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8世紀半ばごろ、新羅と日本の関係が悪化した理由って何なんでしょうか。

A 回答 (3件)

この問題については、新羅と唐との関係を考える必要があります。



白村江の戦いでは、新羅は唐と連合して百済・倭連合軍を破りますが、その後朝鮮半島を自らの勢力下に置こうとした唐に新羅が反発し、670年から両国は戦争状態に入ります。

一方日本では、662年に壬申の乱によって親百済派の近江朝が倒れ、天武天皇が即位しました。そこで新羅は唐に対抗するため、戦勝国でありながら日本に大幅に譲歩し、日本と同盟関係を結ぼうとしたのです。

しかし735年に新羅と唐との国交が回復すると、新羅は日本に対等外交を要求するようになりました。一方日本はあくまで新羅に対する優位を主張したため、両国の間に軋轢が生じ始めました。753年には両国の遣唐使が席次をめぐって争いを起こし、また日本が新羅に送った使節が、態度が無礼であるとの理由で送り返されています。

これに乗じたのが、高句麗の遺臣が建国した渤海でした。渤海は建国当初から、高句麗を滅ぼした新羅と敵対していましたが、新羅と日本との関係が冷え込むと日本に対して接近を計りました。日本がこれを受け入れたため新羅と日本との決裂は決定的となり、669年を最後に両国間でおこなわれていた使節団の派遣は終了することになります。
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No.2です。

壬申の乱の662年は、672年の誤記です。申し訳ありません。
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 日本と渤海との間で交易があり、軍事同盟を結ぶとともに渤海が日本へ朝貢をはじめ、一方では新羅と渤海は軍事対立があったこともあり、新羅と日本の関係は停滞することになった。

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