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 ○ いちど互いに相手の言い分こそがただしいと思ってみたら どうか?

 そこから 話し合いが出発するかたち。

 どうでしょう?

A 回答 (6件)

そのいい方法として、お互いに相手の側の意見を持っているとして議論するとよいです。


私はAという意見だが、相手のBの意見を持っているとして(相手はその反対)議論するわけです。
それができれば、新しい発見が出てきます。

ただ、「話し合い」の前提に、話し合いの共通の目的とは離れた感情が交じっていると、話し合いになりません。

言い換えれば、話し合いができているときには、自然にあなたのおっしゃることができているともいえそうです。
だから、あなたの質問が矛盾しているということではありません。
お互いがそれを自覚的になることは意味があると想います。
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この回答へのお礼

 みじんこさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 ★ 私はAという意見だが、相手のBの意見を持っているとして(相手はその反対)議論するわけです。
 ☆ なるほど。
 そしてもしそうだとしたら 議論が互いに膠着して来たといった特殊な場合には さらには 互いに相手の意見の持ち主に成り代わって 話し合いをすすめてみればよい。かも知れません。そこまでのことを見通すようなご見解だと思います。



 ★ ただ、「話し合い」の前提に、話し合いの共通の目的とは離れた感情が交じっていると、話し合いになりません。
 ☆ そうですね。
 同じくそして しばしばすでに自分の見解を固めているという場合もあると思うのです。この場合には 苦労します。

 言ってみれば プロクルステスの寝台のごとく 相手の意見を 自分の意見に合わせて長くしたり短くしたり《調節》して受け取るような場合です。《感情》は 特には目に見えて差し支えがあるようではないのですが そういった場合があるかと。これも その先へと考えてみました。



 ★ 言い換えれば、話し合いができているときには、自然にあなたのおっしゃることができているともいえそうです。
 ☆ なるほど。じつは 対話がスムースにすすんでいるときには すでに相手の意見を自由に幅広い視点から まづはただしいと思って受け留めている そこから自分の意見をも考え出して来る――こういった手続きを自然と踏んでいるということですね。そうかも知れませんね。


 ★ お互いがそれを自覚的になることは意味があると想います。
 ☆ はい。ええ。

 今回の質問は きわめて単純で 説明もなく途中で放り投げたようなかたちになってしまっていますが いろいろご助言を寄せていただきありがとうございます。

 もう少し 開いています。

お礼日時:2013/10/13 08:42

うん、いいんじゃない。



それ、コミュニケーション術かなにか?

哲学的ではないけど、普通にいい方法だと思うよ。

やってみれば?
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この回答へのお礼

 ふぃーにくすいーうるさん ご回答をありがとうございます。


 ★ 哲学的ではないけど
 ☆ 哲学として考えたことです。ふだん・いつも使う手ではないわけですが そういうことです。
 
 もし《哲学的ではない》と判断されたのなら その理由を明らかにして初めて回答となると考えます。
 ★ 普通にいい方法だと思う
 ☆ ことが なぜ哲学的ではないのかです。

お礼日時:2013/10/16 09:33

No.3の0fool0です。



>>字面とは反対の方向で受け取りましたが~


??ストレートに受け取っていただけたと思えますが???

認識の違いですねw
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ??ストレートに受け取っていただけたと思えますが???
 ☆ ぢゃあ
 ★★(回答No.3) 人の認識力には違いがあります。 
 ☆ この《認識力 ないし 認識》という用語について 意味内容の取り違えがあるのかも知れません。

 ★★ 基本
 ☆ であることにについては 一致しているようです。ありがとうございました。

お礼日時:2013/10/13 12:42

それが基本なのですが難しいことです。



人の認識力には違いがあります。

同じ花を見てどう感じるかはその人の心の中にしかありません。


ですから『どちらも正しい』からしか始められません。
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この回答へのお礼

 0ふーる0さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 今回このようなコミュニケーションにおけるひとつの方針といったものは じつは 言わば緊急避難として特別に考えてみたものです。つねにそうだという意味合いで 考えそして問うているものではありませんでした。

 でも思い直してみると
 ★ それが基本なのですが難しいことです。
 ☆ とおっしゃるように これが《基本》であることに間違いないようですね。《どちらも正しい》とまづ捉えてみるからと言って 何も鵜呑みにするというわけではないのですから あんがい通常の対話についても当てはまるかに思われます。


 つまり 一たん・つまり《いちど 互いに相手の言い分がただしいと思ってみる》という姿勢です。
 ですから そのあと
 ★ 人の認識力には違いがあります。
 ☆ といった実際のことが来るものと思います。そうではないでしょうか?

 そう受け留めましたが・つまり字面とは反対の方向で受け取りましたが どうでしょうかね。


 

お礼日時:2013/10/13 05:25

 


1つ修正します。

2.そしてその結論を途中で捻じ曲げたり、歪曲したりして変えないことである。

              ↓

2.そしてその結論を途中で捻じ曲げたり、歪曲したりして変えないことである。
もし結論を変えるのであれば、これこれの理由で最初に掲げた結論はこのよーに修正しますと明示した上で修正すればよいのです。



>想像上のものごとや虚構としての話は 受け留め得ないようです。なぜか?

その理由は簡単です。
想像上のものごとや虚構としての話は、最終的には価値を生まないと考えるからである。
ありのままの全てを見極めることのほーがより価値があると考えるからである。
ここに根本的な理念の違いがあるのかもしれない。
 
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 結論を修正してはいません。
 そちらから見て あいまいであった。つまり こちらからも舌足らずであったと認める。そういう事例でした。イエス・キリスト論は。

 
(もっと言えば 決してあいまいではありません。そちらが 事実だけを受け留めて 応答したというのが ほんとうです)。(これは 次の論点です)。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 想像上のものごとや虚構としての話は、最終的には価値を生まないと考えるからである。
 ありのままの全てを見極めることのほーがより価値があると考えるからである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たとえば それでは 小説をはじめとする芸術における虚構の必要性や効果について どう捉えるのか?

 作り話は すべて 《価値を生まないと考える》のか?

 少しは価値があると見るのか?

 だから ちゃんと説明している。受け容れるか否かの前に まづは相手が説明をしているという事実を受け留めなければ話は成り立たない。

 つまり 次です。

  ○ 人間の現実 = 事実 + 真実〔事実の写し + ウソ(想像・虚構)〕



 
 ★ ここに根本的な理念の違いがあるのかもしれない。
 ☆ どう違うかを明らかにしないで その前にすでに 《虚構です》という部分については相手の話を捨ててしまった。ということは 問題ですよ。

 つまり具体的に論点は 次のようです。

 1.《 真実〔ウソ(想像・虚構)〕》の部分を まるで《価値なし》としてしりぞけるのか?

 2. 少しは 価値ありとして 多少は受け留めるのか?

 3. あるいはつまり この問題は 別のところにもつながっています。すなわち

    《真実〔事実の写し〕》

 について 実際にはその《写し》としてのおのおの主観による事実認識が けっきょく《事実》から逸れて行ってしまうこと(または 違う要素が勝手につけ加えられてしまうこと)があると考えられる。この問題です。

 4. すなわち けっきょくわれわれ人間は 《事実認識》ということ自体において 言うなれば《想像や虚構としてのウソ》を 知ってか知らずにか 忍び込ませてしまっている。こういう可能性があるという問題です。

 ☆ これは 《理念》の違いではなく 哲学ないし学問ないし対話における実際上の現実問題です。
 すなわち つねに互いに事実に就けという要請を承けつつ 相手の話について マチガイなら指摘し批判する そうでなければ同意する。というような手続きを根気よくすすめて行かねばなりません。

 ということではないか。

お礼日時:2013/10/12 18:19

 


正しい話し合いをしたいのであればまず以下のことを守ることである。

1.まず最初に自分の考え、結論をはっきりと述べることである。

2.そしてその結論を途中で捻じ曲げたり、歪曲したりして変えないことである。

3.そのためには余計な修飾語、冗長表現の類を全て取り払い、本質だけを語ることである。なぜならこれらの余計な修飾語、冗長表現は往々にして本質を傷つけ、本質を歪め、本質的でない別のものに変えてしまうからである。
とにかくあなたの話は長すぎる。
わたしはいつもそれをまとめよー、まとめよーと汗を流しているのですよ、あなたのために。

4.自分でも意味不明なことは初めから口にしないことである。
  分かるか分からないかが分からないナゾの・・・・などの類。
  いい加減しまいにしてはどーか。

5.・・・・等々、他にもいろいろあろーが、取りあえずここまで。
 
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。



 ☆☆ 分かるか分からないかが分からないナゾ
 ☆ これより上のいい表現は 見当たらない。

 そして よいのがあれば 《結論》も修正するものです。人間のおこなう推論でしかないのですから。

 文章の長さは それなりに必要最小限にとどめていると知るべきです。

 《結論をひとことでは言えない》とか あるいは《じつは結論は まだはっきりしないのである》とかと伝えるのは それより明解な表現はないと知るべきです。(そういう場合にはですが)。



 あなたは けっきょく《経験的なものごと》としてしか 相手の話や世界のことなどを捉えようとしていないようです。
 想像上のものごとや虚構としての話は 受け留め得ないようです。なぜか?

 ここに ひとつに突破口があるはずです。

お礼日時:2013/10/12 16:49

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