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嫌なことがたくさんありなにかに縋りたいです。

宗教とは自分が選んで信仰するものではないのでしょうか?
例えば生まれた家が元々キリスト教だったとか。

また宗教活動は何から始めればいいのでしょうか?
仏教やキリスト教の本をみたことがあるのですが教養のない自分にとっては言い回しだったり過去の歴史などよく理解できませんでした。

うまくまとめれないのですが回答お願いします。

A 回答 (15件中1~10件)

自分を信じることだと思います。

能力は限られていて、過ちもおかしますが、それが人間です。努力が報わなかったとしても次のチャレンジを怠らないことでしょうね。宗教は不要です。
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創価学会 壮年部の者です。



>嫌なことがたくさんありなにかに縋りたいです。

縋る事で貴方の抱える問題が解決するのであれば、縋れば良いと思います。
しかしながら、世の中に存在する“宗教”というものの大半が何ら意味を持つものではありません。
本来、宗教というものは、縋るものではなく、自己変革していくものなのです。
仏教で『色心不二』という論理がありますが、自身の心(命、魂とも言えます)と自身の表情や行動、地域社会や環境が連動している事を説いています。目の前の悩みにしても、自身の心を本として現れているのです。逆に、それらを変革するためには、先ず自身の心を変革すれば良いのです。そうする事で、環境も変化するのですから。


>宗教とは自分が選んで信仰するものではないのでしょうか?
>例えば生まれた家が元々キリスト教だったとか。

その通りです。多くの人間は、家系により受け継がれた“宗派”に属します。日本においては、宗教的教育は学校ではなされないため、宗教の正邪については全くといって良いほど関心のある人はおりません。また、数多く存在する“宗派”の中で、正邪を見分けて入会する人も少ないでしょう。入会に至るきっかけは、「友人からの紹介」や「書籍を読んで共感した」とかいう事だと思います。貴方が仰るように、本来であれば、ご自身が納得して入会されることが良いと思います。

>宗教活動は何から始めればいいのでしょうか?
>仏教やキリスト教の本をみたことがあるのですが教養のない自分にとっては言い回しだったり過去の歴史などよく理解できませんでした。

宗教活動を始める・・・ということは、『何かの宗派に属する』ということから始めなければならないので、ここで言われているのは、その前段階であると思います。それは、入会する前に『良く話を聞く』ということです。その上で、選択すれば良いと思いますよ。近くの教会とかお寺とか会館とか、訪ねてみるのも良いかと思います。
手前の事ですが、創価学会には『会友制度』というものが有ります。入会する前に会友として会合への参加や信仰体験ができる制度です。もし宜しければこういった制度を利用しても良いと思います。
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宗教に縋りたいという気持ちは、分からないでもないのですが、本来、宗教の目的とは、我々にある基本的というか、根幹となる重要なもの、つまり、人間として絶対に知っておくべき貴重な情報を教えようとしているのですが、それは万人誰もがその自身の内にすばらしい特性を持っていて、それを発揮させることによって、あらゆる所願は満足し、あるいは、いかなる困難をも克服していくことが出来るというもので、つまりは、早い話が我々にとって『鬼に金棒』たる自身の宝の存在を教えようとしているものなのです。



そして、この自身の宝とも言うべき特性に自ら気付き体現したのが釈迦であり、そのことを他の人々にも知らしめようと始めたのが仏教であり、その真髄が説かれているものが『法華経』なのですが、それは今から2800年程前のことであり、それ以後のユダヤ教やキリスト教、イスラム教はそれぞれが『神』というものを説いて、それに依拠することを人々に強いていますが、これでは自分の幸福を自分以外のものにゆだねることになり、云わば他力本願の御すがり信仰でしかなく、本来、内在する宝に気付くこともなく、結局は自身の宝が発揮されずじまいで宝の持ち腐れとなってしまうことになるのです。

ですから、本来、宗教とは、自らが持つすばらしい宝の存在を覚知して、それを発揮させてその人生に自在に活用するためにあるのであって、決して単なる精神修養とか気休め、あるいは盆や正月、葬式等の儀式のためのものではないのです。ともかく、どこかの宗教家や僧侶の難解な仏教解釈等で混沌としている人々も、この一点さえハッキリと認識できれば、霧中のような漠然としていたものが晴れて、宗教や信仰等に対しての明瞭な視点を持つことができるかと思われます。

つまり、宗教や信仰とは『宝の持ち腐れ』状態の自身の宝を活用できるようにするためのもの、との明確な目的や意志が持てれば、誰だって欲がありますから、せっかく持っているものなら発揮させないともったいないと思って、宗教や信仰に自発能動的になるのではないでしょうか。

ともかく、神仏等に対する御すがりや他力本願的信仰を主旨とするのはエセ宗教であり、つまり、「何かに幸せにしてもらう」のではなく「自力で幸せになる」ことができる能力を誰もが持っていることを教え発揮させる『自力本願』の『法華経』を先ず勉強されればよいかと思われます。もちろん、『法華経』を拠り所として活動している信仰者にわからない点等を聞かれてもよいし、今回のようにネットで『法華経』について調べられても良いかと思われます。

結局、自分の本来の価値に目覚めさせることこそが真の宗教の役割かと思われます。
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宗教の必要性とは、基本的に人間の力ではどうしようもない問題があり、その解決を人間以上の力に求めることにあると言えるでしょう。



ゆえに、人間以上の存在者、神とか仏とかそのような者との接触というふうにも言えます。

それで、そのような存在者、例えば、神、神様がいるとして、祈りを聞いてくださり、導きを与えてくださるというのであれば、まず、そのような神に祈ってみることができると思います。もし、そのような神がおられて、その祈りが聞き入れられるものであれば、何らかの「答え」があることでしょう。

とはいえ、その「答え」は、スピリチュアルとか霊感とか、そういうものではないと思います。しかし、その答えが到来した時、「確かに神様からの答えだ」と感じることができるようにはしてくださるでしょう。

ですから、まず、「神への祈り」。これが宗教活動の第一歩でしょう。
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No.2です。


先ずは、太陽のアナレンマ(八の字運動)あたりの理屈から学んだらいかがでしょうか?
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この回答へのお礼

ありがとうございます!

やりがいありそうですね!調べてみます!

お礼日時:2012/10/08 17:55

NO.4 です。

補足を頂きましたのでもう少し勝手なことを書かせていただきます。

>>ひとが一番重要な自分の心の芯を他者にゆだねてしまうことだからです。でもそれが必要なひとたちも世の中にはいると思います。

>必要な人とはどういう人ですか?

宗教へ入っていける人は「神のしもべ」になることに何の疑いも持たない人です。どんな宗教であれ、これは絶対だ、疑うことは出来ない というものが存在します。神がそうあなたに命じたら自分の子供ですら生贄に捧げてしまうというような不条理が行われます(それはそれで彼らにはこころも体もとろけるようないい気持ちになるらしいのですが、私はまやかしだと思っています)。貴方よりも重要なものが貴方の中に出来るということに貴方は耐えられますか?そういうことが疑問なく出来るひとたちが世の中には存在するのです。そしてそれはまじめに考え抜かないことを可能にするので結構気楽なことなのですが、プライドの高い貴方にはそういった世界には入っていけないだろうと私は考えます。こちらのほうが間違いなく茨の道ではあるのですが、そうでなくてはならないというまじめな気働きが彼らには起こらないのでしょう。だから彼らには地獄へ落ちる代わりに宗教が必要なのです。


>趣味や芸術なんかも興味のあることには手を出してみたのですが、どれもしらけちゃってハマれないんです。

しらけるということそのものが現代人の知性の働きだと私は思います。何か身にあったものがあると思います。ご自身を信じることです。
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この回答へのお礼

再度ありがとうございます!

理解出来ました!

お礼日時:2012/10/08 17:54

カルトや極端な原理主義などを除けば、どんな宗教でも自分の感覚にしっくりする神様を信仰すればいいのではないかと。



宗教活動というのは、結局のところ、神様の存在を通して自分を見直す、自分に向き合う作業だと思います。神様や教義というのはその手がかりです。

言いかえれば、別に宗教ではなくても心理学や哲学を通して自分に向き合う事も出来る訳ですよね。

でも、神様の存在を持っていることで気分が楽になる事はあります。
私自身は受洗してまだ二年目のクリスチャンです。
色々なことがあり、教会の門を叩いてから洗礼を受けるまでに四年かかっています。
教会の中に入ると、それはそれで色んなことがあり、全てが素晴らしい……という訳でもありません。
でも、神様を自分の中に持つことは悪くない……とは感じています。

ただ、勘違いしてはいけないのは、
神様が全てを解決してくれる、神様が入れば苦しみから解放される……という訳ではない。
人間、生きて行くのは楽なことじゃない。
神様を自分の杖として、自分の足で人生を歩むしかないのです。

あなたが自分の神様に出会って、前向きに歩いて行けることを祈っています。
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 こんにちは。



 宗教は 個人にとっての信仰が 蝉の抜け殻のごとくなったものです。

 信仰は 動態としての信仰の そのつどの現在過程です。

 そこで得た観想などを文章にしてしかもわざわざオシエとしてしるしたものが 宗教です。成文でなくても 儀式や慣わしとして 人びとのあいだに伝えられて行くその内容です。

 ところで信仰とは 自分がえらぶのではなく 人間としての自分が――何ものかによって――えらばれるということです。

 というように峻拒されたときになお問い求めるものは 信仰なのでしょう。

 そのためには 何の用意も要りません。求めるか求めないかのみです。
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宗教というそれぞれの「箱物」を求められるよりも、


宗教が提示してくれている「教え」に焦点を合わせられてはどうでしょうか。
「教え」や「言葉」ということで探すと、
宗教だけでなく、
私たちを励まし、元気づけてくれる「教訓」とも言えるものがたくさんあります。
それらは人々が苦悩のうちに生み出したものであることが多いので、
より私たちの役に立つものです。
不愉快なことが起きる理由は何か? について追求することも、
自分の考え方や生き方を180度変えるきっかけになるものです。
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貴女が日本国内に住んでいるならば、仏教が一番条件が整っておりますので、仏教から勉強しましょう。



近隣のお寺を訪ねて、そこの坊主に「肉食妻帯は出家坊主に許されることでしょうか?」と訊いてください。

「出家坊主が肉食妻帯をしても良い」という答えが返ってきたら、それは本物の仏教ではありませんので、別の寺を当たりましょう。

「肉食妻帯は在家信者だけに許されるもので、出家信者は肉食妻帯をしてはいけない」との答えが返ってきたら、その坊主は本物の仏教徒です。この坊主に、仏教とは何か、仏教徒は何をしなくてはならないか、そして、なぜ仏教徒が幸せになれるのか、などを教えてもらうのが良いと思います。
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