アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

私はよくインターネット等で天智天皇は百済の王子の翹岐王だったとか
蘇我氏は名前が渡来系っぽいから百済人や藤原鎌足は豊璋だとか言っている人を見ます
そこで疑問があります。

まず、いくら王子だからとはいえ日本の属国であった百済の人間が
まして国外追放されて亡命してきた翹岐王や人質としてやって来た豊璋のような人間たちが
頑張ったとしても、朝献をする国の外国人が日本のトップである天皇や
その側近に成れるものなんでしょうか?
名前を隠して入れ替わろうにも周りも馬鹿じゃないんだからバレて入れ替われないでしょうし
普通は周りの人間が大反対してそんな地位にはなれないんじゃないでしょうか?

倭が391年以来、海を越えて襲来し、百済や新羅を破って服属させてしまった。 (広開土王碑)
新羅百済は倭を大国と崇めた (隋書81巻東夷倭国)
新羅の4代目国王の昔脱解は日本人 (三国史記 新羅本記)
百済の王が王子を人質として倭国に送る (三国史記 百済本紀)
新羅は倭国に奈勿王の子未斯欣王子を人質に送る。 (三国史記 新羅本紀)

A 回答 (5件)

『日本後紀』延暦二十三年四月二十七日条の和朝臣家麻呂薨伝に、「蕃人入相府、自此始焉」(渡来系の人として公卿になったのは、家麻呂が最初である)とあります。


桓武天皇の母方のコネで、渡来系氏族からようやく中納言や大納言に昇ることができたわけです。

ましてや律令制以前の世襲的に職掌の継承が行われる時代であれば、渡来人は差別を受けて、高官に昇ることはほぼ無理です。マエツキミ(のちの参議にあたる議政官)クラスでも、秦河勝ら数例しかありません。彼らは、基本的には技術官僚として貴族層に搾取される側の人間でした。
外国人が天皇に成り代わるなんてのは不可能です。

インターネットでそういったトンデモ説をご覧になり、疑問を持たれたとのことですが、みんなが皆、疑いを持つとはかぎりません。高校の日本史ですらまともに勉強してこなかった人や、おもしろければなんでもいい人、思想的に偏っている人など、さまざまな人たちがいます。

そういった、インターネットで見かけただけで、あっさり洗脳されてしまいそうな人もいるのですから、教えて!gooのようにネット検索の上位にヒットする場でこのような質問をされるのは控えていただけないでしょうか。
知らずに一生を終えるであろう人にまで興味を持たれて、トンデモ説が広まってしまいます。
無視が一番です。
    • good
    • 5
この回答へのお礼

そうですね無視が一番だなと思いまし

そして誰一人日本の政権の中枢に属国の外国人が入った事を証明する
資料を提示せずに自分の妄想歴史を語られる人が多いことに驚きました

漢人と属国百済を一緒にするのはちょっと
それに秦氏はしっかりと渡来系であると名乗っていますし

お礼日時:2013/09/23 11:10

 だいたい、生粋の日本人といえる人がこの時代にあったのかどうか疑わしいですよね。

時代を遡れば、先住民とされる縄文人がいてそこに弥生人がやってきてさらに時代が下り、朝鮮半島や中国大陸から人がやってきて住み着いたわけですから、色々な文化・風習をもった民族が島の中に住んでいてもおかしくない。

 金達寿さんという韓国の研究者さんの著書にあったのですが、古い吉備郡史には「大和の如きは事実上漢人の国、山城は事実上秦の国」という言葉があるそうです。漢氏も秦氏も有名な渡来系氏族です。高松塚壁画古墳が発見された檜隈は今でも漢氏族の氏神となっていた於美阿志神社が、氏寺となっていた檜隈寺跡があり、於美阿志神社の境内には、宣化天皇の檜隈宮跡であったという石碑があるそうですよ。漢氏と宣化天皇の関係があるのかどうかは解りませんが、なんかクサいなあと思います。
 この内容が事実かどうかは別として、大和の大王家自体が生粋の日本人の家系なのかはっきりしてないのに、一概に外国人が大和政権の要職につけないとは思えません。

 話が変わりますが、ローマの共和政を帝政に変えたユリウス=カエサルは貴族じゃないし属州民出身だそうです。チンギスハンが建てたモンゴル帝国は征服した地域や国の有能な人材を有効活用したそうです。
 あなたの着目点は鋭いと思います。でも信じる信じないはあなた次第です!

この回答への補足

自分もいきなり日本人が何も無いところから生まれたとは思っていません
人類は元を辿ればアフリカから生まれ世界へと旅立っていったのですから

大和の大王家自体が生粋の日本人の家系なのかはっきりしてないのに、
一概に外国人が大和政権の要職につけないとは思えません。

では何故百済の難民達は王族にもかかわらず
要職につけなかったんでしょうか?
そして百済人が要職についたと仮定しても
カエサルのように何故百済出身の何々と書物に書かれていないのでしょうか
名を変え身分を隠す必要があったのでしょうか?

補足日時:2013/09/23 10:47
    • good
    • 1

図書館で聖徳太子に関する本を見ていたら、石上(いそがみ)神宮の国宝七支刀(しちしとう)と言うものが日本にあり、物部氏に関係しているとの記述がありました。


その前に韓国で作成されたドラマ 百済王(クンチョゴワン)というのを見た後なので少なからず衝撃をうけました。恐らく史実に基づいて製作されたと思います。
当時の文化はどう見ても朝鮮半島の方が進んでいたと思われるし、七支刀があるということは百済にとって兄弟国というイメージがあったものと思います。 それも破壊されずに現存するということはそれなりの意味もあると思います。 
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-6/2012_10_28.htm

古代では何かが入れ替わることはあったのではないでしょうか。時代が違うかもしれませんが「国譲り」 の言葉も残っているくらいですね。 また、歴史上に出てくる方々の名前の表現も大きく変わった時期がありましたね。 あるいは2つの名前が残っているなど。
それ以上に関しては想像の域を出ません。

この回答への補足

古代では何かが入れ替わる事があったのなら
その事が書いてある資料を見せてもらって良いでしょうか?
ドラマ以外で

あと日本と百済が兄弟国?そうは思いません何故なら
三国史記「新羅本記」に慶州を倭兵に包囲されたと言う記録がある

満州にある碑文に倭国が海を渡って百済と新羅を臣下にしたと書いてある。
  
中国の歴史書の宋書に倭国が朝鮮半島南部を支配した記録がある

と完全に百済は日本に支配されていたというこれだけ資料があるのだから
兄弟国というのは少しおかしい気がしますが? 

それに文化も中国の歴史書の魏志倭人伝に既に3世紀から倭国では鉄の鏃を使ったと書いてありますし 
中国の歴史書の随書にも倭国は産物も豊かで鉄の鏃で武装した軍隊を持つ。
百済と新羅は倭国を大国として敬ったと書いてあるんですが
これでもまだ百済の方が日本より文化的に優れていたというなら
その事が書いてある資料を提示して頂いて良いでしょうか?

補足日時:2013/09/23 02:37
    • good
    • 4

それが出来たんだよ 古代には




人は歴史を見るとき どこかに現代の価値観を取り入れてしまう
現代で無理なのだから古代でも無理なのだろう…と

それが歴史の真実を隠す大きな要因ではないだろうか?

この回答への補足

古代ではそれが出来た理由
そして、そのように外国人が古代日本の政権の中枢に入った例があれば
ソースと共に教えて頂いて良いでしょうか?

補足日時:2013/09/22 21:29
    • good
    • 0

日本は後進国でしたから、朝鮮半島で優位な情勢を維持できていたかは大いに疑問です。


ただ、戦闘の局面で日本が勝つことはあったでしょうから、特に当時の朝鮮では海の向こうにそこそこの武力を持っている国があるとは知られていたでしょう。

日本が優勢であったから、豊璋が人質として来た、というのは間違いです。

百済は、朝鮮半島で自分の覇権を維持しようとすると、どこかと組む必要があった。
組む相手が、高句麗であり、新羅であったこともあります。
朝鮮半島内の合従連衡以外の道とすると、唐と組むか日本と組むかが選択肢として当然上がります。
競争相手の新羅が唐と組めば、百済としては日本と組むしかなかった、というのが実態だったのではないでしょうか。
日本は非力でありながら百済の要請によく応えています。
国際関係無知の天智天皇は百済支援軍を送り白村江で新羅・唐の連合軍に大敗を喫し、日本国滅亡の危機を招きました。
唐・新羅間の関係がおかしくなってきたことで日本は救われました。

豊璋が人質であったことは間違いないですが、人質は人間性を無視された扱いを受ける、との理解は間違いです。
人質兼外交特使ですから、受け入れ側も格別な接待をしており、人質がいずれ故国に帰った時、日本びいきとなることを期待していました。
しかし、そういう立場の人でしたから、日本人から、あまりうちとけるようなことは少なかったと思われます。

この人質は李氏朝鮮時代、朝鮮から清に王子クラスが送られています。
清も昔の日本と同様な対応をしたようです。
清の方が圧倒的に社会が成熟し、文化度は高かったようですから、清贔屓になった王子もいたようですが、百済と日本の関係とは違って、朝鮮が蛮族と卑しんでいた清【女真)
に国土を蹂躙された朝鮮側の屈辱感は強く、清贔屓になった王子は帰国後枢要な地位で活躍したことはなかったようです。

この回答への補足

中国の歴史書の随書にも倭国は産物も豊かで鉄の鏃で武装した軍隊を持つ。
百済と新羅は倭国を大国として敬ったと書いてあるんですが
それに満州にある碑文に倭国が海を渡って百済と新羅を臣下にしたと書いてあり
  中国の歴史書の宋書に倭国が朝鮮半島南部を支配した記録があるわけですから

百済は間違い無く日本の属国だと思うんですが

補足日時:2013/09/23 10:50
    • good
    • 1

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!