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自慢じゃないけど日本語の文法って習った記憶が全くありません。
もちろん小学校から高校にかけて国語の授業はありうました。
そもそも日本語の文法って確立されたものがあるのか否かさえ分かりません。
果たして日本語は文法的に確立されているのですか。
なぜ日本語文法は表に出てこないのか。
皆さんは日本語の文法を知っていますか。
 

A 回答 (12件中1~10件)

No.11です。


> 文法の目的は言語の習得を効率的に行うことを第1目的とするものです。
>1つでなければこのような形で英文法を活用し英語教育を実践することは不可能だからです。これが本来の文法のあるべき姿です。
これが質問者さんの文法の定義であるならば、国語文法が良くない文法で、外国人のための日本語文法が良い文法であるというのが答えだと思います。

後者は日本語を全く知らない人のための日本語教育で実際に使われています。
また国語文法は文語文法を前提にしているために、現代日本語から乖離している部分もあります。(連用形と音便の問題や一段動詞の語幹の問題など)

ただし、2つのことを理解してもらいたいです。
1)学習者向け文法書の背景には2000ページの文法書やそれ以上もの分量がある論文やコーパスなどがあります。解説書には「膨大な文例→様々な仮説・理論→集約→執筆」というプロセスが必要です。これは英語でも日本語でも一緒です。

2)国語文法でも役立つ場面がたくさんあります。
たとえば、ら抜き言葉やさ入れ言葉は国語文法で十分説明できます。また国語辞書は国語文法の知識を前提に書かれていますし、古典の辞書・授業は国語文法の知識があったほうが理解しやすいです。さらに、送り仮名は日本語文法より国語文法のほうが説明しやすいです。
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No.1です。


1)
質問させてください。
文型は「文法」だと思いますか、それとも「語彙」ですか?
たとえば、
・~する前に~
・~した後で~
・~して以来~
という文型では、「前」「後」「以来」の前の動詞の形が違いますよね?
このように文型には、意味だけではなく文法的知識も必要なのです。しかし語彙を扱っている国語辞典には載っていない場合が多いです。

日本人は無意識に理解しているので国語の授業ではあまり扱われませんが、外国人に日本語を教えるとき、漢字や単語だけではなく、文型もかなりの量を教える必要があります。下のリンクの文型辞典を見ればわかると思いますが、初級レベルから上級レベルまで網羅するのに500~700ページ必要です。

http://www.amazon.co.jp/%E3%81%A9%E3%82%93%E3%81 …
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA …

2)
文法理論は1つでなければならないと質問者さんはお考えのようですが、それはなぜでしょうか。
英語の文法理論だって、新しいのが出てきています。どの言語の場合でも、1つに収斂するまでには何十年・何百年と時間がかかると思います。

http://www.amazon.co.jp/%E6%96%87%E6%B3%95%E3%81 …
http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%80%E5%84%84%E4%BA …

参考URL:http://www.nihongokyoshi.co.jp/manbow/manbow.php …
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この回答へのお礼

 
>文型は「文法」だと思いますか、それとも「語彙」ですか?

文系は文法の中核です。
文法とは言語の構造を体系的に表し説明するものだからです。

>文法理論は1つでなければならないと質問者さんはお考えのようですが、それはなぜでしょうか。

文法の目的は言語の習得を効率的に行うことを第1目的とするものです。
実際英語の場合は、ネイティブ向けであれ外国人相手であれ英文法の教育はリーディング、スピーキングと同時並行的に行われるものです。
そして英文法は1つです。
1つでなければこのような形で英文法を活用し英語教育を実践することは不可能だからです。
これが本来の文法のあるべき姿です。
ところが日本語の場合は日本語文法はこのようには活用されていない。
日本語の場合は一部の国文法学者が単に日本語を整理することを第1目的に研究しているに過ぎない。
日本語を効率的に習得するための手段として日本語文法を活用するという本来の視点、目的が全く欠如しているのです。
だから国文法学者によって文法が異なるとか、2000ページもの日本語文法書を作ったりするわけです。
なぜこのような事態になるかといえば、これは世に言う国文法学者にはいわゆる使命感というものがないからでしょう。
現実に役立つ何かを作り上げるという強い使命感が欠如しているのです。
 

お礼日時:2013/11/03 12:17

>英文法の本はおよそ200ページ前後です。



学参でもそこまでうすいのは
珍しいんじゃないですか?

英文法書は何種類か持ってますが
一般向けは大体6百~千ページくらいです。
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こんにちは。



日本語教師で、日本語文法の研究者です。

日本語に「確立された文法」があるかどうかは、「確立された」ということの定義によります。

私の判断では、一応ある、と言っていいと思います。

よく、「百人の文法学者がいれば、百の文法がある」(千でも万でもいいのですが)という
ことが言われますが、それは「研究レベル」の話であって、一般の人が話題にするような
意味での「文法」があるかどうかというなら、日本語は立派に「文法がある」言語です。

それは、中国語でも韓国語でもインドネシア語でも同じでしょう。

たとえば、今回否定的な回答をなさった人、また質問者ご自身が次の本をご存じかどうか。

 『現代日本語文法7 談話・待遇表現』

http://www.amazon.co.jp/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%97 …

これは日本語の記述文法(全7冊)の最後の巻です。
1冊がだいたい300ページ(本文)で、全部で2000ページぐらいある文法書です。
日本語の文法を一応詳しく書くと、2000ページは必要なのです。

ただ、私の目から見ると、一通りのことしか書いていなくて、もっと詳しく書いてほしいのになあ、
と思うところが多々あります。
現在の研究水準で、専門家が詳しく書いていったら、5000ページは軽く超えてしまうでしょう。

日本語の文法は、今、そのくらいのところまできています。

さて、これを「確立された文法」というかどうか。

念のために言っておくと、この2000ページに書かれたことは、普通の日本人がみな「無意識に」知って
いることです。この程度のことを知っていないと、たとえば今私が書いているような文を書くことも
できないし、読んでわかるということも、おそらくできないでしょう。
「文法を知っている」とはそういうことです。

ただし、それを「客観的に説明(記述)できる」かどうかは、別の問題です。
たとえとしてよく言われることは、「立って歩くにはどこにどう力を入れたらいいのか、走る時には
どうするのか」を客観的に、科学的に説明できる人はおそらくいない、ということとおなじような
ものだということです。自分が無意識に習得してしまったものを説明するのは難しいのです。

あ、もう一つ、念のために書いておきます。
「文法」という言葉は、

 1 人間の頭の中にある言語能力の一部としての「文法(能力)」
 2 1を正確に記述したもの「文法(記述)」、あるいはその理論的な体系である「文法(体系)」
 3 2を本の形にしたものである「文法(書)」

という、いくつかの意味で使われます。
「確立された文法」という場合の「文法」というのは、上のどれを意図したものでしょうか。

また、「確立された文法」のある言語なんて「皆無」だ、というのは、一つの考え方としてあると思います。

saburoo
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この回答へのお礼

 
有難うございます。

>これは日本語の記述文法(全7冊)の最後の巻です。
1冊がだいたい300ページ(本文)で、全部で2000ページぐらいある文法書です。
日本語の文法を一応詳しく書くと、2000ページは必要なのです。

あなたは文法について勘違いしているのではないか。

2000ページもの文法書を誰が読みますか。
そんなものは文法書ではありません。
それはただ日本語の例を細かく解説したものに過ぎないでしょう。
その結果2000ページ程のものになったのでしょう。

文法書とは何のためのものかという観点が全く欠如した人が書くとこのような結果になるのです。
文法書とは全くのゼロから日本語を学ぶ人の為に日本語の骨格を示すものです。
この観点から考えると2000ページもの文法書は全く意味をなさずただのゴミにすぎないといっておきます。

英文法の本はおよそ200ページ前後です。
英語の骨格はこれで立派に説明しつくされています。
だから英語は英文法を全面に出して説明できるのです。
日本語にはそのような視点、配慮が全くないのではないか。
2000ページの日本語文法書?
あまりにアホらしすぎはしまいか。
もっと中身のあるものでなければなりません。
日本語文法書も200ページ以内でなければなりません。
それができないのであれば、やはり日本語には文法は無いと考える以外ないのです。
 

お礼日時:2013/11/01 09:50

>文法は1つでなければなりません。


>学者によって異なるようでは文法にはなりません。

そうであれば、文法を持つ言語は皆無ですね(^^;
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先ず、中学校では口語文法を教えますが、「ことばのきまり」として各教材ごとに教えている筈です。

従って、一部の私立学校等は別として所謂「文法」を教える時間と云うものを特にとらないのでそのように思えるだけです。
高等学校では文語文法を教えます。これは学校によっては副読本などを使って教えるところもありますし、中学校のように教材ごとに教えるところもあるようです。(文語文法はある程度まとめて教えないと、今の生徒にはまるで外国語の文法のごとく感じられるところもあるのでその方が学習し易いとは思いますが・・・)

次に、国語の文法ですが、一応は確立されています。只、出発点を欧州の文法にとってしまったためと書かれた文章しか対象にせないで体系をつくってしまったので色々と細かいところで不都合が出てそれをどう処理するかによって学者によって意見が異なり、或は別の文法体系をうちたてると云う状況です。


日本語の文法が表面に出てこないのは、母語だからです。つまり幼い頃から聞き覚えて慣れ親しんでいるからです。体の中に日本語の文法がある程度染込んでいるのでわざわざ「文法」によるという必要は通常はないからです。
また、日本語は元々は論理性よりも情緒を大事にする言語なので理屈よりも気持ちという面を重じる傾向もあります。

現在の学校で教えている時枝文法あるいは橋本文法は「どうしてこの言い方が良くないのか」とか「このような言い方を何故するのか」という面よりも、「こうなっているから、こうなんだ」的な面が強いと思います。国文法というものが帰納法的に成立しているのですが、保守的な面がかなり強い事は否定できませんが、反面最近のギャル語式なものが果たして大人が使って恥ずかしくないものかといえば記者は否定的です。従ってある程度の保守性は止むを得ないのでしょう。
例えば「着れる」とか「全然かわいい」とかいう言い方は今の国語では間違った言い方となります。正しくは「着られる」ですし、「全然」とくれば明らかに否定する言い方が続きますので「全然かわいくない」ならば正しい事になります。
なお、日本語を学ぶ外国人向けには、日本人が中学校や高等学校で学ぶのと異なる文法体系で教授しているようです。

国文法を知っているかと云われれば、知らない訳ではない程度ですね。細かいところを突っ込まれれば困りますし、人に教授するなってとてもとてもです。

印度欧州語でも文法体系は確立されていますが、細かい処では異見があってという状態です。言語というものは数学のような体系をつくる訳にはいかないのです。
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この回答へのお礼

有難うございます。

>次に、国語の文法ですが、一応は確立されています。只、出発点を欧州の文法にとってしまったためと書かれた文章しか対象にせないで体系をつくってしまったので色々と細かいところで不都合が出てそれをどう処理するかによって学者によって意見が異なり、或は別の文法体系をうちたてると云う状況です。

つまりこの事実をもって日本語には確立された文法は実質的に存在しないと考えます。
文法は1つでなければなりません。
学者によって異なるようでは文法にはなりません。
なぜなら文法とは言語を学ぶためのツールなのであるから1つでないと意味を成さないからです。

それから口語文法も国語文法も外国人向け日本語文法も全て同じものでなければ日本語文法とは呼べないでしょう。

このように考えるとやはり日本語には確立された文法は存在しないと考えるしかありません。
日本語には文法は無い。
あ~、すっきりした。
 

お礼日時:2013/10/31 07:28

民族性が影響していますよ。


正義や原理を求めなければ確立されません。求めよ、さらば、与えられん。
足りない機能は外来語でOK。
場わたり民族。

私も大して記憶がないと質問しましたところ、寄せられた回答がはっきりしないんですね。
ズルくてユルい物事ばかりです。一番なーなーな公務員日本人が仕切っているせいもあります。それが好きな国民ですからどうにも進歩しません。国語研究の場を公的教育機関とマスコミに頼る常識は、戦後の洗脳です。
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定家の文法と契沖の文法が違ったので、両者の仮名表記も違っていると考えましょう。



古の古典作品から用例(語彙)を収集するという作業(索引作り)から文法確立へと向かうとして、その用例(語彙)収集が甚だしく困難なのです。虫食いで消失してしまっている箇所もありますし、判読不能な部分もあります。

よって、個々の推論(仮説)によって、読解する他ありません。つまり、日本語文法というものに、完全無欠に確立されたものはありません。

大昔から、「百人の言語学者がいれば、百通りの文法がある」と言われていて、これは、大学・国文学科では常識的な見解です。国文科を卒業した者は、皆、そういう教育を受けています。

つまり、文法というものは、個々に確立すべきものと考えましょう。
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この回答へのお礼

>大昔から、「百人の言語学者がいれば、百通りの文法がある」と言われていて、これは、大学・国文学科では常識的な見解です。国文科を卒業した者は、皆、そういう教育を受けています。

有難うございます。

察した通りの答えを得ることができました。
私は以前から日本語には確立された文法は存在しないと考えていました。
あなたの回答はそれを裏付た。
しかしそれは日本語の不備と捉える必要はないでしょう。
もしかすると言葉にとって文法なんてものは確立しないほうが良いのかもしれない。
もともと日本語には文法なんて無いし、また文法なんて無い方が良い。
あ~、すっきりした。
 

お礼日時:2013/10/30 13:54

ないます日本語は文法で習うない記憶自慢ない。


あるますた国語を授業高校の小学校もちろんに。
確立文法もの否かわかるますん文法そもそも日本語。
文法的がのですか日本語に確立果たしてされるている。
文法出るくるなぜかない表を日本語。
知るいる文法日本語か皆さん。

日本語の文法を知らないのでこんな文章しか書けませんでした~。
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品詞論やその排列の仕方論で私は勉強しけど。


文法があって言語があるのではなく、言語の中の一定の法則というか原理を見出そうとするのが文法学でしょう。
だから、おかしな言い方っていうのは、先ずその言語ではそういう言い方をしないっていうことが先で、それは即ちその言語での法則に合致しないということになるのでしょう。
判るかな?
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