アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

 ウィキペディアによると、言語学者として知っていた山田孝雄氏を「契沖、真淵、宣長以来の国学の伝統に連なる最後の国学者」とも評される。」と、書いてありました。

 経歴と業績から、理解できないわけではありませんが、この「契沖、真淵、宣長以来の国学の伝統に連なる最後の国学者」という言い方は、何処のどなたがいい始めたのでしょうか。

 また、山田孝雄氏を「最後の国学者」とする、決定的な業績は何であろうと考えるべきでしょうか。

 さらに、山田孝雄氏を「最後の国学者」とすると、同時代や近現代の他の思想家との違いは何でしょうか。

 多岐にわたる質問で恐縮ですが、何れか一問でも結構ですので、お考えや知識を教えてください。

 よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

僕は別にこの道の専門家ではありませんが、3つのご質問は、僕も「はてな?なぜそんなことが言えるんだろう」と思った疑義ばかりでした。



    名前に「文法」が付いたのは、山田文法、橋本文法、時枝文法、とあり、そのうちの一人に入ることはうなずけます。だから「国語学者」だとは思います。

    しかし、契沖、馬淵、宣長、に続く「国学者」とは少し向きも幅も違うように思います。また山田孝雄を「最後のXX」とすると、XXは死んだ、といった色々な不具合も出てくるように思います。

   まあ、僕に言わせると、こと日本に関するかぎり、ウィキペディアの内容は、英語のものより優れている場合が多いようですが、この例は、何時もそうとは限らない、と警告してくれるいい例のように思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

また、明晰な分析、ありがとうございます。

もし、他にも意見が浮かんだら、よろしくお願いします。

どうも、ありがとうございました。

お礼日時:2014/05/03 03:12

契沖・真淵・宣長ということで、まぁ、国語学研究の保守本流というか…



イメージとしては、山田孝雄の実証的研究姿勢とでも申しましょうか…真摯に、また古典の意味する部分を掘り下げての山田文法ということですよね。

問題は「契沖・真淵・宣長」という表現なのですが、簡単に言ってしまえば

契沖(実証研究)+真淵(古道)=宣長(国学)

ということで、宣長について言えば、国学を通じて日本という国を見つめるといったことで、山田孝雄を評するに、あえて宣長以来とする部分は、あくまでも宣長の弟子を自称する平田篤胤との差別化なのかな?という印象を受けます。
平田篤胤は、堅実な実証研究から離れ、神道神学の方面に舵を切るかの動きですから。

最後に、山田孝雄をして、最後の国学者と言わしめる部分ですが、これはやはり「国体の本義」でしょうかね?
古の心のありようから、日本という国を問い直す。これは宣長の『古事記伝』から継承される部分かと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

なるほど、「国体の本義」はうなづけますが、もう一つ深い考えには及びません.

どうも、ありがとうございました。

お礼日時:2014/05/03 03:14

NO2です。



どうだろう…「国体の本義」を書いたのですが、実は、山田孝雄の業績から、ちょっと色眼鏡をかけてみてしまう部分が多いにあり、本当に参考までなのですが、たとえば皇學館大學の学長に転身しますよね?
そして、ご承知のように、その後、皇學館大學は廃学ということで、現在においても、右の本格派ですよね?

ちょっとウィキを参考に整理したいのですが

独学で小、中学校教員検定試験(文検)に合格、小、中学校教員をへて

1907年(明治40年)文部省国語調査委員会補助委員
1920年(大正9年)日本大学講師
1921年(大正10年)日本大学文学部国語科主任
1925年(大正14年)東北帝国大学講師
1927年(昭和2年)同教授を歴任
1929年(昭和4年)には「日本文法論」によって文学博士の学位を授与される。
1933年(昭和8年)に退官
1940年(昭和15年)に神宮皇學館大學学長
1941年(昭和16年)神祇院参与、同年肇国聖蹟調査委員、
1944年(昭和19年)に学術研究会会議会員、同年貴族院議員に勅撰、文部省国史編修官、
1945年(昭和20年)7月には国史編修院長、同年愛宕神社名誉宮司となる
1946年(昭和21年)に公職追放された
1949年(昭和24年)仙台市に移り、国語辞典の編修に専念
1951年(昭和26年)に追放解除される。
1953年(昭和28年)に文化功労者
1957年(昭和32年)文化勲章を受章。また同年には富山市名誉市民にも推薦されている。
1958年(昭和33年)、結腸癌のために入院先の東北大学附属病院で死亡。85歳。従三位・勲二等旭日重光章。墓は富山市内の長慶寺境内にある

以上なのですが、神宮皇學館の学長就任と戦後ですね。この二つの地点の経歴に断層があるように見えるんです。

神宮皇學館学長以前は、それこそ国語学者なのですが、神宮皇學館学長就任あたりで、戦局も混沌としてきたのでしょうが、嫌な言い方ですが、保守系言論人の要素も見えてくる。そして、戦後は公職追放、そしてしばらくすると、今までの業績がみとめられ、広い意味での文化人になってゆく。

そうした中で、やはり皇學館の学長であった山田孝雄をして、特に「肇国聖蹟調査委員」この業績が、後の彼に対する評価の一端を決定づけている部分はあるのかな?とは思いました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

再答ありがとうございます

「最後」かどうかは、時代が永遠に続く以上、結局分からないでしょうが、「国学者」ではあると思っています.

「国語学者」でも良いと思うのですが、日本語の音韻に関する説明の中には、「国語学者」というよりも「国学者」と捉えたくなるような、推論があります.

 その部分に、踏み込んでいただけると、嬉しゅうございます.

 よろしくお願いします。

お礼日時:2014/05/05 04:15

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!