No.1ベストアンサー
- 回答日時:
ご質問を拝見して、amazonの書評を見ました。
小谷野さんが書いておられるんですね。わたしもなんだろうと思って、岩波の『文学』のバックナンバーを引っ張り出してみました。
2012年の3,4月号に堀部功夫の「中勘助小児愛者的傾向説の検討」という論考があります。富岡多惠子の『中勘助の恋』で述べられた中勘助の「小児愛者的傾向」に対する反論で、富岡の主張を五点に要約したうえで、ひとつひとつ反論が加えられています。
ところが
> 「この本が出たあと、中勘助と兄嫁との関係が明らかにされている」
に該当するような資料を見つけることはできませんでした。
新たな書簡が見つかったとか、関係者をよく知る人物の発言があった、といったものであれば、当然この論考でもふれられているのではないかと思うのですが。
そもそも富岡さんの主張自体、中勘助の作品、なかでも「日記体随筆」を読み込むことによってあぶりだそうとしたもので、結局は解釈の領域にとどまるものです。
実のところ、ある作家が「小児愛的傾向」のもちぬしであるか否かが作品の評価とどういう関係があるのか、わたしにはよくわからないのですが、後代の人間が、そのような「傾向」を「確定」するためには、公開を前提とした作品ではなく、私的な書簡なり、公開を前提としない日記なり、現実に交友関係にあった人物の証言なりが必要だと思います。
末子との関係は、確かに当時から噂されてはいたようで、野上彌重子も日記の中で「義姉さんとの親しみも、単なる親しみではないらしい」(昭和十年三月十六日付 『中勘助の恋』からの孫引き)と、岩波茂雄夫人から中勘助の近況を聞いて、記しているようです。
さらに、鈴木範久の『中勘助せんせ』(2009 岩波書店)では、『街路樹』の中から一九三四年七月二六日の言葉
「私は近頃になって真に、それこそ真に、愛することの喜びを知り得たやうに思ふ。私の愛が漸く無私になつたからであらう。それこそ真に、愛することの喜びを知り得たやうに思ふ。」
が引用され、さらに、以下の文章が続いています。
「『街路樹』に対する小宮豊隆の書評に答えた手紙のなかでは、それを嫉妬から解放されたこととも語っている。…略…さらに生活形態をみると、放浪もしくは別居から一九三二年より赤坂の家に家族と同居している」(p.12)
兄嫁と「関係」があったかどうかはさておき、中勘助の随筆『蜜蜂』などを読んでも、心の通い合いがあったことはうかがえます。
さて、野上彌重子に関しては、彼女が中勘助のことを愛していたということは、当人の日記や安倍能成宛て書簡などから、あきらかになっています。
この書簡は、彌重子が後年、中勘助が長いこと結婚しなかったのは、自分が野上豊一郎と結婚したからではないか、とふりかえっているものなのですが、それをどう解釈するかは、
「中勘助が一〇年、小石川の家を出て一年志願兵として入営、除隊後も帰宅せず野尻湖畔と湖上の孤島で人を避けて暮らしたのは、生家の複雑な事情によるだけでなく、弥生子への失恋と傷心のせいではないかと推測される。少なくとも弥生子自身はそう信じていた」(p.199 関川夏央『「一九〇五年」の彼ら 「現代」の発端を生きた十二人の文学者』)
「手紙のなかで、勘助への「愛の告白」が彼のその後の生活を左右する原因になったと書いているのは、彌重子の片思いによる思いすごしだろう」(p.354 富岡多惠子『中勘助の恋』)
というように、あたりまえのことですが、人によって異なります。
堀部功夫氏の論考では、中勘助が「小児愛者的傾向」のもちぬしではなかった根拠として、中勘助の書簡や小宮豊隆と安倍能成の対談に出て来る「幾代さん」という芸妓との関係を指摘してあります。もし「兄嫁との関係」を「明らかに」するような資料があれば、当然そちらをあげるのではないでしょうか。
小谷野氏がどのような意図でこの書評を書かれたのかは、今後出されるであろう氏の評論を待つしかないように思います。
至らない回答ですが、少しでも参考になれば。
御礼が遅くなってしまい、申し訳ありません。
丁寧に御回答を寄せて下さり、ありがとうございました。
参考文献も多数挙げて頂き、大変参考になります。
確かに、中勘助と末子の関係を決定付けるような、近親者の証言や日記等の資料が見つかっているならば、ロリコン説への強力な反駁として「中勘助小児愛者的傾向説の検討」で取り上げられるはずです。しかし(私も回答を頂いてから確認してみましたが)、そのような資料は登場していません。
この論文が発表されたのは2012年ですから、やはり現在ある資料では、彼らの関係を想像・推測することが限界のようですね。
質問をした後、何かヒントが見つかるのではないかと思い、中勘助が小堀杏奴に送った手紙をまとめて確認してみたのですが(『鴎外の遺産3 社会へ』、小堀鴎一郎ら編、幻戯書房、2006)、特に目ぼしい記述は見当たりませんでした。
しかし、同著に収録されている他の作品を読んだところ、小堀杏奴にも思うところがあったのではという記述が見つかりました。
例えば、自伝的な長編小説「冬の花束」では、ヴァイオリニストの林龍作が初めて会った中勘助と末子について次のように述べています。
「ねえ君、こんな事失礼な想像だらうか? 僕はあんな優しい、優れて敏感な魂をもつたお嫂さまが、長い間あのNさん(注:中勘助)と一つ家で暮してゐて、互ひになんにも感じないつて事はありえないと思ふよ」(p.507)
書簡によると小堀杏奴はこの小説が連載されることを中勘助夫妻に知らせているようですし、中和子は連載を実際に読んだという返事もしていますから、小堀杏奴は当然この一節を中勘助が読むことを想定しているでしょう。
つまり、林龍作が述べた台詞は、そのまま「本当はどうなの?」という小堀杏奴から中勘助に対するサジェスチョンだったのではないかなと思いました。
中勘助自身は末子について手紙で、
「姉もあなたをはじめ、いくたりもの方によく思つて頂いたことは、不幸中の大きな仕合せだつたと思ひます。私から御礼申上げます」(p.263)
と言うに留めていますが。
また同著には野上弥生子の事も少し載っています。
興味深いと思ったのは、小堀杏奴が『心』の中勘助追悼号に寄せた「再会」という文章です。
「納棺の日の帰途、私は同方向のN夫人[野上弥生子]の車に途中迄のせて頂いたが、車中N夫人は中さんが、作家としてまだまだ書くべき筈のものを書かずに過した怠慢を指摘して残念がられ私はまたそれに対して、故人から直接耳にした、『一番書きたいことは書いてはいけないこと』であることを説明したが、『当時の方も殆んど亡くなられたのですから』と、夫人はどこまでも中さんがそのことを小説の形式で書き残されることを望まれる御様子であった」(p.363)
野上弥生子の言う、書き残されなかった「そのこと」が何か、この文章から具体的に特定することはできません。
しかし、「当時の方も殆んど亡くなられたのですから」と述べているので、複数の人間に関する事実を野上弥生子は知りたかったのではないかと考えられます。さらに踏み込んで推測すると、それは野上弥生子の「告白」および中勘助と周囲の女性たちとの関係にまつわる事実ではないかと思います。
加えて、回答者様の引かれた「義姉さんとの親しみも、単なる親しみではないらしい」という一節を考慮すると、野上弥生子は、中勘助と末子が特別な関係であったことをいぶかしんでいただけでなく、それを事実であると信じ込んでいたようです。
以上、御礼ついでに長々と書いてしまいましたが、「彼らはこう推測していただろう、という私の推測」に過ぎませんね。
周囲の人間がいくら怪しいと言っていても、その推測の集積が事実に取って代わる事はないので、推測は一旦打ち切って小谷野氏の続報を待ちたいと思います。
終わりに、詳しく回答して頂いたことに重ね重ね御礼申し上げます。
本当にありがとうございました。
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