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人間のあらゆる行いの中にあって、既成宗教に取り憑かれることほど愚かな事はありますまい。
まず宗教活動とは信仰、つまり完全に個人的な行いであるべきでしょう。
信仰は宗教の上に位置するのです。
ところが現実にはいつの間にかこれが集団行事となってしまった。
キリスト教も、イスラム教も、ヒンズー教も、仏教も、密教も・・・、およそ世界中のあらゆる既成宗教がことごとく全て集団行事となってしまったのです。
そして日本において仏教は完全に葬式行事化してしまった。

洋の東西を問わずなぜ現代宗教はかくもことごとく腐敗してしまったのでしょうか。
その理由はひとえに神の捉え方を完全に間違えたからに他なりません。
現代の既成宗教において神とは単に天国や極楽の管理人に他なりません。
だからキリスト教も、イスラム教もただ天国に行く事しか教えないのです。
天国に行くにはどーすれば良いとか、天国に行けない者は地獄に落ちるとか教えるよーになったのです。
そこには如何なる思想も哲学も無く、ここから宗教は腐敗し奇跡を説いたりするパフォーマンスが横行するよーになり、集団行事を始めるよーになったのです。

既成宗教ほどアホらしいものは無い。
皆もこれについては何の疑いも有りますまい。
 

A 回答 (13件中1~10件)

こんにちはです。




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まず宗教活動とは信仰、つまり完全に個人的な行いであるべきでしょう。
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「他者との関わり合いを含めて」ですね。
ただし、「みずからの信仰や考えを他者に強制してはいけない」。これは重要だと思います。


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信仰は宗教の上に位置するのです。
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「宗教=既成宗教or既成教学」の意味ならば、異論なしです。
ただ、「既成教学」のすべてを否定するつもりは、私にはありません。それを参考にする、手懸かりにする程度の役割は認めていいのでは、と思っています。


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ところが現実にはいつの間にかこれが集団行事となってしまった。
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これは、教団側だけではなく、信者側の責任でもあります。自分で考え、自分で追い求めるのが面倒くさいから、「おしえ」を上からいただくようになってしまった。この信者側の甘ったれた根性を直す必要があるのだと考えます。


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そして日本において仏教は完全に葬式行事化してしまった。
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そうだ、そうだ、もっと言ってくれ!!
仏教と葬式は、決して相容れない存在。
仏教は、本来、死者のためのモノではなく、生きている人間のためのモノだろうが!!


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洋の東西を問わずなぜ現代宗教はかくもことごとく腐敗してしまったのでしょうか。
その理由はひとえに神の捉え方を完全に間違えたからに他なりません。
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そうそう。
「既成教団と信者の両者がともに神の捉え方を間違った」のだ。
信仰とは、ほんらい、「自分と神さまのあいだでのみ成立するモノ」。
けっしてヒトを頼ってはいけない。


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現代の既成宗教において神とは単に天国や極楽の管理人に他なりません。
だからキリスト教も、イスラム教もただ天国に行く事しか教えないのです。
天国に行くにはどーすれば良いとか、天国に行けない者は地獄に落ちるとか教えるよーになったのです。
~~~~~~
《極楽往生》や《天国に行ける》、そんなことはどうでもいいことだ。
《神》や《仏》との関係性が結ばれている(あるいは、そう錯誤しているの)ならば、そんなことは些細なことにすぎない。
《無間地獄》や《ゲヘナ》の火で焼かれようが、「そんなこと、知るか」という覚悟が必要だと思っています。


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既成宗教ほどアホらしいものは無い。
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わたしは、必ずしも既成宗教の存在を全否定するつもりはありません。
信仰への入り口として、既成宗教は存在して然るべきだと思っています。
ここが、ひとのみちさんとわたくし・眠り猫の違い。
ただし、教団への、時に恐喝や脅しまがいの強制的な入信や布教活動は論外だと思っております。

また宗教からの脱退や退会なども、自由であるべき。
「うちの宗教をやめたら、あなたは、確実に地獄行きだ」とおどして、脱退や退会をやめさせようとするなど論外。
やめようとする信者を数人で取り囲み、長時間拘束して説得に当たることなど、言わずもがな。
こりゃ~、立派な犯罪行為だろうが、ボケ!!
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この回答へのお礼

 
こんにちは。

>わたしは、必ずしも既成宗教の存在を全否定するつもりはありません。

なるほど、さよーですか。

しかし既成宗教について行けなければ、自分で作れば良いだけのことでしょう。

実際その結果、[人の道」とアルケーの神は生まれたのでありまして・・・
 

お礼日時:2012/11/03 18:46

おっしゃるとおりだと思います。



ただし、個人的な行いである限りは、意義があると思います。
自分で方法論を取捨選択して、自らの人格を向上させるための修業を、日々実践するのは非常に有意義だと思います。
そのためには、各宗派のつまみ食いが許されることが必須です。
出入り自由と言うことです。

逆に、他力本願は、諸悪の根源だと思います。
信じる者は救われる。
何の努力も無しに、神にすがれば良い。
ただ、お題目を唱えさえすれば天国に行ける。
そのような甘い考えでいる人々が、宗教を腐敗に導いたのでしょう。

人の道さん大好きです。
あ~。アルケ~。あ~。
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既成宗教なんて


「周囲の大勢がやってるから」
それだけでしょ。

何を求めて何を信仰するのか
そんなことすら考えることなく流れでやってる。

ちょっとTVで身体にいいと報道されると
わけもわからずその結果だけを求めて群がる。

そんな考えない人ばかりだからこうなる。

余計な苦労せずに楽に過ごしたい。
枠に外れず大勢と同じような人生を送りたい。
飼われているだけと気づけない幸福。
むしろただ飼われたいのかもしれない。
その一つが、ある程度認められた既成宗教。
その生き方を否定する気はないけれど。
そこに進化はない。

結局、「長いものには巻かれろ」というのが
世界一普及している根強い信仰なのかなと。

その局地的な長さもよく理解できていない
理解するつもりもないのだろうから、救い難い。
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人の道さん、こんばんは




「形骸化」してしまったら、そうでしょうね?
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この回答へのお礼

 
kurinalさん、こんにちは

>「形骸化」してしまったら、そうでしょうね?

既に形骸化しております。

お礼日時:2012/11/05 06:33

   


>木造建築の難点は火に弱いこと、それと宮大工は今では工芸家の類になってしもーたし。

江戸時代と違って、現代の生活は喫煙を含めて家の中で火をつかわんようになってきたので、木造建築の時代になったのですがな。

なにも、宮大工だけが木造建築を造るわけではござらんよ。
フィンランドなど、宮大工は一人もおらん国だが、10階建てのオフィスビルを木造でつくっておる。
時代の最先端なんだが、これは鉄筋コンクリートよりも緻密な計算と緻密な作業が必要ではある。
つまり、日本人向きなんだね。


>もー昔には帰れん。いつまでもレトロを追い求めていてもしょーがないんでは。
 
昔に帰るんじゃなくて、未来に進むんじゃ。
再生可能な木材資源を使って、人間らしい癒しのある建築物に覆われた未来の都市を造るんじゃ。
そのためには、せめて、目先の利益を追わないで済む宗教団体ぐらいは木造建築を推進してくれな困る。

歌舞伎座の解体、再建築をみればわかるじゃろうが、コンクリート建築ってのは30年しか持たんこともあるんだよ。
日本は原発を止めて、天然ガス発電でCO2を沢山排出することに決めたそうだが、せめて、建築分野ではCO2を沢山排出するコンクリート建築を自粛して、CO2フリーの木造建築を推進したいもんじゃ。

既成の宗教に応援してもらいたいなぁ。
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この回答へのお礼

 
>再生可能な木材資源を使って、人間らしい癒しのある建築物に覆われた未来の都市を造るんじゃ。

内装だけ木造仕上げではダメなのかな。

鉄筋コンクリート構造で内装だけ木造仕上にするとか。

そーすると木にさわれる、癒しを感じる・・・かな?


 
 

お礼日時:2012/11/04 18:10

仏教や神道が立派な木造の寺社建築をしてくれたことで、日本の木造文化が発展したな。



戦後になって鉄筋コンクリートで寺社建築する様な宗教・寺院が出現したが、これは何の役にも立たない。不要だな。
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この回答へのお礼

    
木造建築の難点は火に弱いこと、それと宮大工は今では工芸家の類になってしもーたし。

もー昔には帰れん。

いつまでもレトロを追い求めていてもしょーがないんでは。
 
 

お礼日時:2012/11/04 16:01

>皆もこれについては何の疑いも有りますまい。



『あの世』を妄想定義して、現世から逃避する人たちの為にあるのが、現状の宗教だからだと思います。
そういう妄想定義を一切せず、『あの世なんかありません。人生は一度限りです。』と正論突破する宗教がない。

強いて言うならサルトル派が近いのかなぁ・・・


『あの世を妄想しない宗教』を、私は自分で模索している段階です。

『他人に布教するのではなく、自分の為の教え』ですけどね。

自分の教祖は自分ですから。
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この回答へのお礼

 
御回答有難うございます。

>『あの世を妄想しない宗教』を、私は自分で模索している段階です。

模索し真理を探求した結果、何がしかの成果物が生まれたのであればそれを世の中に提示するがよろしい。
 
そしてその結論に納得出来るのであれば、それを自分の宗教にすればよろしい。

例えば「オーサイの道」とかゆーて・・・
 

お礼日時:2012/11/04 09:12

No3のお礼、ありがとうございます。




~~~~~~
>わたしは、必ずしも既成宗教の存在を全否定するつもりはありません。

なるほど、さよーですか。

しかし既成宗教について行けなければ、自分で作れば良いだけのことでしょう。

実際その結果、[人の道」とアルケーの神は生まれたのでありまして・・・
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わたしも、既成宗教に飽きたらず。。。。
いや違うな、既成宗教の抱える虚偽性や矛盾に気づいたが正しいな、
それで、「ネコの道」を求めています。
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この回答へのお礼

 
>それで、「ネコの道」を求めています。

ネコに生まれ変わって下さい。
 

お礼日時:2012/11/03 21:12

 そうとばかりは言えますまい。



 まず宗教が完全に個人的な行いであるべき、というのは違うと思います。
 そもそも人は他の人とつながっていてはじめて人であることができ、自分ひとりで完結するものではないはず。
 他者の存在を排した真理の追究など、ただのひとりよがりでしかないでしょう。

 また死者に手を合わせ祈る、という行為は、翻って自分の現在を律し、正常に保とうとする意思のあらわれでもあるでしょう。
 葬式を軽んずるのはいかがなものかと思います。
 葬式は人の死と間近に接する数少ない機会。
 そのとき手を合わせるということは、人にとって自分の存在を考える非常に重要で貴重な機会であり、軽んずるべきではないと思います。

 多くの既成宗教は、本当は神や仏なんぞ信じてはいません。
 人間の内面をこそ信じているのです。
 そして人間が内面を見つめ心を鎮めて、真理や幸福を追究するために、都合がいいから、神仏という概念を利用している。
 神仏とはつまり初めから、そのための方便にすぎないでしょう。
 ベテランの僧ほど、神仏それ自体よりも人間の内面の心について語ります。
 葬式をするのも、自分たちに行動規範を課し、それによって親族を集め死者との別れという行事を円滑に行おうとしているのです。
 あの世について語るのも、それによってこの世での人間の行動を礼節ある洗練されたものにし、人間社会をよりよくしていこうとする思いの表れでしょう。
 私はそれはとてもよくできたシステムだと思いますし、そういう行事を全くしない、敬虔な気持ちになったことがない人間のあふれるような、死者をそのへんの道端にうち捨てておくような世界はいやですから、既存の宗教も大切で、腐敗しているとは思いません。

 奇跡を説いたりパフォーマンスをしているのは一部の新興宗教だけであって、静かに手を合わせ供養しようとする古くからの宗教が腐敗している、とは思いません。

 腐敗しているとすれば、宗教それ自体ではなく、それを利用する人間だと思います。
 愚かな狂信者は教義や律法に縛られ、他者を排除して攻撃し世を乱します。
 自分の復讐心を満たすために宗教を利用し、何の見解ももたぬ無知な人間を煽動します。
 宗教は人のために生み出された道具であって、人が宗教のために存在するべきではありません。

 なんにせよ、私たちは宗教の存在意義について、どういう意味合いで、どんな利点と欠点があるのか、もっと良く知り考えるべきですね。
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この回答へのお礼

 
御回答有難う御座います。


>葬式を軽んずるのはいかがなものかと思います。


死者に手を合わせ祈ったり、供養したりするのは単なる儀式であるから簡単であり、世界のどこでも行われております。

簡単ではなくより重要なことは生きている人間を大事にし、殺し合うことのない世界を作ることではないでしょーか。
 

お礼日時:2012/11/03 19:33

逆に質問です。


既成宗教にそれだけ疑問をお持ちならば、本来の人類が育んできた古くからの宗教をあなたはどう思われますか?
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この回答へのお礼

 
>本来の人類が育んできた古くからの宗教・・・

人のいるところには必ず貧富の差が生まれる。

人のいるところには必ず争いが起こる。

人のいるところには必ず病が生まれる。

貧富の差も、争いも、病も育んだものではない。

人のいる所に自然に生まれ蔓延したのである。

宗教とて同じであり人が育んだわけではなく、自然に生まれ蔓延したに過ぎないのである。

もし宗教が育むことにより生まれたものであれば、宗教は高度な文明においてのみ存在するはずである。

しかし現実にはどのよーな原始社会であろーと、未開なジャングルの中であろーと、人のいる所には放おっておけば必ず宗教が生まれるのである。

宗教とはそのよーなもの、言わば人間にとって寄生虫の如きものなのである。
 
従って古くから宗教は育んできたのではなく、自然発生したとゆーべきでしょう。
 

お礼日時:2012/11/03 19:22

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