうか。

お礼日時:2014/01/04 00:12

No.7の補筆。



ぼくの回答は,「子供に自由に作文を書かせることによって,その知力や性格を判断する試験」の観点で書いています。問題のすりかえではあります。

この観点から,あなたの質問文から<あなたの性格>を判断すると,「理屈っぽく,社会的にいびつ」だとぼくは思いますね。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ありがとうございます。

私も<あなたの性格>を判断させていただきましたが申しません。
まあせいぜいレッテル貼りに勤しまれるように。

お礼日時:2014/01/04 00:10

「学校教育として」ではなく,「保護者のかたは、お子様にはどのように指導されますか」の立場で回答します。

つまり,自分の子供の作文を読んで「標準的な考え方とはちがうな」と感じたときに,その原因をどう考えるか,ということです。

1.国語力が不足しているのではないか。読書感想文なら,課題作品の表現が理解できなかったのではないか。たとえば,「黙ってうつむいた」とか「太陽が輝いていた」とかが,どういう心理状態を示すかわからなかった(字句どおりにしか理解できなかった)のではないか。

2.他人の心情を理解できない,コミュニケーション障害があるのではないか。あるいは,小動物を執拗にいじめるような,危険な性癖ないし精神障害があるのではないか。

3.親の言動が影響しているのではないか。たとえば,「手段はどうであれ,他人に勝ちさえすればいい」みたいなことを言って(やって)しまったことがないか。

4.子供自身も「標準ではない」と知りつつ,大人をからかっているのではないか。それにはかなりの知能が必要だが,すなおな性格とはいえない。性格をねじ曲げるようなことを,子供に対して行わなかったか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2014/01/04 00:08

一つ言える事は、教室での授業はオフィシャルな場ですので、ふさわしくない場合はある、ということです。


休み時間はニックネームで呼び合っていても、授業では必ず○○さん等、丁寧語で呼びかけることが基本です。

つまり、学校の教室、かつ授業という場にある限り、一定の縛りが存在するということです。
非道徳的な回答は指導対象になるということです。
また、小学生の場合、万引きの経験を書いたとして、内容は無視して書き方をほめても、内容をほめられたと勘違いする可能性もあります。その子どもさんが幼いタイプだったとしたら、なおさらです。


「自由というのは、一定のルールがある」(ルールを破ると、罰とともにより厳しいルールが課される。)
「何をやってもいいという訳ではない。」(法律や道徳など、決まりはある)
「自由には責任がついてくる」といったことを高学年では指導していくはずです。

自由=全てなんでもOK という勘違いを正すのは、教育課程ではよくある話のはずです。


もっとも、ごんぎつねが自業自得という程度がルール破りに値するとはあまり思わないのですが、ひょっとしたら、その内容で喧々諤々議論を尽くした授業を行った後での作文だとしたら、「授業の内容をまったく理解していない」
という視点で強く指導した(=叱られたと勘違いした)というケースが考えられなくも無いでしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。

ご回答には半分だけ同感です。

この場合、児童は教師から「作文で守るべきルール」を与えられていません。「このように書きなさい」「このように書いてはいけません」のような。

よって、ルール違反には当たらないというのが私の考えです。

それとも、わざわざ言われなくても子供でも空気を読めよ、空気がルールだ常識だ、ということでしょうか。

お礼日時:2014/01/04 00:05

 保護者ではありませんが、通りがかりの文学研究者です。



 『読書感想文』とは作者の言いたいことを汲んであげないとならないところがあります。全く趣旨を外れて読んだということに、不真面目さが感じられたのではないでしょうか。実際、小学生の作文(長くて二千字)で作者の意図に対し、見事に反論できると思いますか。無理だと私は思いますが。さらに文体だとか構成の指導は小学校ではやれません(ものすごく腕のいい教員ならできるかもしれませんが)。大学に入ってからというところがあります。

 しかしこれは逃げの手でしょうか。仮に『最近見た美しいもの』というような課題が出て、隣の女の子の胸が気になると書いた作文があったら、これはこれで先生は不安に思うことでしょうね。あるいは性についての悩みを取り上げる作文をやったら、これも大問題になるでしょう。これは高校であっても同じことだそうです。どこかの作家が、高校の作文で夏目漱石の性の懊悩について作文したら、国語の先生にものすごい剣幕で怒られたと書いていました。しかしこれぞ漱石の問題の一つだったので、怒られるのは筋違いでしょう。

 作文を通じて、思想を統制していると言えば大袈裟ですが、道徳を刷り込んでいることは事実であるようです。これは教師が期待することというより、世間一般が期待することでもあるでしょう。教師も人間ですから、本音では性に興味もあれば、ゴンギツネもバカだよなあと思ったりもするでしょう。かといって小学生から自由にやらせるべきでしょうか。そうは思いませんね。大人になって分別がついてからやったのでも、そう遅くはないと思いますよ。

 国語教育の歴史を振り返ると、作文で「自由に」という意味は、書き言葉ではなく、話し言葉で書いてよいという意味だと思います。しかし今だと候文など誰も使わないから、改めて「自由に」と言われる筋合いなどないのでしょうけれども。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。

>「自由に」という意味は、書き言葉ではなく、話し言葉で書いてよいという意味だ

そうだったのですか!! これは意外な事実が判明しました。もし本当にそうであれば納得です。

お礼日時:2014/01/03 23:58

作文で、「自由に書いてよし」ということであれば、「自分の頭に浮かんだことを、文字を通してどのように表現するのか」が問われるべきだと思います。



「誰かを殺してやりたい」という思いを、理路整然と誤字もなく記述できていれば、作文としては花丸でしょう。
ただし、別の意味で「それは法律に触れることなんだよ」ということです。

反社会的であろうと非常識的であろうと、自分の意思表明に文字を使うということであれば、正しく使えなければ相手には伝えられません。
そのための指導が作文教育だと思います。

つまり「文字として表現するための決め事や技法」のみが教育的な視点となるでしょう。

そうでないとするならば、当初の意図も明確にしておかなければ「自由に」の意味がありません。

もし、現在の作文指導の指導要綱がごちゃ混ぜになっているのだとしたら、教師もそれに従うことになりますので、保護者の側がそのあたりを切り分けて考えるしかないのでしょうね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2014/01/03 23:51

建前と言えば、そのとおりでしょうけれど、それが社会の慣わしでもあるので、ある種の社会勉強だとも思っています。



つまり、学校でも社会でもそうですが、規制を設けると、相手は文句を言うか、諦めるかします。それでは困るので、「自由に書いて/言って」と皆さん、おっしゃいます。その時点では本気でおっしゃっている人も少なくないでしょう。

ところが、書き手や話し手というものは、突拍子もないことを主張したりするものです。こと、世代が違えば、新しい価値観があって当然なので、古い世代は度肝を抜かれるばかりです。そこで、慌てて「あ、いや、これは、ちょっとマズいなあ」と指導することになるわけです。

>保護者のかたは、お子様にはどのように指導されますか。

私は基本的には、「自分が本気で思ったことを書くといいよ。でも、相手に通じる書き方をしないと伝わるものも伝わらないね」というスタンスで指導してきたつもりです。

実際、私は、かなり破天荒な主張を、うまく組み立てて、小論文入試に合格し、赤入れされながらも破天荒な卒論を書いて卒業し、あれから約30年経った今、やはり、破天荒な主張を、あの手この手で文章にすることで、お金をいただいています。

また、子供が一時期、“相手よりも自分のことで精一杯”という感じの時期があり、その時には私から先生に頭を下げて、「わが子が書いたこの手紙は、あまりに失礼で送り先に渡せないと思いますが、これが今のわが子の精一杯の思いなので、どうか先生は評価してやってください」と言ったこともあります。

いずれにしても、「主張したい中身」と「文章表現」は別物ですよね。ちなみに、小学校レベルだと、これをわかっていない先生方も少なくないように感じます。

その『ごんぎつね』の先生、何を理由にどう叱ったのかは知りませんが、その主張が伝わりやすい書き方を指導すればよかったのかもしれませんね。ただ、今は、総合的な学習に重きを置く時代ですから、単なる国語力を問うだけの授業ではなく、作文をもとに、道徳を問う側面もあったのかもしれませんが。まあ、道徳の教え方にも疑問を感じますが、それはまたの機会に。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2014/01/03 23:45

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!