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魏志倭人伝等の歴史書に出てくる倭国の各国々の名前について

各歴史書をトータルすると、建武中元2年(57年)に「漢委奴国王」という金印を授けたという記載に始まって、それ以降、だいたい2~3世紀頃までの倭は数十の小さい国が並立していて、大乱状態だったのを、邪馬台国の卑弥呼をトップに置いてとりあえず一度乱を収拾したのだということでした。また、その死後再び乱れると卑弥呼の後継者を立てたという流れだと理解しています。

各歴史書とは「漢書」以降は、当時のことが書いてあるのが順に「魏書」(3c.半ば)・「魏略」(3c.後期)・「魏志倭人伝(三国志)」(285年)・「後漢書」(422年)→(カッコ内は書かれた年)となるわけですが、書いた人物は当然異なり、時代も、立場も全て異なり、目にした書類は違っても(新旧はあっても)その大もとになった記録書は全て漢の時代に帯方郡の役人が提出した書類ではないでしょうか?

そこで各歴史書で、邪馬台国をはじめ、倭の各国々の名前、人名が出てくるわけですが、それらは漢の時代に、まだ文字を持っていなかった倭人が呼んでいる名前を帯方郡にいた漢の役人が当時の漢字の読み方に「当て字」をして王朝の方に報告したのがそのまま記録として残ったのだと思います。
とすると、その「漢(後漢)の時代の漢字の読み方(上古音?)をはめれば、当時の倭人が国名や人名をどう呼んでいたかが分かると思うのですが。いかがでしょうか?」
これがお聞きしたい質問内容です。


(補足)
ただ、誤解していただきたくないのが、「●●」という文字は○○と読んだのだから、この「●●という名の国はここだ」と決めたりはできないということです。
まずそこの地名の呼び方自体が変わっていったであろうし、また、漢字の日本での読み方も変わっていっただろうし、「音訓」の読み方がある程度定まってくると、どうしても以前の漢字ではその名前は発音をできず、呼び名を変えるか、漢字を変えるしかなかったというのがほとんどだったと思うのです。
例えばどんな説の方も違わないのが、対海国=(対馬国)、壱大国=(壱岐国)だと思うのですが、当時倭人が「○○」と対馬の国を呼んでいた。そうすると役人が「○○」に「対海」と当て字をした。それから倭人も漢字を使いはじめていくのですが、倭人サイドも中国ほどではないにしても発音や漢字の読み方が変わっていき、場合によっては漢字の表示はそのままで無理やりその漢字をそう読むようになってしまう場合もあったのではないでしょうか。だから「対馬」を「つしま」と読むようになった。現在の普通の日本語なら「ついま」「ついば」とか「たいうま」とかしか読めないし。
まあ、いずれにしてもこの2国は場所がはっきりしていて、なおかつ現在の地名にも1文字が残っているから誰も違うと思わないし、読みが現在の日本語と違っていても変だと思わないんですよね。多分、稀有な例だと思います。

だらだらと質問してすみません。
上古音の読み方がわかる方、また合わせて日本の奈良時代の漢字の読み方(風土記や万葉集)がわかる方、是非カタカナで当時どう読んだか教えてください。
宜しくお願いします。

A 回答 (2件)

はじめまして。

私も5年ほど前に興味を持ち、色々と調べたことがあったので、分かる範囲で回答しようと思います。まず質問の直接の回答から。各國の読み

主要国(今書いたので、間違いかもしれない。日本語の変遷には考慮してない(後述))

對馬國  ツイマ
一大國  イタ
末廬國  マツロ
伊都國  イト
奴國   ナ
不彌國  フミ
投馬國  ヅマ?トウマ?
邪馬臺國 ヤマト?

非主要国、昔書いた資料から引っ張ったもの(私がつくったもので、間違いがあるかもしれない)
2行目は元の音、3行目は現在の変遷した音

斯馬國   シマ國    シマ
已百支國  ディパキ國  ディハキ(イワキ)
伊邪國   イヤ國   イヤ
都支國   タキ國   トキ
彌奴國   ミナ國   ミノ
好古都國  ホカタ國   オカタ
不呼國   プホ國   フオ
姐奴國   ツァナ國   サナ
對蘇國   ツサ國   ツサ
蘇奴國   サナ國   サナ
呼邑國   ホイ國   オイ
華奴蘇奴國 ファノソノ國 カノソノ
鬼國    キ國   キ
爲吾國   ウィガ國   イガ
鬼奴國   キナ國   キナ
邪馬國   ヤマ國   ヤマ
躬臣國   キョシ國 クシ
巴利國   パリ國   ハリ
支惟國   キジ國   キジ
烏奴國   ヲナ國   オナ
奴國    ナ國   ナ

上古音については、こちらを参考にさせて貰いました(5年前も)。発音記号を私が読めないので、細かい違いもあると思います。
http://www.dai3gen.net/gishi01.htm
このサイトを読んでもらえれば分かると思いますが、上古音については分かっていないものも多いらしく(というか、ほとんど分かってないらしい?)、一覧の音も推定が多かったのではなかったかな?それでもかなり深く調べてあり信頼できると思います。
このサイト、全部読めば日本語についてかなり詳しくなれるのですが、分量もかなり多いです。まぁ卑弥呼の読みくらいは読んでおいて損はないです。

さらにその上古音の音が今の日本語でどのように変わっているのか、ということと、その当時の日本語の音が現在の音にどう変わっているかという、日本語の変遷も考慮に入れないと、現在の地名との対応は出来ませんので注意してください(非主要国の3つ目(一番右)が、今の読み(推定)です)。
(日本語の変遷とは、カパ→カファ→カハ→カワ(川)といったものです。カパという音から川を想像するのは難しいです。)

主要国の対応は以下と考えられています

對馬國 対馬
一大國 壱岐
末廬國 松浦(唐津市)
伊都國 怡土(前原)
奴國  那(福岡)
不彌國 宇美町

「つしま」に付いては、日本語つしま(ついのしま、が語源?)が先ずあり、これに対して中国人が對海(對馬の書き間違い、または名が変わって對馬)と(つしまと無関係に)名付け、その漢字を日本人が受け入れて対馬島(つしま)もしくは対馬(つしま)となった、という話を読んだような気がします。
一大は一支の書き間違いの可能性が高かったと思います。

以下余談。
私が魏志倭人伝を読むとき、下記のサイトをよく参考にさせてもらっていました。
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/wajin. …

「舊百餘國~今使譯所通三十國」は、「昔は100國、今通じてるのが30國」で、100國が30國になった訳ではないとも読めるのに注意。30國は卑弥呼女王に従う国々の事と考えられている。また狗奴國との対立も書かれているので、収まったと言えるかどうかも微妙です。卑弥呼→臺與の間にも多くの人が殺されたことが書かれているが、上記30國内部での話であり、倭全体のことではない。

これはまだ私しか言っていないので、そのような意見を押し付けるのはどうかと思われる(人もいる)かもしれないが、参考までに書いておくと、2度目の魏の使いである張政が倭に来たときには、すでに卑弥呼は死んでおり内戦も終わっており、すでに臺與が女王となっていた(というか正始八年(247年)に使いを送ったのが、そもそも(卑弥呼ではなくて)臺與)なので、内戦のようなものでどれくらいの人が死んだのか張政も伝聞でしか知らない、とったところでしょう。
(一応書いておくと、一般的には、正始八年に卑弥呼が使いを送り、張政が倭に来たあとに、卑弥呼が死んで一連の流れの後に臺與が女王になった、と言われています)


また何か分からないことがあれば聞いてください。若い人が興味を持ってくれるのは嬉しいところです。
私の考えも、そろそろ何かにまとめて書いておくべきだろうとは思っているのですが、なかなか。
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この回答へのお礼

早速詳しい回答ありがとうございます。
やはり当時の中国語でどう読んだのかというのは、大変難しいですね。それをここまで勉強していらっしゃるとは、さすがです。
自分も昔、一時は「邪馬台国」はどこにあったか?という話題に惹かれ、何人もの方の本(学説から小説風のものまで)を読んでいたのですが、皆、自分が信じた(或いは出会った)学説、資料、風景や人物にこだわってそれ一筋に証明を行っていて、素人が読むと、その際には「なるほど」と思うのですが、別の話を読むとまた同様の感想。という事で終わってしまっていました。
それが、約3年前、たまたま来日したばかりの中国人留学生と話す機会があって、「邪馬台」は現在の中国語では「フェマータイ(?)」的な発音だと聞いたのです。そして漢の時代には全く違う発音だったということも周囲の人に聞き、では当時あの当て字群はなんて読んだのだろうと興味を持ったのがそもそもの初めでした。当時文字を持っていなかった倭人の発音に漢人が当て字をしたわけですから。

しかし、昔の発音「音韻学」というのは思ったよりも難解のようで例えば図書館にもほとんど本はないし(あってもやたら難しくよく分からない)、ネットでも上手く調べきれていないのが現状です。(まあ、熱心にではなく思いついた時に調べて挫折というのがいつものことなのですが。)
また、日本語の発音もどうだったかというのは、8世紀以降の、日本人による当て字(カナ文字ができる前)を最大限に研究しているようですが、中世までは8母音だったり、現在でも地方によって子音の発音が違ったり。さらにそれより500年以上前の発音となると難しいのでしょうね。

とにかく、こんな素人の質問に丁寧に回答いただきありがとうございました。
教えていただいたサイト等も参考に勉強してみたいと思います。
ただ、最後に一言。残念ながら私は全く若くありません。いわゆる中年(もうすぐ高年)です…。すみませんです。

お礼日時:2013/08/19 12:17

1番の回答はさすがです





ちなみに私は「邪馬台国」は「大和国」を魏の人が聞き間違ったか あるいは大和をそう呼んでいたか だと思っています
したがって九州に上陸した魏の人たちは 大和へ向かったのではないかと思われます
200数十年後に政権が大和に誕生したことを考えれば自然な流れです


全然関係ない回答ですみません
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この回答へのお礼

いえいえ、早速こんな素人の質問に回答いただきありがとうございます。
しかも美人歴女(歴女美人?美歴女?)だし!!

ただ一言言わせて頂ければ、はっきりしているのは、当時日本人は文字(漢字)を使用していませんでしたから「大和」国はなくて、「●●●」(ya-ma-to?)と自称していた国が「倭」のどこかにあって、それに漢人が「邪馬台」という字を当てたのだろう。ということだけです。
もちろん「纏向」・「柳本」等の天理市・桜井市の遺跡群の国々はあったのですが、あのあたりや奈良盆地全体をいつから「やまと」と呼ぶようになったかは定かではありませんし、そこにいつから「大和」という字を当てるようになったかも定かではありません。

ちなみに8世紀に書かれた「日本書紀」ではそれまで宮内の大殿に祀られていた「倭大国魂神(現・日本大国魂神)」を、崇神天皇7年に現在の桜井市に祀ったのが「大和神社」(おおやまとじんじゃ)のはじまりとされています。
また、3世紀以降のどこかで「やまと家・族」の人々がどこかから現在の天理市・桜井市のあたりにやってきた可能性もあり、その際に「大倭」(つまり倭人の中で最強の一族)と自称したという可能性もあるわけです。

(ちなみに現在も大和ではなく「大倭神社」という文字の神社はさいたま市にありますが(w。)

最近自分は「歴史的真実」というよりは、事実・はっきり分かる事だけに集中しようかなあと思っています(だから邪馬台国がどこにあったかは現在の資料では判別不能。というのが私の結論です。)ので、こんなお礼ですみません。あしからず。です。

お礼日時:2013/08/19 13:23

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