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 ▽ (ローマ法王に「宗教の国連」提案 イスラエル前大統領) ~~~
 http://news.nicovideo.jp/watch/nw1221182

 共同通信社 2014年9月5日(金)9時28分配信

 【ローマ共同】 ローマ法王フランシスコは4日、イスラエルのペレス前大統領とバチカンで会談した。ペレス氏は法王に、宗教対立などの問題に対処する「国連形式の宗教組織」の創設を提案した。ローマ法王庁(バチカン)が明らかにした。

 ペレス氏はカトリック専門誌に対しても、世界で起きている戦争の根底には宗教があると指摘し、神の名の下に人を殺害するテロに立ち向かうためには「宗教国連」が最善だとの考えを示した。

 バチカン報道官によると、法王はペレス氏の考えを慎重に聞き、関心を示していた。今後、宗教間対話の担当者が内容を検討するという。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (あ) スサノヲ市民社会( S 圏)の上に・第二階として アマテラス公民圏( A 圏)が乗っかっている。そのような《 S - A 連関制》として成る国家の上にさらに仲裁・調停などのためメタ・アマテラス普遍語を扱う機関として 国連がある。――こんなものが 果たしてふつうに・うまく機能するのだろうか?

 (い) シュウキョウは そもそも 個人の信仰とは別だ。信仰から得られたとは言え そのオシエを あろうことか 信じよと言う。人が信じるのは オシエではなく そのみなもとのナゾのほうだ。おまけに そのためのヒエラルキアとしての組織までをもつくった。――これは 支配欲に支配された人間が 好んで参加する組織でなくて ほかにどういう中身があるだろうか? 金儲けという目的のほかに。

 (う) イスラエルは ユダヤイズムのままでは やはり立ち行かないのではないか? なぜなら あたらしい契約――つまり無契約――へと脱皮しないことには 自己主張すら出来ないはずだ。なぜなら 聖書に《民族浄化》に似た殲滅作戦を神が命じているかぎり ナツィのショーアなる悪行を ほんとうには批難・批判しがたい。

 (え) 戦争は 《宗教》でおこなうものなのですか? シュウキョウを組織としてつくるのが ニンゲンであったように 戦争をもシュウキョウの旗を掲げるにせよ何にせよ やはりニンゲンが起こすに過ぎないのではなかろうか?



 ご教示を請います。

A 回答 (27件中1~10件)

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☆ (あ) スサノヲ市民社会( S 圏)の上に・第二階として アマテラス公民圏( A 圏)が乗っかっている。そのような《 S - A 連関制》として成る国家の上にさらに仲裁・調停などのためメタ・アマテラス普遍語を扱う機関として 国連がある。――こんなものが 果たしてふつうに・うまく機能するのだろうか?
~~~~~~~
すでに世界宗教者平和会議(WCRP)なるものが存在します。

http://www.masayogoto.com/wcrp.pdf

WCRPの目的は素晴らしいものだと思いますが、
お隣さんはこの会議でも、この会議に参加した宗教者の口を借りて、
「ウリたちに金を払うニダ、チョッパリ!! 謝罪するニダ!! チョッパリがいつも悪いニダ!! 宗教を抑圧してるニダ!! これは、世界に前例がない程ニダ!!」
と主張しております。

結局は、こうなってしまう(笑い)。



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(い) シュウキョウは そもそも 個人の信仰とは別だ。信仰から得られたとは言え そのオシエを あろうことか 信じよと言う。人が信じるのは オシエではなく そのみなもとのナゾのほうだ。おまけに そのためのヒエラルキアとしての組織までをもつくった。――これは 支配欲に支配された人間が 好んで参加する組織でなくて ほかにどういう中身があるだろうか? 金儲けという目的のほかに。
~~~~~~
日本の場合、広大な荘園領主となり、僧兵という私兵組織を作り、政治にまで介入した経緯があります。
チベットでは国のトップがダライ・ラマ。
イスラームではカリフ。
カトリックでは法王。
みんな地上の権力化している。

高野山では、「仏さま、オラッチの荘園に税金を納めない不心得な輩がおります。ここは仏さまの御慈悲で、ぶっ殺してください!!」という呪殺祈願さえ行われた。(願文が残っている)
ウチの実家の宗教は、真言。
真言はヤッパいいわ~、痺れるわ~♪



~~~~~~~~
 (う) イスラエルは ユダヤイズムのままでは やはり立ち行かないのではないか? なぜなら あたらしい契約――つまり無契約――へと脱皮しないことには 自己主張すら出来ないはずだ。なぜなら 聖書に《民族浄化》に似た殲滅作戦を神が命じているかぎり ナツィのショーアなる悪行を ほんとうには批難・批判しがたい。
~~~~~~~~
WCRPで行われた、イスラエルVSイスラームのやり取りをご覧ください。

モーゼス・ヘス
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC% …

テオドール・ヘルツェル
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AA% …

youtubeにある
イスラエル人の知らないシオニズムの真実

https://www.youtube.com/watch?v=aUV0sPelINM
https://www.youtube.com/watch?v=hNqZe2mv5jM
https://www.youtube.com/watch?v=yKklBqbgYgM
なんかは、とても参考になるのではないでしょうか。
全部で1時間くらいになりますが…。

シオニズムとナチズムとの親和性は非常に高い!!

この動画で
イスラエルの若者がヘルツェルの書き記したものを読み、
「これは、誰が書いたと思いますか?」と質問され、
「ヒトラー」と答えているシーンがあると思います。
そして、これがイスラエル建国の父である「テオドール・ヘルツェル」の言葉であることを知らされ、愕然としてしまう…。

シオニズムというのは、そもそも、そういうもんなんですよ。


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(え) 戦争は 《宗教》でおこなうものなのですか? シュウキョウを組織としてつくるのが ニンゲンであったように 戦争をもシュウキョウの旗を掲げるにせよ何にせよ やはりニンゲンが起こすに過ぎないのではなかろうか?
~~~~~~~
宗教の美名の下で戦争が繰り返されてきた。
そして、今現在、
「民主主義」、「自由」という新たな教え、新たな宗教、新たな神の美名の下で、戦争が行われている。


十字軍しかり、30年戦争しかり、ヨーロッパ列強の侵略、植民地支配…。
日本では、大東亜戦争!!



仏教、神道、ヒンズー教ならば、互いに喧嘩することなく、平和共存が可能だと思いますが、
一神教は無理でしょう(笑い)。
ユダヤ教、キリスト教、イスラームが自身の掲げる神、その宗教で神とされる神を捨てちゃえば、他の宗教と平和共存は可能になるとは思いますが…。


まず、
ブラゲロと仮面ライダー、そしてサナダムシが手を携えて互いに目指すべきは、キリスト教という既成宗教の根絶だな。
排他的なアルケーの輩と手を携えることは出来ないけれど(ニコニコ)。
この時、自由教は絶対に障害になろうかと思います。
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この回答へのお礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 ◇ すでに世界宗教者平和会議(WCRP)なるものが存在します。
 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 WCRPの目的は素晴らしいものだと思いますが、
 お隣さんはこの会議でも、この会議に参加した宗教者の口を借りて、
 「ウリたちに金を払うニダ、チョッパリ!! 謝罪するニダ!! チョッパリがいつも悪いニダ!! 宗教を抑圧してるニダ!! これは、世界に前例がない程ニダ!!」
 と主張しております。

 結局は、こうなってしまう(笑い)。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ええ。 このくだりに来て あれっ? いったいどうなってるの? と思いました。《国家総動員体制》のもとに国是は ゆるがないようです。



 けっきょく仲良しクラブの体裁をもった機関を置いておこうといったところでしょうか。
 ユダヤ人とムスリムとのあいだにも 領土をめぐって応酬があったようです。




 ◇ 〔* シュウキョウは〕 みんな地上の権力化している。
 ☆ しかも みなそれぞれ自分が《神の代理》〔相当のもの〕であると言っている。

 ◇ 高野山では
 ☆ これは 農民の一人が独りだけで批判をおこなった事件があったそうです。(高野山は 事実としての証拠がないと言っているようです)。

 あるいは
 ▼ (ヰキぺ:枡) ~~~~~~~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%A1

 §歴史

 古くから枡は存在したが、
 中世の混乱期には枡の規格が不統一となり、
 領主が多くの年貢を取ることを目的として、
 年貢を徴収・収納する際に用いる返抄枡(へんしょうます)・収納枡(しゅうのうます)と支払・給付用に用いる下行枡(げぎょうます)の2種類を用意しておくこと、
 ある特定量分とされている返抄枡より同一単位量とされている下行枡の方が実際の容量が小さくすることが、
 一般的に行われていたのである。

 高野山領のとある荘園においては、
 返抄枡1斗分の米をそのまま下行枡に移し変えると、
 実際には同じ量にも関わらず斗目(1斗を示す間隔・位置)が小さくなるために1斗7升と計量された(つまり7/17を1斗からはみ出した分として自己の手中に回収することが可能となる)といわれている(『鎌倉遺文』高野山文書)。
 ▲ (コトバンク:戸谷新右衛門 )~~~~~~~~~~~~~~~~~
 http://kotobank.jp/word/%E6%88%B8%E8%B0%B7%E6%96 …

【とや・しんえもん】

 生年: 生年不詳
 没年: 享保7.6.19?(1722.7.31)

 江戸中期の紀伊国伊都郡(和歌山県)島野村の庄屋。

 高野山寺領では,幕府公定の京枡よりも2%増しの讃岐枡を使用して年貢の増徴をしていたので,村民の困苦をみかねた新右衛門が,享保4(1719)年江戸出訴におよんだという。

 訴願は幕府の認めるところとなったが,新右衛門の身柄は領主である高野山に預けられ,寺では牢獄につなぎ,石籠詰めに処したという。

 民権家小室信介が明治16(1883)年1月,その墓に詣でて,佐倉宗吾と並ぶ義人と讃える祭文をよんでいる。<参考文献>小室信介『東洋民権百家伝』
 (藪田貫)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 高野山の側から反論はあるようですが。
 ブッダの道を説く坊主がニンゲンを《石籠詰めに処した》としたら 千年は浮かばれないでしょう。





 ◇ イスラエル人の知らないシオニズムの真実
 ☆ そうですね。一つ目の動画を見たかぎりでは けっきょくヤハヱーなる民族の神の揚棄を図っていたようなのですね。ユダヤ民族性からすっかり脱皮するというかたち。それが シオニズムのあたらしい国であると。




 ◇ この時、自由教は絶対に障害になろうかと思います。
 ☆ 《自由教》ですか。けっきょく資本主義ということですかね。

 ただ 市場経済は 必要なのでしょうね。

 あと やはり
 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 仏教、神道、ヒンズー教ならば、互いに喧嘩することなく、平和共存が可能だと思いますが、
 一神教は無理でしょう(笑い)。
 ユダヤ教、キリスト教、イスラームが自身の掲げる神、その宗教で神とされる神を捨てちゃえば、他の宗教と平和共存は可能になるとは思いますが…。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ については 煮詰めた議論としてやはり じんるいにとって一つの神をかかげるのがよいかと考えます。すべての神々が そこへと自己揚棄をするという方向です。《非知》なるナゾです。

お礼日時:2014/09/06 15:46

>こんなものが 果たしてふつうに・うまく機能するのだろうか?



「うまく行く」と言う定義によりますね。
現在の国連が「うまく行っている」と言う解釈なら、うまく行くかもしれません。


現在の国連もいえる事ですが、国連とは「中立な組織」ではありません。
シアターです。

シアターとは、政治の場の事です。
そのシアターで、アクターと言う国が、勢力を争う場。それが、国連です。
つまり、国連は場にすぎじ、自主独立性は全くありません。


現在の国連が「うまく行っている」と言う定義のひとつに、「シアターとして成り立っている」と言う状態がいえます。国連はシアターに過ぎません。シアターにとって重要な事は、シアターとしての役目を果たせているかです。国連の批判はあれど、国連は毎度世界の指導者が集まる有力なシアターである事は言えます。よって「国連はうまく行っている」と言えるでしょう。

結構多くの人が「国連が積極的に動くべき」とか、言う人がいますが、国連は単なるシアターに過ぎないので、それはあまりにも無知な意見と言えます。





「宗教の国連」も、「宗教の国連」と言うシアターの中に、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などのアクターが勢力を争う場に過ぎません。そのシアターとして「うまくいくか」どうかは、うまく行く可能性は十分あります。ただ、そのシアターが人類の宗教にとって、有益かどうかは全く分りません。




先ほど言いましたが、国連は場であってシアターに過ぎません。


そして国連ではグローバルスタンダードという勢力争いが起こっています。グローバルスタンダードとは、一部の強者(パワーズ)が提案した価値観に圧倒的多数の弱者がそれに従うと言う事です。現在の国連というシアターで、アクターがそのような勢力争いをしています。




たぶん、キリスト教が覇権者(ヘゲモン)となり、イスラム教やユダヤ教がチャレンジャーとなるのだと思います。仏教とかはただの弱者。いちアクターに過ぎないでしょう。


「宗教の国連」と言うシアターで、キリスト教やイスラム教のようなパワーズがいて、仏教やヒンズー教という弱小アクターがいると言う構図になるでしょう。そして、キリスト教が提案する「グローバルスタンダード」とイスラム教が提案する「グローバルスタンダード」の勢力争いになるでしょう。

政治の場としてのシアターという意味では、「宗教の国連」はうまく行く可能性はあります。しかし、宗教というコンセプトを見ると、「宗教のグローバルスタンダードの確立」は、「信仰の自由」と矛盾しないかはなはだ疑問です。






ただ、好意的に見るなら、どんな宗教でも共通価値観はあります。現在の共通価値観は、非合理的な暴力行為の否定です。テロなどの否定がそれに当たります。

イスラム教徒で、聖戦による暴力を肯定している連中はほんの一部で、多くのイスラム教徒はイスラムテロ組織を憎んでいます。イスラム穏健派、キリスト教徒、ユダヤ教徒も「非合理的な暴力行為の否定」は共通の価値観です。まずそこから「宗教のグローバルスタンダード」を作って行くと言う意味では、意義があると思います。


と、うまく行けばよいのですが・・・。
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この回答へのお礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。




 そうですね。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 現在の国連もいえる事ですが、国連とは「中立な組織」ではありません。
 シアターです。

 シアターとは、政治の場の事です。
 そのシアターで、アクターと言う国が、勢力を争う場。それが、国連です。
 つまり、国連は場にすぎじ、自主独立性は全くありません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 国連がうまく行っているとは思わないのですが とは言っても 《ユーナイテッド・ネイションズ》というわけではないですか。すでに言葉としては国家や民族が加盟国にあっては《統一されている》わけです。すでに地球なる世界には 《ひとつにまとまった国》があるだけなはずなのです。

 言いかえると 《アクターとなった国家がそれぞれ互いに勢力をあらそってもよいが その自分たちの国家は 国連という一つの国に統一されている》というのが ともかくのタテマエなのであると考えます。

 それなのに何の役にも立たないとすれば――慰安婦にかんする史実をていねいに問い求める作業すら人権委員会だったかでは おこなっていないようです―― いったい何を考えて行動しているのでしょう? となります。お金と労力の無駄遣いです。


 けれど現実には
 ★ 国連の批判はあれど、国連は毎度世界の指導者が集まる有力なシアターである事は言えます。よって「国連はうまく行っている」と言えるでしょう。
 ☆ と見るべきなのでしょうか。



 ★ 「宗教の国連」も、「宗教の国連」と言うシアターの中に、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などのアクターが勢力を争う場に過ぎません。そのシアターとして「うまくいくか」どうかは、うまく行く可能性は十分あります。ただ、そのシアターが人類の宗教にとって、有益かどうかは全く分りません。
 ☆ どうもそうらしいですね。
 
 回答No.1で紹介があった《世界宗教者平和会議(WCRP)》の場でも そういった同じようなことが起きているようです。



 ★ たぶん、キリスト教が覇権者(ヘゲモン)となり、イスラム教やユダヤ教がチャレンジャーとなるのだと思います。仏教とかはただの弱者。いちアクターに過ぎないでしょう。
 ☆ そうですか。もっとも 互いにそのオシエについて 相互の理解を深めて行くことは よいことであるかも知れません。
 
 つまりなぜなら
 ★ そして、キリスト教が提案する「グローバルスタンダード」とイスラム教が提案する「グローバルスタンダード」の勢力争いになるでしょう。
 ☆ というふうにいやしくも《スタンダード》が示されたなら その思想をめぐって 対話や討論あるいは互いの自由な批判が出来て ある程度は 話し合いが進展するかも分かりません。

 つまり 文章にしたものをめぐってなら 《勢力争い》は すでにお呼びでないと互いに認識し言い合って行くことが出来るかも分かりません。


 すなわち・取りも直さず・じっさいには
 ★ 政治の場としてのシアターという意味では、「宗教の国連」はうまく行く可能性はあります。しかし、宗教というコンセプトを見ると、「宗教のグローバルスタンダードの確立」は、「信仰の自由」と矛盾しないかはなはだ疑問です。
 ☆ というように 互いに共通の基礎としては あくまで《個人の信仰の自由を確立するために 自分のところのオシエは出来るだけつつしみ深く 自己を揚棄して 〈信仰の自由〉のためにこそオシエを表現しなおす》といった内容にならざるを得ないと考えられましょう。




 ★ 現在の共通価値観は、非合理的な暴力行為の否定です。テロなどの否定がそれに当たります。 
 ☆ ううーん。でも 暴力とは 《相手や他人の自由意志を踏みにじること》を第一の要件としているという認識は すでにどの哲学にあっても得られている結論(公理)であるかとは考えます。

 まぁ
 ★ イスラム穏健派、キリスト教徒、ユダヤ教徒も「非合理的な暴力行為の否定」は共通の価値観です。まずそこから「宗教のグローバルスタンダード」を作って行くと言う意味では、意義があると思います。
 ☆ というふうに進められていくことに何の反対もありません。
 

お礼日時:2014/09/06 16:10

こんにちは。




~~~~~~
 ◇ この時、自由教は絶対に障害になろうかと思います。
 ☆ 《自由教》ですか。けっきょく資本主義ということですかね。
~~~~~~
この《自由教》は、
kurinalismのことです(ポリポリ)。

 「(信教の)自由を侵害しないでね」
と、
前に立ちはだかってくる(ポリポリ)。




☆☆ については 煮詰めた議論としてやはり じんるいにとって一つの神をかかげるのがよいかと考えます。すべての神々が そこへと自己揚棄をするという方向です。《非知》なるナゾです。
◇ええ、ですから、一度、その神(観)を引っ込める必要があるのだろう、と考えます。

他の質問の回答で、
「実は聖女・マザーテレサは、とんでもない食わせ者だったのかもしれない。
ひょっとしたら、多くの人がバチカンに騙されてんのかもしれない…」
みたいなことをチョロッと書いてみました。

http://news.livedoor.com/article/detail/7496788/
http://www.hpo.net/users/hhhptdai/motherteresa.htm

何かと黒い噂のあるバチカンですから。
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この回答へのお礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 ◇ この《自由教》は、 / kurinalismのことです(ポリポリ)。
 ☆ 分かりました。悪気はないように思えるのですが。



 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ☆☆ については 煮詰めた議論としてやはり じんるいにとって一つの神をかかげるのがよいかと考えます。すべての神々が そこへと自己揚棄をするという方向です。《非知》なるナゾです。
  ◇ええ、ですから、一度、その神(観)を引っ込める必要があるのだろう、と考えます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは ちょっと大きな主題であるかも知れないので述べますが 弁証法過程を言う限りでは 自己否定は 思考としてはありますが じっさいの動態としてはつねに自己肯定の路線の上を行って もし一段高いところに進み得たならそのときには ふるい自己を棄てる。つまり もうそこにまでたどり着けていれば 〔その現在としての自己にかんしては〕自己否定する必要がなくなっている。

 ――あくまで 理想型ですが。・・・



 マザーテレサ神話。すでに昨年の記事ですね。
 ▲ (実は捏造?「マザーテレサ神話」) ~~~~~~~~
  2013年03月13日

 「マザー・テレサは、患者の痛みを和らげることはせず、痛みに耐えることを賛美して癒やすという、怪しげなことをしていた。多くの病人が、彼女の元を訪れれば、医師が治療をしてくれると思っていたにもかかわらず、彼女は、イエス・キリストの受難のように、痛みに耐えることは尊いことだと繰り返し言うだけだった」

 「人気が低迷しつつあったバチカンは、劣悪な環境で痛みに苦しむ人たちに『あなたは素晴らしい人間なのよ』と優しく接している、マザー・テレサのことをまさに“生きる聖女”だと大げさに宣伝することで、カトリックのイメージアップを図ろうとした」と指摘した。

 [・・・]

 カナダの宗教学専門誌「Religieuses」最新号で大学の研究者が発表した論文:衝撃的な論文であるが、マザー・テレサの人気は不動のものだとされており、カトリック教会への打撃はさほどないだろうと、米メディアは見解を示している。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは そこまでのこととしては知りませんでした。

 わたしがこの人について思っていたことは 信徒しての自分もしくはその活動がたたえられるように行動しているとは思ったけれど その栄光を神に帰すような振る舞いや思想を語っていないようだ。でした。これは 質疑応答の中でどこかで書いた覚えがありますので 言ってもだいじょうぶだと思います。

 ワチカンもからんでいるというところが ミソですね。

お礼日時:2014/09/06 17:01

 まず世界宗教者平和会議(WCRP)ですが、自分の印象で言うとこれは、どちらかというと自然発生的なものです。

しかし自然発生的なものに、実効力は余りないような気がします(悲しいかな)。原理原則から発したものは最も正統的であるはずなのですが、現実にはだからこそ無視される。有効なスポンサーも付かない。

 いま《宗教の国連》みたいなものが立ち上がるとすれば、それはそこまで具体的に唱わないかも知れないが、「現状の宗教闘争を鑑みて」みたいな前提を置くだろうと思います。具体的な時事問題を前提にした組織の方がインパクトが強い。

 いちおう欧州大戦の反省から出たのが国際連盟がだった。国際連盟は失敗し、その結果起こった第2次世界大戦を経た後に出来たのが、国際連合だった。EUは国際連盟と国際連合の思想的原型で、ヨーロッパ圏限定で、国際連盟/連合の理想化を思想的には目指しているように見える(現実には、問題山積だが)。もう一つ例をあげれば、インターポールもそういう具体的な事件があって今になった。国際裁判所も。

 いま《宗教の国連》ができれば、それはインパクトが強く有効なスポンサーも付くだろう。そして政争の場であるシアターになるだろう。それでも「無いよりは良い」ものになって欲しい。


 国際連盟も連合もなかった頃、セルビアはヨーロッパの火薬庫と言われ、そこから第1次世界大戦が始まった。20世紀後半になって、ボスニア・ヘルツェゴビナとユーゴスラビア(セルビア)問題があったが、国連は何とかそれを乗り切ったように見える。明石代表は失敗したが。


 国連は明らかに中立な機関ではあり得ない。それを言ったら、ノーベル賞選定委員会だってそうだ。特にノーベル平和賞については、明らかにその時点での世界情勢の都合が反映されている。


 いまウクライナ問題があります。今から100年前だったら、ロシアのクリミア併合時点で、NATO×ロシアの全面戦争が始まっていたとしても、おかしくなかったと思えます。しかし、そうはならなかった。

 人間は、ちょっとは学んだと思いたい。その意味で国際連合やその他の組織の影響はあった、と思いたい。その意味で、たとえ中立でなくても《宗教の国連》が出来るなら、有効に機能してもらいたい。スポンサー付きでもいいから。
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ まず世界宗教者平和会議(WCRP)ですが、自分の印象で言うとこれは、どちらかというと自然発生的なものです。しかし自然発生的なものに、実効力は余りないような気がします(悲しいかな)。原理原則から発したものは最も正統的であるはずなのですが、現実にはだからこそ無視される。有効なスポンサーも付かない。
 ☆ 《原理原則》が いったいどういうものか。これが はっきりしていればよいのですが。つまり 一般にも知られているとすれば よいのですが。

 この会議は 聞いてはいましたが あまりニュースにはならないか またはあっても インパクトがなかったように感じています。

 スポンサーですか。ついたらついたで その資金の出所の意向を無視することができなくなるのでは?

 いづれにしましても 悲しいかな よわいようですね。



 ★ 「現状の宗教闘争を鑑みて」みたいな前提を置くだろうと思います。具体的な時事問題を前提にした組織の方がインパクトが強い。
 ☆ なるほど。わたしは 理論と合わせて両方が必要であるみたいに思っていますが――だから クリスチアニズムとブディズムとの共通性を 《天使》をめぐって さぐろうとする質問をこころみにまづ挙げました―― 確かにそのいま火を噴いている問題について 世界中のその種の人たちが声を挙げれば それなりに効果はあるでしょうね。


 国際的な機関ないしその思想を挙げてそのあと
 ★ いま《宗教の国連》ができれば、それはインパクトが強く有効なスポンサーも付くだろう。そして政争の場であるシアターになるだろう。それでも「無いよりは良い」ものになって欲しい。
 ☆ という見解を述べておられます。

 確かに
 ★  いまウクライナ問題があります。今から100年前だったら、ロシアのクリミア併合時点で、NATO×ロシアの全面戦争が始まっていたとしても、おかしくなかったと思えます。しかし、そうはならなかった。
 ☆ というとき しっかりとした国際政治や国際法にものっとり歴史を踏まえた展望のもとに解決策が打ち出されるなら 世界は 注目するでしょうね。

 ★ 人間は、ちょっとは学んだと思いたい。その意味で国際連合やその他の組織の影響はあった、と思いたい。その意味で、たとえ中立でなくても《宗教の国連》が出来るなら、有効に機能してもらいたい。スポンサー付きでもいいから。
 ☆ ええ。そして ただ 韓国の宗教者は 相変わらず反日の姿勢は忘れないそうですし アラブとイスラエルとは 政治家どうしのあらそいとあまり変わらない様相だそうです。

 まぁ いろんな道を模索して行くことに 問題はなく のぞましいものとは思われます。



 しかし 国連の機関として出されたクマラスワミ報告は 何とずさんなものでしょう。


 
 

お礼日時:2014/09/07 20:55

こんばんは。



(あ)すでに少し話が出ていますが、何となく、宗教的良心の劇場のような感があります。アマテラス公民権のさらに上の場所で、宗教的名士(変な言い方ですが)が行儀よく対話して、実際の紛争解決にどれだけ具体的効果が上がるのでしょうか。あげられるのかもしれませんが、それは、実際にそのような組織ができて、実績を見せてもらわないと、何とも言えません。

(い)宗教学では、聖典、教祖、教団、この3つがそろって初めて宗教と定義するそうです。しかし私は昔から疑問を感じていました。この3つがそろってしまうと、個人の信仰、人間が本源的に有する宗教的感性から違うところへ行ってしまうのではないか、という疑問です。もちろん、宗教組織の中に身を置きつつも、自信の信仰を追求できる人はいるのかもしれませんが、たぶん非常に少ないのではないでしょうか。

(う)
>イスラエルは ユダヤイズムのままでは やはり立ち行かないのではないか?

この点については、私の専門分野の例を一つお話しします。ユダヤ系のピアニスト、指揮者でダニエル・バレンボイムという人がいます。生まれはアルゼンチンですが、現在はイスラエル国籍です。彼は、イスラエルによるヨルダン川西岸地区やガザ地区の占領に批判の声を上げ続け、イスラエルが「ある民族のアイデンティティと戦うことによって、倫理的な柱を失いつつある」と述べました。また、イスラエル陸軍ラジオの記者に対し、軍服を着た者とは話したくないとインタビューを拒否したところ、イスラエルの教育大臣から、「本物の反ユダヤ主義者」だと非難されました。イスラエル政府からは睨まれる存在のようです。彼は、オリエンタリズムで知られるパレスチナ系アメリカ人学者のエドワード・サイードと親しく、ともに、イスラエルとアラブ諸国の才能あるクラシック音楽の演奏家を集めて、ウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団(命名の由来は、ゲーテの「西東詩集」)を創設しました。もちろん、これらは政治的な活動であって、イスラエル人を無契約へ向かわせるものではないものの、宗教の国連よりは期待できるような気がします。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%8B% …

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89% …

(え)戦争は、「宗教を利用して」、ニンゲンが起こすものと考えています。

最近、回答したい質問があまりなく、しかも、せっかく回答しても、ほっぽらかしにする質問者があまりに多いので、哲学カテなどへ来て、身の程知らずの回答を重ねています。お許しください。
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ★(あ) ・・・宗教的名士(変な言い方ですが)が行儀よく対話して、実際の紛争解決にどれだけ具体的効果が上がるのでしょうか。あげられるのかもしれませんが、それは、実際にそのような組織ができて、実績を見せてもらわないと、何とも言えません。
 ☆ つまり 効果がありそうだという話を まづみんなでまとめて 世界に提示するのが先でしょうね。

 ねこさんの取り上げた世界宗教者平和会議(WCRP)では イスラエルの代表が パレスチナはやはりユダヤ人に神によってあたえられたものだと言うと アラブの代表は これに反対するといった応酬があるそうです。じっさいの政治の世界とあまり違わないのだとか。



 ★ (い) ・・・もちろん、宗教組織の中に身を置きつつも、自信の信仰を追求できる人はいるのかもしれませんが、たぶん非常に少ないのではないでしょうか。
 ☆ ええ。つまり そのように信仰は埋もれているだけかも知れないから その点を考慮しなければならないようです。

 しかも そのときにも 組織とは別に個人が信仰を保っているとした場合 それだけではなく それは けっきょくシュウキョウ組織とは何の関係もないと言ってよいほど 別個のものだと考えられます。

 個人の信仰は シュウキョウの組織やオシエとは基本的に別個に 存在するものである。という見方です。
 アブラハムがそうであったように。


 
 そしてモーセも 個人としては アブラハムと同じように信仰に生きたと思われるのですが ユダヤ民族という集団としては 信仰から得られたところのものではあれすでに 《信じる》ではなく《考える》ところのオシエつまり律法規範をも その秩序維持のために 打ち出しました。ここで シュウキョウが始まったと見ます。


 アブラハムは 神からその長子イサクをいけにえに捧げよという命令を受けました。これについて 悩みに悩み つらい思いにくるしみ 苦しみ抜いて得た結論は 《ひとは 他人をであれ自己をであれ ひとをころすものではない》という命題でした。

 このように信仰から得た命題を こんどはモーセが利用しました。いわく:なんぢ ころすなかれ。
 倫理規範とし オシエとしました。社会の秩序を維持するためというもんだいがありました。ここで シュウキョウが始まったと考えられます。




 (う) バレンボイムは名だけ知っています。サイードは 知っていて当たり前なはずですが 読んでいません。
 そうですね。
 ★ 彼は、イスラエルによるヨルダン川西岸地区やガザ地区の占領に批判の声を上げ続け、イスラエルが「ある民族のアイデンティティと戦うことによって、倫理的な柱を失いつつある」と述べました。
 ☆ の《「ある民族のアイデンティティと戦うことによって、倫理的な柱を失いつつある」》が 恥づかしながらよく分かりません。《ある民族》とは イスラエルのことを言っているのか。それとも パレスチナ・アラブなのか。

 《民族のアイデンティティと戦う》って どういうことですか? ユダヤ人が守ろうとしているその民族のアイデンティティーと イスラエルつまりユダヤ人自身が戦ったということですか? 

 ユダヤ人は ユダヤイズムの内に閉じ籠ることなく 外へひらかれて 多民族との共存を受け容れるようにせよ。ですか? それなら 分かりますし ふつうののぞみであると思います。

 わたしは ムスリムの人びとがまだまだ話し合いの社会を築くには時期尚早なように 単純に思います。ユダヤイズムと同じように イスラームの閉じられた輪を開くようになるまで 時間がかかるように 単純に思います。

 志向性としては だいたい誰もがいっしょであるようにも思います。




 ★ (え)戦争は、「宗教を利用して」、ニンゲンが起こすものと考えています。
 ☆ ええ。そうだと思います。


 哲学カテは どうですか。同じような質問が何度となく繰り返されているという一面もあるのですが。

お礼日時:2014/09/07 23:55

ある民族のアイデンティティと戦うことによって、倫理的な柱を失いつつある



というのは、確かに変な表現ですね。たぶん、日本語版ウィキペディアの書き手が悪いのだと思います。説明が短すぎるので、私は、「イスラエル人が、自身のアイデンティティを守ろうとするあまり、倫理的な柱を失いつつある」という意味に読んでしまったのですが、ちょっと違うようでした。日本語版を頼りにすると、いつもこういうことが起こるのですが、この件に関しては、ドイツ語版にも、英語版にも記載がありませんでした。それで、ほかの場所で少し見たところ、次のような対話が見つかりました。

バレンボイム ⇒ 最も驚いたことは、「他者」についてどれほどの無知が横行していたかということ。最近特に文化的な寛容性の欠如を痛感する。市場のグローバル化によって、どこもかしこも同じになっているにもかかわらず、政治紛争や民族紛争はこれまでになく根が深く、了見の狭いものになっているのはなぜか。

サイード ⇒ 理由は2つ。1つは世界的な画一化に対する反動から、アイデンティティを主張するようになったこと、第2は帝国の遺産で、撤退を余儀なくされると決まってそこを分裂させたためで、いずれの要因も、外国人嫌いとアイデンティティの対立という、現代に特有の極めて危険なものを生み出した。

つまり、イスラエル側にも、パレスチナ・アラブ側にも言えるということで、No.5に書いていただいたコメントが正しいです。
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この回答へのお礼

 なるほど。取りあえずは 人びとの生活基礎としての志向性 ささやかな先立つものとしてののぞみ――すなわち いのちのとうとさ と共生でしょうか―― このことを誰れしも共有するということで解釈しておきます。

 たすてんかすてんさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。



 サイードですが いつも紹介記事や解説する文章に出会うと そりゃあそうだが あんたがそんなことを声高に言ったとして その結果なにを求めているのか? どこへ向かおうとしているのか? と思ったものです。

 けっきょく食わず嫌いなわたしがいけないのですが それにしても 重要なことを言っているようで ついて行きづらい。ように感じています。

 せっかく紹介していただいたのに 辛味のコメントを書こうとしています。

 ▼ サイード ⇒ 理由は2つ。1つは世界的な画一化に対する反動から、アイデンティティを主張するようになったこと、
 ☆ 《世界的な画一化》――こんなことを 重要な問題についての答えを出すための解説において かんたんに言えることだろうか? と反発を感じます。

 グローバル化しつつも なおそれぞれの国では その伝統をつづけている側面を持つ場合もあります。サイードにしたところで 土地に固有の考え方やナラハシがぜんぶやがて無くなるだろうとは見ていないと思われるからには あまりにも論理的な見方によって幾何学的な事柄にものごとを還元してしまっているのではないだろうか?

 その画一化《に対する反動》――これも ただ物指しを当てて測りましたと言っているに過ぎないという感じをつねにあたえます。

 《アイデンティティーを主張する》――かんたんにこんな話が言えるのかなぁと思ってしまいます。外国の思想やナラハシだって これはよいと思って採り入れる場合さえ いくらもあるのですから。それにこの場合のアイデンティティーは個人のではなく 社会集団としてのなのでしょうから。


 ▼ 第2は帝国の遺産で、撤退を余儀なくされると決まってそこを分裂させたためで、いずれの要因も、外国人嫌いとアイデンティティの対立という、現代に特有の極めて危険なものを生み出した。
 ☆ これは 中東の人たちが 自治能力を持てなかったという反省をまづ先におこなって その上で――自国の再建設に邁進するその過程で――余裕があればちょっぴり 過去の・おまえさんたちのやり方はひどいではないかとかいう話を あらたな将来へと向かうために おこなえばよい。

 《外国人嫌い》というものは それをおこなう人間の度量と境地のもんだいです。おのれ自身をそれぞれ互いとの共生の中で深く広く耕していけばよいものを。

 何ごとについても外に――わるいことは誰れかほかの人たちの所為であるかのように その原因を外に――求めようとしてはいまいか?

 個人として内省的にしてかつ共生としては内生的なあたらしいチカラを堀り出して行く作業 そういったところに何故目を向けないのか? ――えっ? すでに向けている ですか? これは 失礼しました。ごめんなさい。(読んでないので 知りません)。

お礼日時:2014/09/08 09:44

こんにちは。


辛味のコメント有難うございます。こちらの方への回答は、No.6で終わりにするつもりだったのですけれど、ちょっと気になったので、補足します。
私自身も、サイードの著作を読んだわけではなく、バレンボイムとの関連で名前を知っているだけです。対話集も、書店で気にはなったものの、まだ購入もしていないので、

>そりゃあそうだが あんたがそんなことを声高に言ったとして その結果なにを求めているのか? どこへ向かおうとしているのか?

という点については何もお答えすることはできません。ただ、思想的には結構多くの人に影響は与えたようです。サイードが死んだ時の、多くの人による賛辞が、英語版のウィキにもありました。日本語版にも、

彼の死を知ったイスラエル人の歴史家イラン・パペは、「私のようなイスラエルのユダヤ人にとってサイードは、シオニズム国家で成長するということの闇と混乱のなかから私たちを連れ出し、理性と倫理、そして良心の岸辺へと導いてくれる灯台であった。」と追悼した。

とあるので、その思想がどんなものだったか、いずれ折をみて調べてみたいとは思っています。
そのあとの、アイデンティティーについて以下の部分についてbragelonneさんのおっしゃっていることは、それ自体は正論であると思うのですが、日本国内から外の問題として見ているのと、現地で身近に感じる状況とは、少し違ったものになるような気がします。実は、私がヨーロッパへ行ったのは、ちょうど社会主義が崩壊し、東西ドイツが統一した直後です。間もなく湾岸戦争も起きました。まだ語学がだめだったころなので、状況は把握できていなかったのですが、それから少しして、アイデンティティー、という言葉が出てきました。私の師が、「最近皆アイデンティティー、アイデンティティーというが、なんでかわからん」と言っていたのをよく覚えています。やはりそういう空気はあったのでしょう。

>それにこの場合のアイデンティティーは個人のではなく 社会集団としてのなのでしょうから。

その通りなのですが、社会集団としてのアイデンティティーの方が力があります。個人のアイデンティティーは、時として、社会集団のアイデンティティーに飲み込まれてしまいます。そういえば、ちょっと話がずれますが、別の方の御質問で話題になった、「個人主義のドイツ人がなぜファシズムになだれ込んだか」という件、この時代のドイツ人のアイデンティティーの根底には、ロマン主義があったといわれますね。戦後のドイツでは、それに対する反省から、芸術の分野でも、ロマン的なものを徹底的に排除しようという態度があったと思います。その結果、あまりにも理知的で、面白くないものになった。いずれにしても、行き過ぎはよくないということですね。

>グローバル化しつつも なおそれぞれの国では その伝統をつづけている側面を持つ場合もあります。

この点に関して、また自分の専門分野の話になってしまって申し訳ないのですが、音楽家としては結構危機感を持っています。世界中の若い作曲家が全く同じような曲を書いており、作曲者名を取り違えても大したことはないのではないかと思ってしまうことが多いです。自分の国の固有の文化を取り入れた仕事をしている人もいますが、主流とはなりえません。もしこれが、一国の文化全体の問題になり、政治的な力関係が絡んでくると、 「その画一化に対する反動」というのもわからなくはないのですが、どうでしょう。また、かつてのヨーロッパの帝国主義が、非ヨーロッパ圏の文化を評価する妨げになっていたということはあると思います。これも、ヨーロッパで感じたことです。「外国人嫌い」の問題も、おのれ自身の問題としてだけでは解決できなそうです。私のいたオーストリアは、もともと中立国だったのですが、途中で極右政権が支持されるようになり、ヴィザも取りにくくなってしまいました。
中東の問題ですが、私には、サイードが言ったことと、bragelonneさんがおっしゃっていることを比較して論じる力がありません。ただ、ここでもやはり、遠い日本から見るよりも、現地の人たちがどう思っているか、もっと知りたいと思うと同時に、宗教史、キリスト教やユダヤ教が、過去にどのようにイスラム教を迫害したのか、また、第1次大戦時のイギリスの外交など、知らないことが多すぎると痛感しています。

ところで、「空中の権能」に関して、ドイツ語のサイトで見つけたことを少し訳してお送りしようと思っていたのですが、そちらの方の御質問は締め切られていますね。「KY などの《クウキ》は 各国語でどう言いますか?」の方はまだ開いていますが、そちらに出してほしいということですか?御質問の趣旨とはずれてしまいます。どうしましょう?訳はまだ始めていませんが、夏休みが終わったせいか新着質問も減ったようですし、抄訳ならなんとかできます。

哲学カテは、内容についていくのは大変ですけれど、知らないことを勉強するいいきっかけとなるようです。
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この回答へのお礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 別の方の御質問で話題になった、「個人主義のドイツ人がなぜファシズムになだれ込んだか」という件、この時代のドイツ人のアイデンティティーの根底には、ロマン主義があったといわれますね。戦後のドイツでは、それに対する反省から、芸術の分野でも、ロマン的なものを徹底的に排除しようという態度があったと思います。その結果、あまりにも理知的で、面白くないものになった。いずれにしても、行き過ぎはよくないということですね。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ なるほど。この問題ですか。

 まづは ご回答をありがとうございます。

 振り子が極から対極へ振り切るかたちで 人びとが・社会が反応し反発するといったかたちは 好ましくない。というふうに取り上げたとき ねこさんからは あんがい日本社会はそういうふうにジグザグの過程を通って前へすすんで来たのだという意味合いの答えが返って来ました。

 まぁ 歴史的にも個人的にも必要で必然的な動きは 避けられないのかも知れません。


 

 ★ アイデンティティーについて以下の部分についてbragelonneさんのおっしゃっていることは、それ自体は正論であると思うのですが、日本国内から外の問題として見ているのと、現地で身近に感じる状況とは、少し違ったものになるような気がします。
 ☆ そうですね。複眼のごとく いくつかの視点を持つようにしましょう。




 ★ 音楽家としては結構危機感を持っています。世界中の若い作曲家が全く同じような曲を書いており、作曲者名を取り違えても大したことはないのではないかと思ってしまうことが多いです。自分の国の固有の文化を取り入れた仕事をしている人もいますが、主流とはなりえません。
 ☆ これは 二十世紀という問題ではないでしょうか? 昨今のグローバル化とは少し違うような。もっともその先駆けであるかも分からないのですが。

 けっきょく古典の標準であるとか 理念としての標準であるとか のぞましいところのものが 一つではなくなった。真善美なる物指しが ゆらいで来た。ピカソを世に送った美術界の人間たちが 世の流れに合わせてでしょうか バロックとはまた違ったいびつなものを 推し出して来た。

 《無意識》なる領域に人びとが飛びついた。

 けれども バッハとゴッホとは なおそれとしての良さの姿を示し続けているのではないでしょうか。

 現代人は バッハの音楽をつくれないのですか? つくらないのですか?



 ★ もしこれが、一国の文化全体の問題になり、政治的な力関係が絡んでくると、 「その画一化に対する反動」というのもわからなくはないのですが、どうでしょう。
 ☆ そうですね。これにつきましては やや反対の側にまわりますね わたしは。

 つまり 画一化が起こっていて これに反対するというときには ひとつにはその同じ画一的な流れの中でそのまま流れを推し進めつつ どこか違った場へ出て行くことになる。と思いますし。

 そして反対するなら その画一化の流れには 目もくれずに自分の進む道を行けばよいと考えます。画一化は放っておけばよいと考えます。――食べて行けるかの問題が あるかも知れませんが 基本の姿勢は そういうふうになるかと考えます。


 ★ また、かつてのヨーロッパの帝国主義が、非ヨーロッパ圏の文化を評価する妨げになっていたということはあると思います。これも、ヨーロッパで感じたことです。「外国人嫌い」の問題も、おのれ自身の問題としてだけでは解決できなそうです。
 ☆ これはそうなのでしょう。つまり それは ヨーロッパ人にとっての問題ですね。というふうに かれらに任すと思います。わたし自身の態度としては。(見守ってはいますが)。


 ★ 中東の問題ですが・・・ここでもやはり、遠い日本から見るよりも、現地の人たちがどう思っているか、もっと知りたいと思う
 ☆ それは おっしゃるとおりに思います。日本人としてのわたしなら これこれのことを考えるというふうに述べたと思います。



 ★ 「空中の権能」
 ☆ の件につきましては たすてんかすてんさんご自身が これはおもしろい見方考え方であるといった箇所がありましたら ここだよとおしえてくださると助かります。その箇所を何とか見てみたいと思います。

お礼日時:2014/09/08 20:52

 #4です。



>しかし 国連の機関として出されたクマラスワミ報告は 何とずさんなものでしょう。

についてだけ。

 国連が中立機関でない事の証左ですが、ついこの間まで、日本政府も日本の大新聞社も公式にはクマラスワミ報告と、そう変わらない事(他国にしてみれば)を言っていたので、仕方ないと言えば仕方ないようにも思えます。その大新聞の名前が旭日新聞であったのは、余りにも皮肉ですが。

  ※こう言ったからといって、旧日本軍の全ての行動を是とすると思われては困る。反動は危険だ。


 自分は少しミーハーでして、じつは次のような「ちょっと穿ち過ぎでは?」と思える記事に注目しました。

 カミオカンデの小柴が2002年にノーベル物理学賞を受賞してからたった2年後に、南部博士の系譜を受け継ぐ小林・益川が同賞をダブル受賞した。それは何故か?。

 もちろん三人の業績が飛びぬけていて、賞に値するのは確かです。カミオカンデの小柴さんは世界初の観測結果だからしょうがないとしても、小林さんと益川さんの業績は群は抜いてはいるが、非常に地味なんですよ。30数年前の南部博士のプログラム路線内にある。もしノーベル賞で取り上げられなかったら、一般人は知る由もなかっただろう。そして南部の弟子たちは、世界中にごまんといたんです。それくらい南部の考えは、物理業界では普遍的なものになっていた。

 そこで何故、日本人なのか?。ノーベル平和賞ならいざ知らず、浮世と関係ない物理学賞に政治的圧力が働く訳がない。小林さんと益川さんは、世界中にいる南部の弟子たちとの僅差レースを制したのだと、自分も信じたい。

 しかし当時アメリカは、リーマンショックだった。ヨーロッパはその煽りで、やはり不況だった。日本だけがなんとか少々持ちこたえていた。

 世界の素粒子研究の3大中心は、アメリカとヨーロッパ、そして実は日本なんです。これは本当の事です。当時は「神の粒子」と呼ばれる「ヒッグス粒子」を実証するために、次世代巨大粒子加速器の計画が出ていましたが、巨大粒子加速器の建設には膨大な金がかかる。

 そうなるとリーマンショックの震源地であるアメリカは当面、巨大粒子加速器計画からは脱落する。ヨーロッパでは既にCERNを凌ぐLHC計画がありましたが、不況ではEUが何と言うかわからない。そこで白羽の矢が立ったのが、日本だというのです。

 カミオカンデのような巨大施設を作った日本には、まだ余力があるようだから、素粒子研究の継続性を切らないためには、日本人にノーベル物理学賞をやれば良いんじゃないの?、・・・と(^^;)。小柴さんも南部の系譜だし、・・・(^^;)。

 実際に、小林・益川のダブルクラウン後に日本の某田舎で、超巨大粒子加速器の誘致が立案されたし、南部さんって本当はアメリカ人なんですよね。また小柴後に日本人がノーベル物理学賞を貰ったって、誰も文句は言えない状態だった。そしてノーベル賞の最高の賞は、ノーベル平和賞です。物理学賞くらい、日本にやっとけ。何故なら。

  ほら、日本人にノーベル賞をやっとけば、全部丸く収まるじゃないか!。


 結局、幸か不幸かヒッグス粒子はLHCで発見されました。まぁ~技術移転の問題も考えると、日本の某田舎でヒッグス粒子は発見できなかったでしょうけど。あれはCERNで培った技術の賜物だと思います。だからEUがそういう技術を、おいそれと技術移転する訳もない。LHCでヒッグス粒子がみつかったのは、ある意味で当然です。


 しかしノーベル賞選考委員会が、そこまで考えていたなら?。

 とんでもない深慮遠謀ですよね?。自分は本気で、そうは思っていませんが、事実は小説よりも奇なりでもあります(^^:)。
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この回答へのお礼

 いや。当時 そのうわさは流れていましたよ。

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 あるいは アベノミックスの導入あたりで とにかく円安へと振り子が振れるようになった。これも 円高で青息吐息の日本を死なせるわけには行かないと思ったのか 欧米あたりは 舵を切ることにした。というような。

 CERN だとか LHC だとかは分かりませんが 金を出させるにせよ何にせよ 日本に何かをやらせるときに ノーベル賞受賞ならそれとして 花をもたせてやるといった手口ですね。

 今回の東京オリンピックは どうなのでしょうか。そう言えば あまり気に懸けていませんでしたが。



 ★ 小林さんと益川さんは、世界中にいる南部の弟子たちとの僅差レースを制したのだと、自分も信じたい。
 ☆ ん? ええ? その程度なんですか? 誰れも考えなかった発想であった。のではないのですかぁ。

 世の中 分っかんないもんですね。

お礼日時:2014/09/08 21:05

>☆ これは 二十世紀という問題ではないでしょうか? 昨今のグローバル化とは少し違うような。



いえ、現在進行中の問題です。20世紀の方がまだましでした。残念ながら・・・

>★ 「空中の権能」
>☆ の件につきましては たすてんかすてんさんご自身が これはおもしろい見方考え方であるといった箇所がありましたら ここだよとおしえてくださると助かります。その箇所を何とか見てみたいと思います。

とりあえず、訳さなくてもいいということですね。ではリンクだけ。先に、ドイツ人の解釈ではなく、金口イオアン(きんこうイオアン)という4世紀の神学者、コンスタンディヌーポリ大主教の注釈のドイツ語訳です。まず、著者についてはこちらを御参照下さい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%8F%A3% …

この教父の注釈のリンクをこの下に張りますが、RTFファイルなので、保存してください。全体はかなり長いですが、「空中の権能」については、24ページの下から始まります。冒頭に、肉体の死は自然なもので、自由意思にかかわるものではないので罪はないが、精神の死は、自由意志から出ることなので罪になる、とあります。「空中の権能」の説明としては、「Das will besagen, daß der Teufel den Raum unter dem Himmel beherrscht; und die Luftgeister sind die unkörperlichen Wesen, durch welche er wirkt. Daß seine Herrschaft nur eine zeitliche ist, das heißt zugleich mit der gegenwärtigen Zeit aufhört…」とあり、その支配は一時的なもの、と言っているようです。

https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s& …

もう一件の方は、ドイツの現代の神父の説教のようです。17歳の少女の例を挙げて、「クウキ」に当たる部分を、「die Schmutz-Atmosphäre(汚れた大気、雰囲気)」「Mode(流行)」「Die Mode ist eine Diktatur(流行は独裁である)」というような表現を使って話を進めています。

http://dekantlach.wordpress.com/2013/11/20/predi …

他にこういうものもありました。短いので、リンクではなく、直接引用します。

2:2 — Wieso ist der Geist der Welt mit Luft vergleichbar und worin besteht seine Gewalt? Der „Geist der Welt“, das heißt der Geist der Unabhängigkeit und des Ungehorsams, ist so allgegenwärtig wie die Luft, die wir einatmen (1. Kor. 2:12). Seine Gewalt oder Macht besteht in seinem unerbittlichen, hartnäckigen Einfluss.

(1. Kor. 2:12)
Nun haben wir nicht den Geist der Welt empfangen, sondern den Geist, der von Gott ist, damit wir die Dinge erkennen könnten, die uns Gott gütigerweise gegeben hat.

訳しながらじっくり読むつもりだったので、私もまだななめ読みしただけです。それぞれについて、納得がいくかいかないかの判断には至っていません。参考資料としてお役にたてば幸いです。

この回答への補足

 クシュソストモスの見解について はっきりとは分からないままになりますが。

 こんばんは。

 まづ アウグスティヌスと同時代人のようです。
 ▼ アウレリウス・アウグスティヌス( Aurelius Augustinus、354年11月13日 - 430年8月28日)
 ▼ 金口イオアン(きんこうイオアン、 Ἰωάννης ὁ Χρυσόστομος、344年または349年 - 407年9月14日)

 次の主題で 両者は 同じ見解だったようです。

 ▼ (ヰキぺ:聖霊派) ~~~~~~~~~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E9%9C%8A% …

 § 1 歴史
 キリストの昇天後、ペンテコステの日にキリスト教会が誕生した。初代教会においては、異言、預言、病のいやし、死人が生き返ること、悪霊追い出しがあった。

 アウグスティヌスは、使徒時代の終焉と聖書正典の完結により、これら聖霊の賜物が無くなったと教え、ヨハネス・クリュソストモスもこれに同意した。
 宗教改革者のルターやジャン・カルヴァンもこの「カリスマタ中止理論」「終焉説」を受け入れた。

 宗教改革者らが終焉説を受け入れた大きな二つの理由に、宗教改革者が誤りと考えたカトリック教理を承認させるため、ローマ・カトリック教会がその証拠としてローマ・カトリックで起こったとされる奇跡を持ち出したことと、宗教改革者らに実際に奇跡の経験がなかったことがあると考えられている。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ これは 洗礼者ヨハネで 預言者は終わったと言われる時代の区分とかかわっているように思います。

 あるいはまた エレミヤ書(31:31以降)におけるあたらしい契約ともつながっているものと考えます。
 それまでの人びとの侵したあやまちについて神はもう覚えない。すべて忘れるということ。
 そして 神について 人びとに知れと言っておしえることは無くなる。オシエは 要らないということ。

 

 さて クリュソストモスによるエペソ書講解についてです。
 ★ 冒頭に、肉体の死は自然なもので、自由意思にかかわるものではないので罪はないが、精神の死は、自由意志から出ることなので罪になる、とあります。
 ☆ ここで 出しゃばりますが 質問者の神の定義および信仰の位置づけを述べます。というのは 《精神》という場合には 人間の理性や思考にかんする精神と そして《霊》という意味でのそれがあると思われるからです。前者は 経験存在のもので 後者は 非経験の場にかかわるものと見ています。


 ○ 《非知》が 神である。 ~~~~~~~

  経験事象
    可知
     既知
     未知
    不可知(知り得ないと知った)

  非経験の場
    非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)
 
 ○ 《非知=非経験の場=神》は 《非思考の庭》にて受け容れられる。

   霊:信じる:《非思考の庭》:ヒラメキ・直観:信仰
   --------------------
   精神:考える:《思考の緑野》:田園および都市:シュウキョウ
   知覚:感じる:《感性の原野》:直感

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 《自由意志》は 大きく《精神》のひとつのハタラキです。

 《精神と感性 または 心と身》 これが ヒトの自然本性( die Natur )です。

 《考える》を超えて 《非知》なるナゾを受け留め受け容れるのは わが心なる《非思考の庭》だと捉えます。動態です。ナゾは 非経験の場であり これを受け容れるというのは 経験的な意志行為です。そういうふうにして 非思考の庭が成ります。

 知覚ないし身の生理的な要請そのものに罪はない――または ヤマシサ反応にさからって或る種の仕方で言って罪を侵したとしても 容易にゆるされる。ということ




 これをアウグスティヌスは こう書いています

 ▲ (ユリアヌス駁論 1・5〔情欲論〕) ~~~
  かの全能者は 
  最初の人(アダムとエワ)からであれ 
  その後に加えられたわたしたちの意志からであれ 
  わたしたちに起こっている悪を
  その満ちあふれる恩恵によって
  滅ぼしている。
  ( cf. エペソ書 2:1-10)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 ▼ (クリュソストモス:エペソ書講解) ~~~~
 ( Vers 1 ) ・・・Es gibt ein leibliches Totsein und es gibt auch ein geistiges. Jenem zu verfallen, ist weder strafbar noch gefährlich; denn es liegt in der Natur begründet und hängt nicht vom freien Willen ab. Es stammt nämlich zwar von der Übertretung des ersten Menschen her, hat sich aber in der Folge zu einer Naturnotwendigkeit gestaltet und wird ohnehin schnell wieder aufgehoben.
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このあと 《精神にかんするアヤマチ》は 自由意志によるから 捨て去りえない( wird nicht aufgehoben )と言っているようです。

 わたしは 率直に言って アウグスティヌスの言うように《神はその恩恵(または愛)によって わたしたちの――意志自由にもとづく行為としての――悪ないし罪をもほろぼしている》と見ます。なぜなら 精神と言っても 人間の精神は 経験的で時間的で相対的なものだと見るからです。
 ▼ und die Luftgeister sind die unkörperlichen Wesen, durch welche er wirkt. Daß seine Herrschaft nur eine zeitliche ist, das heißt zugleich mit der gegenwärtigen Zeit aufhört,




 《空中の権能》の説明として 最後に挙げていただいた次のものがよいように思います。
 ▽ ~~~~~~~~~~~~~
 2:2 — Wieso ist der Geist der Welt mit Luft vergleichbar und worin besteht seine Gewalt?

  Der „Geist der Welt“, das heißt der Geist der Unabhängigkeit und des Ungehorsams, ist so allgegenwärtig wie die Luft, die wir einatmen (1. Kor. 2:12). Seine Gewalt oder Macht besteht in seinem unerbittlichen, hartnäckigen Einfluss.
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《何事をも否定する精神》という呼び名があるように 《あたかも独立して何ものの下にも立つまいと心に決めた存在》として 《空中の権能》がある。これをしもわれわれは あたかも空気のごとくどこにいても吸い込まねばならないかのごとく 接しつつ 受け留めている。世の中ないし世間というものは この権能のチカラがはびこって影響をあたえる場である。



 すなわち空中の権能が あたかも《クウキ》のようだという見方について もう一件の説明事例を取り上げてもらっています。
 △★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 ドイツの現代の神父の説教のようです。17歳の少女の例を挙げて、
  
 「クウキ」に当たる部分を、

  「die Schmutz-Atmosphäre(汚れた大気、雰囲気)」
  「Mode(流行)」
  「Die Mode ist eine Diktatur(流行は独裁である)」

 というような表現を使って話を進めています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これだと 《クウキ》により一層近いものだと思われます。

 △ ~~~~~~~~~~~
 Mode ist eine Diktatur, die der unsichtbare Geist in der “Luft”, in der Atmosphäre vorschreibt.

 Das ist die Schmutz-Atmosphäre heute, das ist Mode: eine Diktatur!
 Es gibt also nicht nur politische Diktaturen; es gibt auch in der Demokratie unsichtbare Diktaturen, die die Mode diktieren. Die Atmosphäre ist dann bestimmend. Das meint Paulus mit der “Luft”, in der dieser Geist ist.
 ~~~~~~~~~

 4000字のようです。

補足日時:2014/09/09 22:18
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この回答へのお礼

 ▼ (コリント後書 11:14-15) ~~~~~~~~~~
 14: だが、驚くには当たりません。
   サタンでさえ光の天使を装うのです。

 15: だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この句を思い出しました。


 たすてんかすてんさん こんばんは。おしえてくださってありがとうございます。


 ちらっと読んで 上のパウロの文句を思い浮かべました。


 これからゆっくり読みます。補足欄にてお応えします。




 クリュソストモスが 《金口イオアン(きんこうイオアン)》と呼ばれているとは 知りませんでした。いろいろありますね。

お礼日時:2014/09/08 23:28

こんばんは。



>クシュソストモスの見解について はっきりとは分からないままになりますが。

ドイツ語の問題ですか。もう一度回答させていただいて、また4000字のコメントをお書きになれますが(笑)。

クシュソストモスの見解以外のものについては、私も「クウキ」に近いと思って読みました。アウグスティヌスの件につては、ちょっと難解でしたけれど、何とか分かったつもりです。

>《神はその恩恵(または愛)によって わたしたちの――意志自由にもとづく行為としての――悪ないし罪をもほろぼしている》

これでちょっと思い出したのですが、昔、遠藤周作の著作について、「遠藤のやっていることは、あれは浄土真宗じゃないのか」という批評があったと聞きました。遠藤周作自身が何と答えていたか忘れたのですが、アウグスティヌスが、「意志自由にもとづく行為としての悪ないし罪」ということを言っているとするならば、親鸞の悪人正機では、「衆生は、末法に生きる凡夫であり、仏の視点によれば善悪の判断すらできない、根源的な悪人」となっているので、やはり似て非なるものなんでしょうね。

ドイツ語でお手伝いすることがなければ、これで最終回答にします。長々としゃべらせていただいてありがとうございました。

この回答への補足

 ◆ 《へび≒悪魔》論の問題


 § 1 世界の民俗に見る《へび》の生活文化的・社会的な意味

 次の文献によって わたしなりの分類をします。

  ▲ 蛇(serpent)=『女性のための神話および秘義の百科事典』の一項目 Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)
  http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM …

   ○ (ヘビの民俗・その意味するものの分類) ~~~

    (α) 水の神⇒ 生活・生命を象徴:知恵そして善なる神::直毘魂
    (β) 水の神⇒ 河ならびに嵐として治水防風雨をしのぐ
           あらぶる者:悪魔::荒魂

    (γ) 脱皮して再生する習性⇒不老不死を象徴。
    (δ) 前項より 子孫繁栄のための生殖力を象徴。

    (ε) ゆえに エロスを象徴。

    ~~~~~~~~~~~~~~    


 § 2 (ε)の《へび=エロス》なる民俗は 《要らない》。

 併せて (β)の――自然現象の部分を問わないかたちでの・つまりは抽象概念となったところの・心理作用としてのごとくの――《へび=悪魔》説 これも要らない。または 信仰なる主観としては キリスト・イエスの十字架上の死とその復活によって克服された。ゆえに要らないと見ます。

 この偏見で議論をとおします。

 § 3 エロスが 人の生きることにともなうことと それをヘビに見立てることとは別だと見ます。その比喩からの通念は 要らないということ。

 言いかえると 民俗の一説としてはそんなもんだと受け止めればよいのですが その心のうわべに心理作用および集団的な共同心理として咲いたあだ花が ついに 十九世紀・二十世紀になっても今度は《無意識》なる概念として・そしてさらには医学として科学であろうと見なされてオモテ舞台に登場してしまった。
 こういう見方を持ちます。

 § 4 この場合のムイシキは 

    (ζ) エロスをめぐるイド=エス(《あれ・それ》)
       =リビドー(《欲しいまま・我がまま》):ムイシキ

 のことです。

 § 5 ムイシキの逆襲(?)

 リビドーを抑圧すると――つまりは 自分はそんなヘビなどのことは知らないと決めて自分自身に対して隠してしまうと―― 人はそのムイシキの逆襲に遭うことになるそうだ。

 その得たいの知れないムイシキの作用〔だと見立てているもの〕に抗しきれなくて振るった暴力(いじめ・虐待等)にほかの人が遭う。その被害をこうむる。そのとき受けた心的外傷は すなわちトラウマとなって 永遠に消えることはなく そこから人は完治することはないと説く。

 すなわち その意味や次元にまで還元されたと言いますか そう見ることにおいて人間としての料簡が狭められてしまった。と考えます。

 § 6 ムイシキとは 亡霊なり。

 ムイシキなる仮説の登場はひとえに ヘビは エロスをめぐる性衝動の部分をつかさどる悪魔であり・人間の抗しがたい力としての悪霊であるという俗説から来ていると見ました。(タトエが 実在説に成り替わってしまうこと)。
 その迷信が 現代においても猛威を振るっているようだと見るものです。すなわち エワとアダムのその昔からの亡霊であると。

 § 7 聖書におけるヘビの克服物語

 イエス・キリストが 第二のアダムとして 敵対していたヘビに勝利をもたらしたという物語が あります。つまり 虚構です。虚構ですが もともと ヘビは悪魔なりという見方が 虚構です。

 いちおう理屈をつければ こうです。

 悪魔は 死の制作者であって 自分みづからは すでに死んでいるので 死は怖くない。朽ちるべき身体を持つ人間にとっては 一方では《へび=生命。善なる神》という俗説にしたがって その人間の死が死ぬという・つまりは永遠に生きるという〔気休めとしてでも〕希望を持ち得るけれども 他方では悪魔なるヘビは この死が死ななくなったという完全なる死の状態にある。とも言う。そしてあたかも《光の天使をよそおって》しかも 自分の冥界へと人びとをさそう。

 イエスなる人間をもさそった。仲間に入れと。ところが ついにこの人間は 死地に就くところまでヘビを嫌った。ほかのナゾの何ものかに従順であった。ヘビなる悪魔などは 屁の河童であると。
 ますます怒った悪魔は ついに実際に〔それまでに部下に持った人間たちをして〕イエスを死地に追いやり見世物にまでして磔を実行せしめた。
 ところが 死は怖くないアクマも けっきょくその死の世界にまでイエスという人間がむしろ従順になって自分の仲間となってくれたことに・そのことの思いに一瞬でも心を移してしまうと その身も死なる魂も すでに溶けてしまった。

 イエスが ハリツケになることによって アダムらの原罪と人びとの罪をあがなったという伝説です。死を死ぬことによって 人間を悪魔から買い戻した。

 § 8 聖書の関係個所を引きます。

 ▲(創世記3:14-15) ~~~~
 主なる神は、蛇に向かって言われた。

  「このようなことをしたお前は
  (* エワやアダムをそそのかしたお前は)
  あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で
  呪われるものとなった。

  お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。

  お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に
  わたしは敵意を置く。

  彼はお前の頭を砕き
  お前は彼のかかとを砕く。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ この部分すなわち

  ▲ ~~~~~~~~~~
  彼(=エワの子孫)はお前(=ヘビ)の頭を砕き
  お前は彼のかかとを砕く。」
  ~~~~~~~~~~~~~

 という箇所が のちのイエス(エワの子孫として)とヘビの闘いだと言われます。

 § 9 つづき――モーセにおける蛇との闘いの事例――

 ▲ (民数記21:6-9・・・《青銅の蛇》) ~~~~
 〔* 民がせっかく奴隷状態にあったエジプトから脱出してきたというのに そのことを荒れ野をさ迷うあいだに悔い始めたので〕主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。

 民はモーセのもとに来て言った。

  「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、
  わたしたちから蛇を取り除いてください。」

 モーセは民のために主に祈った。
 主はモーセに言われた。

  「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれ
  を見上げれば、命を得る。」

 モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。
 ~~~~~~~~~~~~~

 § 10 さらなるつづき――イエスは 《青銅のヘビ》か――

 ▲ (ヨハネによる福音3:14-16) ~~~~

 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、
 人の子(=イエス)も上げられねばならない。

 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。

 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 § 11 いかなる事態であるか?

 もし性欲も大自然への畏れも ヒラメキをも含めて感性だとすれば この感性とそして〔狡猾なヘビが象徴する〕理性との あらそい なのであろうか?

 感性は 間違い得るし あやまちを侵す。ただし そのこと自体にウソ・イツハリがない。中身としての現象にウソはない。
 理性は みづからはあやまち得ないと言い張る。ウソをもほんとうのことだと――つまりおのれの心をもだまし得て――丸め込む。

 ただし このような問い求めをおこない説明をあたえるのは 理性でありそれを用いる志向性としての意志である。
 こういう説明をあたえよと要請するのは 感性である。感性のことを弁明せよと感性が言っている。

 意志は これらよき感性にもとづき 理性のすなおな部分と全体としての罠を突き抜けて よき心の境地を現実において目指す。
 ヘビは死んだ。そのよき部分をのこしてであろうか どうであろうか。

補足日時:2014/09/11 09:38
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 確かにすっきりしない感じがあります。クリュソストモスです。

 まづドイツ語の問題としておしえを乞おうとして書き始めました。

 次のようです。

 (1)
 ▼ "Auch euch", sagt er, "die ihr tot waret durch eure Übertretungen und Sünden, in denen ・・・
 ☆ この  die が 分かりません。  daß とすると 意味が取れるように思うのですが。

 (2)
 ▼ Um sie nun nicht völlig zu entmutigen [・・・] , gibt er ihnen, damit man nicht glaube, sie allein trügen die Schuld, einen Mitschuldigen, und zwar einen mächtigen Mitschuldigen. Und wer ist dieser? Der Teufel.
 ☆ 悪魔のことをみちびこうというのだと思いますが: 

 (2-1)
 ▼ damit man nicht glaube
 ☆ mit と glauben とのつながりが分かりづらいです。 da は あとに来ている sie allein trügen die Schuld なる節を承けますか? それにしても意味が取りづらいです。

 (2-2)
 ▼ sie allein trügen die Schuld
 ☆ これも分かりづらいです。責任がないと言う でしょうか?

 ・・・
 というふうに分からないところが出て来るのですが たぶん問題は クリュソストモスが 何を言いたいかがはっきりと把握し得ていない ようです。わたしは

 パウロの議論の仕方の中に見られるその信仰にもとづく――観想として受け留められるような――《人びとの罪についての見解》をたたえているように見られるところもあると思います。それが mild であると言っていたように思います。

 極端に言えば そのあとどうそれが効いてくるのか? といった問いがまだ残っているような感じを持ちます。いえ うまく言えていません。全体として どこに焦点があって 議論はどこへ行こうとしているのか? これが読み取れないのだと思います。

 あるいは たすてんかすてんさんが これこれが主張であり論点でありキモでありミソであるといった事柄を取り出しておしえていただけますか?

 と考えるのですが どうでしょう。


 遠藤周作ないし悪人正機の説または親鸞については 今後お話が煮詰まったところでやり取りをすることにしましょうか。
 ただしさらにご見解を明らかにしたいということでしたら ここにて書き込みをなさってください。


 わたしの側から簡単に応答をしますなら 親鸞は アウグスティヌスと同じように・そしてアウグスティヌスの師匠のパウロと同じように 《恩恵の絶対》を立てると思います。《絶対他力》ですね。

 そのあと・恩恵のもとに 自由意志によって人はその能力を開き努力して欲するところのものを実現させようとすると思います。

 その心は 恩恵が人間の――有限であやまちうる――自由意志をかえって建てる。
 欲するままに生きることが真実となろう。という大胆を超えて行き過ぎでマチガイだと容易に批判を受けるような命題をアウグスティヌスは 煮詰めた議論として推し出しています。

 恩恵または絶対他力は ひとの自由意志を活かすためにある。と。

お礼日時:2014/09/10 10:18

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