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落語に武士が出場する演目があります。
井戸の茶碗のように、武士を好意的に描き、武士の心意気を賛美している(演出方法により、これとは異なるのもありますが)演目もあります。
しかし、落語という笑いを求める・与える演芸の性格のため、人間の愚かさを描くことが多いです。そのため、武士の愚かさを描いたり、愚弄しているものもあります。例えば、たがや・巌流島・三軒長屋・棒鱈などが、これに該当します。

武士の出てる落語は、江戸時代に演じられていたのでしょうか? 町内内にあるこじんまりとした寄席のなかで、町人同志が、武士に隠れて彼らの愚かな行いを楽しむことがあったのでしょうか?
あるいは、明治時代になり、武士が消滅して初めて、遠慮することなく大ぴらに、武士の出てる落語を演じることができる、ようになってきたのでしょうか?

A 回答 (5件)

小生、落語大好き男です。


ひとことで言えば演じられていました。とは言っても演目は選ばれたでしょうし演出も現在とは違っていたとは思います。
寄席では、例えば目の悪い人が来ると盲人を扱った噺はしないといった配慮をしますから武士が来るとその類の噺はしないということもあったかもしれません。
netを捜してみたところ演じられていたことがほぼ確実なものがいくつかありました。
「将棋の殿様」は初代可楽が将軍家斉の前で演じたことがあるんだそうです。「たがや」は首が飛ぶのがたがやの方だったそうですが江戸時代から高座にかけられていました。「火焔太鼓」や「宿屋の仇討ち」も江戸時代から。
三遊亭円朝は多くの怪談噺を作っていますが「真景累ヶ淵」は安政6年の作。「牡丹灯籠」は文久頃にはほぼ完成していたといいます。前者は旗本が医者を殺したことが噺の発端だし、後者は旗本飯島平左衛門(幽霊になって出て来るお露さんの父)にまつわる敵討ちの噺です。
他にも「首提灯」「粗忽の使者」「やかんなめ」などはいつから演じられていたか不明ですが、原話が古い笑話本にあるとのことなので古くから演じられていたと思われます。

「首提灯」の侍はとことん我慢しますね。しかしこと主君に及ぶと激怒してチャリーン。思うに自藩に無関係の侍なら笑いの対象にしていたのではないでしょうか。「当家にあんなバカはいない」とね。
バカな侍といっても少々個性が強すぎるだけで聴衆を不快にさせるようなのは出てきません。その間抜けぶりにも親しみが持てるしカワイイ。たぶん武士が聞いても腹を立てることはなかったでしょうが「井戸の茶碗」や「柳田格之進」に登場する高潔な武士には耳が痛かったかもしれません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
演目や演出をえらんで、
<ひとことで言えば演じられていました。>
ということですね。たがやも、
<戸時代から高座にかけられていました。>
ですね。首提灯も、武士は
<自藩に無関係の侍なら笑いの対象にしていたのではないでしょうか。>
綿密に調べていただき、感謝します。

お礼日時:2013/08/03 12:18

ちょうど、適切な文献がありますので、紹介します。

柏木新著『落語の歴史-江戸・東京を舞台に』(本の泉社発行)に、「たがや」に関して次のような記述があります。

「たがや」の筋の変化
江戸時代の落語の現存している「ネタ帳」から見てみましたが、そこにも紹介した「たがや」という落語は、最初の頃に演じた噺と現在の筋は最後の方が違っています。江戸時代の途中で変わってしまったのです。
両国橋を舞台にした噺
(この項目は現在伝わっている「たがや」の筋を書いているので省略)
たがやの首が飛ばされていた
ところがこの噺がつくられた頃は、その逆で、たがやが首を切られ、たがやの首が宙天に上がり、見ていた見物客が、涙の嘆声で「たァがやァ」と掛声をあげるものになっていました。
その筋が変わったのは、ペリーがやってきて日本が開国した次の年の一八五五(安政二)年十月二日四ツ時(午後十時)頃に関東南部を襲った大地震(安政江戸大地震)以降なのです。この地震は、マグニチュード六・九でしたが、直下型なので江戸の町に大被害をもたらしました。この地震での死者は約四千七百人、倒壊した家屋は一万六千、倒壊した土蔵は千四百余りといわれています。
崩壊した家などを建てなおすために、職人が大繁盛し、手間賃が四,五倍にはね上がり職人の懐具合がよくなったのです。仕事を終えた職人たちは遊郭、芝居、寄席へと遊びにでかけました。寄席に職人の客が増えたため、職人の首を飛ばしてばかりにはゆかなくなり、職人の首でなく、武士の首を飛ばすようにしたのです。
(以下、玉屋・鍵屋の話なので省略)
武士と町人
江戸の町は十八世紀初頭には百万人を超えたといわれています。記録に残っているのは町人の方で、六十万人近くいました。残りの多くは武士で、江戸は町人と武士の町だったのです。
江戸時代につくられた噺は、「たがや」のように町人と武士が多く登場しています。実社会では、士農工商といわれる厳しい身分制度があったのですが、噺では、その実態を反映しつつも、少し様子が違ってくるのです。
「首提灯」の噺
実際の世界では、武士がえばっていましたが、落語ではその武士に町人が啖呵をきったり、悪態をついて日ごろの実社会でのうっぷんを晴らしています。
「たがや」では、最初平謝りだったたが屋が一転して啖呵をきりましたが、「首提灯」では、道を聞かれた武士を、田舎侍と見た町人の酔っぱらいが悪態をつき、タンまで吐きかけます。武士は、堪忍袋の緒を切ってスパーッと町人の首をはねます。あまりの見事さに、町人は首を斬られたのに気がつかないで歩きだします。
そのうち首が左に回りだし、斬られたことに気がつきます。とたんに火事騒ぎ。首を落とすといけないと、自分の首を提灯に見立てて、「はい、ごめんよ」。
この噺の舞台は、当時、試し切り、追剥などがよくでた芝山内(港区の増上寺の境内=現芝公園)です。幕府が辻斬りなどを厳しく戒めたため、武士がおとなしくなったので、国侍(田舎侍)と見るとからかう町人がでた時代背景のもとでつくられた噺です。
「粗忽の使者」
全体としては武士をからかっている噺が多いのですが、噺の中では、町人が困っている武士を助ける面白いものもあります。「粗忽の使者」です。
(以下、「粗忽の使者」の粗筋なので省略)
江戸の寄席で腹の底から笑っている職人さんの姿が目に浮かびます。

引用は以上ですが、古典落語は江戸時代につくられたものが多くあって、その中には武士が登場することが多いのはご存じのとおりですが、私もそのままの形で江戸時代に演じられたかどうかは確証をもてなかったのですが、上記の本で納得できた次第です。しかし、江戸時代には落語より人気も影響もあった歌舞伎には、幡随院長兵衛のように、旗本奴の白柄組に男伊達を張り、その横紙破りに対抗する芝居が演じられている例もあります。長兵衛はヒーローで、水野十郎衛門をはじめとする白柄組は敵役の設定であり、特に水野十郎衛門は切腹させられたとはいえ、家康の生母の弟の曾孫という血統ですから、これを敵役にしているのですから。その他にも落首・狂歌などは為政者を批判する作品も多く存在します。士農工商という身分差別という建前と、金の前に追い詰められ、無粋で、教養もない武士の現実の姿との乖離に、笑や蔑み、もっと言えば文学性や芸術性が存在するのではないでしょうか。
また、歌舞伎の忠臣蔵のように時代設定を江戸から室町に、人物を浅野から塩谷判官に変えるなどで追及を逃れたり(浮世絵などもこの手法は多い)、落首・狂歌のように匿名の中に身を置いたり、上に法・規制があれば、下に対策ありだったのではと思います。落語なども、よりアングラ性が高いものもあったようにも思います。

為政者批判の落首・狂歌の例
年号は安く永しと変はれども 諸式高直いまにめいわ九
世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといふて夜るもねむれず

紀州
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%B7%9E_ …
宿屋の仇討
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%BF%E5%B1%8B% …
禁酒番屋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E9%85%92% …
二番煎じ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E7%95%AA% …

幡随長兵衛(外題の初演が、寛政・天明)
http://www.weblio.jp/content/%E5%B9%A1%E9%9A%8F% …

以上、まとまりませんが参考まで。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
時代を反映して
<「たがや」の筋の変化>
が、すなわち正反対の方向への変化が、起きているのですね。
江戸時代でも、町人は、武士の登場している噺を楽しんでいたかもしれないのですね。
ただし、下記のようなことがあるのですね。
1・落語は、歌舞伎などよりも
<アングラ性が高いもの>
である。すなわち、少数の聞き手と目立たない場所で演じる。
2・武士をからかい(為政者批判)溜飲を下げる場合でも、より穏やかな筋にしておく。

お礼日時:2013/07/31 10:55

うーん、私が落語史に詳しい噺家筋から聞いた話と自称歴史作家さんの話では見解が違いますね。

私が直接調べた話ではないのですけれども。

私が聞いた話では、「やってましたよ。落語で揶揄される武士は田舎侍でしょ」ということでした。落語に登場する侍はだいたいが「さる大名家のお侍」です。当時は武士階級で統一された階級意識があったわけではなく(武士は武士、という部分はありましたが)、幕府の役人は役人。大名家のお侍は大名家のお侍。という意識が一般的でした。
分かりやすくいえば、ペリーが来航したとき各家に沿岸防備が命じられましたが、統一された命令系統はありませんでした。もし戦うとなったら、各大名が勝手に戦うことになっていましたし、うっかりヨソの家の陣をウロウロしたらスパイとされて殺されかねませんでした。つまりある意味大名というのは半独立国家だったんですね。
だから、アメリカ国内でカナダを揶揄するみたいな部分もあったのではないかと思います。

人様の回答にけちをつけるのは禁止事項なんですが、当時の江戸っ子は田村意次の失脚をあからさまに揶揄していたりして、確かに田沼は失脚したので武士側も大目に見ていた事情はあったとは思うのですがね。
江戸時代というのは現代に比べてはるかに「情」が通じるというか、悪くいえば情でなんとでもなっちゃうところがありましてね、それに武士といっても上級武士から下級武士、浪人とかなり幅広くて単純に武士階級とひとくくりにできないんです。
寛政の改革のとき、有名な「世の中にかほどうるさきものはなしぶんぶといひて夜もねられず」という狂歌が流行ったのですが、分からない人のために説明すると、表向きの意味は「世の中で蚊ほどうるさいものはない。ブンブと飛んで夜も寝られない」ですが、裏の意味は「世の中で文武、文武(松平定信は文武両道の奨励に大変熱心でした)とうるさくて寝れねえよ」というもので、この作者として目を付けられたのが大田南畝です。一応、この狂歌は作者不明ということになっています。
で、この大田南畝さん、一応武士なんですよ。武士なんだけどこんな狂歌を残した、かもしれない。というか、当時の偉い武士から「アイツならこういう歌を作りかねない」と思われたんだから、大田さんは武士でありながらどんだけ反骨なんだってことですよね。武士が武士を揶揄したってのはいくらなんでも大問題です。
この問題もあったりして大田南畝は大阪に飛ばされるのですが、むしろ反骨とお笑いの町大阪人の気質と合ったのか、幕府の目が緩んだせいもあり、大田南畝は大阪時代の方がのびのびと活動しています。

また大塩平八郎の乱のとき、砲声に驚いて落馬した武士を揶揄して「大阪天満の真ん中で、馬から逆さに落ちたとさ。こんな弱い武士見たことない」という手毬歌が流行ったといいますが、かなり痛烈な皮肉です。実際に落馬しちゃって恥ずかしいのと、「まーまー、子供の手毬歌ですから」という言い訳でそれ以上いえませんでしたからね。

江戸時代に対してはものすごい誤解が多いのですよ。その典型的な例がいわゆる「無礼打ち」で、武士は町人や農民を無礼打ちできることになっていましたが、判例で無礼打ちをした武士は切腹させられることになっていたのです。これ、歌舞伎にもなった幡随院長兵衛の件が先例となったのですけどね。だから、武士側も斬るなら斬るで自分も切腹を命じられる覚悟でやらなきゃいけなかったのです。
歌舞伎で「め組の喧嘩」というのがあります。町火消しと力士の喧嘩の話なんですが、当時の力士ってのは大名がパトロンになって抱えられていたんです。め組の喧嘩には元ネタになった実話があるのですが、つまり町火消しと力士の喧嘩ってのは、町人対武士の代理戦争みたいな側面もあったのです。でも江戸時代を通じて庶民階級(町人、農民)が特権階級(武士)を倒す革命運動が起きることがなかった江戸時代七不思議のひとつですね。ある種の革命運動だった大塩平八郎の乱にしても、大塩平八郎は他ならぬ武士だし。
江戸時代の幕府側の弾圧と、町民側の反骨のせめぎ合いって、かなり面白いです。落ち着いてみると、幕府側の禁止なんかも、明らかに世間が暴走しているので「お前ら、ええ加減にせえよ」って意味では一理あるんです。バブルにならないような経済対策という側面もありますしね。幕府にとってインフレが一番困る、なんて話をすると際限がなくなるので、この辺りで。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
<やってましたよ。落語で揶揄される武士は田舎侍でしょ。>
ですね。武士といっても、一枚岩ではなっかたのですね。
そして、江戸時代は、揶揄が大きな位置を示していた、のですね。。(狂歌が流行ったことは、私でも知っています)
情も大切なものでした、のですね。
それ以外にも。江戸時代の各種の雰囲気を伝えて頂きまして、納得させられろことが多かったす。良く分かりました。
<バブルにならないような経済対策という側面もありますしね。>
単なる堅苦しい統制ではないのですね。

お礼日時:2013/07/29 19:40

落語と言うのは少しタブーを犯しそうになる部分に


スリリングな面白さがありますから
あまりに武士の権威がなくなっていては面白くない。

つまり権威のある武士が堅苦しくお馬鹿なことをするから
可笑しいのです。現実に権威を失ってしまった武士階級を
からかってもつまらないでしょう。

かといってお上の権威が強すぎて武士を馬鹿にすることが
危険でありすぎては演じるのをためらってしまいます。

天保から幕末にかけてが丁度そういう時代だったように思います。

話は変わりますが、江戸時代の上方では金額を表すのに
銀何匁という言い方をしていたのですが
幕末に近く(19世紀後半)になるとそれが何両何分に変わります。

今も残る上方落語に出てくる貨幣表現を聞いていると
上方落語なのに銀何匁と言う表現がほとんどないんですね。

もし途中で表現が変わったのでなければ明らかに幕末以降に
できた噺のようです。

かといって明治でもないんですね。小銭を表現するときは
4の倍数なんです。江戸時代後半、特に19世紀には四文銭が
大量に流通しましたから、物の価格は蕎麦が16文というように
4の倍数が多かったんです。明治にはそれはありません。

蕎麦くらいならわかりますが焼き芋みたいなものでも普通は4文、
大盤振る舞いで8文といった表現は江戸時代ならではと思います。

そう言う訳ですから武士を小馬鹿にした落語をはじめ主な噺は
江戸時代末期にでき、江戸末期には演じられていたように思います。

次に庶民が隠れてそういう噺を聞いていたのかということですが
元々武士階級が落語のようなものを聞きに来ることは滅多に
なかったと聞いています。

また武士は武士なりの格好をしていますから直ぐわかります。
不都合と思えばネタを変えれば良いだけのことです。

ネタもある程度武士に遠慮していたようで「たがや」も
もともとは武士の首ではなくタガ屋の首が飛んで「たがや~」と
声がかかったそうです。

まあワザワザ寄席ではない町屋で隠れて噺を聞くほど
警戒することはなかったでしょう。

第一、江戸時代の寄席は今のように大きなものではなく
大変こじんまりしたものだったようです。
いいところ20人ぐらいの客席だったと聞きました。
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この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございました。
<つまり権威のある武士が堅苦しくお馬鹿なことをするから
可笑しいのです。>
ですよね。演じられ始めたのは、武士に遠慮しつつも、楽しむことができるため、
<天保から幕末にかけてが丁度そういう時代だったように思います。>
ですね。銭についての、考察も興味がありました。時蕎麦では、わざわざ小銭で15文を集めて、持ってゆくのですね。

お礼日時:2013/07/28 12:41

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>武士の出てる落語は、江戸時代に演じられていたのでしょうか?

回答から先に述べますと、演じられたかと言うと・・・皆無です。

江戸時代では、ご存じの通り「士農工商」の身分制度が厳格で、武士や武家、将軍家などを題材としたものは絶対的に禁止されていました。

ですから、「瓦版」なども「心中もの」とか「火事」だとかの無難な題材しか報道を許されませんでした。
しかし、たまには「武士」を揶揄した瓦版もありましたが、「仇討」などを題材とし、特定の人物名を記すことは禁止されていました。
また、仇討などの題材でも内容によっては捕縛されましたので、瓦版の作者は名を隠し、瓦版屋も捕縛されても一切作者名を口にすることはありませんでした。つまりは、作者と瓦版屋との間に信頼関係が成り立っていたからです。

落語に関しても、「ネタ」はありました。
しかし、演じることは厳禁でした。

(よもやま話)

大名(武家)もの

大名、武士が題材になる噺。でてくる武士は大名(殿様)、奉行、藩の重役、平侍、浪人などで、いずれも町人側から見た侍たちが描かれる。
士農工商の時代にあって、身分的には支配階級としての武士が幅を利かせていたが、経済的な面では工商が優位にたち、武士に比べて自由な生活をしていた。そんな町人からは侍の世界は堅苦しく、融通の利かないものに見えました。
なかでも地方から出てきて江戸屋敷に詰める田舎侍たちは野暮の典型であり、江戸っ子たちの相容れない対象だったと思われる。
しかし、二本差しの侍は町人にとっては怖い存在で、それに逆らわないようにしながら、そういった野暮侍を揶揄するような噺も多い。

【目黒のさんま】、【火焔太鼓】、【たがや】、【蔵前駕篭】、【禁酒番屋】、【二番煎じ】、【石返し】、【巌流島】、【盃の殿様】、【将棋の殿様】、【そばの殿様】、【妾馬】、【花見の仇討ち】、【高田馬場】、【棒だら】などなど。

以上のような演目がありましたが、江戸時代も後期・・・と言うよりも、ほぼ幕府が解体される時代から明治にかけて、やっと、庶民の間で、コソコソと披露されるようになりました。

ただ、江戸時代は落語よりも軍記ものの講談が幅をきかせており、上記の題材も幾つかは講談からヒントを得たものでした。
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この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございました。
<武士や武家、将軍家などを題材としたものは絶対的に禁止されていました。>
ですね。したがって
<ほぼ幕府が解体される時代から明治にかけて、やっと、庶民の間で、コソコソと披露されるようになりました。>
ですね。町人にとって、武士特に野暮侍は笑いの恰好の対象だったでしょうに、レパートリーが狭かったのですね。

お礼日時:2013/07/28 11:42

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