プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

ほとんど前回と同じ質問で、前回は↓
無の悟りとは、そもそも無を捨てることだ。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8527407.html

無を捨ててこそ無を悟れる。
この手の言い回しはありがたい本などによく出てくる解りにくい論理だ。
仏教ではこの手のばか丸出しがありがたい教えであり、哲学だと言う事になっているが、
よろしい。
私が教えてあげよう。

無である事こそ人として生きる全てだと教えられ、無に至る事こそ信仰だと教えられ、そして無を望む。
これだけだと、望みではないのだよ。
誰かから聞いた事を自らの望みだと解釈しているだけだ。
ここで、他者の意思からではなく、自らの心として無を望めば、無の境地に至る。
すなわち、現在の教えられた無を望む心を捨て、、新たに自らが無を望むのだ。
その完成は、自らの信仰心にたどりつく事であり、他者からそそのかされて、教えを後生大事に携えることではない。
そのようにして、今の自分を捨てることで、本来の自分を自覚する。
これでなぞなぞみたいな、旧来の論理の解説は終わっているぞ。
仏教は哲学であるとうのぼれ、至高の教えで世界宗教であるとうのぼれ、それでいて従来はこんな単純な解釈も出来ていなかった。
全く哲学になっていなかった。
自称弥勒菩薩の私が今初めて解き明かしたのだ。

さて、感想文でいいから研究をさらに進めるため、意見してくれたまえ。

A 回答 (18件中1~10件)

何を言っているのかよくわかりませんが、自分だけが正しくて他人は間違っているという思い込みにとらわれていることだけは理解出来ました。

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この回答へのお礼

ありがとう。
私には知性がある。
君達と違ってね。
君達はヘルヘイムの森に適応できないだろう。

お礼日時:2014/03/28 23:30

『無』を望むって


貴方、何処の世界の『エクスデス』ですか?
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この回答へのお礼

ありがとう。
悟りを望むと表現しても全く一緒だ。
君は下らん上げ足を取るようだが、悟る事を望むと言っても一緒だ。

お礼日時:2014/03/28 23:28

もっと分かりやすく教えて下さい。



出来れば、3行以内で。

この回答への補足

そう言えば質問主文から「欲望」というキーワードが抜けていたね。
君達は無の差地理に欲望を抱いているのだよ。
それを捨てると無の境地になる。
そのためにヘルヘイムの果実を食べて、現在を死ぬのだ。

補足日時:2014/03/28 23:39
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この回答へのお礼

ありがとう。
一行で済むよ。

君達の悟りは死である。

お礼日時:2014/03/28 23:32

善の導入か何かで解説されてましたよ。


私は臨済宗の住職さんが書いているブログを読んで理解しました。
どうしても判らない人に判りやすく説いたのが般若心経だとか。Wikiにもあったかな。

禅問答は、ある種の確認として行うだけであって、
本当に判らない人が多数いると言う話じゃありませんよ。

仏教は、
内容がわからずに悟れないのではなく、
訓練が足りずに、頭の回転が鈍いと言うところを問題にしているようですよ。

悟りを開くと知力や認知力が増し、あらゆる事に気が利くようになるそうです。

なので禅問答で行われる問答の答えを知ることではなく、
日常の全てに対して、過去の自分よりも知力が向上し、物事を上手く運ぶことが
できるようになる。この状態になりたいという話ですね。

「クイズに答えれたので悟れました」としても良いと思いますが、
自分の日常が華やかに変わるくらい、自分の頭が良くなってないと、あんまり意味
がないと思いますよ。

例えば、
柔道の本が難しいと言う人がいたとして、
柔道の本について理解できたということは、難しいと言う人に教えてあげれますが、
柔道が強いということじゃありませんよね。

しかも、日常で柔道を使わないのならば、これこそ無駄です。

悟りを開いた知性をどこにも使わないし、誰にもあてにされないようならば、
無理して悟る必要も無いでしょう。

ただし、あんまり思い込みが強くて、人より優れていたいと願いが強いと、
最後は頭痛がするようです。

「こいつこのままじゃ死んじまう」

と心配した人が、

「もとめてはいけない」

と言えば、

「もとめないと、手に入るんですか?」

と返してくる。

「こりゃ何言ってもだめだ」

と言う押し問答はあったでしょうね。

で、謎めいた言葉を残し、悟ったことにしたい(願いが強すぎて)人が、
同じように悟ったことにしたい人と話を続け、
更に謎めいた言葉を残していった。そういう人は昔からいたんだと思います。

禅問答に挑戦せずとも、過去から悟りの境地にある天才たちが、多くの学術的
発明やテーマを残しています。

こっちにトライして、常時答えを引き出せるようであれば、多分覚醒していますよ。

それが出来ない場合は、自称でしかないです。

過去から、今現在でさえ、次々と新しい発明をしている人が沢山います。

こちらの道に入って社会に貢献すると宜しいかと思います。

この回答への補足


それならば君はその時点で理解が出来ていて、その内容も記憶しているだろうから、ひけらかしてくれ。

これは喧嘩腰での。
理解できているなら自らの教養をひけらかせばよい。
しかし、そのありがたい言葉を、教えとするならば、現在の君は死をへて、初めて君自身になることを意味する。
それまでは奴隷で、生涯修行の日々だ。

補足日時:2014/03/29 23:52
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この回答へのお礼

ありがとう。
おや、そうかい。
過去に似たような事が言われていたかい。
それならば君はその時点で理解が出来ていて、その内容も記憶しているだろうから、ひけらかしてくれ。
該当のHPを張り付けても良い。
あと、後半には何か人生訓みたいな助言があるが、、君は聖職者を理解していないよ。
私は哲学の範疇に仏教を収めようとしているだけだが、聖職者ととらえられると、自助が基本で自覚がなけらば何もなしたことにならない、悟りについて、私を悟らしめてくださいと懇願されることは、金満新興宗教を開設することだ。
その場合は、求める事をやめなければ、満ち足りることはないとでも言う、君の自説と一緒だ。

お礼日時:2014/03/29 21:48

なるほど。

自己顕示や自分の生きた証への固執をなくせば、無になると。

インド哲学は宗教との区別があいまいとも聞いたことがあります。ですので、仏教は立派な哲学だったと思います。

哲学の世界では快楽を肯定するか節制を善いとするかそんな話が多いと思います。

やはり実際は快楽と幸せは違うように思えます。

物質をいくら集めても高くはならないと思います。高次の何かに向かうにはゴミだらけでは気が散ります。

無で何かの理想に向かう。それが大事なのでは。
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この回答へのお礼

ありがとう。
そうさの。
過去の狭い世界観では、世界は苦である、こうでなく、世間は世知辛い。
これだけだっただろ。
世界じゃなく世間なのだよ。
そんな狭い了見の限りでは、仏教が誇るダルマは有効であっただろうさ。

ところで私は今、酒に酔っていい気分で哲学しておる。
オカマを連れてこい。
明日でもいいぞ。
もはや無効だよ。

お礼日時:2014/03/29 21:52

執著を離れることを離れてこそ、執著を離れたと言える。


これとおんなじやな。言ってることは。違うかい?そうならば、もしその境地に至ったというならば、立派だよ。
誰に頼ることなく自らを灯て、歩いて行くならそれは立派な修行者だろう。
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この回答へのお礼

ありがとう。
そうか。
私の偉大さを認めるのだな。
そんな君達に与えられる栄誉は滅亡だ。
私は仮面ライダー「黒き明星」だ。
君たち赦されざる者どもを滅びに導く。

お礼日時:2014/03/29 21:54

貴方は何時も、貴方がいる

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この回答へのお礼

ありがとう。
ああその通りだ。
私は私であり、君は君だ。
私は君ではない。
君は私ではない。
すなわち、思いをはせることは欲望なのだ。

お礼日時:2014/03/29 21:57

 こんにちは。




 問題は なんのために
 ★ 無の境地に至る
 ☆ のか? ではないでしょうか。

 ここでは 残念ながら ほかの人とのカカワリ(あるいは 実際のマジワリ)については捨象されています。むろんそれは 一般的な内容をあつかうための推論を遂行する上で抽象しているのでしょうが それだけだとも思えない。

 あたかもおのれの主観がその内面において言わば完結しているというかのごとく 内向きである。と見ざるを得ないのですが どうでしょうか?

 つまりは 推論の過程を問うよりも 主題においての目の向かう方向が 次のようにやはり自己内面にとどまっていることに問題を見ます。
 ★ その完成は、自らの信仰心にたどりつく事であり、他者からそそのかされて、教えを後生大事に携えることではない。

 短絡して批判すれば
 ★ 自らの信仰心にたどりつく / 本来の自分を自覚する
 ☆ ことのあとが 問題なのではないでしょうか?





 いえいえ。じつは 《本来の自分を自覚し 自らの信仰心にたどりつく》ことは じつに・じつに 他者とのマジワリをつうじて その社会という交通(コミュニケーション)のあり方を問い求め 果ては そもそも存在どうしの関係(カカワリ)とはどういうことかを問い求める道において出会うこと。なのではないか?

 特には おのれの・そして同時に相手のそれぞれの意志を どう受け留めどうそれにこたえるか? この問い求めをあゆむ道筋において わたしたちはおのれの神に出会うのではないだろうか。わたしとあなたとのカカワリ――それは動態――をとおして それぞれおのれの神に出会うのではないか。


 無は 捨てても拾っても 煮ても焼いても いかように扱っても構わない。そうではなく 他者との意思疎通とそれによる共生 これが 問われます。
 そのつどの場と時とが すべてだとも言えるのではあるまいか。

この回答への補足

せっかく気を使ってもらったんで一つ付け足しとくよ。

 あたかもおのれの主観がその内面において言わば完結しているというかのごとく 内向きである。

これに関して、思い返せば恥ずかしいことも確かにあった。
それもこれも、アマテラスさんは気性の激しい女でね、彼女の愛に酔っていたことが原因だ。
神の前に方無しだったんだよ。
昔はね。
仮面ライダーを名乗る今は、仏とは何ぞやとやっていた昔と違って気が楽だよ。
今後は男子プリキュア路線で行くつもりだ。

補足日時:2014/03/29 22:32
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この回答へのお礼

ありがとう。
あなたの言う事は心得ているよ。

人と人がお互いに結ばれ、判り合うためには神を必要とし、神はその求めに答えている。
そのようにして人は人間となり、文明をきずいた。
ところが仮面ライダーの私に言わせると、信仰の結実を感謝する祭りが「滅びの宴」なのだ。

お礼日時:2014/03/29 22:02

Flareon様、こんばんは。




>「他者の意思からではなく、自らの心として無を望めば、無の境地に至る。
すなわち、現在の教えられた無を望む心を捨て、、新たに自らが無を望むのだ。
その完成は、自らの信仰心にたどりつく事であり、他者からそそのかされて、教えを後生大事に携えることではない。
そのようにして、今の自分を捨てることで、本来の自分を自覚する。
これでなぞなぞみたいな、旧来の論理の解説は終わっているぞ。
仏教は哲学であるとうのぼれ、至高の教えで世界宗教であるとうのぼれ、それでいて従来はこんな単純な解釈も出来ていなかった。
全く哲学になっていなかった。
自称弥勒菩薩の私が今初めて解き明かしたのだ。」

いっすね。
信教の自由を、侵害しないでね。
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この回答へのお礼

ありがとう。
君を今構想中の悪陰謀団の予備構成員に任命しよう。
いっすね、といったアイデアから発展させ、君独自の悪の陰謀を構想するのだ。
私は君の構想した悪事に責任を取らない。。
君の自己責任で悪事を働きたまえ。
すなわち君が望むままに、教祖様でも何でもこなしたまえ。
君はこの瞬間赦された。

お礼日時:2014/03/30 22:00

>すなわち、思いをはせることは欲望なのだ



貴方の手法では貴方の欲望は満たされない

何故なら貴方の充足は他人に決定権を委ねているから
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この回答へのお礼

ありがとう。
欲望は満たされるよ。
それは誰かに親切にしてあげることだ。

お礼日時:2014/03/30 22:01

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