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まず現実を見れば分かります。
ユダヤもイスラムも争ってばかりではないか。
これらの中に人の道など微塵も存在しません。
キリスト教国家アメリカは日本に2発も原爆を落とし、ベトナムでは枯葉剤を蒔き続けた。
完全に人の道から外れている。
ヒンズーにあってはカーストに縛られ、レイプ事件ばかりが氾濫しているという。
人の道は無く、畜生ばかりである。
我が国にあっては何らの政治理念も持たぬ宗教政党が与党に紛れ込み、居座り続けている。
完全に人の道を踏みにじっている。

まず「宗教の前に人の道がある」のではないか。
如何なる神、如何なる仏であろうと人の道に優るものは存在しないのではないか。
 
 

A 回答 (7件)

>それは人の道ではなく、畜生の道という



そうだよ。

君の堕している道だ。
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宗教は教義の内容より、同業相手を見下したり引き下げたるすることで


いつも争いの種を作っているように思います。

それをやるなら、表看板が何であろうといくら変えようと
どこに入信しても根元は争う姿勢であり、攻撃体制ですよね。
それが宗教戦争の常でありますよね。


信仰を調べてみました。
命名字解より

「信」は《言部》に分類され、「誠也。従人従言。会意。」=「誠である。“人”と“言”に従って成り立つ。会意文字である。」と記す。
◆「信」の部首である「言」について、『説文解字』は《夊(チ、なつあし)部》に分類し、「直言曰言,論難曰語。従口䇂声。」=「直に発言するを言といい、論難するを語という。“口”と“䇂”に従い、“䇂(ケン)”を音とする。」と記している。(“䇂(ケン)”については未詳)。
◆また、「言」が「口」と「辛」から構成され、「辛」を“針”とする解釈が一般的である(下図参照)。
《字形成り立ち図:「辛」、「言」、「信」》

◆上図に明らかなように、「辛」は「言」と「信」の部首=パーツとなってはいるが、「辛」が意味するのは“針”ではなく、植物の種子である。例えば、ひまわりが花を咲かせた後に残る種子である。
◆山椒(サンショウ)や唐辛子(トウガラシ)、胡椒(コショウ)などの植物の実は香辛料として使われるだけでなく、漢方薬としても古くから用いられた。
◆そして、本来は種子を意味する文字であったものが、それが持つ「辛さ(辛さ)」から“からい”、“(涙が出て)つらい”という意味が派生したものである。
◆人の口から発せられた音を植物の実に例えて「言」という漢字が生まれ、それに「人」(=イ:にん偏)が加えられて「信」という字になったのである。
◆「信」は「申」に通じて「もうしのべる(申し述べる)」といういう意味を持つ。
◆そして申し述べたことに対する責任を負うというのが「信」の字義である。
◆ということで、以上が「信」という漢字の解字、成り立ちと字義である。



「仰」は《人部》に分類され、「挙也。従人従卬。=挙げるなり。“人”と“卬(ゴウ、ギョウ、たか‐い、われ)”から成り立つ。」と記す。
◆「卬」という字は、立った人と跪(ひざまず)くひとが向かい合う形に象(かたど)ったもので、跪くものが目上の者の話しを拝聴している様子を表している。
◆「卬」という字には、「たかい」、「むかえる(迎える)」、「たかぶる(昂る)」「あおぐ(仰ぐ)」、「」あおぎみる(仰ぎ見る)、「われ(吾)」などの意味があり、「仰」の古字でもある。
◆上述のように、「卬」という字には、幅広い意味があることから、“イ(にんべん)”を付けて「仰」、“之繞(しんにょう)”を付けて「迎」、“日(ひへん・にちへん)”を付けて「昂」というように、意味付けを細かくして伝わりやすくした。
◆これが「仰」の成り立ちであり、その字義は位置とか位のたかいものを見上げる、リスペクト(尊敬・敬意)を持つtぽいことである。
【主な意味】
[1]あおぐ(仰ぐ)。見上げる。
[2]あおぐ(仰ぐ)。尊敬する。敬意をはらう。
[3]公文書で通達文のタイトルに付ける文字。
[4]【日本】:仰(おお)せられる。仰(おっしゃ)る。[尊敬語として使う]。
[5]【日本】:仰(おお)せ。身分が高い人から出された、言葉や命令。
・・・・・・など。


偉いとされている人が、おっしゃった言葉なのでしょうが
信仰は「教えを鵜呑みにして疑いを持たず」であるなら
言われたことそのまま従うアホウでいろってことに感じます。

私が大切に思うのは「自分の道」であり、それは自分の中にあります。

人の道も、あらゆる教義も精査の対象ではあれども
外のものを崇めたて祀るという信仰は、個人的には必要としていません。

自身で咀嚼し、自身の力で自身の身になったものだけが
自分の道の一部となり、いずれも全体採用ではありません。

自身の外に掲げてあるだけにとどまるものは、本当に必要なのでしょうかね?

必要としてる人が採用するのは構いませんが
それは自分で考える力をなくさないの?と聴きたくはなります。


誰でも好きにするのはいいですが、争いの種は撒かないでほしいと思いますね。
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時に殺し合い、時に助け合う



それが生きる道、人の道
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この回答へのお礼

 
>時に殺し合い、時に助け合う

それは人の道ではなく、畜生の道という。
 

お礼日時:2014/07/21 17:37

そもそも宗教とは「神の教え」ということにしてモラルを説くものです。



昔は欲しければ奪う、気に食わなければ殺す、ヤりたければ犯すというのが当たり前でした。
が、「これじゃいかん!」と思った人が「神が言ってますよ」ということにしてモラルを説くようにしたわけです。
モーセの十戒は「あたりまえじゃん」と思うようなことしか書いてないですが、あえて言わなければならないほどアンモラルな世界だったわけですね。
「宗教の前に人の道」はなく、宗教が出来て人の道が出来たのです。

それはそれでいいんですが、神が乱立し、それを利用する政治家達が現れてから、今度は宗教同士の争いになっちゃったわけです。
結果、今の現実になっているのです。
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 お早うございます。



 話し合いに入ったなら 相手の言うことを聞いて 自分の考えをしっかりと答える。

 このことを怠るなら 人の道はすでに廃れています。

 ★ まず現実を見れば分かります。
 
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人の道様、こんばんは。




>「まず「宗教の前に人の道がある」のではないか。」

「「信教の自由」にも限界がある」、他者の人権を侵害出来ない。
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全ては 神の道に背き 人の道を走ったからの結果です



結果論に何を言っても過去なのだから仕方無い・・

だから 人の道を変える為に宗教はあるのです
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