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どうだったのですか?
あれでモンンゴル騎馬民族から領土は守れたのですか?

A 回答 (4件)

 #3です。



>今でも万里の長城が国境なのでしょうか?

 北京側からみて、万里の長城の向こう側は新疆ウイグルや内モンゴルですので、万里の長城は現在の中国国内にあります。ですので、補修して観光客を集めても中国国内の問題であり、対外的に何ら問題を生じません。もし今でも国境であったなら、補修費用や観光収入で面倒な問題が生じたでしょうね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます
内モンゴルの意味が分からなかったので流石にそれは自分で調べてみます
謝謝

お礼日時:2014/09/04 21:47

 初期の長城は春秋・戦国時代からあり、ごく簡単な工法(粘土質の壁)で、高さも低かったようです。

目的は騎馬でそのまま侵入されるのを防ぐためです。侵入可能な主な進路上に、馬では飛び越えられない程度の高さの壁があればよかったのです。

 その程度だと割り切るなら、効果はあったといえます。速度があり、突進力がある騎馬兵の大部隊を一時的にせよ停止させれば、歩兵でも反撃可能ですし、勝てないとみれば退却も可能になるからです。

 春秋・戦国時代が終わり、統一した秦は長城建設に励んだようですが、短期王朝であるため評価が難しいです。次の漢になると、国力が充実するまでは長城を補修して防衛的な態度を取ります。しかし、第三代の武帝の頃になると、北方に対して積極的な軍事行動を取るようになり、長城は無用になって補修もされなくなります。

 そして漢の力が衰えて来ると、また長城を補修して防衛的になります。漢に続く諸王朝も国力に応じて、同じ繰り返しです。しかし、北方諸民族も攻城に長けてきて、長城はだんだん頼りにならなくなってきます。

 モンゴル帝国が勃興する頃になると、多少の城壁では何ともできなくなってきます。モンゴル帝国、さらに元ですが、抵抗、叛逆に対して徹底的な殺戮で応じたとされる一方、技術者などは捕えて働かせています。攻城兵器も大規模、高性能のものを用いるようになりました。南宋自体に北方を領有したのは金ですが、長城を補修して元に備えたものの、ほとんど役に立たなかったようです。元が苦労したのは長城ではなく、水田地帯だったようです。水田は騎馬で駆け抜けられないからです。

 元はもともと北方が本拠地ですから、長城など要りません。元の次の明になると、北方からの侵略を恐れて、長城を本格的な工法で再建します。もう単なる壁ではなく、レンガを積んでの本格的な城壁です。これが現在、万里の長城として知られているものになります。要所には城塞も築かれたようです。しかし、軍事的に役だったとはいえなかったようです。一か所を除いて、北方に興った清に突破されています。

 では何の役に立ったかといえば、一つは国境の確定、もう一つは明の力の誇示です。北方民族も充分に明と張り合う力がないと思えるうちは、地平線の向こうまで続く立派な城壁を見れば、侵入するのをためらいます。その程度の効果はあったようですが、明の衰えがはっきりして来て、北方が、この場合満州族ですが、力を得てくれば、もう万里の長城など役に立ちません。実際、ほとんどの要衝が突破されました。

 清は元と同様、本拠地は北方ですから万里の長城を必要としません。万里の長城は荒れる一方になりました。清が終わるころになると、戦争も変わってしまい、城壁で守るようなことはなくなっており、万里の長城は軍事的な意味を持ちません。その後、遺跡として修復されるようになり、今はありていにいえば観光用ですね。

 以上を踏まえまして。

>あれでモンンゴル騎馬民族から領土は守れたのですか?

 時代が下るほど立派になったのに、時代が下るほど守れなくなってしまいました。初期はともかく、次第に北方に対しては国力の誇示によるこけ脅し、中国王朝側にとっては気休め、といったものになってしまったようです。
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この回答へのお礼

今でも万里の長城が国境なのでしょうか?

お礼日時:2014/09/04 20:15

建設が間に合って騎馬民族が攻めてきた場所には効果がありました。



建設の間に合わなかった場所は、自由に通られたので効果無しです。
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ほとんど意味が無かったでしょうね。

大人数でかかれば一か所通すのは容易です。
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