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すばらしいことを考えました。日本語の欠点として、尊敬語と かのう表現が同一になります。
具体例:
彼はここで食事を食べられました。
可能性1:彼は急いでいたが、ここで食事を食べることができました。
可能性2:彼はここで食事を食べた、という表現を尊敬語で説明しています。

このように意味が重複するため判断できません。そこで、可能表現を「ら抜き」で表現します。
彼はここで食事を食べられました。→尊敬語
彼はここで食事を食べれました。→可能

こうすることで意味の重複がなくなり、無用な混乱を回避できます。これを広く普及させたいと考えています。この提案に関する賛否、および意見、問題点などがあれば指摘していただきたいと思い、質問させていただきます。よろしく お願い致します。

<よくある質問>
勝手に日本語を変更するのは間違っているのでは?
→いいえ。言葉とは常に変化し改良されていきますので、その一環としての不具合の解決です。むしろ間違いや犯罪を放置するほうが不自然でしょう。

日本人全員の言葉を書き換えるなんて不可能なのでは?
→そういう質問ではありません。たとえるならば「もしもボックスで変更できるなら賛成しますか?」という かていの話です。日本人全員の洗脳の話をしているわけではありません。それが間違いであることくらい知っています。

A 回答 (14件中1~10件)

食事を食べるという具体例の日本語がおかしいと…




みかんを食べられました。
みかんを食べれました。

口語では既に普通に使い分けている気がしますが。
そのうちこれが普通になるかもしれませんね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。尊敬・使役は「られる」とし、可能は「れる」という意見が多数のようなので、そのように世界を改変してみます。

なお、反対意見も募集中です。

お礼日時:2013/10/21 23:15

ほぼ同じ意見ですが、尊敬語と言うよりもむしろ、『受動態』と私は読み取れてしまいます。



『食べられる』

おっしゃる通り、説明するにはこの言葉が一番しっくり来ると思いますが、

例えば、
『蛙が蛇に食べられる』

『このキノコは食べられる』

『蛙が蛇に』の方は『〇〇される』と言う受動態で、『キノコ』の方は可能性の有無を示しています。

私も言葉は時代と伴に変遷しても良いと思っています。

事実、そういう言葉は多いみたいですし。

5~10年程度の短いスパンで考えると違和感があるかもしれませんが、もっと長い期間が立てば普通の言葉になっているんじゃないでしょうか。

だいいち、放ったらかしの現在でも、かなり市民権を得ている気がします。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。尊敬・使役は「られる」とし、可能は「れる」という意見が多数のようなので、そのように世界を改変してみます。

なお、反対意見も募集中です。

お礼日時:2013/10/21 23:15

ら抜き言葉による、尊敬・可能・使役表現の区別は、以前からこの質問サイト(OKWAVE)でも問題になっていることです。

ら抜き言葉で検索してごらんなさい。
という僕も、「ら抜き言葉」支持派です。尊敬・可能のほか、使役(他人によって~される)の意味もあるため、更にややこしい。せめて、尊敬・使役は「られる」とし、可能は「れる」に統一してほしい。
というより、巷では、可能表現は「れる」になってきている。それを、学者などが「それは間違いだ、改めるべきだ」といっているに過ぎないのです。
近いうちに、「れる」を使うことが常識となり、それを学者さんも認めざるを得なくなるでしょう。日本語なんて、というより世界のあらゆる言語は、時代によって移り変わっていくものなのですから。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。尊敬・使役は「られる」とし、可能は「れる」という意見が多数のようなので、そのように世界を改変してみます。

なお、反対意見も募集中です。

お礼日時:2013/10/21 23:15

具体例:


彼はここで食事を食べられました。
可能性1:彼は急いでいたが、ここで食事を食べることができました。
可能性2:彼はここで食事を食べた、という表現を尊敬語で説明しています。

このように意味が重複するため判断できません。

意味は重複しません。

「食べられました」の敬語表現なら、「召し上がりました」ですね。

従って、判断できます。

「彼はここで食事を食べられました。」の場合は、「食べることができた」の意味しかありません。

敬語が面倒、よく分からない、だからいっそ・・・、という気がします。
ら抜き言葉は否定しませんが、乱暴に感じます。

この回答への補足

すいませんが、あなたの説明が理解できていません。私の質問およびNo.1~3の回答が間違っている、といっていますか?

補足日時:2013/10/21 23:53
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ら抜き言葉が出現した理由がそもそも貴方の提案そのものだったのではないでしょうか。

行けるとか書けるなどもら抜き言葉と同じ理由でできているのではないでしょうか。素人ですから外れているかもしれませんが、書かれるのr音が抜けると書けるになるように思います。走られると走れるなどはどうなのでしょうか。これはら抜き言葉なのでしょうか。
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この回答へのお礼

なるほど、そういう考え方もありますね。

お礼日時:2013/10/22 19:35

いい案ですね


「お経を唱えられる」ってだけでは可能か尊敬かわからないですもんね
はっきり区別できれば解釈に困ることはなくなります

関係ないかもしれませんが、「~をされる」と言う部分だけでは受身か尊敬かと言う問題もありますね

と言いつつも、文脈判断でいいんじゃ? って思う気もします
無の状態で突然「彼はここで食事を食べられました」って誰かが発言することは少ないはずで、
話し手は 彼が何者なのか こことはどこなのか ってな情報は聞き手には伝わってる前提で代名詞をつかってるからです
まあ状況とかで受身or可能or尊敬はだいぶしぼれるのでは?
「拳銃をむけられた」って文だったら僕なんかは自分勝手に受身だって思っちゃいますし
英語なんかさらに文脈判断多いですし、むしろ日本語は多義語だの多義構文だのってすくないほうなんじゃ?
敬語も「られる」ってよくつけますが、実は 食べられる→召し上がる だったりってなことがよくありますし

言語だけにいえることではないのですが今の世界を見てると物事は勝手に便利な方向に進んでいくように思います
なんで、ら抜き言葉が浸透してないのもそんなに不便ではないからじゃないかなと思ったりもします
まあもしかしたらこれから浸透していくかもしれませんが
ってことで僕は日本の流れに身を任せて、今を生きようと思います

この回答への補足

返答をありがとうございます。

「文脈判断でいいんじゃ?」といい始めたら、世の中のほとんどは文脈判断でいいことになってしまいます。化学とかいて「ばけがく」とよびますが、「べつにかがくでいいでしょ、文脈判断!」「いわゆるかいしゅん(買春)」「 べつにばいしゅんでいいでしょ、文脈判断!」「あの、先日の件で……」「いちいち聞くな! 文脈判断!」

実は、「あらゆる状況下において、完全に文脈判断が適用できる言語」は、現代までに構築されていません。仮に、そのような言語を開発できたら、ノーベル賞が100個くらいもらえるでしょう。言語学は、それを前提に議論しなければ始まらないのです。

ところで、あなたの文章が「ら抜き」どころか「句点抜き」になっているのがきになりました。

補足日時:2013/10/22 19:42
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No.4です。


補足ありがとうございました。

「彼はここで食事を食べられました」と敬語として言う人はいるのでしょうか。

敬語としていうのであれば、普通は「召し上がりました」でしょう。
「先生はここで食事を食べられました」って言いますか?

「先生はここで食事を召し上がりました」
「先生はここで食事をお召し上がりになりました」
ではないんですか?

「彼はここで食事を食べられました」というのであれば、「食べることができた」としか解釈しないです。
意味が重複するため判断できない、ということはないです。

ら抜き言葉使用者は判断できないのかな・・・。
言語感覚の違いなのかな・・・。

まあ、この具体例がひっかかったので・・・。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。まだ理解できていないのですが、要するに「質問の具体例が適正でないものの、主張自体には大筋で合意している」という判断でよろしいのですよね。それなら特に問題ありません。

私は30年以上生きてきましたが、生まれて今まで一度も「召し上がりました」という単語を使ったことがないので、意味が理解できませんでした。なぜあなたがその単語を使いたがるのかも理解できていません。会話では「会長、来る途中に昼食は食べれたんですね?」「社長、先ほど食堂で昼食を食べていましたよね。」という程度の言い方になります。それいじょうの丁寧な表現はビジネスで聞いたことがありません。もし使用すれば「なんでそんな『ばか丁寧』な言い方をしているんだよ」と(社長、会長、上司、同僚、などから)いわれるでしょう。つまり、「ら抜き言葉使用者」には「同意重複動詞使い分け使用者」の主張は理解できませんし、「同意重複動詞使い分け使用者」も「ら抜き言葉使用者」の主張を理解できていません。ただし、質問のしゅしとは異なるので、この話は また別のきかいに。

お礼日時:2013/10/22 19:58

別にら抜き言葉が悪いとは思わないし、もう既に通用し始めているのではないかと思いますよ。


しかし、そもそも語尾変化だけで全てに対応しようというのは、怠慢でしょう。
「食べる」の尊敬語は、「召し上がる」にすれば良いだけの事です。
それに質問者さんの方式では、尊敬+可能が表現できません。
尊敬の「食べられる」に可能の「・・れる」をつなぐ事ができますか。
「召し上がる」なら「召し上がれる・召し上がれます」という風に使えます。

この回答への補足

> 「食べる」の尊敬語は、「召し上がる」にすれば良いだけの事です。

それは「動詞を無尽蔵に増加させていけば、あらゆる意味や状況に対応できる夢の言語が完成する」という主張に過ぎません。そちらのほうがはるかに怠慢です。日本語を複雑怪奇にしているだけであり、問題の解決になっていません。

私が言語を選択できる立場なら、絶対に日本語だけは選択しません。英語を日常語として使用している言語圏で永住させていただきます。

なお、質問の具体例「食べられる」は適正ではなかったということがほかの回答者の指摘ですでに明らかになっているので、「食べられる」の話は排除します。話が無関係の方向に進むだけなので。

私の質問は「ら抜きよりも理想的な問題解決策が存在しますか?」です。仮に「全部の動詞を尊敬・謙譲・丁寧・通常で、それぞれ別々に作れば簡単に解決するじゃないか」という解決策であれば、ら抜きのほうが何倍もましである、と判断せざるを得ません。

補足日時:2013/10/22 20:13
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ら抜き言葉は進歩です。

間違いありません。
頭の固い連中が「とにかく変えることは嫌」と言っているだけです。
言語は時代とともに変わります。

食べれると言えば可能の意味しかありません。尊敬、受身、可能があって混乱していたものを「可能」だけを別にしてわかりやすくしたんですから進歩で間違いありません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。進歩かもしれませんが、もう少ししんちょうに進めていきたいと思います。

お礼日時:2013/10/22 20:16

#1です。

ちょっと面白かったので覗いていました。

回答を見ると、スレ主様のいう「ら抜き」で可能の意味を分離させるのが良いというかたと、「られる」のもつ軽い尊敬を表す意味を無くそうという方の二つですかね。

現時点ではどちらも互角な気がしますが、実は文脈で判断する今のままの方が便利なのかも(笑)

この回答への補足

二度目の回答、ありがとうございます。

ほかの人の回答に「文脈判断の問題点」を記述していますので、よければ参考にしてください。

補足日時:2013/10/22 20:18
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